国宝と重文(重要文化財)の指定

国宝は、日本語の第1義に国の宝(たから)を指して、第2義に近代以降の日本で、文化史的・学術的価値が極めて高い物として、法令に基づいて指定された有形文化財を指して、具体的に重要文化財の中から特に価値の高い物に指定した建造物や美術工芸品などを言う。
国宝(第2義)は、日本の文化財保護法で、国が指定した有形文化財(重要文化財)のうち、世界文化の見地から価値の高い物で、類(たぐい)ない国民の宝(たから)たる物として、国(文部科学大臣)が指定した物(文化財保護法第27条第2項)で、建造物や絵画や彫刻や工芸品や書跡・典籍や古文書や考古資料および歴史資料が指定される。
法的な国宝は、重要文化財の一種で、いわゆる「人間国宝」が重要無形文化財に指定された芸能や工芸技術などの保持者に各個認定された者の通称で、僕が望む纏向(巻向;まきむく)の国宝化と異なる。
重文(重要文化財)は、日本に所在する建造物や美術工芸品や考古資料や歴史資料などの有形文化財のうち、歴史上・芸術上の価値の高い物や学術的に価値の高い物として、文化財保護法に基づいて、日本国政府(文部科学大臣)が指定した文化財を指して、国宝との違いを省略する。

宮内庁(天皇家を司(つかさど)る省庁)指定の陵墓は、宮内庁が皇祖神(こうそしん;皇室の祖先神)や天皇や皇后や皇族の墓と定めて、髪や爪や歯の塔などや陵墓の参考地なども含めて、1都2府30県で総数899ヶ所になって、6割近くが京都府にある。
天皇や皇后や皇太后などを葬礼したのは、陵(みささぎ)と呼んで、他の皇族(皇子や皇女など)を葬礼したのが墓(はか)と呼んで、天皇陵が124ヶ所あるが、古墳で正しいと考えられる宮内庁指定陵が1つもないと思う。
天皇家の歴史的遺産である奈良県桜井市の纏向(巻向;まきむく)の地は、国宝に指定すべきと僕が考えて、纏向(まきむく)遺跡の発掘調査の権利なども、国の権限で保護すべきで、天皇家の歴史的遺産だから当然で、法的に邪魔されるなら、国会でそれだけの権限を与えたり、纏向(まきむく)遺跡などの発掘が国家的一大プロジェクトと言うほどの一大作業で、大学や歴史博物館などが圧倒的な歴史的遺産と理解させたり、簡単に破壊できない日本国が守るべき財産と認識して、国内外にしっかりと周知させる必要もある。

纏向(巻向;まきむく)の読み方は、『ホツマツタエ』がマキムキ(纏向;巻向)で、僕がマキムキノヒシロノミヤを纏向日代宮(まきむくひしろのみや)と呼んで、『日本書紀』の訳本の呼び方でなく、自分で作った癖(くせ)である。

奈良県桜井市の纏向(巻向;まきむく)の地は、御神体山の三輪山(みわやま)と有力な考古学的証拠の纏向(まきむく)石塚古墳(垂仁(すいにん)天皇古墳)と纏向(まきむく)遺跡(景行(けいこう)天皇の皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)と箸墓(はしはか)古墳(景行(けいこう)天皇古墳)など、多くの意味で日本国が国家規模で、守るべき大切な財産である。
皇室(天皇家)や宮内庁や日本国政府は、日本国の名の下に纏向(巻向;まきむく)の地などを管理して、国宝や重文(重要文化財)などに指定をして、守るべき段階まで来て、疑いようのない史実・真実・事実を受け止めて、古代天皇家の歴史を風化させずに守る体制が必要で、国家規模で考えるべきと僕は思う。
纏向(まきむく)古墳群は、発掘済みのホケノ山古墳を含めて、間違いなく天皇陵や皇族陵で、垂仁(すいにん)天皇や景行(けいこう)天皇の血縁者たち陵墓と超天才の僕が証明して、今後の専門家(考古学会と歴史学会)に認識力などを変化させて、国家規模の変革が必要である。

崇神(すじん)天皇7年10月1日(西暦90年11月上旬頃)に彦坐王(ひこいますのみこ)は、正式な斎主(さいしゅ;神事をする人)になって、御神体山の三輪山(みわやま)の山頂に磐座(いわくら;石の祭壇)を作って、大物主神(おおものぬしのかみ)を祭ったと考えられて、纏向(まきむく)石塚古墳(垂仁(すいにん)天皇古墳)や纏向(まきむく)遺跡(皇居の纏向日代宮;まきむくひしろのみや)に近くて、非常に重要な神社である。
大物主神(おおものぬしのかみ)は、元々独立した日本神話の神様で、初めて祭った時に実在の人物を神格化せず、後世に初代の太陽神の宮司(神主)で、初代出雲国王の彦坐王(ひこいますのみこ)から7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)までを初代から7代目の大物主神(おおものぬしのかみ)に神格化したと考えられる。

