二人の皇子の反乱


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

景行(けいこう)天皇と弟橘姫(おとたちばなひめ)は、彦人大兄皇子(ひこひとのおおえのみこ;仲哀(ちゅうあい)天皇の叔父(おじ)を生んで、その娘の大中媛(おおなかひめ)が仲哀天皇と結婚して、鹿坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)の兄弟を生んだ。
鹿は「鹿」の漢字の下に弭で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
仲哀天皇の子供は、神功(じんぐう)皇后の生んだ誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)と皇太子の誉田別尊(ほむだわけのみこと)、大中媛の生んだ鹿坂皇子と忍熊皇子の4人兄弟と考えられる。

『日本書紀』で出雲王国を討伐した翌年2月(西暦261年3月頃)に神功皇后は、群卿百寮を率(ひき)いて、出雲から京都府宮津市由良(ゆら)に移(うつ)って、仲哀天皇の遺骸を納(おさ)めて海路を渡って、その時に鹿坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)が父の仲哀天皇が亡くなって、神功皇后が出雲王国を討伐して、異母弟の誉田別尊が生まれたと聞いて、密(ひそ)かに謀反(むほん)を企(くわだ)てた。
鹿坂王と忍熊王の兄弟は、神功皇后に息子の誉屋別皇子と誉田別尊がいて、群臣が皆で従って、きっと協議して異母弟の幼(おさな)い王を立てて、成人した自分たちがなぜ幼少の弟に従わねばならないと反発して、神功皇后が出雲王国から取り戻したものと加えて、2種類の三種の神器を強奪する計画を立てた。
そこで偽(いつわ)って父の仲哀天皇の陵(みささぎ;墓)を作る真似(まね)をして、播磨(はりま;兵庫県南西部)に行って山陵を明石(あかし)に立てることにして、船団を作って淡路島(あわじしま)に渡して、その島の石を運んだ。
人毎(ひとごと)に武器を取らせて神功皇后を待って、犬上(いぬがみ)氏の先祖の倉見別(くらみわけ)と吉師(きし)氏の先祖の五十狭茅宿禰(いそさちのすくね)は、共に鹿坂王に味方して、そこで将軍として東国の兵を起こさせた。
鹿坂王と忍熊王は、共に菟餓野(とがの;兎我野:大阪市北区の町)に出て、神意をうかがう占(うらな)いをして、「もしこのことが成功するなら、きっと良い獲物(えもの)が捕(と)れるだろう」と言って、二人の皇子が仮(かり)の桟敷(さじき;見物(けんぶつ)などのために道路や川に面して作る仮設の席)におられた。
すると赤い猪(いのしし)が急に飛び出して来て、桟敷に上って鹿坂王を喰(く)い殺して、兵士たちが皆おじけづいた。
忍熊王は倉見別に語って、「これは大変なことで、ここでは敵を待てない」と、軍を率いて退却して、住吉(すみよし;大阪市住吉区)にたむろした。

新羅を討伐した神功皇后は、山口県の豊浦宮(とようらのみや;「とゆらのみや」とも言う)に移って、鹿坂王と忍熊王が謀反を企てたと記すが、出雲王国を討伐して京都府宮津市由良(ゆら)に移ったのが正しいと考えられる。
鹿坂王と忍熊王の兄弟が作ろうとした仲哀天皇陵は、仲哀天皇の実年齢を考えると、天皇陵が作られなかったかもしれないが、本当の仲哀天皇陵が大和(おおやまと)古墳群に作られたはずで、嘘の記述で作り話の可能性がある。
鹿坂王を喰い殺した赤い猪は、神功皇后の放(はな)った先兵(せんぺい)だったと考えられる。

神功皇后は、忍熊王が軍を率いて待ちかまえていると聞いて、初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)に命じて、皇子の誉田別尊を抱いて、迂回(うかい)して南海へ出て、紀伊水門(きのみなと;和歌山市)に泊(と)まらせた。
神功皇后の船は、まっすぐに難波(なにわ;大阪市)へ向かったが、船が海中でぐるぐる回って進まず、そこで武庫(むこ;兵庫県武庫郡)の港に帰って占った。
天照大神(あまてらすおおみかみ)が教えて、「我が荒魂(あらみたま)を神功皇后の近くに置くのが良くない。広田国(ひろたのくに;大阪市の廣田(ひろた)神社)に置くが良い」と言って、山背根子(やましろねこ)の娘の葉山媛(はやまひめ)に祭らせた。
また和歌昼女(わかひるめ;天照大神の妹)が教えて、「自分は活田長狭国(いくたのながおのくに;神戸市の生田(いくた)神社)に居(い)たい」と言って、そこで海上五十狭茅(うなかみのいそさち)に祭らせた。
また事代主神(ことしろぬしのかみ)が教えて、「自分を長田国(ながたのくに;東大阪市の長田(ながた)神社)に祀(まつ)るように」と言って、葉山媛の妹の長媛(ながひめ)に祭らせた。
表筒男(うわづつのお)・中筒男(なかづつのお)・底筒男(そこづつのお)の3神が教えて、「我が和魂(にぎみたま)を大津の停名倉(ぬなくら)の長狭(ながお;神戸市の住吉(すみよし)神社)に居(お)さめるべきである。そうすれば往来する船を見守ることができる」と言って、そこで神の教えのまま鎮座して、それで平穏(へいおん)に海を渡ることができた。

