天皇家の始まり


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

西暦80年前半に大阪府から奈良県に向かって異民族が侵攻したらしく、奈良県を中心に一大国家を樹立しようと武力制圧して、それこそが古代天皇家と考えられる。
この武力制圧を証明する考古学的証拠が大阪府にあって、弥生時代中期末に大規模集落遺跡の大半が消滅か断絶して、弥生時代後期初頭(西暦100年前後)に小規模集落遺跡が急増して、古代天皇家の誕生で平定した土地を整備した可能性が考えられる。
参考文献『別冊歴史REAL 地形と地図で読み解く古代史』で、兵庫県淡路市の舟木(ふなき)遺跡と五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡は弥生時代後期初頭から始まる遺跡で、古代天皇家が鉄器生産をした根拠と考えられて、舟木遺跡が弥生時代後期末まで鉄器と手工業品を生産して、五斗長垣内遺跡が弥生時代後期初頭から100年ほど続いた鉄器生産集落だった。
問題点として弥生時代後期初頭を西暦100年前後とするが、考古学者によって年代の位置付けがあいまいで誤差が生まれて、僕の直観で年代を定めて、信頼性が少し薄(うす)いけれど、間違ったとは考えていない。
古代天皇家誕生の勢力は大阪府から奈良県だから、淡路島が古代天皇家誕生時にすでに勢力地だった可能性が十分にあって、弥生時代後期初頭から始まることに説明がつく。

饒速日尊(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の河内(かわち;古代の大阪府東部)の天孫降臨神話は、崇神(すじん)天皇の実兄の彦坐王が大阪府から奈良県に侵攻して制圧して、奈良県で崇神天皇が即位したのを神話化した物語を指すと考えられる。

崇神天皇元年1月13日(西暦84年2月中旬頃)に実質の初代の崇神天皇は52才(数え年)で、奈良県磯城郡(しきぐん)で即位したと考えられて、この日が本当の建国記念日である。
神武(じんむ)天皇即位日が建国記念の日で、崇神天皇元年1月13日をちゃんと西暦年月日に直して、この旧暦の日々(ひにち)をしっかり調べて本当の建国記念日を求める必要がある。
崇神天皇元年は干支(えと)の甲申(きのえさる)の年で、西暦2004年も同じ甲申の年で、2004年から60年周期で何回かさかのぼると崇神天皇元年にぶつかって、僕が研究して導き出したのが西暦84年だった。
西暦84年が正しいとすれば、今年で建国(天皇家誕生)から1937年で、後63年で建国2千年の計算だが事実でない。
一応の25代目の継体(けいたい)天皇は、西暦507年3月の即位で史実とされて、一応現在の126代目の今上(きんじょう)天皇(今の天皇陛下)まで1513年目で、計百一人の天皇がいて、世界最長の王朝が事実である。
崇神天皇から今上天皇まで計115人の天皇が在位したと考えられて、これは正しい天皇家の史実と考えられる。

崇神天皇は52才(数え年)が嘘で、崇神天皇元年(西暦84年)に娘の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)の年齢が11才頃で、崇神天皇即位時の本当の年齢が最低でも25才頃で、『ホツマツタエ』と『日本書紀』の年齢が間違いである。
崇神天皇は名前を御間城入彦(みまきいりひこ)で、諱(いみな)を五十瓊殖(いそにえ)で、『日本書紀』で名前と諱を合わせて御間城入彦五十瓊殖尊(みまきいりひこいそにえのみこと)と記す。
現在は崇神天皇の御間城入彦五十瓊殖尊の「十(そ)」を抜かして発音して、『ホツマツタエ』の古伝承の方が正しい。
諱は真名(まな)とも呼ばれて、「忌(い)み名」と書き換えられて、本当なら本名(ほんみょう)を口にすることをはばかれて、古代に貴人や死者を本名で呼ぶことを避ける風習があった。
諱は人の本名を指して、諱に対して普通に人を呼ぶ時に使う名前を字(あざな)と言って、現代人の多くが諱を持たず字を使って、ちなみに僕も諱がなくて字である。

崇神天皇の本当の両親は、孝昭(こうしょう)天皇と世襲足媛(よそたりひめ)で、孝安天皇の実兄の天足彦国押人命(あまたりひこくにおしひとのみこと)が和珥(わに)氏の始祖である。
崇神天皇の異母兄弟の彦坐王(ひこいますのみこ)は和珥氏の出身で、崇神天皇を孝安天皇に祖先化して、彦坐王を天足彦国押人命に祖先化したと考えられて、彦坐王が崇神天皇の実兄と考えられる。
『日本書紀』で孝昭天皇の国風諡号(しごう)は観松彦香殖稲尊(みまつひこかえしねのみこと)で、崇神天皇の国風諡号が御間城入彦五十瓊殖尊(みまきいりひこいそにえのみこと)で、「みま」の呼び方と「殖」の漢字が共通して、孝昭天皇と崇神天皇が実の親子の根拠で、他にも理由が多くある。
世襲足媛は京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家である海部(あまべ)氏の先祖で、由緒ある家柄の出身である。

崇神天皇元年2月16日(西暦84年3月中旬頃)に11才(数え年)の御間城姫(みまきひめ)を皇后にした。
崇神天皇26年11月1日(西暦109年12月上旬頃)に御間城姫が第一子の豊城彦命(とよきひこのみこと)を生んで、この少し前に皇后の制度ができた可能性がある。

御間城姫の父親の大彦命(おおびこのみこと)は物部(もののべ)氏の出身で、作られた架空の人物で、崇神天皇を祖先化した孝安天皇が実兄の天足彦国押人命の娘(姪;めい)である押媛(おしひめ)が皇后で、天足彦国押人命が和珥(わに)氏の始祖である。
『古事記』から彦坐王の妻が息長水依比売(いきながみずよりひめ)で、その娘に御井津比売(みいつひめ)がいて、崇神天皇の実兄が彦坐王なら、御井津比売が皇后の御間城姫で、名前がよく似ると考えられる。
彦坐王は和珥氏と物部氏の始祖で、天足彦国押人命と大彦命に祖先化して、御井津比売と御間城姫が合致すると考えられる。
御間城姫の年齢は正しいか分からなくて、崇神天皇26年頃が御間城姫の成人年齢の可能性がある。
皇后の制度は崇神天皇26年(西暦109年)頃にすでにあったと考えられるが、崇神天皇元年2月16日(西暦84年3月中旬頃)に皇后の制度があった根拠にならない。

崇神天皇3年9月(西暦86年10月頃)に皇居の磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)を建造して、それに当たると考えられる大規模集落遺跡は見つかっていない。
磯城瑞籬宮は磯城(しき)郡(奈良県磯城郡と桜井市と天理市の一部を指す)にあって、唐古・鍵遺跡が当てはまらないと考えられる。
天皇家の始まりは実質の初代の崇神天皇即位で、天皇家誕生を証明する考古学的証拠があることが大きい。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編訳者 八幡書店・発行
『古代日本史への挑戦』
僕・著者 株式会社オカムラ・発行
『日本書紀(上)(下)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『別冊歴史REAL 地形と地図で読み解く古代史』
株式会社洋泉社・発行
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