歴代の武内宿禰(たけのうちのすくね)の系図


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

武内宿禰は景行(けいこう)天皇から仁徳(にんとく)天皇までの5人の天皇に仕えた3百歳を超す長寿の伝説的な大臣とされる。
しかしその実態は正統『竹内文書』で求められて、先祖代々に渡って直系子孫に武内宿禰の名前を襲名した一族がいて、現在だと73代目の武内宿禰の竹内睦泰(たけうちむつひろ)氏がいる。
3百歳を超す長寿の伝説的な大臣は、即位年干支(かんし)と同様に60年を引き算すれば良いだけで、もしかしたら初代・武内宿禰が百歳以上の高齢だったかもしれない。
しかし初代・武内宿禰の息子が2代目・竹内宿禰(たけのうちのすくね)で、孫が3代目・竹内宿禰を襲名したことから考えると、初代・武内宿禰が百歳以上の高齢だった可能性は低くなる。
だが僕は記述の上で初代・武内宿禰が百歳以上の高齢を前提として3冊目の著書を記している。
初代・武内宿禰が百歳以上だった根拠は、軍神の武甕槌神(たけみかづちのかみ)として神格化される功績を残した武将が初代・武内宿禰だけと考えられて、神武(じんむ)天皇(仁徳天皇を祖先化)時代に武甕雷神(たけみかづちのかみ)という同一神して出てくることにあるが、別の人物を神格化しているから漢字が違う可能性もある。
また初代・武内宿禰は塩土老翁(しおつちのおじ)にも神格化されたと考えられて、老翁という漢字が非常に高齢であることを思わせる。
正統『竹内文書』は初代・武内宿禰が百歳以上の年齢か伝承している可能性がある。

武甕槌神は『日本書紀』で茨城県日立市で星の神の天津甕星(あまつみかほし)を討伐して、塩土老翁が東北地方南部まで武甕槌神を道案内して、初代・武内宿禰が『日本書紀』で日高見(ひだかみ;東北地方南部のどこか)まで行ったとされて、仲哀(ちゅうあい)天皇3年(西暦254年)までに東海平定を終えて、初代・武内宿禰と武甕槌神が東北地方南部まで平定したので共通すると考えられる。
武甕槌神は出雲の国譲り神話に登場して、仲哀天皇9年(西暦260年)神無月の出雲王国の崩壊に、右大臣として初代・武内宿禰が参加した。
京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社の伝承で、塩土老翁は火火出見尊(ほほでみのみこと)が雪の中で海神(わたつみ)の宮に行くときに船を作ったとある。
出雲王国の平定から戻った神功(じんぐう)皇后は、皇太子の誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)を出産して、京都府北部から初代・武内宿禰(塩土老翁に神格化)が雪の中で、日向(ひうが;宮崎県)に誉田別尊(火火出見尊に神格化)を船で送り出した。
『ホツマツタエ』の記述で、塩土老翁は神武天皇に長髄彦(ながすねひこ)を討伐するように進言して、神武天皇が武甕雷神から神刀の布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)を与えられた。
この『ホツマツタエ』の記述で、塩土老翁と武甕雷神が西暦330年代の仁徳天皇の東征(祖先化した神武東征)に登場する初代・武内宿禰の可能性を示唆する。
武甕雷神と塩土老翁の伝承は同時期のものがあって、共に初代・武内宿禰を神格化したと考えられる。

