時代区分の概念化
僕は崇神(すじん)天皇の即位の西暦84年から神功(じんぐう)皇后の死去の西暦329年までを大和時代と名付けて、西暦329年から武烈(ぶれつ)天皇の崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)の西暦507年までを倭王(わおう)時代と名付けて、継体(けいたい)天皇の即位の西暦507年3月上旬頃から崇峻(すしゅん)天皇の崩御(ほうぎょ)の西暦593年までを新朝(しんちょう)時代と名付けたいと考える。
古代天皇家の歴史は、考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)が見事に一致して、その歴史が不動でないかと思えるが、崇神(すじん)天皇から武烈(ぶれつ)天皇まで確実に実在した考古学的証拠がなく、その歴史を完全に証明するまでに至らない。
縄文時代と弥生時代の区別は、縄文土器と弥生土器の出現の定義が考古学的に崩れて、稲作の始まりが弥生時代の始まりの定義もあやしいとされて、時代区分の定義が難しいらしくて、弥生時代早期から中期の西暦83年までが弥生時代と訂正して、弥生時代後期初頭の西暦84年と古墳時代を区別して、僕の再定義した時代区分を認めるべきと思う。
古墳時代の時代区分は、『前方後円墳と古墳時代の始まり』の章に一任して、初代天皇・崇神(すじん)天皇陵の瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)が古墳時代の始まりで、垂仁(すいにん)天皇元年10月11日(西暦152年11月中旬頃)の崇神(すじん)天皇の葬礼日を始まりにしたいと進言する。
定義があいまいな古墳時代は、考古学会の主流な考え方が3世紀前半に古墳ができて、奈良県で7世紀末から8世紀初頭まで古墳が作られて、飛鳥(あすか)時代と奈良時代を含んで、奈良県と大阪府の前方後円墳が6世紀後半から末頃に衰退して、衰退時期が欽明(きんめい)天皇から崇峻(すしゅん)天皇辺りで、崇峻(すしゅん)天皇の崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)の西暦593年1月とほぼ年代が合致する。
超天才の僕は、前方後円墳の形の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)が弥生時代の墓(はか)で、古墳時代の墓(はか)の前方後円墳と同じ形で、全部を前方後円墳と統一して、崇神(すじん)天皇の葬礼日を古墳時代の始まりと再定義して、日本国政府の名の下に世界中に公表すべきと考える。
2代目天皇・垂仁(すいにん)天皇陵の纏向(まきむく)石塚古墳は、3代目天皇・景行(けいこう)天皇陵の箸墓(はしはか)古墳と共に最古の前方後円墳の説があって、垂仁(すいにん)天皇陵と景行(けいこう)天皇陵が古墳時代の始まりを訂正して、古墳時代の始まりの再定義が必要である。
僕は崇神(すじん)天皇元年1月13日(西暦84年2月中旬頃)の日本の建国(天皇家誕生)から、摂政(せっしょう)69年4月17日(西暦329年5月中旬頃)の神功(じんぐう)皇后の死去日までを大和時代と呼んで、奈良県に皇居があったと考えられて、僕が大和を使うと決めて、弥生時代と古墳時代の時代区分を再定義してほしいと進言する。
ネット検索すると大和時代は、古墳時代の言葉に取って代わられて、ほとんど使われない言葉だから、ある意味で死語と言っても良いかもしれなくて、だから新たな概念化をしても、問題ないと判断した。
狭義(きょうぎ;狭(せま)い意味)の大和は、奈良県橿原市と桜井市の付近を指して、飛鳥(あすか)時代の飛鳥(あすか)が奈良県高市郡(たかいちぐん)明日香村(あすかむら)を指して、奈良時代の奈良が奈良市の平城京(へいじょうきょう)を指して、大和国(やまとのくに)が奈良県の全体も指して、日本国も「やまとのくに」と発音して、奈良時代の奈良と奈良県が全く別の意味で、大切な区別である。
邪馬台国(大和国;やまとこく)時代は、垂仁(すいにん)天皇5年6月1日(西暦156年7月上旬頃)の2代目出雲国王である狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(倭国大乱;わこくたいらん)から、摂政(せっしょう)6年(西暦266年)の西晋(せいしん)王朝の遣使(遣西晋使(けんせいしんし;遣隋使や遣唐使に基づいた僕の造語)までで、中途半端な時代区分になるために僕が棄却(ききゃく)した。
崇神(すじん)天皇と垂仁(すいにん)天皇の皇居は、奈良県に存在したと記して、景行天皇の皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)が都市遺跡の纏向(まきむく)遺跡で、仲哀(ちゅうあい)天皇の皇居が京都府宮津市の丹波由良宮(たにはゆらのみや;別名が宮津由良宮(みやづゆらのみや)で、神功(じんぐう)皇后の都(みやこ;天皇でないので皇居の言葉を使わない)も奈良県の可能性が高くて、実質的に大和(奈良県)の時代と考えられる。
崇神(すじん)天皇の皇居の磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)は、磯城郡(しきぐん;奈良県磯城郡と桜井市の大半)のどこかにあるはずで、まだ該当する考古学的証拠が発見されてない。
垂仁(すいにん)天皇の皇居の纏向珠城宮(まきむくたまきのみや)は、奈良県桜井市の旧纏向(まきむく)村の村名に由来する地域の近くにあって、大規模な都市遺跡の纏向(まきむく)遺跡の近くに存在するのが間違いない。
