歴代の武内宿禰(たけのうちのすくね)の系図


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

武内宿禰は景行(けいこう)天皇から仁徳(にんとく)天皇までの5人の天皇に仕えた3百才を超す長寿の伝説的な大臣とする。
しかし実態は正統『竹内文書』で求められて、先祖代々に渡って直系子孫に武内宿禰の名前を襲名した一族がいて、73代目の武内宿禰の竹内睦泰(たけうちむつひろ)氏が故人である。
74代目の武内宿禰は、竹内(たけうち)氏から選ばれたのか分からないが、僕自身がいつか竹内氏の人物と対談して、正統『竹内文書』の正当性を求めるかもしれない。

3百才を超す長寿の大臣は、即位年干支(そくいねんかんし)と同様に60年を引き算すれば良いだけで、もしかしたら初代・武内宿禰が百才以上の高齢かもしれない。
しかし初代・武内宿禰の息子が2代目・竹内宿禰(たけのうちのすくね)で、孫が3代目・竹内宿禰を襲名したと考えると、初代・武内宿禰が百才以上だった可能性は低くなる。
しかし僕は初代・武内宿禰が百才以上の年齢を前提として3冊目の著書を記す。初代・武内宿禰が百才以上だった根拠は、軍神の武甕槌神(たけみかづちのかみ)に神格化した功績を残した武将が初代・武内宿禰だけと考えられて、神武(じんむ)天皇(仁徳天皇を祖先化)時代に武甕雷神(たけみかづちのかみ)という別の漢字の同一神として出てくるからで、別の人物を神格化したから漢字が違う可能性もある。
また初代・武内宿禰は塩土老翁(しおつちのおじ)にも神格化したと考えられて、老翁という漢字が非常に高齢と思わせる。
正統『竹内文書』は初代・武内宿禰が百才以上か伝承する可能性がある。
今年4月6日のインターネット検索で武内宿禰は、武内大田根(たけのうちのおおたね)の別名で出て来て、『古事記』の系図で大物主大神(おおものぬしのおおかみ)の曾孫が建甕槌命(たけみかづちのみこと)で、その子が意富多多泥古(おおたたねこ)の証拠と考えられる。
武甕槌神(建甕槌命;初代・武内宿禰を神格化)の息子は大田田根子(おおたたねこ)で、武内宿禰と大田田根子の名前が合体したのが武内大田根でないかと考えられる。

初代・武内宿禰は『日本書紀』成務(せいむ)天皇3年1月7日に成務天皇と同日生まれと記されて、『ホツマツタエ』で成務天皇が景行天皇5年11月15日(西暦195年12月中旬頃)に生まれたと記されて、同年生まれがあり得ないから旧暦11月15日(12月中旬頃)生まれと考えられる。
初代・武内宿禰は景行天皇の曾孫で年齢的に考えて、景行天皇45年(西暦235年)ぐらいの生まれと考えられて、景行天皇60年(西暦250年)の東海平定で20才未満と考えられる。

武甕槌神は『日本書紀』で茨城県日立市に祭る天津甕星(あまつみかほし)を討伐して、塩土老翁が東北地方南部まで武甕槌神を道案内して、初代・武内宿禰が『日本書紀』で日高見(ひだかみ;東北地方南部のどこか)まで行ったと記して、仲哀(ちゅうあい)天皇3年(西暦254年)までに東海平定を終えて、初代・武内宿禰と武甕槌神が東北地方南部まで平定したのが共通する。
武甕槌神は出雲の国譲り神話に登場して、仲哀天皇9年(西暦260年)神無月の出雲王国の崩壊に、右大臣の初代・武内宿禰が参加した。
京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社の伝承で、塩土老翁は火火出見尊(ほほでみのみこと)が雪の中で海神(わたつみ)の宮に行く時に船を作ったと記す。
出雲王国の平定から戻った神功(じんぐう)皇后は、皇太子の誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)を出産して、京都府北部から初代・武内宿禰(塩土老翁に神格化)が雪の中で、日向(ひうが;宮崎県の古名)に誉田別尊(火火出見尊の父の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に神格化)を船で送り出した。
『ホツマツタエ』の記述で、塩土老翁は神武天皇に長髄彦(ながすねひこ)を討伐するように進言して、神武天皇が武甕雷神から神刀の布都御魂剣(ふつのみたま)を与えられた。
この『ホツマツタエ』の記述で、塩土老翁と武甕雷神が西暦330年代の仁徳天皇の東征(祖先化した神武(じんむ)東征)に登場する初代・武内宿禰の可能性を示唆する。
武甕雷神と塩土老翁の伝承は同時期で、共に初代・武内宿禰を神格化したと考えられる。