崇神(すじん)天皇68年12月5日(西暦152年1月上旬頃)に崇神(すじん)天皇は、102才で崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、垂仁(すいにん)天皇元年10月11日(西暦152年11月中旬頃)に亡骸(なきがら)を瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)に葬礼して、5人か33人の殉死(じゅんし)者を供葬して、崇神(すじん)天皇を秋津神(あきつかみ)の神名で祭った。
『ホツマツタエ』の神武(じんむ)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)陵は、33人の殉死(じゅんし;主人の後を追って、従者を生き埋(う)めにすること)者を供葬して、孝安(こうあん)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)陵が5人の殉死(じゅんし)者を供葬して、崇神(すじん)天皇の息子の垂仁(すいにん)天皇陵が殉死(じゅんし)者を供葬せず、正しく解釈した。
崇神(すじん)天皇陵(崇神(すじん)天皇古墳)は、奈良県橿原市城殿町(しきどのちょう)の瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)で、全長が約26メートルで、2016年に発掘結果を発表して、埋葬者が見つからず、2世紀中頃から後半頃の築造年代で、天皇陵だから前方後円墳の形で、前方後円墳をネット検索して、2022年10月18日に求めて、2025年8月25日以降に僕が崇神(すじん)天皇古墳と名付けた。
崇神(すじん)天皇陵の瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)は、西暦694年に持統(じとう)天皇が作った藤原京の一画にあって、畝傍山(うねびやま)の東南東にあって、皇室の戸籍簿で、初代天皇の神武(じんむ)天皇陵が畝傍山(うねびやま)の北北東の奈良県橿原市大久保町(おおくぼちょう)にある四条ミサンザイ古墳で、神武(じんむ)天皇陵の形が円墳か八角墳で、100%前方後円墳の形でなく、初代天皇陵が畝傍山(うねびやま)の近くにあると証明した。

徳島県阿南(あなん)市の若杉山辰砂(しんしゃ)採掘遺跡は、弥生時代後期から古墳時代初頭で、西暦180年以前に水銀朱が見つかって、垂仁(すいにん)天皇29年(西暦180年)に吉備(きび)国王の温羅(うら)を殺して、その墓(はか)である岡山県倉敷市の楯築(たてつき)遺跡(2世紀後半)の埋葬施設で、水銀朱の塗料を使って、ホケノ山古墳の埋葬施設でも水銀朱の塗料を使ったと考えられる。
若杉山辰砂(しんしゃ)採掘遺跡は、火を利用して採掘したと見られる国内最古の痕跡(こんせき)で、遺跡が2世紀から3世紀頃で、西暦100年が1世紀の最後の年号で、2世紀前半に香川県を統治下に置いて、水銀朱を産出したと考えられる。
高松空港跡地(あとち)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)と徳島県阿南(あなん)市の若杉山辰砂(しんしゃ)採掘遺跡は、考古学(遺跡・遺物)も歴史学(歴史書解釈)で、2世紀中頃までに香川県と徳島県を古代天皇家の統治下に置いたと証明して、絶対に覆(くつがえ)らないと考えられる。

邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の国宝は、東大寺山(古墳出土)鉄刀と2018年9月8日に気付いて、東大寺山鉄刀の文字の「中平(ちゅうへい)?年(西暦184年から189年)五月丙午(ひのえうま)」が後漢王朝(西暦25年から220年)12代皇帝の霊帝の元号で、僕の自論が「中平(ちゅうへい)五年(西暦188年)五月丙午(ひのえうま)」と考えられるが、証明されてない。
ただ「丙午(ひのえうま)」は、干支(えと)の日付で60日周期だから、一月30日ほどだから、正しく当てはまるか調べて、「丙午」が縁起(えんぎ)の良い日付で、文字を刻んだ日でない考え方があるらしくて、これからの分析・研究に期待である。
垂仁(すいにん)天皇37年(西暦188年)の遣漢使(けんかんし;後漢王朝遣使)の使者である田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)と同一人物)は、東大寺山鉄刀が「中平(ちゅうへい)五年五月丙午(ひのえうま)」の日に銘文(めいぶん)を刻んで、霊帝から直々(じきじき)に下賜された宝物で、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の国宝の認識が非常に重要である。
奈良県天理市櫟本町(いちのもとちょう)の東大寺山古墳は、櫟本町(いちのもとちょう)から和邇町(わにちょう)にいた彦坐王(ひこいますのみこ)を始祖とした和珥(わに)氏が古墳埋葬者と考えられて、元伊勢籠(この)神社の神鏡2面との関連性なども証明した。

