考古学的証拠と歴史書解釈の合致


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

考古学的証拠と歴史書解釈の合致は、僕が最初の自殺未遂をする以前にすでにその基礎が出来上がって、古代日本史…日本神話と邪馬台国論争と倭の五王がすでに決着していたが、その段階だとまだ不完全だった。
当時の僕の考え方は、最初と2冊目の著書が出版していない3冊目以降の本との違いで、求めていた神様や考古学的証拠と歴史書解釈の間違い、出雲王国の正体に気付いていなかったなど多種多様な理由がある。
しかしそれ以前に問題なのは、日本の考古学が外国の考古学と決定的に違って、それが結果的に歴史学との間に決定的な壁を作って、古代日本史の考え方をはばんだ理由である。
アメリカでは考古学が人類学の一部という見解が主流で、日本が昔から歴史学の一分野と見なす傾向にあって、歴史書に基づく文献学的方法をおぎなう形で、発掘資料を元に歴史研究を行なう学問と捕らえていた。
ヨーロッパでは伝統的に先史時代を考古学的に研究する「先史学」という学問領域があって、歴史学や人類学と関連を持ちながらも統合された学問分野として、独立して捕らえられる傾向が強い。
日本の考古学会は一度基礎に立ち返って、外国の考古学に見習う部分を見習って、歴史学会と共同歩調を取って歩んで行くべきであって、僕が全てを正す「きっかけ」である。
僕のホームページを見ても古代日本史を正しく捕らえなかった人間は、歴代天皇とその子孫の皇族や豪族などの人物と考古学的証拠の時期を一致できなったからで、考古学的証拠と歴史書解釈の合致に気付かなかったためである。
本当に正しい答えは、最初から僕の本が根本的に握(にぎ)っていたが、僕の説明不足で他人に理解させられなかった。
これから考古学的証拠と歴史書解釈の合致を決定的証拠で証明する。

西暦80年頃に大阪府から奈良県に異民族が侵攻したらしく、奈良県を中心とした一大国家を樹立しようとして武力で制圧して、それこそが古代天皇家である。
この武力制圧を証明する考古学的証拠が大阪府にあって、弥生時代中期末に大規模集落遺跡の大半が消滅か断絶して、弥生時代後期初頭(西暦100年前後)に小規模集落遺跡が急増して、古代天皇家の誕生で平定した土地を土地整備した可能性が考えられる。
崇神(すじん)天皇元年1月13日(西暦84年2月中旬頃)に実質の初代の崇神天皇が即位した。
問題点として弥生時代後期初頭を西暦100年前後とするが、考古学者によって年代の位置付けがあいまいで誤差が生まれて、僕の直感で年代を定めていて信頼性が少しうすいが、間違っているとは考えていない。
兵庫県淡路市の舟木遺跡と五斗長垣内遺跡は弥生時代後期初頭から始まる遺跡で、古代天皇家が鉄器生産をした根拠になると考えられて、舟木遺跡が弥生時代後期末まで鉄器と手工業品を生産して、五斗長垣内遺跡が弥生時代後期初頭から100年ほど続いた鉄器生産集落だった。
古代天皇家誕生の時の勢力は大阪府から奈良県だから、淡路島が古代天皇家誕生の時にすでに勢力地だった可能性が十分にあって、弥生時代後期初頭から始まることに説明がつく。

崇神天皇10年9月9日(西暦93年10月上旬頃)に彦坐王(ひこいますのみこ)を丹波王国の平定の総大将として、その息子の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)を従軍の武将として派遣した。
丹波国王の玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)を殺して、崇神天皇11年4月13日(西暦94年5月中旬頃)に丹波王国滅亡を将軍の彦坐王が崇神天皇に報告した。
彦坐王は「記紀」で丹波王国の平定だけに出てくるが、その直系子孫が古代太陽神系譜として多くの古代豪族につながって、非常に重要な存在である。
丹波道主王は丹波平定の時に生まれていなくて、崇神天皇39年(西暦122年)に第2の元伊勢の京都府宮津市に遷宮した後で女子5人を授かって、垂仁天皇26年(西暦177年)にも名前が出てくると考えられる。
つまり丹波道主王は丹波を冠するから記されるだけで、もっと後世に生まれた可能性がある。
崇神天皇39年(西暦122年)に第2の元伊勢を遷宮して、その場所は『ホツマツタエ』の記述から京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社の奥宮である真名井(まない)神社と考えられる。

