出雲王国の崩壊


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

邪馬台国論争において出雲は重要な位置付けで、出雲が邪馬台国そのものとか敵対国とか根拠もなく想像するが、現代人の頭脳レベルだと仕方ない。
出雲の記述は『日本書紀』崇神(すじん)天皇60年に出てきて、古代天皇家が把握する正史と考えられるが、正しく把握するのが不可能である。
アインシュタイン博士以上の天才の僕は、「記紀」を始めとする歴史書の偽装工作をひもといて、出雲王国の正しい歴史を再現できる。

崇神天皇60年7月14日が正しくは仲哀(ちゅうあい)天皇9年7月14日(西暦260年8月中旬頃)で、崇神天皇の命令で2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の息子の武日照命(たけひてるのみこと;丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)を神格化)の神宝が出雲大神(出雲大社)の宮にあるのを見たいと言われて、正しく求めると神功(じんぐう)皇后の命令で出雲王国に渡った三種の神器などの神宝を取り戻す必要があった。
『日本書紀』神功皇后時代の仲哀天皇9年9月10日(西暦260年10月上旬頃)に諸国に命じて船舶を集めて兵士を訓練させたが、兵士が集まりにくかったと記すが、兵士を集めて出雲王国の攻撃に集中しようとしたと考えられる。
仲哀天皇9年10月3日(西暦260年11月上旬頃)に出発したと記されて、出雲王国に対しての全面攻撃である。

2代目・火明命の息子・武日照命の宝物は出雲大社にあって、2代目・火明命(彦坐王を神格化)の息子の武日照命(丹波道主王を神格化)が異母兄弟を饒速日命(狭穂彦王を神格化)で、狭穂彦王の子孫が出雲王家の物部(もののべ)氏で飯入根が直系子孫で、武日照命が日照(ひてる)とまるで太陽神のような神名で、丹波道主王が古代太陽神に神格化されたと考えられて、出雲大社に物部氏の祖先神の饒速日命と兄弟神の武日照命の宝物があるのも納得できる。

11月を日本全国で神無月(かんなづき)、出雲で神有月(かみありづき)と呼ぶ理由は、八百万(やおよろず)の神々に神格化された人物の多くが出雲に集中したためにそう呼ぶ。
天照大神(あまてらすおおみかみ;神功皇后を神格化)のお腹(なか)にいた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと;誉田別尊を神格化)と経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)と武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)と大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根を神格化)と須勢理比売(すせりひめ;忍布姫を神格化)と事代主神(ことしろぬしのかみ;濡渟(うかずくぬ)を神格化)と建御名方神(たけみなかたのかみ;日本武尊を神格化)などが出雲にいた。
は「盧へん」に鳥の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
参考文献『新・古代出雲史−『出雲国風土記』再考』(関和彦・著者 株式会社藤原書店・発行)で神在祭(かみありさい)は旧暦の10月11日から17日の7日間、全国の神々が出雲大社に集まって、19社に宿泊して出雲大社そして上宮において神事に関わる話し合いをする儀式のことだと言う。
西暦260年の神在祭の時期に出雲の国譲り神話として神話化された出雲王国崩壊の物語があって、出雲王国(物部氏の築いた王国)が滅亡(物部氏の全滅)でなく崩壊(物部氏の一部が戦死)したのだと考えられる。

『日本書紀』神功皇后時代の仲哀天皇9年10月11日から17日(西暦260年11月中旬頃)が何も記されず、この空白期間に出雲王国の討伐があって、ずいぶん円滑にことが運んだと考えられて、その空白期間の出来事を『ホツマツタエ』を参考に再現する。
崇神天皇60年と西暦260年が合致するのは、『ホツマツタエ』が西洋の西暦年を知っていたからだと考えられる。

神功皇后の使いとして武諸隅(たけもろずみ)を出雲国王の宮殿に派遣して日本武尊が不在で、出雲国王の飯入根が宮殿から三種の神器をはじめとする宝物を出して、弟の甘美韓日狭(うましからひさ)と息子の濡渟を添えて人質として差し出した。
参考文献『新視点 古代豪族の研究』(発行・株式会社新人物往来社)で物部十市根(もののべのといちね)の甥に武諸隅がいて、おそらく神功皇后の使者の武諸隅と同一人物と考えて良い。

出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏の祖先神が日本武尊を神格化した天穂日命で、その子孫とする兄の出雲振根(いずもふりね)が日本武尊本人で、弟の飯入根が出雲国王で、その妻が日本武尊の一人娘の忍布姫で、その間に生まれたのが息子の濡渟で、立派な大人で飯入根の息子の中で最も高位と考えられて、出雲振根を日本武尊として記述する。
日本武尊は飯入根が三種の神器をはじめとする宝物を渡したことを聞いて飯入根を責めて、日本武尊が飯入根を逆恨(さかうら)みして暗殺しようと心に決めて、策謀を巡らせて止屋(やみや;島根県出雲市今市町・大津町・塩谷町付近)に行こうと飯入根を誘い出して、飯入根がそれにうなずいて共に止屋に行った。
日本武尊は飯入根を水浴びに誘って、日本武尊が飯入根の真剣を気付かれないように木刀に差し替えて、日本武尊が真剣で斬りかかって来たので、飯入根が木刀を持ったまま日本武尊に斬り殺されて闇の渕(ふち)に葬られて、世間で次のような歌が流行した。