京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社にある日本最古の伝世鏡(でんせいきょう;埋蔵されずに神社や寺に伝わる鏡)は、元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏の祖先神である2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の神鏡2枚で、保存状態の良い海部氏が家宝とする銅鏡だが、国宝にも重文(重要文化財)にも指定してないが、遣漢使(けんかんし;後漢王朝遣使)の重要な宝物である。
元伊勢籠(この)神社の神鏡は、2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の宝物で、邊津鏡(へつかがみ)が前漢(ぜんかん)王朝時代(約2050年前)の内行花文昭明鏡で、息津鏡(おきつかがみ)が後漢(ごかん)王朝時代(約1950年前)の内行花文長宜子孫八葉鏡である。
邊津鏡(へつかがみ)と息津鏡(おきつかがみ)は、物部(もののべ)氏の祖先神の饒速日命(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)が持つ辺都鏡(へつかがみ)と瀛都鏡(おきつかがみ)とも同一鏡で、出石(いずし)神社の祭神の天日槍(あめのひぼこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)が持つ『古事記』の辺津鏡(へつかがみ)と奥津鏡(おきつかがみ)とも同一鏡である。
2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と饒速日命(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と天日槍(あめのひぼこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、3神全てが男性の古代太陽神で、彦坐王(ひこいますのみこ)が太陽神の初代の宮司(神主)だから、複数の古代太陽神に神格化して、関連性の証明を省略して、国宝に指定する意味・価値がある。

垂仁(すいにん)天皇39年7月1日(西暦190年8月上旬頃)に2代目天皇の垂仁(すいにん)天皇は、78才で崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、皇太子の景行(けいこう)天皇が喪(も)に服して、48日間の喪(も)祭り後の8月16日(西暦190年9月中旬頃)の夜に喪(も)を脱(ぬ)いで、墓(はか)に埴輪(はにわ)を立てた。
12月10日(西暦191年1月上旬頃)に亡骸(なきがら)は、纏向(まきむく)石塚古墳(垂仁(すいにん)天皇古墳)に葬礼して、夜半に松明(たいまつ)で照らされて、厳(おごそ)かに神霊が成仏(じょうぶつ)して、後に家臣が垂仁(すいにん)天皇のご霊前にとどめ置いて、6年間を生前のように御饗(みあえ)を供じて敬意を表して、景行(けいこう)天皇も家臣も父の垂仁(すいにん)天皇にきわめて、誠実に尽くして仕(つか)えた。
最古の前方後円墳の纏向(まきむく)石塚古墳(垂仁(すいにん)天皇古墳)は、父の崇神(すじん)天皇陵の最有力候補である奈良県橿原市の瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)を参考にして、前方後円墳の形を採用した可能性が高くて、考古学(遺跡・遺物)も歴史学(歴史書解釈)が合致して、100%古墳埋葬者が垂仁(すいにん)天皇と確定した。
岡山県の特殊器台土器は、纏向(まきむく)石塚古墳(垂仁(すいにん)天皇古墳)から出土した最古の土師器(はじき)が従者を生き埋めにした殉死者(じゅんししゃ)の代わりに立てた最古の埴輪(はにわ)に置き換わって、埴輪(はにわ)が土師器(はじき)の一種である。

景行(けいこう)天皇4年11月1日(西暦194年12月上旬頃)に3代目天皇の景行(けいこう)天皇は、新しい皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)の纏向(まきむく)遺跡に入って、景行(けいこう)天皇58年(西暦248年)まで皇居として使われて、仁徳天皇元年(西暦334年)まで都(みやこ)として、その後に放棄されて、考古学的に合致した。
奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡は、後世の皇居の藤原京や平城京にも勝(まさ)るとも劣(おとら)らない都市遺跡で、2世紀末の景行(けいこう)天皇4年(西暦194年)に出現して、4世紀前半の仁徳(にんとく)天皇元年(西暦334年)以降に突然に消滅した都市遺跡で、2世紀末から4世紀前半に消滅した考古学の時期と合致する。
纏向(まきむく)遺跡は、かつて1990年代に邪馬台国(大和国;やまとこく)の王都と騒がれた集落遺跡の吉野ヶ里(よしのがり)遺跡より7から8倍近い規模の大きな遺跡で、卑弥呼(ひみこ)の男弟(だんてい;異母弟)の王都で、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の重要な考古学的証拠である。
纏向(まきむく)遺跡を都市遺跡と表現する理由は、吉野ヶ里(よしのがり)遺跡のように大勢の人間が暮らす村落のようなものでなく、政治的や宗教的などの目的のために人間が暮らさず、国政執行の都市の役割を重視するためで、防御する張り巡らせた堀(ほり)の環濠(かんごう)がなく、集落遺跡と表現できないためで、考古学(遺跡・遺物)も歴史学(歴史書解釈)から、100%皇居と証明した。

