僕の常識と凡人の常識


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

アインシュタイン博士以上の天才である僕の常識は、「記紀」と『魏志倭人伝』などの日中の歴史書を完全解釈して、日本神話でさえも当然のように完全解釈して、古史古伝(「記紀」に反する書物)をも完全解釈するのが当然の能力で、これが僕の当たり前な常識である。
しかし専門家(考古学者と歴史学者と歴史家)を含めた凡人は、「記紀」と『魏志倭人伝』と日本神話と古史古伝などを完全解釈できないのが常識で、人類規模での常識の認識力に圧倒的な差がある。
常識は普通の人が共通に持っている知識や理解力や判断力とするが、極端な話が赤ちゃんから大人まで全ての人が共通する感覚で、そんなものが本当にあるか疑問で、全てを疑うのが現代哲学理論「現象学」の本質である。
全人類68億人の考え方が全て共通するのが幻想で、常識という一くくりにしたい願望にすぎなくて、全て共通する物事が本当に存在するのかと疑うのが大切である。

僕の常識と凡人の常識が異なるように人間の常識は、十人十色という言葉の通り十人いたら十通りの異なる考え方になるように、はたして共通した考え方になるかなど疑問である。
僕は歴史研究を始めたばかりの頃、偶然にコペルニクス的転回(非常識な考え方の集合体)を起こして、半年ほどして邪馬台国論争を研究した時に、定説から異説まで徹底的に疑ってかかって、考古学会も歴史学会も当てにならず、自分一人の力で一から研究する必要があることに気付いた。
邪馬台国論争研究をだいたい境にして僕は、歴史研究の全てを疑って考えるようになって、自分の考え方がはたして正しいのか自体も何度も疑って、根本的に全てを信用しなくて、どんな考え方も疑うようになった。
今の僕は考古学的証拠と歴史書解釈を何十個も合致できる自分の自論も疑って、たとえ何百個や何千個も考古学的証拠と歴史書解釈を合致できるのが僕の自論だとしても、根本的に疑ってかかる考え方をやめられるものでもない。

凡人に僕の考え方をまねることを進めるわけでないが、根本的に疑う考え方がコペルニクス的転回に近い超越した考え方になる可能性が高くて、僕のような超天才に近づくきっかけになるかもとは教えられる。
僕と凡人はあまりにかけ離れた考え方と全ての人間の共通する考え方があると考えられて、それを論理的根拠から説明するのが難しいけれど、考え方が全ての人間に共通するものと共通しないものがあるか、そもそもそんなもの自体が存在しないという考え方が成立して、まさに論理矛盾を成立させるのが自然である。
コペルニクス的転回という考え方の根本は、論理矛盾でそれを基本に置いていなければ考えられなくて、一朝一夕に身に付けられないかもしれない。
僕は何度も生きたい死にたいと考えて自殺未遂を繰り返して、歴史研究で迷い苦しみ挫折(ざせつ)し続けて色々な考え方を巡らせて、今まで色々な人生経験を繰り返してたどり着いた結果が今の自分である。
人間はどんな時も前を見続けて歩むだけで、とどまり続ける者にたどり着ける道筋などなくて、一生懸命に歩いて行こうとするなら、きっと神様が手を差し出してくれるだろう。

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