『ホツマツタエ』


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

『ホツマツタエ』という書物は聞きなれないが、「記紀」以上に古代天皇家の歴史を詳細に記す第一級資料である。
「記紀」は日本神話の神々の時代、人間の天皇の時代…西暦506年以前にいたか不明な天皇の時代を記して、507年3月に即位した実在の継体(けいたい)天皇から奈良時代ぐらいまでの天皇時代を記す。
『日本書紀』は歴代天皇時代を旧暦(太陰暦)の歴代天皇の年月日で記して、西暦年月日(太陽暦)に対比できるが、一説によると記す点で話がそれたりして、『古事記』より軽んじられる。
『古事記』は歴代天皇時代が年代を記さず、『日本書紀』と違って一直線に話がつながって、それたりしない点が『日本書紀』より重視されて、多く利用する人がいる。
しかし『古事記』より『日本書紀』の方を重視すべきで、様々な特徴を調べればどちらが重要か分かって、『日本書紀』をサポートするのが『古事記』の印象を受ける。
『日本書紀』は歴代天皇全員の即位年などを干支(えと)で記して(即位年干支法)、系図の祖先化・子孫化・神格化、年代・内容の改変・変更、神名と人名の末名「尊(みこと)」と「命(みこと)」の違いなど、様々な偽装工作で歴史を隠すことを僕が証明した。
このような偽装工作は、アインシュタイン博士以上の超天才の僕にしか求められない。
僕は日本神話の神々の領域…神域を求めるために深層心理などに働きかける無意識の感覚があって、凡人並みの現代人との決定的な考え方の差で、僕が現代人を何段階も上回る考え方をする。

『ホツマツタエ』は漢字以前の時代の古代文字とされる神代(しんだい)文字で記して、日本に古代文字が存在しない考え方があるが、神代文字の存在を認めない限り一歩も前に進めない。
『ホツマツタエ』は『日本書紀』と同じく歴代天皇時代を旧暦(太陰暦)の歴代天皇の年月日で記して、日本神話と実在した崇神(すじん)天皇から仁徳(にんとく)天皇の時代まで記して、その内容が「記紀」以上に詳しく日本神話と歴代天皇時代を記して、「記紀」が嘘をついて偽装工作した所もある。
『ホツマツタエ』は『日本書紀』と同じで西暦年月日に当てはめられる数少ない書物で、「記紀」以上に神名や人名や系図や時代の出来事の内容などが詳しく、古代日本史研究に必要不可欠な歴史書である。
正しいことが一体何なのか見逃す現代人には、『ホツマツタエ』がほほ笑むことなどない。

『ホツマツタエ』は僕の自論で日本最古の書物と自称して、西暦年と『三国志・魏志倭人伝』の関係を他に記すが、『ホツマツタエ』独自の記述が「記紀」の記述より古いことを僕が論理的に証明して、『ホツマツタエ』の成立時期が西暦366年より後の4世紀後半頃以降か西暦年の誕生した西暦525年以降の2種類を示したけれど、6世紀前半以降の成立の可能性が高い。
現在は『古事記』を日本最古の書物とするが、『古事記』が『日本書紀』より古いと嘘をついた偽書説もあるが、僕なりの自論から偽書説を否定した。
『ホツマツタエ』と『古事記』のどちらが日本最古の書物かは、いずれ後世の歴史研究者が正しい判断をして、僕を認めてくれることを信じよう。

『ホツマツタエ』7章でハナコ(卑弥呼;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)は忌衣殿(いんはとの)を閉(と)じて、そこにスサノヲ(男王;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)が斑子馬(ぶちこま)を投げ入れて、ハナコが驚(おどろ)いて機織(はたおり)りの梭(ひ)が刺(さ)さって死んだ。
『日本書紀』で天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命を神格化)は機殿(はたどの)に入って、そこに素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊を神格化)がまだら毛の馬の皮をはいで投げ入れて、天照大神が驚いて機織りの梭で傷ついた。
『ホツマツタエ』の女神ハナコは、『日本書紀』で天照大神に変更されて、ハナコも天照大神も倭姫命を神格化したと知っていて、『ホツマツタエ』の記述が『日本書紀』より古いと証明できる。
このように『ホツマツタエ』の日本神話と人代(ひとのよ)の記述は、他に幾らでも『ホツマツタエ』の記述の方が古いと挙例できて、『ホツマツタエ』が「記紀」よりも古い時代の伝承と僕なら証明できる。

