応神(おうじん)天皇の疑問点


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

応神天皇は『日本書紀』で母の神功(じんぐう)皇后が摂政(せっしょう;天皇に代わって政治代行する役職)で69年間すごして、その後で天皇になったと記して、その在位があやしいものとして伝えられている。
応神天皇は色々と疑問点が多く、最初の実在の天皇と考えられたり不明な点があって、実在したかも疑問が残る。
アインシュタイン博士以上の天才の僕にかかれば応神天皇の疑問点は、簡単にひもとけて誰もが納得できる解答を示せる。

実在の初代の崇神(すじん)天皇は西暦84年で、2代目の垂仁(すいにん)天皇が西暦152年で、3代目の景行(けいこう)天皇が西暦191年で、4代目の仲哀(ちゅうあい)天皇が西暦252年にそれぞれ即位した。
神功皇后は摂政元年(西暦261年)に摂政になって、摂政69年(西暦329年)に亡くなって、崇神天皇の即位の西暦84年から神功皇后の亡くなった西暦329年までを僕が大和時代と名付けて、全て史実だと考えられる。
大和時代は古墳時代に取って代わられた死語で、僕が再定義して判明している古代天皇家の時代に当てはめた言葉で、考古学的証拠が古代天皇家の歴史を証明している。
『日本書紀』は仲哀天皇9年12月14日(西暦261年1月中旬頃)に神功(じんぐう)皇后が皇太子の誉田別尊(ほむだわけのみこと;在位しない応神天皇)を生んだと記す。
応神天皇が在位しないのは、本当に史実なのか検証していこうと思う。

『日本書紀』は三韓征伐で朝鮮半島から戻って、神功皇后が九州の宇瀰(うみ;福岡県粕屋郡宇美町)で、誉田別尊を出産したと記すが、本当の出生地が全然違う。
誉田別尊は福岡県粕屋郡宇美町で生まれて、大分県の宇佐八幡宮の祭神とされて、全国的に八幡宮の神様とされて、日向(ひうが;古代の宮崎県)の天孫降臨神話の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと;誉田別尊を神格化)なのが九州に深く関わるからでないのか?
浦島太郎のモデルは日本神話に登場する火火出見尊(ほほでみのみこと;仁徳(にんとく)天皇を神格化)とする説があるけれど、厳密に言えば父親の瓊瓊杵尊も含んで、その親子の神様に神格化された人物こそ真の正体だろう。
僕の反論で「うみ」と名付けられた古代地名から、島根県出雲市平田の地名が『出雲国風土記』楯縫郡で「宇美・宇美社」と記されて、ここが誉田別尊の出生地でないかと考えられる。
もう一つの出生地の候補が京都府与謝郡伊根町の宇良(うら;浦島太郎を祭る神社)神社で、「うみ」に発音の近い「うら」であること、浦島太郎のモデルが誉田別尊だろうということ、出雲から船で帰って生んだなどの理由が考えられるためである。
誉田別尊の出生地は、一体どこなのか答えを求めるのに十分な史料がない。

応神天皇元年(西暦390年)から応神天皇41年(西暦430年)まで古代朝鮮国家群との外交を記す理由は、応神天皇を倭の五王の一人と勘違いさせるためで、母の神功皇后の偽った歴史を補佐する役目などもある。
しかし元々は在位しない応神天皇時代を偽装工作しても、正しい歴史を求められる僕からすると見苦しいことで、『日本書紀』の史実を汚(けが)し続けないでほしい。
神功皇后も応神天皇も『日本書紀』は、ありもしない歴史を何重にも作り上げて、歴代天皇の実在性を隠したように同じことをしている。
どんなに巧妙に隠しても、アインシュタイン博士以上の天才の僕をだますことは本当にできない。

摂政69年4月17日(西暦329年5月中旬頃)に神功皇后が亡くなって、享年(きょうねん)百歳だった。
10月15日(11月中旬頃)に神功皇后を狭城盾列陵(さきたたなみのみささぎ)に葬礼したとされるが、狭城盾列陵が佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群(4世紀後半から5世紀前半の古墳群)に含まれるから明らかな時期間違いである。
神功皇后陵は大和(おおやまと)古墳群の中にあるかも年代測定が難しくて分からず、無理矢理に決めることがうかつだと考えられる。
神功皇后が亡くなった4世紀前半頃に纏向(まきむく)遺跡と大和古墳群が放棄されたとされて、誉田別尊の息子で5代目の仁徳天皇が新しい皇居と天皇陵群を作った可能性が考えられる。
景行天皇の皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)は纏向遺跡で、景行天皇の孫娘の神功皇后が亡くなったことで放棄したのが予測である。

