出雲王国の建国


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

『日本書紀』の崇神天皇17年7月1日(西暦100年8月上旬頃)に詔(みことのり;天皇の述べた言葉)して、「船が天下の大切なもので、今の海辺の民に船がないため献上品を運ぶのに苦しんで、そこで諸国に命じて船を造らせよ」と。
10月(11月頃)に初めて船舶(せんぱく)を作った。

始めて作った船舶とは大型の船を差して、淡路島か四国か出雲に向かう船と解釈すべきで、そうすると淡路島か徳島県か香川県か島根県などに弥生時代後期初頭(西暦100年頃)の考古学的証拠が存在する可能性がある。
西暦100年までに彦坐王(ひこいますのみこ)が出雲王国を建国した可能性もあるが、2世紀前半の可能性も捨てきれない。
ただ『ホツマツタエ』にない記述で、どこまで信頼できるのか分からず、海をはさんだ陸地にまで古代天皇家の勢力が及んだか疑問が残る。

『ホツマツタエ』の5代目タカミムスビ(彦坐王を神格化)は、出雲と京都府宮津市にいた記述が正しく、初代出雲国王が彦坐王と考えられて、出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏と京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏が彦坐王の直系子孫に当たる。
『ホツマツタエ』から初代オオモノヌシは彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化して、別名オオナムチが子孫の飯入根(いいいりね)を神格化して、2代目オオモノヌシが狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化して、別名コトシロヌシが濡渟(うかずくぬ)を神格化して、7代目オオモノヌシと大国主神(おおくにぬしのかみ)が飯入根(いいいりね)を神格化する。
は「盧へん」に鳥の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
出雲大社の祭神の大国主神と三輪山(みわやま)の祭神の大物主神(おおものぬしのかみ)が上記の理由から、三重に神格化したと考えられる。初代オオモノヌシから7代目オオモノヌシに神格化された人物が歴代の出雲国王と考えられる。

初代出雲国王の彦坐王は出雲王国を建国して、息子の狭穂彦王が2代目出雲国王で、垂仁(すいにん)天皇時代に反乱(倭国大乱、皇位継承権争い)を起こして討伐されて、その息子の野見宿禰(のみのすくね)が3代目出雲国王で、父の狭穂彦王を怨霊(おんりょう)の2代目オオモノヌシとして三輪山の山頂に祭祀した初代の大田田根子(おおたたねこ)に当たる。

3代目出雲国王の野見宿禰の息子である物部十市根(もののべのといちね)は4代目出雲国王で、垂仁天皇の皇女の大中姫(おおなかひめ)と結婚して、息子の物部夏花(もののべのなつはな)をもうけたと考えられる。
『ホツマツタエ』にイサナキ(垂仁(すいにん)天皇を神格化)とイサナミ(日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)を神格化)の娘のワカヒメ(大中姫を神格化)は、オモイカネ(物部十市根を神格化)と結婚して武神タヂカラヲ(物部夏花を神格化)を生んだ。
5代目出雲国王の物部夏花は景行(けいこう)天皇時代に九州平定に登場して、5代目オオモノヌシが大物主神で初めて九州に行くことと一致して、子供に恵まれなくて従兄弟の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)に出雲国王の地位を譲ったが、6代目出雲国王を継げる武勇に秀でた子供がいなかっただけで、子供に恵まれなかったわけでない。

6代目出雲国王の彦太忍信命は、『ホツマツタエ』の6代目オオモノヌシの記述から色々な土地の統治者と考えられて、母が物部(もののべ)氏の養子の弟橘姫(おとたちばなひめ)で、妻が物部氏の女性の入り婿(むこ)国王で、妻の名前が分からないのが出雲王国を求めさせないためと考えられる。
彦太忍信命の息子の飯入根は、最後の出雲国王として出雲王国の崩壊で殺された。出雲王国は物部(もののべ)王国と言い換えられて、参考文献『出雲大社の暗号』の著者の考え方が良い線を行く。
飯入根は正妻を日本武尊(やまとたけのみこと)の娘の布忍姫(ぬのおしひめ)で、息子が出雲大社の初代宮司の濡渟(うかずくぬ)で、その直系子孫が出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏と考えられる。

出雲の隆盛は弥生時代後期初頭からである。参考文献『出雲大社の暗号』に1984年に荒神谷(こうじんだに)遺跡が発見されて、出土した銅剣が弥生時代中期後半製造でないかとされて、1996年に加茂岩倉(かもいわくら)遺跡が発見されて、出土した銅鐸(どうたく)が弥生時代中期から後期の製造と記されて、銅剣と銅鐸が弥生時代後期初頭(西暦100年前後)の遺物と考えられる。
参考文献『出雲国風土記と古代遺跡』(著者・勝部昭 発行・株式会社山川出版社)は、荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡の銅鐸と同じ型の分布地域が歴史書解釈から古代天皇家の勢力地と合致して間違いなく、彦坐王が埋葬したと考えられる。
出雲王国の建国は、彦坐王を始祖とする物部氏が築き上げて、考古学と歴史学の見地から見て実在が間違いなく、弥生時代後期に出雲で青銅器文化が衰退して、物部氏の誕生と関連すると考えられる。
弥生時代中期に出雲で四隅突出型墳丘墓が作られ始めて、弥生時代後期に最大級の中谷(なかだに)3号墳が作られて、出雲王家の物部氏が葬礼されたと考えられる。

出雲王家(物部氏)の系図は、「記紀」から抹消するために滅茶苦茶のバラバラに記して、その原形の再現に僕の直観が必要で、物部氏の直系子孫の千家氏や竹内(たけうち)氏に受け継がれた。
直観は常識や理屈などで説明できなくて、まして僕のアインシュタイン博士以上のコペルニクス的転回(非常識な考え方の集合体)を理解できず、直観という未知の感覚を分かるはずがない。
出雲王国の建国は、超天才の僕以外に求められる者が存在せず、彦坐王の直系子孫の物部王国と求めた。

<参考文献>
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『出雲大社の暗号』
関裕二・著者 株式会社講談社・発行
『出雲国風土記と古代遺跡』
勝部昭・著者 株式会社山川出版社・発行
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