九州全土の平定
これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。
九州全土の平定は、『ホツマツタエ』の国全てを挙げると長くなるため、熊襲王国と熊本県球磨郡だけを記述する。
景行(けいこう)天皇12年7月(西暦202年8月頃)に熊襲(くまそ;南九州にある天皇家に反抗した王国)王国が宮中に貢物(みつぎもの)を送ってこず、県主(あがたぬし)らがこのことを文にしたためて、皇居に知らせて景行天皇の来訪を請願してきたので、景行天皇は8月15日(9月中旬頃)に来訪された。
景行天皇自らが九州平定のために景行天皇12年から19年(西暦202年から209年)まで皇居が不在になったかあやしく、また熊襲王国の存在を天皇家が知っていたかもあやしい。
記述に県主と記すが、九州が平定されない段階で県(あがた)を定めていないはずで、矛盾すると考えられる。
景行天皇19年(西暦209年)までに景行天皇が熊襲王国の存在を把握したのは、北九州を古代大和朝廷の統治下の置いて当然で、後漢王朝が滅亡する西暦220年までに遣使して、拘奴国(くぬこく;熊襲王国)のことを伝えたと考えられる。
『後漢書』に「自女王国東度海、千余里至拘奴国雖、皆倭種而不属女王」と記され、多少修正して女王国(伊勢国)から西に海を渡って、数千里余り行くと拘奴国(熊襲王国)に至って、皆が日本人だが景行天皇に従属しないと解釈できて、邪馬台国論争の九州説を否定する根拠で、邪馬台国と女王国が別国とする根拠でもある。
参考文献『ホツマ辞典』に熊襲の位置が宮崎県西都市付近と記して、参考文献『日本古代史辞典』(発行・大和書房)に西海道諸国の各『風土記』に「球磨曽於(くまそお)」などと記して、熊本県球磨郡(くまぐん)と鹿児島県曽於郡(そおぐん)が熊襲に当たる説がある。
ただ『ホツマツタエ』に球磨県(くまのあがた)を討伐した記述があって、熊本県球磨郡が熊襲王国に当たるはずがない。
『ホツマツタエ』と「記紀」は、景行天皇の九州平定に鹿児島県が登場せず、宮崎県から鹿児島県に熊襲王国が存在したと考えられて、『後漢書』の拘奴国の記述を指示すれば、熊襲王国が南九州なのが不動になる。
景行天皇12年9月5日(西暦202年10月上旬頃)に周防(すおう;山口県東部)の婆麼(さば;防府市佐波か?)に至って、景行天皇が南の方角を見て、「南の方が何か騒がしく活気付いているが、つつがなく治まっているのだろうか」と言われて、多臣(おおのおみ)の武諸(たけもろ)と紀伊国の菟名手(うなで)と物部(もののべ)氏の夏花(なつはな)の三人を派遣されて、様子をうかがわせた。
景行天皇12年(西暦202年)の段階で出雲王国が中国地方全土を統治下に置いたと考えられて、山口県は出雲王国の統治下で、5代目出雲国王の物部夏花(もののべのなつはな)が統治した可能性があるが、おそらくまだ物部夏花の父で4出雲国王の物部十市根(もののべのといちね)の時代で、物部夏花の両親が物部十市根と垂仁(すいにん)天皇の娘の大中姫(おおなかひめ)と考えられる。
景行天皇は、山口県から北九州の様子をうかがったのが正しいと考えられる。
景行(けいこう)天皇12年11月(西暦202年12月頃)に日向(ひうが;宮崎県の古名)の高屋(たかや)に仮宮を造営されて、景行天皇12年12月5日(西暦203年1月上旬頃)に熊襲(くまそ)王国の討伐の会議を開き、その席上で景行天皇の詔(みことのり;天皇の述べた言葉)があった。
日向の高屋は所在地不明で、仮宮が天皇の生活する仮の皇居のことで、宮崎県に熊襲王国討伐の最前線基地のような宮を造営した記述で、『後漢書』に拘奴国(くぬこく;熊襲王国)を記す。
高屋の候補地は、宮崎市の高屋神社と宮崎県西都市の高屋神社と鹿児島県肝属郡肝付町の高屋神社で、全て南九州の宮崎県か鹿児島県で、熊襲王国の比定地として正しい。
景行天皇は、「私が耳にする所によると、兄の厚鹿文(あつかや)と弟の乍鹿文(せかや)なる者が人の上に立ち、多くの者を集め宮中に背(そむ)いて、暴挙を働いているらしい。その者は腕が立ち、矛先が当たる者がいないと言う。戦うことが度重(たびかさ)なれば民の苦しみも増すばかりである。矛に頼らず敵を討とうと思うのであるが」と言われた。
乍は「しんにょう」に乍の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
一人の家臣が進み出て、「熊襲王国には乾鹿文(ふかや)と辺鹿文(へかや)という二人の娘がいます。まばゆいばかりに美しく、また勇ましい二人ではございますが、丁重なる引き出物によって召し入れて、熊襲の隙(すき)をうかがって、捕らえてはいかがでしょう」と進言した。
時に景行天皇は、「よかろう」と言われて、絹の引き出物によって二人の娘をあざむいて誘(さそ)い出した。
景行天皇のおそばに置いてもてなすと姉の乾鹿文が、「君よ、うれいたまいますな。私が謀計を巡らせましょう」と言って景行天皇の兵を引き連れて、家に帰り熊襲王国の主領である父の厚鹿文に酒をたらふく飲ませ、厚鹿文が酒に酔って横になると、乾鹿文が父の弓弦(ゆんづる)を切っておき、隙をうかがって殺した。
乾鹿文が景行天皇の所に帰ってこのことを告げると、景行天皇は血筋の者を殺したことをひどく憎まれて、乾鹿文を殺してしまわれた。