女神の天照大神は、古代の男性の太陽神である天照神(あまてるかみ)とすべき所を『日本書紀』の通りに記して、和歌昼女がアマテルカミの姉妹神で、兵庫県南部と大阪府と和歌山県にかけて、神功皇后と息子の誉田別尊が動き回ったと記す。
4つの神社の記述は、摂政元年(西暦261年)まで社伝をさかのぼると考えられる。

忍熊王は軍を率いて退(しりぞ)いて、宇治(うじ;京都府宇治市)に陣を取って、神功皇后が紀伊国(きいのくに;和歌山県と三重県南部)においでになって、息子の誉田別尊と日高(ひだか;和歌山県日高郡)でお会いになった。
この時ちょうど夜のような暗さとなって何日も経(た)って、時の人は「常夜行(とこやみい)く」と言ったそうで、神功皇后が紀(き)氏の先祖の豊耳(とよみみ)に問(と)われて、「この変事(かわりごと)は何のせいだろう」と。
一人の翁(おきな)が「聞く所では、このような変事を阿豆那比(あずなひ)の罪(つみ)と言うそうです」と言って、「どういうわけか」と問われると答えて、「2つの社(やしろ)の祝者(はふり;神に仕(つか)える人のことで、禰宜(ねぎ)の次の位(くらい)に当たる)を一緒に葬(ほうむ)っているからでしょうか?」と言う。
そこで村人に問うと、ある人が言うのに、「小竹(しの)の祝(はふり)と天野(あまの)の祝は、仲の良い友人だった。小竹の祝が病(やまい)になり死ぬと、天野の祝が激(はげ)しく泣いて、『私は彼が生きている時、仲の良い友達だった。どうして死後、穴を同じくすることが避(さ)けられようか』と言って、屍(しかばね)のそばに自(みずか)ら伏(ふ)して死んだ。そこで合葬したが、思うにこれだろうか?」と。
墓(はか)を開いてみると本当で、棺(ひつぎ)を改めてそれで別々の所へ埋めて、すると日の光が輝(かがや)いて、昼と夜の区別ができた。

2月の一ヶ月の間にずいぶんと動き回ったが、実際にこれだけの地域を動き回れたと考えられない。
和歌山県の2人の祝が合葬したのは、2人が仲の良い友人だったのでなく、同性愛者だったのかもしれないが、おそらく作り話だろう。

3月5日(西暦261年4月上旬頃)に初代・武内宿禰と和珥(わに)氏の先祖の武振熊(たけふるくま)に命じて、数万の兵を率いて忍熊王を討(う)つため、初代・武内宿禰たちが精兵を選んで、山城(京都府南部)方面に進出して、宇治に至(いた)って川の北にたむろした。
忍熊王は、陣営を出て戦おうとして、その時に熊之凝(くまのこり)と言う者がいて、忍熊王の軍の先鋒(せんぽう)となって、味方の兵を激励(げきれい)しようと、声高(こえたか)らかに歌を詠(よ)んだ。

  彼方(をちかた)を 荒松原(あららまつばら) 松原(まつばら)に 渡(わた)り行(ゆ)きて 槻弓(つくゆみ)に 鳴(な)りやを令(た)ぐ副(へ) 貴人(うまひと)は 貴人共(うまひとどち)や 従兄弟(いとこ)はも 従兄弟共(いとこどち) 率(い)ざ遇(あ)わな 我(われ)は たまきはる(枕詞;まくらことば) 内朝臣(うちのあそ)が 腹内(はらぬち)は 砂有(いさごあ)れや いざ遇(あ)わな 我(われ)は

  (彼方(かなた)の疎林(そりん)の松原に進んで行って、槻弓に鏑矢(かぶらや)をつがえて、貴人は貴人同士、親友は親友同士、さあ戦おう、我々は。武内朝臣(たけのうちのあそみ;初代・武内宿禰)の腹の中には、小石が詰(つ)まってるはずがない。さあ戦おう、我々は。)