『記紀』は伊勢神宮内宮の天照大神(あまてらすおおみかみ)と伊勢神宮外宮の豊受大神(とようけおおかみ)が女性で、『ホツマツタエ』が伊勢神宮内宮の天照神(あまてるかみ)と伊勢神宮外宮の豊受(とゆけ)が男性で、男性と女性の点が決定的に違う。
卑弥呼の倭姫命(やまとひめのみこと)は、『ホツマツタエ』で生年月日と亡くなった年が求められて、景行天皇の異母姉で『魏志倭人伝』の卑弥呼と男弟の血縁関係と合致して、「記紀」で景行天皇の実妹が倭姫命で倭姫命の生年月日も記されず、正当な歴史書の「記紀」が卑弥呼の系図や生年月日などを偽装工作した。
「記紀」も『ホツマツタエ』も最初の元伊勢は、奈良県の笠縫邑(かさぬいむら)が所在地不明で、『ホツマツタエ』で第2の元伊勢が京都府宮津市で、その後で滋賀県と岐阜県を巡って三重県に落ち着いたと記す。
『日本書紀』が滋賀県と岐阜県を巡って三重県に落ち着いて、京都府宮津市の元伊勢が記されず、元伊勢の詳細が「記紀」で希薄(きはく)になる。
元伊勢に関する記述は『ホツマツタエ』が一番詳しく、『倭姫命世紀』(『倭姫命世記』)の20ヶ所近い元伊勢の記述に間違いがあって、『日本書紀』が『ホツマツタエ』に基づいて元伊勢を記すと考えられる。
このように『ホツマツタエ』の記述の内容は、「記紀」の原形か原本の可能性があって、「記紀」と似通った所と全く記されない未知の歴史を含んで、第一級史料としての意味・価値が大きく、その歴史を正しく再現できるのが僕だけである。

『ホツマツタエ』と「記紀」は関連して、『ホツマツタエ』と『古事記』の共通性が証明できる。
『ホツマツタエ』でネノクニ(北陸)は、長野県の諏訪(すわ)大社に祭るタケミナカタ(日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)が重要な意味を持つ。
『古事記』で根(ね)の国を治める須佐之男命(すさのおのみこと;日本武尊を神格化)は、『日本書紀』に出て来なくて、『古事記』に登場する建御名方神(たけみなかたのかみ;日本武尊を神格化)が、須佐之男命と建御名方神が共に日本武尊を神格化して、ネノクニ(北陸)と北陸の諏訪大社が共通して、全くの偶然で片付けるほどの愚(おろ)か者がいないはずである。
『ホツマツタエ』でアマテルカミ(倭姫命を神格化)でなく、ツキヨミ(景行(けいこう)天皇を神格化)の妃のマスヒメモチコ(播磨稲日大郎姫(はりまいなひのおいらつめ)を神格化)は、ホヒ(天穂日命;あめのほひのみこと:日本武尊を神格化)を生んで、妹で同じく妃のコマスヒメハヤコ(弟橘姫(おとたちばなひめ)を神格化)が宗像(むなかた)三神を生んで、スサノヲ(日本武尊を神格化)と密通したと記す。
「記紀」は月読尊(つくよみのみこと;景行天皇を神格化)の息子の素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊を神格化)が宗像三神の父と記す。
『古事記』は景行天皇の妃の姉妹を吉備津彦(きびつひこ)の娘で、姉の針間之伊那毘能大郎女(はりまいなひのおいらつめ)が日本武尊を生んで、妹の伊那毘能若郎女(いなひのわかいらつめ)が2皇子を生んだと記す。
総合すると景行天皇の妃の姉妹は、垂仁(すいにん)天皇の息子である祖別命(みおやわけのみこと)の娘で、姉の播磨稲日大郎姫と息子の日本武尊の系図が創作で、妹の弟橘姫が2皇子と宗像三神に神格化された3姉妹を生んで、景行天皇の息子である日本武尊の妃にもなったと解釈できる。
『ホツマツタエ』と「記紀」の関連性は、このように切っても切れないもので、その意味・価値を十分に知ることである。

『ホツマツタエ』は年齢を数え年で記して、『日本書紀』が『ホツマツタエ』を踏襲して数え年を使って、『日本書紀』が数え年と実年齢が混在すると考えられる。

『ホツマツタエ』は古史古伝(「記紀」に反する書物)の烙印(らくいん)を押された正当な歴史書で、馬鹿な過去の学者が偽物と考えて間違った判断をした。
『ホツマツタエ』の正当性は、アインシュタイン博士以上の超天才で神域を求められる奇跡の人間の僕以外に証明できない。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
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