僕と同等の能力を体得する難しさ


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

僕と同等の能力を体得する難しさは、言葉で表すよりも実体験して感じ取ることで培(つちか)われる。
僕と同等の能力は、古代日本史研究で歴史書の偽装工作の発見、歴史書の完全解釈、考古学的証拠の総合分析、日本神話の神々の領域…神域の完全解釈など、様々な物が成功したことを指す。
僕は歴史研究を始めた2002年10月頃、初めてコペルニクス的転回(非常識な考え方の集合体)を発揮して、黄泉国下(よみのくにくだ)り神話と狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(倭国大乱;わこくたいらん)を合致して、日本神話と邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の一致で、僕と同等の能力を持つことの難しさが分かった。

僕が歴史研究を始めた時、僕自身が全く自覚してなくて、神域をひもとく能力を体得して、それがコペルニクス的転回をひもとく「きっかけ」になっても、問題解決に一歩も近づいていないわけでない。
しかしコペルニクス的転回と神域をひもとく能力は、同様のものか異質なものか分からず、僕自身もどう定義すべきか分からない全く未知の領域である。
僕は20年間の歴史研究を経(へ)て、自分の様々な考え方や能力を分析してきたが、歴史研究で培った様々な発見の連続を他人が僕の知識の上書きをするだけで、実際に体験したものでないから体得することが難しい。
このことは歴史研究を何十年も何百年しても、僕の後継者が誕生しない可能性の一端になると考えられる。
歴史研究以外の分野…例えば科学などで僕と同レベルの後継者が現われる可能性なら高いが、同じ分野で後継者を育てることの困難さを実感しにくい。

神域をひもとく力は、逆を言えば神域を生み出す力に匹敵するかもしれなくて、世界中のアニメや物語の神話を生み出す現代人(僕以外の人間)の力と別物と考えられる。
僕は日本神話を完全解釈して、古代天皇家の史実を証明して、これが現代人の想像力と同等と考えにくい。
日本神話を生み出した『ホツマツタエ』や「記紀」の編者は、ギリシア神話などの世界中の神話を生み出した人々と同じく、歴史に名前を残さない無名の人々で、その卓越した想像力のすごさを思い知った。
そんな人々の作った日本神話をひもといた僕は、少しでもその人々に近い考え方を体得して、歴史上の超天才である万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチや発明王トーマス・エジソンや20世紀最高の天才アルバート・アインシュタイン博士たちも超えて、人類史上最高の超天才と呼べる称号と考えられる。
そんな僕は、現代人や歴史上の超天才と一線を画(かく)して、人々に評価されずとも自分のすごさに驚いている。

現代日本人の認識力は、明らかに低下した現状で、学校教育で背の低い順に整列する差別や偏見など、日本国内の大学で博士号の取得が減って、日本企業の博士号の就職率が低下して、博士号の海外への流出が増加して、このような法整備や差別や偏見などが対応不十分で、問題の先送りや無視した可能性がある。
2022年9月10日に国連は、日本国政府に障害児を分離した特別支援教育の中止の要請、園児同士の性被害の法律化など、精神科の強制入院を可能にする法律の廃止などを求めて、強制でなく求めただけで、僕も障害児を分けて教える特別支援教育を当然と教育されたが、問題があるなら改善して、法律や義務教育の見直しが必要だろう。
このような現代日本人の認識力の問題は、差別や法律や学校環境などを見直して、政府が動いて僕の指摘を無視しないで、改善や修正をしてほしいと思う。
僕の問題提起は、根本的な現代日本人の改善や修正すべき物で、子供や大人が取り組む注意点と考えられる。

初代ドイツ帝国宰相のビスマルクは、愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶと言ったが、僕自身がその言葉を否定する。
僕の人生経験は、幼稚園年長組で恐竜に興味を持って古代へのあこがれを生んで、小学生中学年で天文学を学んで宇宙の雄大さに思いをはせて、高学年で考古学を学んで、邪馬台国(やまとこく;大和国)論争などを知って、中学生で超古代文明に興味を持って、神代(しんだい)文字などに触れて、高校生で祖父の死に目に会えず、命・魂・精神・戦争・平和を考えて神道の考え方などに触れて、神域をひもとく能力が人生経験で培(つちか)われた。
ビスマルクの言葉は、しょせん過去の遺物で、何も知らない馬鹿が何の根拠もなく言ったもので、超天才の僕からすれば彼こそ愚者である。
このように僕が人生経験で得た「きっかけ」は、神域をひもとく能力を体得する道標(みちしるべ)として、人生経験の見本になるかもしれない。

僕が危惧(きぐ)することは、古代日本史研究がこれから発展できる可能性があるかで、僕の後継者を育てられる可能性の難しさにある。
僕も努力して後継者を育てる研究をしたいが、人間はいつどこでどうやって死ぬかも未来も分からず、希望を示すことが過酷な場合もあって、悲劇しか生まない場合もあるかもしれない。
それでも小さな火種を消さないように必死に努力したいと思う。

<参考文献>
インターネット

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