初代・武内宿禰は3軍に命令して、全部の髪を結(ゆ)い上げさせて、そして号令して、「それぞれ控(ひか)えの弓弦(ゆみづる)を髪に隠して、また木刀を帯(お)びよ」と言った。
神功皇后の命令を告(つ)げて、忍熊王をあざむいて言って、「私は天下を貪(むさぼ)らず、ただ若き王(みこ;息子)を抱いて、君(夫の仲哀天皇)に従うだけです。どうして戦うことがありましょうか。どうか共に弦(つる)を絶(た)って武器を捨(す)て、和睦(わぼく)しましょう。君主は皇位について、安(やす)らかに万(よろず)の政(まつりごと)をなされば良いのです」と言った。
そして軍中に命令して、全ての弓の弦を切って、刀を解(と)いて河に投げ入れて、忍熊王はその偽りの言葉を信じて、全軍に命令して武器を解いて、河に投げ入れて弦を切らせた。
すると初代・武内宿禰は3軍に命令して、控えの弦を取り出して張(は)って、真刀(しんとう)を佩(は)かせて、河を渡って進んで、忍熊王があざむかれたと知って、倉見別と五十狭茅宿禰に言って、「自分はだまされた。今控えの武器がない。戦うこともできない」と兵を率いて逃げた。
初代・武内宿禰は、精兵を出して居って、近江(おうみ;滋賀県)の逢坂(おうさか;大津市の逢坂山)で追いついて破って、それでそこを名付けて逢坂と言う。
なお逃げた兵は、狭々浪(ささなみ;滋賀県滋賀郡)の栗林(くるす;滋賀県犬上郡多賀町栗栖)に至って多く斬(き)って、血が流れて栗林にあふれて、このことを嫌(いや)がって今に至るまで、栗林(滋賀県犬上郡多賀町栗栖)の菓(このみ)を御所(皇居)に奉(たてまつ)らない。
忍熊王は、逃げて隠れる所もなく、五十狭茅宿禰を呼んで歌を詠んだ。

  率(い)ざ吾君(あぎ) 五十狭茅宿禰(いそさちのすくね) たまきはる(枕詞) 内朝臣(うちのあそ)が 頭槌(くぶつち)の 痛手不負(いたでおはず)ば 鳰鳥(にほどり)の 潜(かづ)きせ爲(な)

  (さあ我が君、五十狭茅宿禰よ。初代・武内宿禰の手痛(ていた)い攻撃を身(み)に受けずに、鳰鳥(におどり)のように水に潜(もぐ)って死のう)

共に瀬田(せた;大津市瀬田)の渡りに沈(しず)んで死んで、その時に初代・武内宿禰は歌って言った。

   近江海(あふみのみ) 瀬田(せた)の渡(わた)りに 潜(かづ)く鳥(とり) 目(め)にし不見(みえね)ば 憤(いきどほ)ろしも

  (近江の海の瀬田の渡りで、水に潜る鳥が見当(みあ)たらなくなったので、不安だなあ)

ところで、その屍(しかばね)を探(さが)したけれども見つからず、何日か経(た)ってから、宇治河(うじがわ)で見つかった。
初代・武内宿禰は、また歌を詠んで言った。

  近江海(あふみのみ) 瀬田(せた)の渡(わた)りに 潜(かづ)く鳥(とり) 田(た)な上過(かみす)ぎて 宇治(うぢ)に捕(と)らへつ

  (近江の海の瀬田の渡りで、水に潜った鳥は田上を過ぎて、下流の宇治で捕らえられた)

和珥氏の先祖の武振熊は、海部(あまべ)氏の先祖の建振熊宿祢(たけふるくまのすくね)に当たって、西暦350年代くらいの人物と考えられて、建振熊宿祢の先祖の大倉岐命(おおくらきのみこと)辺りが武振熊の代わりの人物で、和珥氏と海部氏が同一氏族と考えられる。
滋賀県犬上郡多賀町栗栖(くるす)の菓子(かし)は、流血で嫌悪して皇居に献上しなかったと考えられる。
初代・武内宿禰の軍勢(ぐんぜい)は、忍熊王を罠(わな)にかけて見事に殺して、忍熊王が滋賀県から流されて、宇治川(うじがわ)で水死したと考えられる。

2020年9月16日に僕は、『ホツマツタエ』に仲哀天皇の息子の系図が記されず、『日本書紀』が仲哀天皇の息子2人の内乱を記して、摂政(せっしょう)元年(西暦261年)の2皇子の皇位継承権争いを特定して、約18年間の歴史研究で得た知識と合わせて、三種の神器が間違いなく2種類あったと確信した。
これは僕の注意が『ホツマツタエ』に集中して、『日本書紀』に十分な意識が向かず、決して怠(なま)けたわけでないが、僕の明らかな油断が生んだ結果である。
古代天皇家の3度目の皇位継承権争いは、鹿坂王と忍熊王の兄弟の反乱と気付いて、最初の反乱が2代目出雲国王の狭穂彦(さほひこ)天皇の反乱で、2度目の反乱が日本武(やまとたけ)天皇の反乱で、4度目の反乱が大山守皇子(おおやまもりのみこと)の反乱で、ようやく古代天皇家の内乱が詳細に判明した。
皇位継承物の三種の神器は、邪馬台国(やまとこく;大和国)の仲哀天皇と出雲王国(物部氏)の日本武(やまとたけ)天皇の2種類に分かれたが、出雲王国が崩壊して二種の神器か三種の神器が戻って来て、神功皇后の息子の誉田別尊が生まれて、すでに成人した鹿坂王と忍熊王の兄弟が二種の神器か三種の神器を強奪するため、神功皇后に対して皇位継承権争いを起こしたと考えられる。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
インターネット

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