この丹波王国滅亡を証明する考古学的証拠が京都府北部から兵庫県北部にかけてあって、弥生時代中期末に大規模集落遺跡の大半が消滅か断絶して、弥生時代後期初頭(西暦100年前後)に小規模集落遺跡が急増して、古代天皇家の丹波平定で土地整備をした可能性が考えられる。
弥生時代の鉄製品出土数を都道府県別で見てみると、1990年代から約20年のうちに京都府が4位に急上昇して、特に京都府北部の弥生時代後期に集中している。
このことから京都府北部の弥生時代後期に異文化が流入した可能性が考えられて、丹波王国を滅亡させた古代大和朝廷の統治下に入って、鉄製品の増加を試行錯誤したのでないか?

出雲の隆盛は弥生時代後期初頭からである。
1984年に荒神谷(こうじんだに)遺跡が発見されて、出土した銅剣が弥生時代中期後半製造でないかとされて、1996年に加茂岩倉(かもいわくら)遺跡が発見されて、出土した銅鐸(どうたく)が弥生時代中期から後期の製造と記されて、銅剣と銅鐸が弥生時代後期初頭(西暦100年前後)の遺物と考えられる。
その理由は、荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡の銅鐸と同じ型の分布地域が歴史書解釈から古代天皇家の勢力地と合致するのが間違いないからである。
弥生時代中期に出雲で四隅突出型墳丘墓が作られるようになって、弥生時代後期に最大級の中谷(なかだに)3号墳が作られて出雲王家の物部(もののべ)氏が葬礼されたと考えられる。
出雲王国の建国は彦坐王が出雲を平定して、彦坐王が初代出雲国王でその子孫の物部氏が出雲王家を受け継いで、弥生時代後期初頭から後期前半(1世紀末から2世紀前半)の時期に当たって、考古学と歴史学の見地から見て実在が間違いない。

崇神天皇68年12月5日(西暦152年1月上旬頃)に崇神天皇が崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)されて、垂仁(すいにん)天皇元年10月11日(西暦152年11月中旬頃)に崇神天皇を葬礼した。
初代の崇神天皇陵は弥生時代後期の大型陵墓で、宮内庁指定の天皇陵の中にあるか不明で、崇神天皇の皇居が奈良県磯城(しき)郡にあることから、磯城郡のどこかに崇神天皇陵が存在すると考えられる。

垂仁天皇5年6月1日(西暦156年7月上旬頃)に2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱が起こって、天皇家で初めての皇位継承権争いであって、『後漢書』と『魏志倭人伝』に記される倭国大乱に当たって、最終決戦の地が三重県熊野市で狭穂彦王と実妹で皇后の狭穂姫(さほひめ)が焼死した。
三重県熊野市有馬の花の窟(いわや)神社は、岩を御神体とする古代信仰の神社で、狭穂彦王と狭穂姫を祭った神社である。
狭穂彦王と狭穂姫の父親は彦坐王で、年代的に考えて親子関係が正しくて、彦坐王から狭穂彦王が出雲国王の地位を受け継いだ。
彦坐王の血筋の問題点は、息子や孫がかなり遅く生まれたと考えられる例が多くて、そこがネックになっている。

