古墳時代の始まり


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

古墳時代の始まりは垂仁(すいにん)天皇が葬礼された時で、最古の前方後円墳の纏向(まきむく)石塚古墳を最古の古墳とするべきで、古墳時代の始まりが西暦190年年末頃か191年年始頃になる。
垂仁天皇39年7月1日(西暦190年8月上旬頃)に垂仁天皇が崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、48日間の喪祭(もまつ)りをした8月16日(西暦190年9月中旬頃)の夜にお墓へ埴輪(はにわ)を立てて、12月10日(西暦191年1月上旬頃)に垂仁天皇の亡骸(なきがら)を菅原伏見(すがわらふしみ;纏向石塚古墳)に葬礼して、夜半に松明(たいまつ)で照らされて厳(おごそ)かに神霊の成仏(じょうぶつ)となった。
『完訳秀真伝』を訳すと垂仁天皇39年12月10日(西暦191年1月上旬頃)に纏向石塚古墳に垂仁天皇が葬礼されたことが分かって、僕は旧暦を正確に西暦年月日に直せないから大体の年月を当てはめているため、歴史学者が正確な西暦年月日を求める必要がある。
古墳時代の始まりは西暦190年年末頃か191年年始頃なのが不動の事実で、アインシュタイン博士以上の天才である僕以外の人間…特に考古学者と歴史学者の専門家が納得しないと考えられても、常識や理屈で説明できない古代天皇家の正史を求められる僕の直感である。

現在の考古学会は纏向石塚古墳(垂仁天皇陵)から始まる纏向古墳群を3世紀前半で、箸墓(はしはか)古墳(西暦252年葬礼の景行(けいこう)天皇陵)が3世紀中頃、3世紀後半の東日本最古の前方後円墳である杵ヶ森(きねがもり)古墳(石背国造(いわせくにみやつこ)か阿尺国造(あさかくにみやつこ)が古墳埋葬者)と神門(ごうど)3号墳と4号墳と5号墳(菊麻国造(きくまくにみやつこ)か上海上国造(かみうなかみくにみやつこ)が古墳埋葬者)と高遠山(たかとおやま)古墳とする考え方が多い。
現在の考古学会は纏向石塚古墳が2世紀末の築造年代を想定できるはずがなく、考古学的証拠にこだわってばかりで歴史書解釈に目も向けない馬鹿共に分からず、考古学会そのものが井の中の蛙(かわず)である。
纏向石塚古墳(垂仁天皇陵)と箸墓(はしはか)古墳(景行天皇陵)と杵ヶ森古墳(石背国造か阿尺国造が古墳埋葬者)と神門3号墳と4号墳と5号墳(菊麻国造か上海上国造が古墳埋葬者)は、年代も埋葬者も間違いなく正しい前方後円墳で、考古学会と歴史学会がどんなに否定しようとしても否定できない不動の事実である。
考古学会と歴史学会は僕からすれば知識をかじっただけのシロウト集団で、アインシュタイン博士以上のコペルニクス的転回を持っていて、現代人を数百年から数千年レベルで上回る僕を超える人間が存在するはずもない。
世界中の人々はいくら「記紀」などの歴史書を研究しても、西暦506年以前の古代日本史を西暦年月で特定することが不可能で、それができるのが世界でただ一人僕という奇跡の天才である。
世界最高の天才と言っても過言でない僕は、世界でただ一人古墳時代の始まりを西暦年で求められる史上最高の天才である。
自分たちがいかにちっぽけで世間知らずか知らない専門家は、世の中に史上最高最大最強の天才の僕のような人間がいても、根本的に理解できずただわめき散らすだけの子供のお遊びと知って、悔(く)い改めることが神様の前で懺悔(ざんげ)することと同様であると知るべきである。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『邪馬台国の考古学』
石野博信・著者 株式会社吉川弘文館・発行
『先代旧事本紀 訓註』
大野七三・校訂編者 批評社・発行
『日本古代地名事典』
吉田茂樹・著者 新人物往来社・発行

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