八雲(やくも)立つ、出雲梟帥(いずもたける)が佩(は)いている太刀は、葛(つづら)がたくさん巻きついて、哀(あわ)れにも錆(さ)びてしまったようで、抜くことができない。

出雲梟帥は飯入根を指して、『古事記』で出雲建(いずもたける)を日本武尊が殺した話があって全く同じ物語で、日本武尊が逆恨みして飯入根をだまし討ちしたのを水浴びの物語にたとえたと考えられる。

甘美韓日狭は甥の濡渟を連れて神功皇后のもとを訪れて暗殺の一件を報告すると、神功皇后が吉備武彦(きびたけひこ)と武渟川別に日本武尊を討伐する命令を出して、日本武尊が討伐されると出雲王国の家臣たちが恐れて神様の祭りをしなかった。
崇神天皇が出雲振根の討伐を命じたのは吉備彦(きびひこ)とされて、吉備津彦(きびつひこ)の祖別命(みおやわけのみこと)の息子である吉備武彦に討伐命令を出したと考えられる。
日本武尊が討伐されて出雲王国の家臣たちが恐れて神様の祭りをしなかったのは、無念の死をとげた飯入根を神格化した大国主神を祟(たた)り神として祭らなかったと受け取れる。

大国主神は祟りをもたらす神様と考えられないが、飯入根が日本武尊に殺されて無念の死をとげたから怨霊(おんりょう)として神格化されたと考えられる。
ある日、氷香戸辺(ひかとべ)が我が子の歌った歌を告げて、歌の内容が神のお告げかもしれないと、神功皇后に告げて出雲の神を祭れと命令された。
これはたとえ話だろうが、西暦270年以降に濡渟が父親の飯入根を神格化した大国主神と7代目・大物主神を祭って、出雲大社を創建させたと考えられる。
参考文献『出雲大社と千家氏の秘密』(中見利夫・著者 株式会社宝島社・発行)で古来より出雲大社は島根県松江市大庭町の地にあって、『出雲国造世系譜』で716年に島根県松江市大庭町から島根県出雲市大社町杵築の地に移ったと記す。
島根県松江市大庭町に神魂(かもす)神社があって、この地に濡渟によって最初の出雲大社が創建されたか分からない。

『ホツマツタエ』景行(けいこう)天皇53年に以下のように記す。昔の教えにこうあって、『人は神であり、神は人である。神の名はその神の業績をほめ讃(たた)えたものである。神は人として道を立てる。人は素直な心でホツマの教え(『ホツマツタエ』に記された数々の教え)のままに生きれば、死後に真(まこと)の神となる』と。
神のお告げにより、日本武尊を熱田神(あつたかみ)として祭り、宮簀媛(みやずひめ)が伊勢の宇治宮の斎宮(いつきのみや)に準じて神のそばに近くお仕えした。
神主も宮司並みの位と定めた。

日本武尊は熱田(あつた)神宮の熱田大神(あつたのおおかみ)に間違いなく、日本武尊に縁(ゆかり)の草薙剣(くさなぎのつるぎ)を熱田神宮に奉納して、日本武尊の妻の宮簀媛が熱田神宮で斎宮(さいぐう;太陽神に仕える未婚の皇女)と同じくらいの扱いで神に仕えたと考えられる。
『ホツマツタエ』の時代に神主も宮司並みの位と定めたとあるが、現在だと基準がややこしくてよく分からない。

初代出雲国王の彦坐王(ひこいますのみこ)は、太陽神の宮司で、その直系子孫ので出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏が物部(もののべ)氏の祖先神の饒速日命(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)や歴代の大物主神(おおものぬしのかみ;歴代の出雲国王を神格化)を祭って、千家(せんげ)氏が祭るのが古代太陽神で、中間の歴代の出雲国王も太陽神の宮司と考えられる。

『ホツマツタエ』の記述を信じると熱田神宮の創建は、宮簀媛が生きていた西暦280年くらいまでだと考えられるが、草薙剣が熱田神宮に納められた記述がないようで、草薙剣が三種の神器に加えられたのが神功皇后時代の始めで、天皇即位に初めて用いたのが西暦330年代に即位した仁徳天皇で、それ以降に熱田神宮に草薙剣が奉納されたと考えられる。
このことから草薙剣が熱田神宮に奉納された時期は『ホツマツタエ』編纂(へんさん)後か、『日本書紀』で八重垣剣(やえがきのつるぎ)と草薙剣が同一としてしまって、三種の神器として把握した以降になるかもしれない。
草薙剣が熱田神宮に奉納された時期は、『ホツマツタエ』を読む限り特定することができないらしい。