垂仁天皇28年10月5日(西暦179年11月上旬頃)に垂仁天皇の異母兄の倭彦命(やまとひこのみこと)が亡くなり、11月2日(12月上旬頃)に亡骸(なきがら)を桃花鳥坂(つきさか;所在地不明)に葬礼して、従者を生き埋めにする殉死(じゅんし)を廃止した。
垂仁天皇32年7月6日(西暦183年8月上旬頃)に皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が亡くなって、3代目出雲国王の野見宿禰(のみのすくね)が殉死者の代わりに埴輪(はにわ)を立てることを提案して、日葉酢媛命陵に初めて埴輪が立てられて、野見宿禰が埴輪を作る土師(はじ)氏の先祖である。
垂仁天皇39年7月1日(西暦190年8月上旬頃)に垂仁天皇が崩御して、48日間の喪祭りをした8月16日(西暦190年9月中旬頃)の夜にお墓へ埴輪(はにわ)を立てて、12月10日(西暦191年1月上旬頃)に垂仁天皇の亡骸(なきがら)を菅原伏見(すがわらふしみ;纏向(まきむく)石塚古墳)に葬礼して、夜半に松明(たいまつ)で照らされて厳(おごそ)かに神霊の成仏(じょうぶつ)となった。

『ホツマツタエ』で垂仁天皇を祖先化した孝霊(こうれい)天皇11年に蠅姫(はえひめ)が兄稚武彦命(えわかたけひこのみこと)と彦狭島命(ひこさしまのみこと)と弟稚武彦命(おとわかたけひこのみこと)の三つ子を生んで、兄稚武彦の子孫が吉備を平定した吉備津彦(きびつひこ)とされるが、正しく求めると兄稚武彦命に祖先化された人物こそ吉備津彦だと考えられる。
孝霊天皇53年に西の国々が争いをはじめて、兄稚武彦命を吉備上路(きびかみつみち;岡山県東部)に、弟稚武彦命を吉備下路(きびしもつみち;広島県東部)に派遣して、争いのわけを聞いて天皇の教えを説いた。
これこそが吉備の平定の記述で、この地域に派遣された人物が誰を祖先化したか求めれば解決である。
垂仁天皇33年に垂仁天皇が山城不遅(やましろふち)の娘の苅幡戸辺(かりはたとべ)と結婚して、祖別命(みおやわけのみこと)と五十足彦命(いしたりひこのみこと)と胆武別命(いたけわけのみこと)を生んだと記される。
苅幡戸辺と3人の皇子の記述が他に見当たらず、この年代に結婚したかも生まれたかもあやしい。
つまり岡山県東部を平定した兄稚武彦命として祖先化されたのが祖別命で、広島県東部を平定した弟稚武彦命として祖先化されたのが胆武別命で、祖別命こそ吉備津彦だと考えられる。

考古学的に見て埴輪の起源は吉備(きび;岡山県と広島県東部)で、岡山県倉敷市の楯築(たてつき)遺跡などから出土した特殊器台土器に当たって、吉備の平定が西暦150年代から170年代ほどと考えられて、楯築遺跡が2世紀後半頃と考えられて一致する。
楯築遺跡の特殊器台土器は古代天皇家が殉死を禁止した時期に殉死者の代わりにちょうど良いものと判断されて、古代大和朝廷において特殊器台埴輪として採用したと考えられる。
吉備で出土する特殊器台土器が出雲に伝わって、しばらくして前方後円墳が誕生すると同時に姿を消したと記すが、吉備が祖別命に平定されて特殊器台土器を出雲国王の野見宿禰が採用して、出雲でしばらく立てたが日葉酢媛命陵で最古の土師器(はじき)として変換した後、出雲で立てなくなって、このような考古学的証拠が残ったと考えられる。
最古の前方後円墳の纏向石塚古墳は、最古の埴輪である最古の土師器が出土して、埴輪が土師器の一種であることから特殊器台埴輪が出土しないと考えられる。
纏向石塚古墳の周濠から出土したヒノキ材は、年輪年代法で最外年輪が西暦177年と求められて、2世紀末の築造年代を推定することも可能である。
楯築(たてつき)遺跡の神石(亀石)の孤帯紋様と纏向石塚古墳から出土した孤文円板の孤帯紋様は時期的な問題から直接続くのが間違いなく正しいが、考古学者が否定するけれど歴史書を正しく判断できないためである。
纏向石塚古墳は垂仁天皇陵で、天皇陵だから特別な形の前方後円墳で、前方後円墳の形の理由を知るのが正統『竹内文書』と考えられる。
奈良県から殉死者の葬られた倭彦命陵と最古の埴輪が立てられた日葉酢媛命陵と埴輪が立てられた垂仁天皇陵が発掘されれば、考古学的証拠と歴史書解釈の合致でチェックメイトである。
殉死は弥生時代後期の近畿地方(古代天皇家)でされていて、その時代の陵墓群から考古学的証拠が見つかるはずで、考古学会が否定するだけで殉死の証拠が存在する可能性がある。
『魏志倭人伝』に「徇葬者奴婢百余人」と記されて、景行(けいこう)天皇陵の箸墓(はしはか)古墳で殉死者百人余りの代わりに埴輪(はにわ)を立てたと解釈できて、箸墓古墳出土の最古の特殊器台埴輪に当たって、日中の歴史書に殉死の記録があって殉死の考古学的証拠が間違いなく見つかると考えられる。

