『君(きみ)が代(よ)』の真実の可能性
国歌『君(きみ)が代(よ)』は、西暦905年(延喜(えんぎ)5年)に奏上(そうじょう)した『古今和歌集(こきんわかしゅう)』の詠(よ)み人知らずの和歌で、世界の国歌の中で最も古い歌詞とされて、1880年(明治13年)に西洋音楽に基づく曲を付けて、事実上の国歌として、法律で1999年(平成11年)に「国旗及び国歌に関する法律」で、正式に国歌に制定して、「君が代(我(わ)が主君)」が天皇陛下を讃(たた)える歌とする。
しかし僕は、ユーチューブのTOLAND VLOGの『ついに開示の時。遥かなる時を超えて真の歴史≠ェ分かってきました・・・』を見て、君(主君)が天皇陛下でなく、物部(もののべ)氏の始祖(しそ;始まりの先祖)の彦坐王(ひこいますのみこ)を指す可能性に気付いて、福岡市志賀島(しかのしま)の志賀海(しかうみ)神社に伝わる『山誉祭(やまほめさい)』の神楽歌(かぐらうた)で歌われて、その真実の可能性を求める。
『山誉祭(やまほめさい)』の神楽歌(かぐらうた)は、「君(きみ)が代(よ)は 千代(ちよ)に八千代(やちよ)に 細石(さざれいし)の 巌(いわお)となりて 苔(こけ)のむすまで」と歌って、「君が代(我(わ)が主君)」が志賀海(しかうみ)神社宮司家の安曇(あずみ)氏の先祖か、祖先神を指すと考えられて、国歌『君(きみ)が代(よ)』の天皇陛下と異なる可能性が高い。
『山誉祭(やまほめさい)』神楽歌(かぐらうた)は、全体を解釈しても良いが、話をややこしくするので省略して、これ以降に安曇(あずみ)氏の先祖や祖先神を僕なりに求めて、分かりやすく解説したい。
福岡市志賀島(しかのしま)の志賀海(しかうみ)神社宮司家の安曇(あずみ)氏は、上津綿津見神(うわつわたつみのかみ)と中津綿津見神(なかつわたつみのかみ)と底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)の海神3神を祖先神として、僕が物部(もののべ)氏の彦坐王(ひこいますのみこ)と狭穂彦王(さほひこのみこ)と野見宿禰(のみのすくね)の3世代を上中下の海神3神に神格化した可能性を求めたが、証明できてない。
上中下の海神(わたつみ)3神の子孫である『ホツマツタエ』のカナサキ(野見宿禰(のみのすくね)を神格化)は、『古事記』の神名が宇都志日金析命(宇都志日金拆命;うつしひかなさきのみこと)で、安曇(あずみ)氏が出雲王家(物部(もののべ)氏)を先祖とするのが間違いない。
物部(もののべ)氏の始祖(しそ;始まりの先祖)の彦坐王(ひこいますのみこ)は、左大臣の初代出雲国王で、実在した初代天皇・崇神(すじん)天皇の実兄で、景行(けいこう)天皇12年から19年(西暦202年から209年)に九州全土が平定されて、福岡市の志賀海(しかうみ)神社が1700年以上前に創建した可能性があって、宗像(むなかた)大社宮司家の宗像(むなかた)氏もカナサキ(野見宿禰(のみのすくね)を神格化)の子孫で、安曇(あずみ)氏と同族である。
僕は2025年2月13日の午前9時20分頃に『嶋津彦命(しまつひこのみこと)の一族』を記し終えて、参考文献『ホツマ辞典』(著者・池田満 発行・ホツマ刊行会)を多用して、詳細を一部だけ抜粋(ばっすい)する。
嶋津彦命(しまつひこのみこと)は、滋賀県高島市安曇川町(あどがわちょう)の阿志都彌(あしづみ)神社の祭神で、福岡市の志賀島(しかのしま)にある志賀海(しかうみ)神社の本当の祭神と考えられて、海洋氏族で宗像(むなかた)大社を祭る宗像(宗形;胸形:むなかた)氏や造船氏族の阿曇(安曇;あずみ)氏の始祖神(しそしん;一番始まりの神様)で、『ホツマツタエ』に登場するシマツヒコ(嶋津彦)が造船の神様で、『古事記』で存在感が薄(うす)い。
『ホツマツタエ』のシマツヒコ(嶋津彦;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、伝説的な舟の創始者で、子孫が船作りと海運に優秀な一族で、彦坐王(ひこいますのみこ)から始まる古代太陽神氏族の物部(もののべ)氏や海部(あまべ)氏なども海洋氏族で、軍船を保有した武家でもあって、2024年9月頃のもみじヶ丘病院の任意入院中に求めた。
シマツヒコ(日子坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の息子は、オキツヒコ(沖津彦;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)で、孫がシガヒコ(志賀彦;野見宿禰(のみのすくね)を神格化)である。