景行(けいこう)天皇60年11月7日(西暦250年12月上旬頃)に3代目天皇の景行(けいこう)天皇は、崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、皇太子の日本武尊(やまとたけのみこと)が東海平定に出陣して、天皇になれる人物が不在で、皇位継承者で孫の仲哀(ちゅうあい)天皇が祖父の存命の頃のように御饗(みあえ)を神前に供(きょう)じて、48日間の喪(も)祭りを終えた。
仲哀(ちゅうあい)天皇元年11月10日(西暦252年12月上旬頃)か仲哀(ちゅうあい)天皇2年11月10日(西暦253年12月上旬頃)は、景行(けいこう)天皇の亡骸(なきがら)を倭国(やまとのくに;奈良県)の山辺道上陵(やまのべのみちうえのみささぎ)の箸墓(はしはか)古墳(景行(けいこう)天皇古墳)に葬礼した。
成務(せいむ)天皇2年11月10日は、仲哀(ちゅうあい)天皇2年11月10日(西暦253年12月上旬頃)で、成務(せいむ)天皇3年1月7日が仲哀(ちゅうあい)天皇3年1月7日(西暦254年2月上旬頃)だから、箸墓(はしはか)古墳の葬礼が仲哀(ちゅうあい)天皇元年(西暦252年)でなく、仲哀(ちゅうあい)天皇2年(西暦253年)の可能性を2024年6月15日の午前9時頃に求めた。
箸墓(はしはか)古墳(景行(けいこう)天皇古墳)は、『ホツマツタエ』と「記紀」から求めて、間違いなく正しくて、箸墓(はしはか)古墳から出土した最古の特殊器台埴輪(はにわ)が『三国志・魏志倭人伝』と『ホツマツタエ』と『日本書紀』の殉死(じゅんし)と埴輪(はにわ)などを考古学的に証明して、考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)で証明した。

超天才の僕は、3天皇陵が古墳埋葬者を100%確定して、2025年8月25日以降に4天皇陵が歴代天皇の名前で呼んだ天皇古墳を名付けて、日本最古の皇居も100%確定して、御神体山の三輪山(みわやま)を含(ふく)めた纏向(巻向;まきむく)の地も重要で、国宝や重文(重要文化財)に指定した大義名分を得て、守ることができる可能性を訴えたい。
超天才の僕や皇室や宮内庁や地元住民や日本国民などは、一緒に協力し合って、奈良県桜井市の纏向(巻向;まきむく)の地の保護に向けて動いて、僕が生きている限り望まれる限り、日本中や世界中の人々の期待に答えたい。
日本武尊(やまとたけのみこと)から神功(じんぐう)皇后までの陵墓は、他の章の記述に任(まか)せて省略するが、超天才の僕以外にまともに求められる人間が存在しない。

古墳出土品で国宝に指定された物は、東大寺山古墳の出土物以外に高松塚古墳壁画や藤ノ木古墳の金銅鞍金具など多数あって、古墳そのものを国宝に指定してないらしいが、仁徳(にんとく)天皇陵と勘違いした大仙(だいせん)古墳も、孫で9代目天皇の安康(あんこう)天皇陵(安康(あんこう)天皇古墳)と証明して、天皇陵の古墳を国宝に指定するか、審議も始まる可能性がある。
僕が特定した4人の天皇陵(天皇古墳)は、国宝に指定して、纏向(巻向;まきむく)の地を世界遺産に推薦(すいせん)するなど、宮内庁や日本国政府が僕の歴史研究の成果を評価して、古代天皇家の歴史を正しく理解して決めるべきことで、守り続けて行く覚悟が問われる。 百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群は、世界遺産に登録されて、世界最大の面積の墓(はか)で、日本最大の前方後円墳の大仙(だいせん)古墳が仁徳(にんとく)天皇陵だが、本当の倭王(わおう;古代日本王)の讃(さん)である安康(あんこう)天皇陵である。
百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群の応神(おうじん)天皇陵とする誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳や履中(りちゅう)天皇陵とする上石津(かみいしづ)ミサンザイ古墳は、古墳の全長から考えて歴代の天皇陵の可能性が高いが、いくら僕でも特定できない。