景行(けいこう)天皇の皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)は、奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡に間違いなく、『ホツマツタエ』や「記紀」の記述と考古学的証拠の数々が合致して、景行(けいこう)天皇58年2月11日(西暦248年3月中旬頃)に滋賀県の志賀高穴穂宮(しがたかあなほのみや)に遷都して、大和時代の概念から離れるが、たった3年間である。
仲哀(ちゅうあい)天皇の皇居は、京都府宮津市由良(ゆら)の丹波由良宮(たにはゆらのみや;別名が宮津由良宮(みやづゆらのみや)で、奈良県に皇居がなかった可能性が高い。
神功(じんぐう)皇后の遷都した都(みやこ)は、磐余若桜宮(いわれわかざくらのみや)で、磐余(いわれ)が奈良県桜井市谷を中心とする地域で、該当する考古学的証拠がないが、奈良県で政治をしたと考えられる。
倭王(わおう;古代の日本王)時代は、神功(じんぐう)皇后死去日の翌日の神武(じんむ)東征1年(仁徳(にんとく)東征1年)4月18日(西暦329年5月中旬頃)から、武烈(ぶれつ)天皇32年12月8日(西暦507年1月上旬頃)の武烈(ぶれつ)天皇の崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)までで、倭王(わおう)を使うと僕が決めた。
摂政(せっしょう)46年3月1日(西暦366年4月上旬頃)は、百済(くだら)との外交関係が再開して、この時から邪馬台国(大和国;やまとこく)時代に国交断絶した朝鮮国家群との外交が再開されて、邪馬台国(大和国;やまとこく)時代と倭(わ)の五王時代を明確に区別するために定義付けた。
邪馬台国(大和国;やまとこく)時代に景行(けいこう)天皇は、景行(けいこう)天皇50年(西暦240年)に「親魏倭王(しんぎわおう)」の金印を受け取って、確かに倭王(わおう;古代の日本王)と呼んだ証拠だが、倭王(わおう)時代と区別して、正しい認識力が必要である。
摂政(せっしょう)52年9月10日(西暦372年10月上旬頃)は、百済王(くだらおう)から倭王(わおう)に七枝刀(ななつさやのたち)を下賜して、七枝刀(ななつさやのたち)が石上(いそのかみ)神宮の七支刀(しちしとう)で、泰?(和)四年に造った七支刀(しちしとう)と記して、東晋(とうしん)王朝の太和四年(369年)に当たる。
古代朝鮮国家の百済王(くだらおう)は、古代中国の東晋(とうしん)王朝の太和4年(369年)に七支刀(しちしとう)を造らせて、年代を正しく直した履中(りちゅう)天皇6年9月10日(西暦372年10月上旬頃)に百済王(くだらおう)から倭王(わおう)に七支刀(しちしとう)を献上して、武器庫の石上(いそのかみ)神宮に奉納したと考えられる。
百済王(くだらおう)は、東晋(とうしん)王朝の太和4年(369年)に七枝刀(ななつさやのたち)を倭王(わおう;古代の日本王)に献上して、石上(いそのかみ)神宮の国宝の七支刀(しちしとう)に当たる。
百済王(くだらおう)が倭王(わおう)のために作らせた七枝刀(ななつさやのたち)は、倭王(わおう)の文字が読み取れる七支刀(しちしとう)に間違いなくて、履中(りちゅう)天皇を倭王(わおう;古代の日本王)と呼んだ。
5世紀初頭の安康(あんこう)天皇20年(西暦413年)に安康(あんこう)天皇は、古代中国の東晋(とうしん)王朝に倭王(わおう;古代の日本王)の賛(さん)として、初めて遣使して、6世紀初頭の武烈(ぶれつ)天皇29年(西暦502年)に武烈(ぶれつ)天皇が古代中国の南朝梁(りょう)王朝に倭王(わおう)の武(ぶ)として、初めて遣使して、5世紀初頭から6世紀初頭の倭(わ;古代日本)の五王時代に当たる。
倭(わ;古代日本)の五王は、5人の古代日本の国王を意味して、倭王(わおう;古代の日本王)の賛(讃;さん)が安康(あんこう)天皇で、倭王(わおう)の珍(ちん)が雄略(ゆうりゃく)天皇で、倭王(わおう)の済(さい)が清寧(せいねい)天皇で、倭王(わおう)の興(こう)が顕宗(けんそう)天皇で、倭王(わおう)の武(ぶ)が武烈(ぶれつ)天皇で、超天才の僕が歴代天皇に当たると特定して、倭王(わおう)時代の時代区分を定義付けた。
新朝(しんちょう)時代は、継体(けいたい)天皇元年2月4日(西暦507年3月上旬頃)の継体(けいたい)天皇の即位から、崇峻(すしゅん)天皇5年12月8日(西暦593年1月)の崇峻(すしゅん)天皇の崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)までで、新しい大和朝廷の時代を省略して、僕が新朝(しんちょう)と名付けた。
5代目の仁徳(にんとく)天皇から14代目の武烈(ぶれつ)天皇は、古い古代天皇家の血筋が途絶(とだ)えて、15代目の継体(けいたい)天皇から115代目の今上(きんじょう)天皇(今の天皇陛下)まで、新しい天皇家の血筋を存続すると伝えて、新しい大和朝廷の時代の意味を重複して、意識させる意味もある。
古墳時代の次の飛鳥(あすか)時代は、広義で崇峻(すしゅん)天皇5年12月8日(西暦年に換算すると西暦593年1月)から和銅(わどう)3年(西暦710年)までの118年間を指して、狭義などの説明がややこしくて省略して、飛鳥(あすか)に皇居を置いたことが時代区分の名付けの理由である。
天皇家の名の下に西暦84年から593年までは、何時代と呼ぶか新しく時代区分して、それを広く国民に公表するべきで、2025年6月22日の午前2時30分頃に修正した。
<参考文献>
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社
『古代日本史への挑戦』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『日本古代地名事典』
著者・吉田茂樹 発行・新人物往来社
インターネットの不明サイトから少々拝借
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