子孫は、アカツチ(赤土;誰を神格化したか不明)とアシナツチ(脚摩乳;野見宿禰(のみのすくね)を神格化)とシホツチ(塩土老翁;しおつちのおじ:初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)とアツミ(安曇;誰を神格化したか不明)とムナカタ(宗像;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)で、7世孫がカナサキ(金析)の宇都志日金析命(宇都志日金拆命;うつしひかなさきのみこと)である。
シマツヒコ(彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の一族で分家の阿曇(安曇;あずみ)氏は、アツミ(安曇;誰を神格化したか不明)の子孫で、福岡市の志賀島(しかのしま)にある志賀海(しかうみ)神社の辺りが本拠地と考えられる。
『ホツマツタエ』でシマツヒコ(嶋津彦;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の孫がシガヒコ(志賀彦;野見宿禰(のみのすくね)を神格化)は、シガノカミ(志賀神)やシガノミコト(志賀命)とも記して、ワニフネ(鰐舟;帆(ほ)で進む快速船)を始めて作って、九州北部を本拠地としたと考えられて、子孫のカナサキ(金析;野見宿禰(のみのすくね)を神格化)がツクシ(筑紫;九州)全土を統治した。
シマツヒコ(彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と息子のオキツヒコ(沖津彦;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)と孫のシガヒコ(志賀彦;野見宿禰(のみのすくね)を神格化)は、福岡市の志賀島(しかのしま)にある志賀海(しかうみ)神社の本当の主祭神と考えられて、『ホツマツタエ』で祭神を見直すべき神社の一つである。
シマツヒコ(嶋津彦;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の子孫で海洋氏族の宗像(宗形;胸形:むなかた)氏は、本拠地が福岡県宗像(むなかた)市で、シマツヒコの7世孫であるカナサキ(金析)の時代にムナカタ(宗像;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)がいて、娘のオリハタヒメ(織幡姫;誰を神格化したか不明)とトヨヒメ(豊姫;高田媛(たかだひめ)を神格化)がアマテルカミ(天照神;景行(けいこう)天皇を神格化)と結婚して、トヨヒメがクマノクスビ(熊野久須毘;少彦男心命(すくなひこおこころのみこと)を神格化)を生んだ。
ムナカタ(狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)は、イサナキ(伊弉諾;垂仁(すいにん)天皇を神格化)でなく、景行(けいこう)天皇から海神3神(宗像(むなかた)3神でなく、ソコワタツミとナカワタツミとカミワタツミの3神)を祭るように命じられたと考えられる。
福岡県宗像(むなかた)市の織幡(おりはた)神社は、ムナカタ(狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)の子孫の武内宿禰(たけのうちのすくね)を祭って、織幡姫(おりはたひめ;誰を神格化したか不明)が本当の祭神と考えられて、福岡県久留米(くるめ)市の豊比刀iとよひめ)神社が豊玉姫(とよたまひめ;磐之姫命(いわのひめのみこと)を神格化)を祭って、本当の祭神が豊姫(とよひめ;高田媛(たかだひめ)を神格化)で、超天才の僕にしか特定できない。
狭穂彦王(さほひこのみこ)の娘2人は、姉の誰か不明と妹の高田媛(たかだひめ)が景行(けいこう)天皇の妾(めかけ)になって、誰か不明の姉に子供ができず、妹の高田媛(たかだひめ)が少彦男心命(すくなひこおこころのみこと)を生んで、『ホツマツタエ』の系図に神格化した。
ムナカタは、狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化したが、2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)の時代に九州が平定されてなくて、宗像(宗形;胸形:むなかた)氏が出雲王国(物部(もののべ)氏)の子孫である誰の血筋か分からない。
『日本書紀』の熊野久須毘命(くまのくすびのみこと;少彦男心命(すくなひこおこころのみこと)を神格化)は、天照大神(あまてらすおおみかみ;景行(けいこう)天皇を神格化)の息子で、母親が不明で、島根県松江市の熊野大社の祭神が神祖熊野大神櫛御気野命(かぶろぎくまののおおかみくしみけののみこと)と神名の共通性から、同一神と考えられて、神祖熊野大神櫛御気野命(かぶろぎくまののおおかみくしみけののみこと)と熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)に火の属性(物部(もののべ)氏を神格化)がある。