景行天皇と物部(もののべ)氏の養子になった弟橘姫(おとたちばなひめ)の間に息子の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)が生まれて、その息子の屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)が莵道彦(うじひこ)の娘の山下影姫(やましたかげひめ)との間に初代・武内宿禰が生まれた。
景行天皇60年(西暦250年)に20才以下で、中部地方から東北地方南部まで平定する武将に選ばれて、仲哀(ちゅうあい)天皇時代に右大臣になって以降ずっと大臣の地位で、西暦330年代に即位した仁徳天皇に100才頃で仕えた可能性が考えられる。
歴史上で最も活躍した武内宿禰は初代・武内宿禰で、彼がなぜ直系子孫に歴代の武内宿禰を襲名させて、歴史の表舞台に出るように仕向けたか、そして後世に古代天皇家の伝承を伝えたか謎である。
初代・武内宿禰の以降で歴史上に武内宿禰として登場したのが何代目ぐらいまでか正統『竹内文書』をひもとかないと分からず、歴代の武内宿禰の子孫である紀(き)氏や葛城(かつらぎ)氏や平群(へぐり)氏や巨勢(こせ)氏や蘇我(そが)氏が活躍したのは、歴代の武内宿禰の功績が大きいと考えられる。

『日本書紀』で西暦498年に天皇に反逆して戦死した平群真鳥(へぐりのまとり)は、8代目・武内宿禰の竹内真鳥(たけうちのまとり)に当たって、平群真鳥の息子の鮪臣(しびのおみ)も父と共に戦死して、竹内志昆(たけうちのしび)に当たって9代目・武内宿禰なのか参考文献に記されず分からない。
竹内真鳥によって失脚した竹内氏が復権したのは、『日本書紀』用明(ようめい)天皇2年7月(西暦587年8月頃)に平群臣神手(へぐりのおみのかみて)が登場した時で、平群臣神手が改名して平群臣塩手(へぐりのおみのしおて)になって、平群臣塩手が竹内真鳥の曾曾孫の竹内塩手(たけうちのしおて)で13代目・武内宿禰で、神仏戦争で物部守屋(もののべのもりや)を討伐した。
歴代の武内宿禰が国政に深く関わり続けたのは、8代目・武内宿禰か9代目・武内宿禰までと考えられる。
歴代の武内宿禰の系図である竹内氏系図を調べると、4代目・武内宿禰辺りから13代目・武内宿禰まで年代的な間違いがないと考えられて、73代目・武内宿禰の竹内睦泰氏までの系図に間違いがないと考えられる。

初代・武内宿禰の祖父・彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)は6代目・大物主神(おおものぬしのかみ)に神格化されて、『ホツマツタエ』前半22章を編纂(へんさん)して、その曾孫の2代目・武内宿禰が2代目・大田田根子に祖先化されて、『ホツマツタエ』後半18章を編纂したと考えられるが、西暦366年4月上旬頃から百済(くだら)などの朝鮮国家群と外交関係が始まって、『ホツマツタエ』40章全てを3代目・武内宿禰以降が編纂したのが真実と考えられる。
『ホツマツタエ』編纂は3代目・武内宿禰か4代目・武内宿禰以降が任されたと考えられて、歴代の武内宿禰が出雲王家(物部氏)の直系子孫でも一番の出世頭だった可能性が高く、また古代天皇家や出雲王家の伝承に詳しいと考えられる。
『ホツマツタエ』編纂の理由と歴代の武内宿禰の襲名は、何らかのつながりがあるのかもしれない。

歴代の武内宿禰とその子孫を求めて、『日本書紀』の記録が大きく間違いないと考えられる。
歴代の武内宿禰が歴史の表舞台から姿を消した後、代々に渡って武内宿禰を襲名した竹内氏は、いつか古代天皇家の歴史の史実・真実・事実をひもとかれる日が来るまで歴史を陰から支えて、僕が歴代の武内宿禰に光を当てる時がやって来た。
竹内氏の努力は決して無駄でなく、竹内睦泰氏が正統『竹内文書』を一部でも公表したのが僕の登場を予感したからかもしれない。
武内宿禰という伝説的な人物が形成された裏には、歴代の武内宿禰の努力や活躍があって作り上げられて、直系子孫が決して忘れないように古代の伝承を守り続ける必死さがあった。

<参考文献>
『日本書紀(上)(下)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『正統『竹内文書』の謎』 著者・竹内睦泰 発行・株式会社学研パブリッシング 『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『竹内文書・但馬故事記』
吾郷清彦・著者 発行・新国民社・発行
インターネット

戻る