纏向遺跡は2世紀末から4世紀前半の都市遺跡として知られて、景行天皇4年11月1日(西暦194年12月上旬頃)に築造された景行天皇の皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)で、景行天皇の孫娘である神功(じんぐう)皇后の摂政(せっしょう)69年(西暦329年)以降に放棄されたと考えられて、年代的に考えて見事に合致する。
纏向遺跡は国内最古の皇居と考えられて、後世の皇居の藤原京や平城京にも負けない都市遺跡である。
纏向遺跡は全体の5%程度しか発掘されていないが、少なくとも普通の集落遺跡と一線を画(かく)しているのが間違いない。
纏向遺跡は国民の暮らす竪穴住居がほとんど見つからず、高床式建物が立ち並んでいたようで、大和川の護岸工事のほどこされた大溝が見つかった。
纏向遺跡から特殊器台埴輪が出土して、箸墓古墳からも特殊器台埴輪が出土して、纏向遺跡と箸墓古墳が同時期の遺物が出土して当然である。
纏向遺跡は3世紀末から4世紀前半の鍛冶(かじ)遺跡が5ヶ所で見つかって、鍛冶炉が見つかってないが鉄器が出土して、弥生時代後期から近畿地方で鉄器が見つかるから出土するのは当然である。
纏向遺跡から3世紀中頃から後半の建物跡が出土して、伊勢神宮正殿の「神明造り」と出雲大社正殿の「大社造り」の中間形式で、建物の柱の間隔が魏王朝の尺寸と一致するのは、纏向遺跡が魏王朝と外交して、伊勢神宮正殿と出雲大社の神殿造りをまねしたのでなく、古代天皇家と出雲王国が外交した証拠である。
纏向遺跡から出土する外来系土器で遠くのものは、福岡県と鹿児島県と静岡県と神奈川県と石川県と富山県などで、景行天皇自らが九州全土を平定して、景行天皇の皇太子の日本武尊(やまとたけのみこと)が東海平定をしたと記されて、出土地域と年代などが見事に一致する。
纏向遺跡は最古の皇居であって、邪馬台国(大和国;古代天皇家)の王都でもあって、古代天皇家の歴史を証明する重要な考古学的証拠である。

『日本書紀』に成務(せいむ)天皇時代に景行天皇を葬礼したと記すが、成務天皇は在位しないと考えるのが正しく、仲哀(ちゅうあい)天皇元年11月10日(西暦252年12月上旬頃)に景行天皇を葬礼して、箸墓古墳の築造年代が3世紀後半から4世紀前半くらいとされるが、『魏志倭人伝』の記述を正しく判断すれば景行天皇陵なのが間違いない。
『魏志倭人伝』の記述から魏王朝が滅亡した西暦265年までに箸墓古墳が築造されたはずで、景行天皇の葬礼が西暦252年で見事に合致する。
『魏志倭人伝』の王墓の大きさが「径百余歩」(魏王朝の大きさで約144メートル)で、それに相当するのは箸墓古墳の全長280メートルのうちの後円部160メートルである。
箸墓古墳の全長を魏王朝に伝えなかったのは、後円部の直径160メートルだけを伝える方が良いからで、魏王朝が墓を小さく作ることを何らかの方法で古代天皇家が知って、辺境の地の日本で全長280メートルもの墓を作れたと知ったらどう思うか考えたためというのが自然である。
考古学会と歴史学会は柔軟な発想をしなくて、箸墓古墳の全長を魏王朝に伝えるはずがないと考えず、無駄に色々考えるから卑弥呼の墓と考えて、卑弥呼(倭姫命;やまとひめのみこと)の男弟(異母弟)の景行天皇陵だと分からないのである。