『ホツマツタエ』の僕の完全解釈は、世界最大最高最強の無双状態で、誰にもまねできない神技(かみわざ)で、22年半以上の歴史研究で体得した人生経験の結果で、僕の解説を黙って聞いてほしい。
創建年代が不明の志賀海(しかうみ)神社は、全国の安曇(あずみ)氏の総氏神(そううじがみ)で、今も彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫の安曇(あずみ)氏が宮司で、本当の仲哀(ちゅうあい)天皇9年(西暦260年)以降に創建したと僕は考える。
仲哀(ちゅうあい)天皇9年(西暦320年)の神功(じんぐう)皇后の三韓(さんかん)征伐は、朝鮮半島の高句麗(こうくり)と百済(くだら)と新羅(しらぎ)の討伐に向かって、安曇(あずみ)氏の先祖の阿曇磯良(あずみのいそら)が船の舵取(かじと)りをして、福岡市志賀島(しかのしま)の志賀海(しかうみ)神社に遷座して、今の境内(けいだい)になったと伝える。
『日本書紀』の神功(じんぐう)皇后時代は、『三国志・魏志倭人伝』の邪馬台国(やまたいこく)が摂政(せっしょう)39年(西暦239年)で、三韓(さんかん)征伐が仲哀(ちゅうあい)天皇9年(西暦320年)で、摂政(せっしょう)52年9月10日(西暦372年10月上旬頃)の七枝刀(ななつさやのたち)が石上(いそのかみ)神宮の国宝の七支刀(しちしとう)で、年代がバラバラで当てにならない。
仲哀(ちゅうあい)天皇9年(西暦320年)の三韓(さんかん)征伐は、仲哀(ちゅうあい)天皇9年(西暦260年)の出雲王国(物部(もののべ)氏)の討伐が正しくて、安曇(あずみ)氏の先祖の阿曇磯良(あずみのいそら)が船の舵取(かじと)りをして、帰国した後に福岡市志賀島(しかのしま)の志賀海(しかうみ)神社を3世紀後半(仲哀(ちゅうあい)天皇9年;西暦260年)以降に創建して、志賀海(しかうみ)神社宮司家の安曇(あずみ)氏に血筋がつながると考えられる。
福岡市志賀島(しかのしま)の志賀海(しかうみ)神社に伝わる『山誉祭(やまほめさい)』の神楽歌(かぐらうた)は、歌の中に国歌『君(きみ)が代(よ)』を含んで、仲哀(ちゅうあい)天皇9年(西暦320年)の三韓(さんかん)征伐で詠(よ)んだ歌とされて、仲哀(ちゅうあい)天皇9年(西暦260年)の出雲王国(物部(もののべ)氏)の討伐で歌ったと考えられる。
『君(きみ)が代(よ)』の君(きみ;主君)は、天皇陛下でなく、安曇(あずみ)氏の先祖の彦坐王(ひこいますのみこ)を指して、安曇(あずみ)氏の先祖の誰かを指すと考えすぎで、単純に考えて、一番最初の先祖に行き着く考え方になる。
国歌の『君(きみ)が代(よ)』は、西暦905年(延喜(えんぎ)5年)に奏上(そうじょう)した『古今和歌集(こきんわかしゅう)』の詠(よ)み人知らずの和歌が基本だが、もっと古い福岡市志賀島(しかのしま)の志賀海(しかうみ)神社に伝わる『山誉祭(やまほめさい)』の神楽歌(かぐらうた)から取って、仲哀(ちゅうあい)天皇9年(西暦260年)に歌われた安曇(あずみ)氏の先祖を讃(たた)える歌の可能性がある。
『君(きみ)が代(よ)』の真実の可能性は、あくまで僕が求めた結果で、それが間違いと言うなら、超天才の僕の自論を100%否定して言うべきだが、絶対に凡人(僕以外の人間)にできない神技(かみわざ)である。
国歌『君(きみ)が代(よ)』は、天皇陛下を讃(たた)える歌だが、僕が彦坐王(ひこいますのみこ)を讃(たた)えると主張して、アニメのセーラームーンの肌を黒人化して、多様化と言うのが日本人の配慮や原作への思いなどを馬鹿にして、賛否両論が起こるのと同じで、天皇家の先祖や祖先神に失礼とか、意見や感想を持ったりする物で、人間の自然な思いである。
ただ僕の自論は、純粋に知的な好奇心や探求心から求めて、この結論になって、肯定(こうてい)や否定の意見が分かれても、自分の意見を主張して、誰にも汚(けが)せない純粋な気持ちを理解してほしいと思う。
国歌『君(きみ)が代(よ)』の真実は、天皇陛下を讃(たた)える歌でなく、出雲王国(物部(もののべ)氏)の先祖の彦坐王(ひこいますのみこ)を讃(たた)える歌の可能性を2025年6月30日の午前1時50分頃に記し終えた。
<参考文献>
『ホツマ辞典』
著者・池田満 発行・ホツマ刊行会
インターネットの不明サイトから少々拝借
https://www.youtube.com/watch?v=CoyPsZB5IZI
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