景行天皇は妹の辺鹿文をその国の国造(くにみやつこ)として、叔父(おじ)の子供の取石鹿文(とりいしかや)と結婚させて、「筑紫(つくし)を平定せよ」と言われた。
景行天皇が熊襲王国を平定したのは時期的に見て西暦205年以降だと考えられるが、『ホツマツタエ』の記述通りなら熊襲王国に至るまでに敵を討伐すると何年間も必要である。
熊襲王国を平定したのは、娘の乾鹿文と辺鹿文をあざむいて国王を殺させたためで、景行天皇の軍勢が直接戦ってないと記すが、本当にそうなのか分からない。
景行天皇は妹の辺鹿文をその国の国造にしたと記されて、熊襲王国が一度古代天皇家に服従したことが重要である。
景行天皇は妹の辺鹿文を襲(そ;おそらく鹿児島県曽於郡)の国の国造としたと解釈できるが、その国の国造が正しいと考えられて、熊襲王国を鹿児島県とすべきでないと考えられる。
辺鹿文は叔父である乍鹿文の子供の取石鹿文と結婚したと考えられるが、伯父(おじ)がいた可能性なども考えられて、取石鹿文が伯父の子供の可能性もあって、固定観念や先入観で考えてはならない。
『三国志・魏志倭人伝』に「其南有狗奴国、男子為王、其官有狗古智卑狗、不属女王」と記して、その南にある熊襲王国が男性を国王として、官人に県首(あがたひとご)がいて景行天皇に属さないと解釈して、「狗古智卑狗」が天皇家の任命した役職名の県首というのに当たらないかと考えて、一度古代天皇家に服従したと考えられる理由である。
参考文献『三輪山の考古学』で纏向(まきむく)遺跡から鹿児島県の土器が出土したと記して、インターネット検索で鹿児島県の土器が一つだけ出土したのが分かり、早ければ西暦209年までに服従した熊襲王国から土器が送られてきたのか、鹿児島県から土器を作れる人間を纏向遺跡にまねいたと考えられる。
景行(けいこう)天皇18年3月(西暦208年4月頃)に景行天皇一行は、奈良県の皇居へ帰る途中に九州を巡り、夷守(ひなもり;宮崎県小林市付近か?)の岩瀬川(いわせかわ;小林市を流れる岩瀬川か?)に至り、景行天皇がはるか向こうを見て、群衆がいるのを弟夷守(おとひなもり)に偵察させた。
弟夷守が帰って言うには、「諸々の県主(あがたぬし)が大御食(おおみけ)を天皇にささげようと、泉媛(いずみひめ)の館に集まっています」と言った。
4月3日(西暦208年5月上旬頃)に熊県(くまのあがた;熊本県球磨郡)の長の熊津彦(くまつひこ)の兄弟を呼び出して、ところが兄が来たけれど弟が来なくて、景行天皇は家臣と兄を派遣して諭(さと)させたが、まだ拒(こば)むため弟を殺した。
熊本県球磨郡の長を討伐したことは、この地域が熊襲王国の領土でない証明で、『ホツマツタエ』に鹿児島県の討伐が記されず、熊襲王国の領土が宮崎県から鹿児島県に及ぶと考えられる。
宮崎県から熊本県に入ったことは、西に向かって進軍し始めて、熊本県から長崎県まで平定したと読み取れて、そんな短期間で平定できなくて、年代の間違いか別働隊がいたと考えられる。
これは『ホツマツタエ』の景行天皇の子供を記して、景行天皇以前の皇族に九州の出身者がいなくて、九州全土の平定が史実と考えられる。
景行天皇と襲緒武(そおたけ;鹿児島県曽於郡(そおぐん)の統治者か?)の娘の武媛(たけひめ)は、国凝別皇子(くにこりわけのみこ)と国乳別皇子(くにちわけのみこ)の双子を生んで、次に宮道別皇子(みやちわけのみこ)を生んで、次に豊戸別皇子(とよとわけのみこ)を生んだ。
景行天皇が九州平定で日向(宮崎県)に行った時、景行天皇と髪長(かみなが)の娘の大田根(おたね)は、日向襲津彦皇子(ひうがそつひこのみこ)を生んで、葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)と同名で、「そつひこ」がありふれた名前と考えられる。
景行天皇と襲緒(そお;鹿児島県曽於郡のことか?)の御刀媛(みはかせひめ)は、豊国皇子(とよくにのみこ)を生んだ。
景行天皇の子孫で、皇太子の誉田別尊(ほむだわけのみこと;在位しない応神(おうじん)天皇)と息子の仁徳(にんとく)天皇の妃は、九州の出身者が多くて誉田別尊と仁徳天皇が宮崎県にいた根拠と考えられる。
景行天皇の九州全土の平定は史実で、景行天皇より後の皇族に九州の出身者の血筋が入ったと記される。
このように景行天皇の九州全土の平定は、詳細に記されて地名や特徴が正しくて、史実と考えて間違いない。
考古学者の協力がなくて、詳細な考古学的証拠を挙例できないが、多少なりとも考古学的証拠を示した。
邪馬台国時代の史実を再現できるのは僕だけで、現代人(僕以外の人間)に一生不可能なことだと認識させて、正しく導く必要がある。
<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『ホツマ辞典』
池田満・著者 ホツマ刊行会・発行
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
石原道博・編訳者 株式会社岩波書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『三輪山の考古学』
株式会社学生社・発行
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