参考文献『季刊 考古学 第80号』P.57の図を参考にすると古代大和朝廷の勢力を知れる。
弥生時代後期末(西暦年で求めにくい)までに近畿地方と四国と北九州までが大和朝廷の支配下に入って、図の出土地域と見事に符合している。
広形銅矛の分布域が対馬から北九州そして四国中部にまで及び、近畿式突線紐銅鐸(どうたく)が主に分布する地域が四国中部から和歌山県と奈良県と大阪府と京都府と滋賀県と兵庫県と福井県と岡山県になり、三遠式突線紐銅鐸が主に分布する地域が三重県と愛知県と静岡県西部にまで及び、これだけの地域が古代大和朝廷の支配地域だったと考えられる。
遠江(とおとうみ;静岡県西部)は大和朝廷の支配地域と考えるべきで、まず日本武尊の東海平定で討伐した最初の土地が相模(さがみ;古代の神奈川県)で、静岡県まで支配下に置いたと考えるのが自然だからである。
『日本書紀』の記述から若狭(わかさ;古代の福井県西部)と美濃(みの;古代の岐阜県西部)と尾張(おわり;古代の愛知県西部)までが古代天皇家の支配下にあるのは確かだが、静岡県の地名が出てこないから考古学的証拠で支配地域だったと証明するしかない。
登呂(とろ)遺跡は弥生時代後期(1世紀頃)のもので、古代天皇家の勢力地に存在した可能性がないと言い切れず、考古学的証拠の重要資料になるかもしれない。
この考古学的証拠から九州と四国と中国地方と近畿地方が古代天皇家の勢力下で、相模(さがみ;古代の神奈川県)と信濃(しなの;古代の長野県)と越(こし;北陸)が平定されていないのが証明される。

孝元(こうげん)天皇の息子の大彦命(おおびこのみこと)が北陸で、孫の武渟川別(たけぬなかわわけ)が東海を平定する将軍とされて、孝元天皇が景行天皇を祖先化していて、景行天皇の息子の武虎別皇子(たけこわけのみこ)が大彦命で、孫が武渟川別になるのが間違いない。
孝元天皇の曾孫の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)は、景行天皇の曾孫なのが正しく、景行天皇25年から27年に武内宿禰が北陸と日高見(ひだかみ;東北地方南部のどこか)を視察したと記される。
景行天皇の子孫の武虎別皇子と武渟川別と初代・武内宿禰は、景行天皇の息子の日本武尊(やまとたけのみこと)が東海平定をしたと記される年代と合致する。
景行天皇60年(西暦250年)から仲哀(ちゅうあい)天皇3年(西暦254年)までに中部地方から東北地方南部までが平定されて、相模(古代の神奈川県)と信濃(古代の長野県)と越(北陸)が勢力下に入った。

仲哀(ちゅうあい)天皇4年9月(西暦255年10月頃)に国造(くにみやつこ)を任命して、『国造本紀』で東北地方南部から関東地方の古墳埋葬者が特定できる。
福島県河沼郡会津坂下町の杵ヶ森(きねがもり)古墳は3世紀後半の前方後円墳と考えられる。
『国造本紀』に「石背(いわせ)国造、志賀高穴穂朝御世、故連許侶命(これんころのみこと)の功(子)の建彌依米命(たけみよりめのみこと)、定賜国造」と記されて、石背が福島県岩瀬郡(いわせぐん)辺りを指す。
『国造本紀』に「阿尺(あさか)国造、志賀高穴穂朝御世、阿岐閇(あきへ)国造と同祖の天湯津彦命(あめのゆづひこのみこと)の十世孫の比止彌命(ひとみのみこと)、定賜国造」と記されて、阿尺が福島県郡山市一帯を指して、どちらかが古墳埋葬者だと考えられる。

