景行(けいこう)天皇の疑問点


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

景行天皇の在位期間60年は、昭和天皇に次ぐ長さで実在性が疑われるが、正しい答えを求められる僕なら実在を証明できる。
景行天皇の実在の証明は、日本神話と考古学的証拠と歴史書解釈から間違いないと考えられる。

景行天皇の在位期間60年は、景行天皇を神格化した月読尊(つくよみのみこと)が干支(えと)の年月を読んで、干支の一周60年間を意味して実在性が高い。
景行天皇を神格化した6代目・高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)は、高貴な皇祖神(こうそしん;皇室の祖先神)を生み出すという意味を持って、7代目・高皇産霊尊に神格化した武虎別皇子(たけこわけのみこ)の父で、その孫娘の天照大神(あまてらすおおみかみ)に神格化した神功(じんぐう)皇后を生み出して、この天照大神の直系子孫が現在の皇室とされる。
景行天皇を神格化した6代目・高皇産霊尊は、別名を神皇産霊尊(かむみむすびのみこと)で、神様を生み出すという意味を持っているが、深く考える必要がない。
景行天皇を神格化した神皇産霊尊は、『出雲国風土記』で神魂命(かみむすびのみこと)と記して、島根県の神魂(かもす)神社の本当の祭神と考えられて、出雲王国(物部(もののべ)氏)の実在や血縁関係から、神魂命と神魂神社が深く関係して同じ漢字である。

景行天皇を祖先化した孝元(こうげん)天皇は、物部氏の女性2人の欝色謎命(うつしこめのみこと)と伊香色謎命(いかがしこめのみこと)を妃にして、この2人が形式上の叔母(おば)と姪(めい)に当たる。
欝色謎命は、高田媛(たかだひめ)が本名(ほんみょう)で、欝色謎命と伊香色謎命が作られた名前で、色(しこ)と醜(しこ)が漢字が違っても同じ読み方で、出雲王国(物部氏)に共通した単語である。
高田媛は、2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)の娘で、皇位継承権争いの狭穂彦王の反乱(倭国大乱)で、父が垂仁(すいにん)天皇7年(西暦178年)までに戦死して、それまでに生まれたと考えられて、景行天皇より10歳以上の年上女房(にょうぼう)である。
景行天皇と高田媛の子供は、武虎別皇子(たけこわけのみこ)と少彦男心命(すくなひこおこころのみこと)で、武虎別皇子の長女を神功(じんぐう)皇后で、長男を武渟川別(たけぬなかわわけ)とする。
武虎別皇子は、7代目・高皇産霊尊と天津彦根命(あまつひこねのみこと)などに神格化して、少彦男心命が少彦名命(すくなひこなのみこと)や天稚彦(あめわかひこ)などに神格化して、神功皇后が皇祖神の天照大神と栲幡千千姫(たくはたちちひめ)などに神格化して、武渟川別が太玉命(ふとだまのみこと)と軍神の経津主神(ふつぬしのかみ)などに神格化して、出雲王国(物部氏)と関係する。
伊香色謎命は、弟橘姫(おとたちばなひめ)が本名で、本当の父が垂仁天皇の息子の祖別命(みおやわけのみこと)で、狭穂彦王の息子で3代目出雲国王の野見宿禰(のみのすくね)の養子で、高田媛と弟橘姫が形式上の叔母と姪なのが正しい。
弟橘姫の両親は、常世国(とこよのくに)に行った田道間守(たじまもり;祖別命を祖先化)と花橘(はなたちばな)とされて、正しく求めると祖別命が邪馬台国(やまとこく;大和国)から古代中国の王朝への最初の使者だった。
景行天皇と弟橘姫の子供は、出雲王国(物部氏)の婿(むこ)入り6代目出雲国王の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)で、邪馬台国(大和国)の皇子(皇族)で、非常に重要な意味を持つ人物である。
弟橘姫の一人息子の彦太忍信命は、物部氏の妻(名前は不明)との間に最後の7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)をもうけて、景行天皇の皇太子の日本武尊(やまとたけのみこと)が出雲王国の崩壊の原因である。
邪馬台国(大和国)と出雲王国(物部氏)は、決して切っても切れない関係だが、『ホツマツタエ』や「記紀」が出雲王国を偽装工作して、歴史上から抹消しようとしたけれど、少ない手掛かりで僕が出雲王国の真実を求めた。

