倭の五王の勘違い


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

倭の五王の勘違いは、倭の五王の定説が応神(おうじん)天皇から雄略(ゆうりゃく)天皇の7人の中にいて、世界遺産の百舌鳥・古市古墳群が5世紀頃の大規模な前方後円墳が乱立して、合致すると思い込んだ勘違いによるものである。
世界最大の面積の墓である大仙(だいせん)古墳(仁徳天皇陵)は、「仁徳天皇陵は本物か?」の章で説明した通りで、「倭の五王」の章の説明通りでもあって、本当の倭の五王が勘違いである。
倭の五王の定説は勘違いだと言うのなら、論理的根拠を示せと言われるかもしれないが、邪馬台国論争のような明確に示せる根拠がない。
そのことについてこれから細かく触れていこうと思う。

倭の五王の定説は、応神天皇から雄略天皇の7人に当てはめて、雄略天皇の後に4人の天皇がいるが、完全に無視して定説を押し通そうとする。
西暦478年に倭王「武(ぶ)」が南朝宋王朝に最期の朝貢をして、『日本書紀』が雄略天皇の在位期間を西暦456年から479年にしたのは、倭王「武」の最期の朝貢と合致させるためだった。
しかし倭王「武」は、西暦479年に南朝斉王朝へ朝貢して、西暦502年に南朝梁王朝へ朝貢しているが、定説がこれを無視して、この倭王「武」が別人とする。
雄略天皇が倭王「武」とする根拠は、倭王「武」と雄略天皇の国風諡号(しごう)の大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)が同じ漢字の「武」が合致すると言うが、古代中国語読みの倭王「武」と日本語読みの「武(たける)」が合致するはずがない。
倭の五王の定説は、応神天皇から雄略天皇の国風諡号の部首や読み方が共通するバラバラなもので、全く論理的根拠として成立しないものを強引に押し通したシロウト認識である。
これが専門家の認識力だと言うのだから、あまりに馬鹿げた茶番劇でしかない。

歴代天皇の呼び方は、雄略天皇の「雄略」が漢風諡号で、「大泊瀬幼武尊」が国風諡号で、僕の自論が歴代天皇の漢風諡号の頭文字を現代中国語読みで倭王の読み方に当てはめたものである。
僕の自論は、倭の五王の呼び名と歴代天皇の漢風諡号の頭文字を現代中国語読みで当てはめて、応神天皇から雄略天皇の7人が全く当てはまらない。
しかし雄略天皇の実兄の安康(あんこう)天皇は倭王「讃(さん)」で、雄略天皇が倭王「珍(ちん)」に当てはめられて、最後の倭王「武」が武烈(ぶれつ)天皇の漢風諡号の「武烈」と漢字が合致する。
このように僕の自論は、最も正しい倭の五王を当てはめた可能性が高い。

僕の自論は本当の倭の五王を求めた可能性が高く、邪馬台国論争の卑弥呼が倭姫命(やまとひめのみこと)で、台与(とよ)が神功(じんぐう)皇后なら、僕の自論である歴代天皇の在位期間が正しいと考えられる。
しかし邪馬台国時代の歴代天皇は、「古代天皇家の年表」や「邪馬台国の年表」の章に示した通り西暦年の特定で歴史書解釈による実在が証明されるが、倭の五王時代の歴代天皇の実在が考古学的証拠と歴史書解釈から証明しにくい。
世界遺産の百舌鳥・古市古墳群は、5世紀頃の古墳が多いのが不動でも、倭の五王が実在したと直接証明できなくて、その時代に歴代天皇がいたことの証明にならない。
本当の倭の五王は、安康天皇から武烈天皇の6人の中にいたという僕の自論が成立する希望的観測である。
つまり歴史に名前のない未知の歴代天皇がいた架空の推論も成立するのである。
これがはっきりしない考古学的証拠と歴史書解釈の恐(こわ)さである。

<参考文献>
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
石原道博・編訳者 株式会社岩波書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
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