千葉県市原市の神門(ごうど)3号墳と4号墳と5号墳は3世紀後半の前方後円墳と考えられる。
『国造本紀』に「菊麻(きくま)国造、志賀高穴穂朝御世、无耶志(むさし)国造の祖の兄多比命(あにたひのみこと)の兒(子)の大鹿国直(おおかくにのあたい)、定賜国造」と記されて、菊麻が千葉県市原市菊麻の地を指す。
『国造本紀』に「上海上(かみうなかみ)国造、志賀高穴穂朝、天穂日命(あめのほひのみこと)の八世孫の忍立化多比命(おしたちかたひのみこと)、定賜国造」と記されて、上海上が千葉県市原市の南部辺りを指して、どちらかが古墳埋葬者だと考えられる。
どちらも出雲国造の濡渟(うかずくぬ)の親戚関係に当たると考えられて、物部(もののべ)氏の人間が埋葬者だと考えられる。
は「盧へん」に鳥の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
杵ヶ森古墳と神門3号墳と4号墳と5号墳以外に長野県中野市に高遠山(たかとおやま)古墳があり、全て3世紀後半が築造年代と考えられる前方後円墳で、東日本最古の前方後円墳に当たって、求めた国造が間違いなく正しいはずである。
『国造本紀』と古墳埋葬者の合致から宮城県と山形県が邪馬台国(古代天皇家)の勢力地の北端で、景行天皇の子孫の血筋と歴史書解釈の合致から間違いなく正しい。

日本武尊は皇位継承権争いを起こして、『魏志倭人伝』の男王の反乱に当たって、日本武尊が出雲王国に亡命する。
崇神天皇60年7月14日の出雲平定の記述は、仲哀天皇9年(西暦260年)神無月の出雲王国の崩壊に当たって、これを神話化したのが出雲の国譲り神話である。
彦坐王の直系子孫で7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)は、日本武尊の一人娘の忍布姫(ぬのおしひめ)を正妻として、古代天皇家の血筋の息子である濡渟をもうけた。
この出雲王国の崩壊は、7代目出雲国王の飯入根と皇太子の日本武尊が戦死して、濡渟が最初の出雲国造(いずもくにみやつこ)として、何年かしてから出雲大社を創建したと考えられる。
弥生時代後期に全国的に高地性集落遺跡が作られるが、出雲では3世紀中頃に多くの高地性集落遺跡が作られて、出雲王国崩壊の時期と重なるのが偶然と考えられない。
弥生時代後期に発展した出雲が3世紀中頃に衰退したと記されて、これも出雲王国崩壊の時期と重なるのが偶然と考えられない。

ここまで記した考古学的証拠と歴史書解釈の合致は事実で、これだけの証拠を持ってしても邪馬台国(古代天皇家)の歴史を証明できないわけがない。
僕は自分の頭の中にこれだけの膨大な情報を持っていたから史実・真実・事実が証明できて、凡人も専門家も説得できると単純に考えていたが、いざ文章にして表さなかったから納得させられなかった。
しかしこれでようやくチェックメイトで、古代天皇家の正史を証明して、僕の役目も一応の終わりを迎えるだろう。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『丹後文化圏』
坪倉利正・編集 丹後古代文化研究会・発行
『別冊歴史REAL 地形と地図で読み解く古代史』
株式会社洋泉社・発行
『出雲大社の暗号』
関裕二・著者 株式会社講談社・発行
『出雲国風土記と古代遺跡』
勝部昭・著者 株式会社山川出版社・発行
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
石原道博・編訳者 株式会社岩波書店・発行
『完全制覇 古代大和朝廷の謎』
関裕二・著者 株式会社立風書房・発行
『邪馬台国の候補地・纏向遺跡』
石野博信・著者 株式会社新泉社・発行
『三輪山の考古学』
株式会社学生社・発行
『最初の巨大古墳・箸墓古墳』
清水眞一・著者 株式会社新泉社・発行
『邪馬台国の考古学』
石野博信・著者 株式会社吉川弘文館・発行
『季刊 考古学 第80号』
蒲Y山閣・発行
『日本古代地名事典』
吉田茂樹・著者 新人物往来社・発行
インターネット

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