神功皇后の三韓征伐はかつて歴史教科書で教えて、史実の可能性が低いことから教えないようになったが、三韓征伐の真の意味が出雲王国崩壊の記述変更だと僕以外に気付ける者などいない。
『日本書紀』神功皇后時代の仲哀天皇9年9月10日の記述で、家臣が「西北方に山があって、雲が横たわっていて、きっと国があるだろう」と言ったのは、大和から見て西北方の新羅(しらぎ)でなく出雲王国のことで、雲が横たわるのが出雲だからである。

ある人は新羅の王を殺そうという者もいたが、神功皇后が言われて、「神の教えによって金銀の国を授(さず)かろうとしている。降伏を申し出ている者を殺してはならない」と。
その縛(なわ)を解(と)いて馬飼(か)いとされた。
その国の中に入り、重宝の倉を封じて、地図や戸籍を没収した。
皇后が持っておられた矛を新羅王の門に立て、後世への印とされて、その矛は今も新羅王の門に立っている。
新羅の王の波沙寝錦(はさむきん)は微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき)を人質として、金・銀・彩色・綾(あや)・羅(うすはた)・絹(かとりきぬ)を沢山の船に乗せて軍船に従わせた。
は「糸へん」に兼の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
それゆえ新羅王は常に沢山の船で、貢(みつぎ)を日本に送っている。高麗(こうらい:高句麗)と百済(くだら)2国の王は、新羅が地図や戸籍も差し出して日本に降(くだ)ったと聞いて、その勢力をうかがってとても勝つことができないと知って、陣の外に出て頭を下げて、「今後は永(なが)く西潘(西の未開の国)と称して、朝貢を絶(た)やさない」と言って、それで内官家屯倉(うちつみやけ)を定めて、これがいわゆる三韓である。

三韓征伐を出雲王国の記述に直すと次のようになる。
ある人は出雲国王を殺そうと言う者もいたが、神功皇后が「降伏を申し出ている者を殺してはならない」と言われて、その縄をといて馬飼いなどとされて、出雲王国の中に入って重宝の倉を開けて地図や戸籍を没収した。
神功皇后が持っていた矛を出雲国王の門に立て、後世への印とされて、その矛は今も出雲国王の門に立っている。
出雲国王の飯入根は弟の甘美韓日狭と息子の濡渟を人質として差し出して、金・銀・彩色・綾・羅・絹を沢山の船に乗せて神功皇后の軍船に従わせて、それ以降に出雲国造(いずもくにみやつこ)が常に沢山の船で、貢を古代大和朝廷に送っている。
出雲王国崩壊以降の任命された出雲国造の濡渟は、出雲王国が地図や戸籍も差し出して古代大和朝廷に投降した顛末(てんまつ)を知り、その勢力をうかがっても勝つことができないと知っていて、「今後は永く西の未開の国として、朝貢を絶やさない」と言って、それで内官家屯倉を定められた。

三韓征伐は内容変更しても出雲王国崩壊の物語なのが明白で、出雲王国崩壊の西暦260年を三韓征伐の西暦320年に変更しても干支(えと)の60年周期を利用した年代変更なのが分かり、アインシュタイン博士以上の天才の僕をごまかすことなどできない。
神功皇后が持っていた矛を出雲国王の門に立てた記述について求めると、矛が逆矛(さかほこ)の八重垣剣(やえがきのつるぎ)の可能性も考えられるが、よくわからなくて考えるだけ無駄である。
『日本書紀』の記述の全てが史実でなく、『ホツマツタエ』も『古事記』の記述の全てが史実でない場合も求められない歴史学者らがどんなに研究した所で、僕のような史実を求められる超天才に挑むこと自体無謀である真実を知る必要がある。

初代出雲国王の彦坐王(ひこいますのみこ)は、太陽神の宮司で、その直系子孫の出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏が物部(もののべ)氏の祖先神の饒速日命(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)や歴代の大物主神(おおものぬしのかみ;歴代の出雲国王を神格化)を祭って、千家(せんげ)氏が祭るのが古代太陽神で、中間の歴代の出雲国王も太陽神の宮司と考えられる。

参考文献『三輪山の考古学』(株式会社学生社・発行)で纏向(まきむく)遺跡から鳥取県と島根県と山口県の土器が出土すると記されて、神功皇后が出雲王国を討伐した後か日本武尊が亡命する前のものと考えられる。
参考文献『出雲国風土記と古代遺跡』(勝部昭・著者 株式会社山川出版社・発行)で弥生時代後期に全国的に高地性集落遺跡が作られるが、出雲では3世紀中頃に多くの高地性集落遺跡が作られて、出雲王国崩壊の時期と重なるのが偶然と考えられない。
参考文献『出雲大社の暗号』(関裕二・著者 株式会社講談社・発行)で弥生時代後期に発展した出雲が3世紀中頃に衰退したと記されて、これも出雲王国崩壊の時期と重なるのが偶然と考えられない。
出雲王国攻撃は『ホツマツタエ』と『日本書紀』の記述に頼って、考古学的証拠も出土して全て事実だと考えられる。
アインシュタイン博士以上の天才の僕は、考古学者の協力を得られればもっと多くの考古学的証拠を挙げれて、出雲王国の崩壊を示す証拠がもっと求められるだろう。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『古代日本史への挑戦』
僕・著者 株式会社オカムラ・発行
インターネット

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