神功皇后が亡くなる年齢から考えられるのは、息子の誉田別尊が母より早くに死去した可能性で、その答えが日本神話の中にある。
7代目・高皇産霊尊(たかみむすびのみこと;武虎別皇子(たけこわけのみこと)を神格化)の娘の栲幡千千姫(たくはたちちひめ;神功皇后を神格化)と忍穂耳尊(おしほみみのみこと;仲哀(ちゅうあい)天皇を神格化)の息子が瓊瓊杵尊(誉田別尊を神格化)である。
『日本書紀』で瓊瓊杵尊の正式名称に天津彦根火瓊瓊杵根尊(あまつひこねほのににぎねのみこと)があって、天津彦根命(あまつひこねのみこと;武虎別皇子を神格化)の孫の瓊瓊杵尊を意味する。
火瓊瓊杵根尊(ほのににぎねのみこと)の名前は、誉田別尊が火の神様に神格化される物部(もののべ)氏の直系子孫を意味して、祖父の武虎別皇子が物部氏出身の武将である。
天照大神(あまてらすおおみかみ)の長男の忍穂耳尊が素戔嗚尊(すさのおのみこと)との誓約(うけい)で生まれて、その後に天照大神が天岩戸(あまのいわと)に隠れて、天岩戸から出てきて地上の葦原中国(あしはらなかつくに;出雲王国)に忍穂耳尊を降臨させようとした時、忍穂耳尊に子供の瓊瓊杵尊が生まれて、瓊瓊杵尊に三種の神器を渡して日向に降臨するように天照大神が命じて、これが天孫降臨神話の概要である。
仲哀天皇(忍穂耳尊に神格化)の妻の神功皇后(天照大神と栲幡千千姫(たくはたちちひめ)に神格化)は、葦原中国(出雲王国)を崩壊させて素戔嗚尊(日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)の奪った三種の神器を取り返して、生んだ皇太子の誉田別尊(瓊瓊杵尊に神格化)に三種の神器を渡して日向に行かせた。
仲哀天皇の崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)後に神功皇后は、出雲王国を崩壊させて三種の神器を取り返して、生まれたばかりの誉田別尊を日向に向かわせて、それを神話化したのが天孫降臨神話である。

京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社は、祭神の火火出見尊が海神(わたつみ)の宮に行く時、塩土老翁(しおつちのおじ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)の作った籠船(かごふね)に乗った伝承がある。
また元伊勢籠神社の別の伝承には、火火出見尊が雪の中で籠船(かご)に乗って現れたとも伝えている。
京都府与謝郡伊根町の浦島太郎と京都府宮津市の元伊勢籠神社は距離が近く、火火出見尊の父の瓊瓊杵尊(誉田別尊を神格化)が生まれた時に大臣の初代・武内宿禰の作った船に乗って、日向に向かって天孫降臨したことにつながると考えられる。
つまり日向の天孫降臨神話は、瓊瓊杵尊が京都府北部から船で向かって、宮崎県の霧島高千穂峰(きりしまたかちほみね)に降り立った神話で、神功皇后の命令で皇太子の誉田別尊に三種の神器を託して、大和に戻って来て即位させるためだったと考えられる。
しかし母の神功皇后よりも先に息子の誉田別尊が亡くなって、宮崎県が誉田別尊の亡くなった土地だと考えられる。

応神天皇陵は国内で2番目に大きい前方後円墳とするが、5世紀の築造で全く年代が合わなくて間違いで、正しいことをを分からない馬鹿が比定したのである。
誉田別尊の妃には日向の出身がいて、誉田別尊が宮崎県で亡くなった根拠になって、誉田別尊の陵墓を特定できないだろうか?
宮崎市に箸墓(はしはか)古墳(景行天皇陵)の相似形の前方後円墳である生目(いきめ)1号墳があって、3世紀後半頃から4世紀前半頃の前方後円墳と考えられて、誉田別尊陵の有力候補である。
皇太子の誉田別尊(在位しない応神天皇)は、日本神話にその面影(おもかげ)を見ることができて、「記紀」の応神天皇時代の記述があまり当てにならないと考えられる。
日本神話を正しく完全解釈できれば、誉田別尊の人生をたどることはそう難しくない。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『日本古代地名事典』
吉田茂樹・著者 新人物往来社・発行
『総図解よくわかる日本の神社』
渋谷申博・著者 新人物往来社・発行
『古代日本史への挑戦』
僕・著者 株式会社オカムラ・発行
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