纏向(まきむく)遺跡は、2世紀末から4世紀前半にかけての都市遺跡で、弥生時代の農耕集落という感じでなく、政治的・宗教的な中枢(ちゅうすう)施設と言った方が良さそうな遺跡である。
纏向遺跡は、邪馬台国(大和国)の王都(皇居)で、景行天皇4年11月1日(西暦194年12月上旬頃)に築造した景行天皇の皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)に間違いなく、景行天皇の孫娘の神功皇后が亡くなった西暦329年頃まで都(みやこ)として使われたと考えられる。
纏向遺跡の外来形土器は、福岡県と鹿児島県の九州の土器、中部地方と関東地方の土器などが出土して、景行天皇時代から景行天皇の孫の仲哀(ちゅうあい)天皇時代が邪馬台国(大和国)の勢力図と重なる。
纏向遺跡が邪馬台国(大和国)の王都(皇居)なのは確実で、邪馬台国論争をチェックメイトできるが、専門家(考古学者と歴史学者)の無能ぶりに簡単に認めさせられない。

景行天皇12年から19年(西暦202年から209年)は、景行天皇自らが総大将となって九州全土を平定したとされる。
景行天皇自らの九州平定は、熊襲(くまそ)王国の討伐が大きな目的で、『後漢書』の拘奴国(くぬこく)が間違いなく熊襲王国である。
景行天皇49年(西暦239年)に魏王朝に使者を送って、景行天皇50年(西暦240年)に使者が帰還して、親魏倭王の金印を受け取ったのが卑弥呼(倭姫命;やまとひめのみこと)の男弟(異母弟)の景行天皇だった。
『日本書紀』は景行天皇27年8月(西暦217年9月頃)に熊襲王国が再度反乱して、正しく求めると景行天皇57年8月(西暦257年9月頃)に年代を直して、景行天皇57年12月(西暦248年1月頃)に皇太子の日本武尊が熊襲王国を滅亡させた。
『三国志・魏志倭人伝』の狗奴国(くぬこく)は、西暦247年の討伐を記して、『ホツマツタエ』や「記紀」が拘奴国と狗奴国が熊襲王国と合致させないため、年代操作の偽装工作をほどこして、『ホツマツタエ』や「記紀」の偽装工作で当たり前に見られるが、真実を求められる僕に通用しない。

景行天皇60年11月7日(西暦250年12月上旬頃)に景行天皇(男弟)が崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)されて、翌年に倭姫命(卑弥呼)が亡くなって、仲哀(ちゅうあい)天皇元年11月10日(西暦252年12月上旬頃)に景行天皇を箸墓(はしはか)古墳に葬礼した。
『三国志・魏志倭人伝』は、「卑弥呼以死。大作冢、径百余歩、徇葬者奴婢百余人」と記して、卑弥呼が死んで、大きな塚(墓)が作られたと解釈して、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)陵が宮内庁指定の箸墓古墳で、卑弥呼の墓と勘違いする。
倭迹迹日百襲姫命は、倭姫命(卑弥呼)を祖先化した創作された架空の人物で、卑弥呼(倭姫命)の男弟(異母弟)の景行天皇陵が箸墓古墳である。
箸墓古墳は、径百余歩(直径約144メートル)が全長280メートルの前方部160メートルに相当して、徇葬者(殉死者;じゅんししゃ)奴婢百余人が殉死者の代替物として出土した最古の埴輪(はにわ)の特殊器台埴輪に相当する。
これだけの考古学的証拠と歴史書解釈から、邪馬台国論争は完全にチェックメイトする。

景行天皇は、邪馬台国論争の重要人物で、卑弥呼(倭姫命)の男弟(異母弟)として邪馬台国(大和国)を直接統治して、古代天皇家が邪馬台国と実証する大切な証拠である。
世界でただ一人の古代天皇家の正史を求められる僕は、日本史上において重要人物で、世界最高の超天才である。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『古代日本史への挑戦』
僕・著者 株式会社オカムラ・発行
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