出雲大社の元宮(もとみや)
元宮(もとみや)は、奥宮(おくみや)や奥社(おくしゃ)や奥(おく)の院(いん)とも呼んで、神道において神社の中のある社殿に対して、他の社殿の関係を現わす名称の一つで、またはその関係にある社殿そのものを言って、昔の元々の神社を意味する。
島根県松江市大庭町(おおばちょう)の神魂(かもす)神社は、最高権力者の藤原不比等(ふじわらのふひと)の時代に出雲国(いずもこく;島根県東部)意宇郡(おうぐん)大庭(おおば)から、出雲国(いずもこく)杵築郡(きづきぐん;島根県出雲市)の出雲大社に勧請(かんじょう;本社の祭神を他所で祭るため、その神霊を分霊した物)した可能性を考えるが、全く別の神社の可能性もある。
千家(せんげ)氏の先祖の出雲広嶋(いずものひろしま)は、『出雲国風土記(いずものくにふどき)』を編纂(へんさん)した人物で、出雲国造(いずもくにみやつこ)が昔に神魂(かもす)神社に奉仕したが、それ以降の出雲国造(いずもくにみやつこ)が現在の出雲大社で奉仕したと伝えて、後に出雲国造(いずもくにみやつこ)が千家(せんげ)氏を名乗った。
出雲大社の創建年代は、3世紀末から4世紀初頭頃に国家事業で、島根県松江市大庭町に創建して、出雲果安(いずものはたやす)の時代の和銅(わどう)元年(708年)から霊亀(れいき)2年(西暦716年)までに島根県出雲市の出雲大社に遷宮したと考えられる。
神魂(かもす)神社は、出雲大社と富士山の山頂を結ぶレイライン(太陽の道)上にあって、富士山を測量した仲哀(ちゅうあい)天皇4年(西暦255年)以降に出雲大社が作られて、摂政(せっしょう)69年(西暦329年)以前の出雲大社の創建年代と合致して、出雲大社が太陽信仰の古社で、大国主神(おおくにぬしのかみ)が古代太陽神の大物主神(おおものぬしのかみ)と同一神で、昔の出雲大社の可能性が高い。
神魂(かもす)神社は、出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏が元々の本拠地とした島根県意宇郡(おうぐん;松江市と安来市(やすぎし)の一部)にあって、日本最古の神殿様式の大社造(たいしゃづくり)で、出雲大社本殿も大社造(たいしゃづくり)だから、昔の出雲大社の可能性が高くて、考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)の多くの証拠が挙(あ)げられて、正しい分析・研究が必要である。
神魂(かもす)神社の古代の祭神は、神魂命(かみむすびのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)で、神魂命(かみむすびのみこと)の神名が神社名の「かもす」に変化したと考えられて、3代目・景行(けいこう)天皇が出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏の先祖である。
出雲大社の元宮(もとみや)の三屋(みとや)神社は、島根県雲南市(うんなんし)三刀屋町(みとやちょう)にあって、神亀(じんき)3年(西暦726年)に神社名を御門屋(みとや)から三屋(みとや)に変更して、出雲大社と同じ神紋(しんもん)を持って、大国主神(おおくにぬしのかみ)がここに宮居(みやい;神様が鎮座する神社)を置いて、国土経営して、大国主神(おおくにぬしのかみ)の御門(みかど;社殿)があって、御門屋(みとや)と呼ぶと伝える。
島根県雲南市(うんなんし)三刀屋町(みとやちょう)の三屋(みとや)神社は、出雲国(いずもこく;島根県東部)の中で、大国主神(おおくにぬしのかみ)の神地(しんち;神様の鎮座する土地)と神戸(かんべ;神社に属して租、庸、調や雑役を神社に納めた民戸)が『出雲国風土記』ができた当時に置かれた場所が他に1ヶ所もなくて、神様の御門(みかど;社殿)と神戸(かんべ)を神社名とした神社が全国に一社もない。
三屋(みとや)神社は、歴史書に出雲大社の元宮(もとみや)と記して、出雲大社が昔に別の土地にあった伝承が存在して、三屋(みとや)神社に古代信仰などの考古学的証拠がなくて、物的証拠が弱くて頼(たよ)りない。
出雲大社の元宮(もとみや)の出雲大神宮は、京都府亀岡市にある丹波国(たんばこく;京都府中部)一宮(いちのみや)で、2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)を神格化)の息子の事代主神(ことしろぬしのかみ;盧濡渟(うかずくぬ)を神格化)と妻の三穂津姫(みほつひめ;誰を神格化したか不明)を祭って、元出雲と呼ばれる。
盧は「盧へん」に鳥の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
出雲大神宮の本殿の後ろにある御神体山の御蔭山(みかげやま)は、古代信仰の磐座(いわくら;神様が宿(やど)る石)があって、1500年以上前の日本神話ができた時代より昔の可能性があって、出雲大神宮が祭られた時期の参考になるが、昔の出雲大社の可能性が低い。
京都府亀岡市の出雲大神宮は、和銅(わどう)2年10月21日(西暦709年11月下旬頃)に初めて社殿ができて、島根県出雲市の出雲大社から勧請(かんじょう;本社の祭神を他所で祭るため、その神霊を分霊した物)したか、出雲大社に勧請(かんじょう)したと伝承するが、出雲大社から勧請(かんじょう)した可能性が高い。
京都市から京都府亀岡市の保津峡(ほづきょう)と保津川(ほづがわ)は、『ホツマツタエ』のミホツヒメ(誰を神格化したか不明)の神名から名付けて、3代目の景行(けいこう)天皇と物部(もののべ)氏の高田媛(たかだひめ)の長男である武虎別皇子(たけこわけのみこ)の娘を神格化して、名前が分からない物部(もののべ)氏の女性である。
2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)を神格化)は、天照神(あまてるかみ;景行(けいこう)天皇を神格化)の娘で、宗像(むなかた)三神の瀛津嶋姫(おきつしまひめ;誰を神格化したか不明)と結婚して、事代主神(ことしろぬしのかみ;盧濡渟(うかずくぬ)を神格化)が生まれて、太玉命(ふとだまのみこと;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)の妹の三穂津姫(みほつひめ;誰を神格化したか不明)と結婚した。
『ホツマツタエ』の初代・大物主神(おおものぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)は、息子の2代目・大物主神(おおものぬしのかみ;盧濡渟(うかずくぬ)を神格化)が別名を事代主神(ことしろぬしのかみ;盧濡渟(うかずくぬ)を神格化)で、超天才の僕が系図を完全に解明した。
7代目・高皇産霊尊(たかみむすびのみこと;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)の子供は、神功(じんぐう)皇后と弟(同母か異母か不明)の武渟川別(たけぬなかわわけ)と実妹の虚空津比売命(そらつひめのみこと)で、虚空津比売命(そらつひめのみこと)を神格化したのが三穂津姫(みほつひめ;誰を神格化したか不明)か分からない。
僕はこれらを2025年6月10日頃から出雲大社の歴史として修正して、6月19日にホームページを更新する。
<参考文献>
『出雲大社と千家氏の秘密』
著者・中見利夫 発行・株式会社宝島社
インターネットの不明サイトから少々拝借
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