弟橘姫(おとたちばなひめ)の正体


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

『ホツマツタエ』で景行(けいこう)天皇元年(西暦191年4月頃)に田道間守(たじまもり)は、後漢王朝遣使の使者として帰って来て、垂仁(すいにん)天皇が崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)したのを知って後追い自殺して、5月(6月頃)に田道間守の妻の花橘(はなたちばな)が弟橘姫を生んで、花橘が穂積(ほづみ)氏(物部(もののべ)氏)の忍山宿禰(おしやまのすくね)に嫁(とつ)いで、弟橘姫の義父が忍山宿禰になった。
『日本書紀』で弟橘姫は日本武尊(やまとたけのみこと)の妃で、一人息子の稚武彦王(わかたけひこのみこ)をもうけたとされるが、子供の数が正しいのが『ホツマツタエ』である。
『ホツマツタエ』で日本武尊と弟橘姫は、稚武彦王と稲入別王(いないりわけのみこ)と葦髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)と武蚕養王(たけこかいのみこ)と息長田別王(いきながたわけのみこ)と五十目彦王(いそめひこのみこ)と伊賀彦王(いがひこのみこ)の7人の息子をもうけて、この子供たちが正しい記述と考えられる。
『古事記』で成務(せいむ)天皇は、穂積氏の先祖である建忍山垂根(たけおしやまたりね)の娘の弟財郎女(おとたからのいらつめ)を妃として、和訶奴気王(わかぬけのみこ)をもうけて、成務天皇が日本武尊で、建忍山垂根が忍山宿禰で、弟財郎女が弟橘姫で、和訶奴気王が稚武彦王と同一人物で、氏族と名前の合致が偶然と考えられない。
景行天皇を祖先化した孝元(こうげん)天皇の妃の伊香色謎命(いかがしこめのみこと)は、彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)をもうけて、景行天皇の息子の日本武尊(成務天皇)を祖先化した開化(かいか)天皇の妃でもある。
伊香色謎命は物部氏の出身の女性とされて、弟橘姫が物部氏の養子になっていて、弟橘姫を祖先化したのが伊香色謎命と考えられて、景行天皇と息子の日本武尊の妃と考えて間違いない。

『ホツマツタエ』で天照神(あまてるかみ)と入れ替わる月読尊(つくよみのみこと)は、益姫持子(ますひめもちこ)と小益姫早子(こますひめはやこ)の姉妹を妃で、益姫持子との間に天穂日命(あめのほひのみこと)をもうけて、小益姫早子との間に宗像(むなかた)三神をもうけたが、「記紀」で素戔嗚尊(すさのおのみこと)の娘が宗像三神とされて、小益姫早子が素戔嗚尊と密通してたぶらかした。
景行天皇の妃の姉妹は、吉備津彦(きびつひこ)の娘の播磨稲日大郎姫(はりまいなひのおいらつめ)と伊那毘能若郎女(いなひのわかいらつめ)で、播磨稲日大郎姫が日本武尊の実母とされるが間違いで実在せず、日本武尊の実母が成務天皇の母の八坂高依姫(やさかたかよりひめ)で、これ以外に景行天皇の妃の姉妹がいない。
月読尊は景行天皇で、益姫持子が播磨稲日大郎姫で、小益姫早子が伊那毘能若郎女(弟橘姫)で、素戔嗚尊と天穂日命が日本武尊を神格化して、系図が神様と実在の人物が合致する。
景行天皇と弟橘姫は、息子の彦太忍信命と宗像三神に神格化した三姉妹の子供を最低でももうけたと考えられる。
『ホツマツタエ』で垂仁天皇を祖先化した孝霊(こうれい)天皇の息子の兄稚武彦(えわかたけひこ)は、孝霊天皇時代に吉備(きび;岡山県と広島県東部)を平定して、兄稚武彦の子孫が吉備を平定した吉備津彦とされるが、兄稚武彦と吉備津彦が同一人物で、兄稚武彦が祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化している。
小益姫早子と伊那毘能若郎女は弟橘姫で、弟橘姫の父が垂仁天皇の息子の祖別命で、弟橘姫の養父が物部氏の3代目出雲国王の野見宿禰(のみのすくね)と考えられる。
祖別命は吉備を平定した武将で、武家の古代豪族である吉備氏の始祖で、初めて古代天皇家で中国と外交した使者で、娘の弟橘姫が生まれる前に死んだと考えられる。
物部氏の養子になった弟橘姫は、息子の彦太忍信命を6代目出雲国王として、出雲王国でもそれなりの影響力があったと考えられる。

西暦251年に弟橘姫は夫の日本武尊の東国平定に同行して、東京湾で入水(じゅすい)自殺して日本武尊を助けたが、未開の地域の平定に妃を同行させたと考えられず創作である。
崇神(すじん)天皇10年に武埴安彦(たけはにやすひこ)は、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)を殺して、妃の吾田媛(あたひめ)と共謀して、国を乗っ取ろうとして夫婦共に殺されて、武埴安彦が日本武尊で、倭迹迹日百襲姫命が倭姫命(やまとひめのみこと)で、吾田媛が弟橘姫を祖先化している。
『ホツマツタエ』で素戔嗚尊は、小益姫早子と密通して、素戔嗚尊の暴挙で花子(はなこ)を死なせて、小益姫早子の怨念が八岐大蛇(やまたのおろち)になって素戔嗚尊が殺して、素戔嗚尊が日本武尊で、小益姫早子が弟橘姫で、花子が倭姫命を神格化して、弟橘姫の怨念の八岐大蛇が古代太陽神である。
『ホツマツタエ』の話は、素戔嗚尊(日本武尊)が天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命)を傷つける所と素戔嗚尊の八岐大蛇退治(伊勢神宮襲撃)に当たって、太陽神殺しの意味である。
景行天皇の崩御の後、西暦251年になって日本武尊は皇位継承権争いを起こして、太陽神の信託を伝える叔母(おば)の倭姫命を殺して、太陽神殺しの大罪をおかしながら、三種の神器をそろえて天皇に強行即位しても皇族に認められず、妃の弟橘姫と共謀して反乱をしたが、弟橘姫が殺されて形勢悪く出雲王国に亡命した。
これが『魏志倭人伝』の卑弥呼(倭姫命)の死後に立った男王(日本武尊)の顛末(てんまつ)で、日本武(やまとたけ)天皇(出雲王国)と息子の仲哀(ちゅうあい)天皇(邪馬台国)の両天皇が並び立ったもので、「記紀」が隠そうとした最大の秘史である。

日本武尊は妃の弟橘姫を思って句を詠(よ)んで、東(あずま;東国)が吾妻(あづま;我が妻の意味)とされるが、弟橘姫が戦死したのが吾田媛の死地の大坂(奈良県香芝市逢坂付近)で、日本武尊が出雲王国から大和を詠んだ句で、東(東国)の由来が別にあることになる。
弟橘姫は色々な形で出雲王国(物部氏)と深く関係して、夫の日本武尊の反乱に深く関わる重要人物で、決して僕の作った架空の物語でない。
古代天皇家の歴史の真実は、落ち着く所にたどり着くように巧妙に細工して、真実を隠し続けてきた。

<参考文献>
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『日本書紀(中)―全三巻―』
次田真幸・著者 株式会社講談社・発行
『日本の神様読み解き事典』
川口謙二・編著者 柏書房株式会社・発行
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
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