仁徳(にんとく)天皇陵は、仁徳(にんとく)天皇67年10月5日(西暦379年11月上旬頃)に大仙(だいせん)古墳の土地を定めて、10月18日(西暦379年11月中旬頃)に築造し始めて、仁徳(にんとく)天皇87年1月16日(西暦399年2月中旬頃)に仁徳(にんとく)天皇が死去して、10月7日(西暦399年11月上旬頃)に大仙(だいせん)古墳に葬礼したと考えられる。
安康(あんこう)天皇は、允恭(いんぎょう)天皇16年12月14日(西暦394年1月中旬頃)に安康(あんこう)天皇が9代目天皇に即位して、安康(あんこう)天皇34年8月9日(西暦427年9月上旬頃)に殺されて、3年後の清寧(せいねい)天皇元年(西暦430年)に安康(あんこう)天皇を葬礼して、葬礼年月日を旧暦年月日で、記さない理由が大仙(だいせん)古墳を安康(あんこう)天皇陵(安康(あんこう)天皇古墳)と確信させないためと考えられる。
安康(あんこう)天皇陵の大仙(だいせん)古墳は、 安康(あんこう)天皇16年10月5日(西暦410年11月上旬頃)に土地を定めて、 安康(あんこう)天皇16年10月18日(西暦410年11月中旬頃)に築造し始めて、確実に清寧(せいねい)天皇元年(西暦430年)に安康(あんこう)天皇を葬礼して、西暦410年に築造開始の西暦430年に築造終了が僕の予測である。
大仙(だいせん)古墳は、古墳の築造が終わってから、安康(あんこう)天皇を葬礼して、20年間の築造期間が僕の安康(あんこう)天皇の年代計算と合致する可能性が高いが、仁徳(にんとく)天皇陵の築造の終了時期を記さないため、あくまで想像にすぎない。
9代目天皇の安康(あんこう)天皇陵(安康(あんこう)天皇古墳)の大仙(だいせん)古墳は、自論の築造開始の時期が予測で 正しいか証明してないが、葬礼年が100%確実に正しくて、日本最大の古墳と前方後円墳が世界中で有名になって、後世の歴史に刻まれるのが間違いない。

奈良県明日香村(あすかむら)の八角墳の中尾山(なかおやま)古墳は、8世紀初頭の築造で、文武(もんむ)天皇陵の可能性が高いなど、専門家(考古学会と歴史学会)が頑張るが、歴代天皇陵の古墳があくまで予測にすぎなくて、超天才の僕のようにできない。
宮内庁指定陵で日向(ひうが;宮崎県)3代の神様は、間違いなく日向(ひうが)神話が作り話と僕が証明して、日向(ひうが)3代を始めとする皇祖神(こうそしん;皇室の祖先神)の宮内庁指定陵の解除が必要で、日本神話の神々の領域…神域を求めた意味で神に最も近い人間の僕だから、世界中の神話や宗教の神々にさえ影響を与えて、古代日本史への影響も測(はか)り知れない。
宮内庁指定の陵墓は、古墳の全てを一度解除して、改めるべき段階で、僕が求めた陵墓を天皇陵や皇族陵の候補として、正しく国家規模で認識して、しょせん凡人(僕以外の人間)を含(ふく)めた専門家(考古学会と歴史学会)がでしゃばらず、僕に対する負け犬の遠吠(とおべ)えがあまりに惨(みじ)めすぎる。

国宝に指定すべき遺跡・遺物は、僕が挙例したこれだけで、審議対象として政府の決めることで、皇室が世界的盟主や世界中の神や王家の血脈として注目される今、どうあるべきか大切に考えて、国宝や世界遺産や大河ドラマや朝ドラなどに推薦されて、小さな「きっかけ」から大きな動きを起こす物である。
日本国政府や日本国民や世界中の人々は、僕の小さな行動を「きっかけ」にして、どう考えて動くかが大切で、多くの遺跡や遺物を重く受け止めて、2025年9月15日の午後0時40分頃に記し終えた。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
編著者・鳥居礼 発行・八幡書店
『ホツマ辞典』
著者・池田満 発行・ホツマ刊行会
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社
インターネットの不明サイトから少々拝借

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