景行天皇と物部(もののべ)氏の養子になった伊香色謎命(いかがしこめのみこと)の息子の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)が生まれて、その息子の屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)が莵道彦(うじひこ)の娘の影媛(かげひめ)との間に初代・武内宿禰が生まれた。
景行天皇60年(西暦250年)に20歳ほどで北陸地方から東北地方南部まで平定する武将に選ばれて、仲哀(ちゅうあい)天皇時代に右大臣になって以降ずっと大臣の地位にあって、西暦330年代に即位した仁徳天皇に100歳頃で仕えた可能性が考えられる。
歴史上で最も活躍した武内宿禰は初代・武内宿禰で、彼がなぜ直系子孫に歴代の武内宿禰を襲名させて、歴史の表舞台に出るように仕向けたか、そして後世に古代天皇家の伝承を伝えさせたか謎である。
初代・武内宿禰の以降で歴史上に武内宿禰として登場したのが何代目ぐらいまでか正統『竹内文書』をひもとかないと分からず、歴代の武内宿禰の子孫である紀(き)氏や葛城(かつらぎ)氏や平群(へぐり)氏や巨勢(こせ)氏や蘇我(そが)氏が活躍できたのは歴代の武内宿禰の功績が大きいと考えられる。

摂政(せっしょう)47年4月(西暦367年5月頃)に百済王は久(くてい)と弥州流(みつる)と莫古(まくこ)を派遣して朝貢して、その時に新羅(しらぎ)国の調(みつぎ)の使者が久と一緒に来て2国の貢物(みつぎもの)を調べると、新羅の貢物が珍しいものが多くあった。
は氏の下に一を書いた漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
百済(くだら)の貢物は少なくてしかも良くなく、久に尋ねて「百済の貢物が新羅に及ばないのはなぜか」と。
答えて言うには「私共は道に迷って新羅に入って、新羅人が私共を捕らえて牢屋に入れて、3ヶ月たって殺そうとして、久らが天に向かって呪(のろ)った。新羅人はその呪いを怖(おそ)れて殺さず、そして我々の貢物を奪って自分の国の貢物とした。新羅の賤(いや)しいものをもって我が国の貢物と入れ替えて、そして私共に『もしこのことを漏(も)らせば、還(かえ)ってきた日にお前らを殺す』と言った。それで久らは恐れてそれに従って、やっと日本に着いたのだ」と言った。
天皇は新羅の使者を責めて、天神に神意をうかがう占いをして「誰を百済に派遣して嘘か本当か調べさせようか。誰を新羅に派遣してその罪を問わせたらよいか」と言われた。
すると天神が教えて「武内宿禰に議(はか)らせて、千熊長彦(ちくまながひこ)を使者とすれば願いが叶うだろう」と言われた。
千熊長彦を新羅に派遣して、百済の献上品を汚(けが)し乱したことを責めた。
武内宿禰はおそらく4代目・竹内宿禰辺りで、摂政51年3月(西暦371年4月頃)にも武内宿禰の名前が出てくるが、4代目・竹内宿禰に当たると考えられる。
千熊長彦の出自が不明で、この時代の人物と考えて間違いないと考えられる。

仁徳(にんとく)天皇元年1月3日(西暦373年2月上旬頃)に仁徳天皇が即位して、この天皇が生まれた日にミミズクが産殿(うぶどの)に飛び込んで来て、翌朝に父の応神天皇が4代目・武内宿禰を呼んで「これは何の印だろうか」と言われた。
4代目・武内宿禰は答えて「めでたい印で、昨日に私の妻が出産する時にミソサザイ(鷦鷯)が産屋(うぶや)に飛び込んで来て、これもまた不思議なことである」と言った。
そこで応神天皇は「我が子と宿禰(すくね)の子は同日生まれで、そして両方とも印があったが、これが天のお示しであり、その鳥の名を取って、お互いに交換して子供に名付けて後の印とする」とおっしゃった。
そこでサザキの名前を取って太子に付けて大鷦鷯尊(おおさざきのみこと;仁徳天皇)になった。
ツクの名前を取って大臣(4代目・武内宿禰)の子に名付けて木菟宿禰(つくのすくね)と言って、これが平群(へぐり)氏の先祖である。
仁徳天皇は西暦330年代頃の即位でこの時代の人間でなく、木菟宿禰に当たる7代目・竹内宿禰都久(たけのうちのすくねのつく)の名前のツクが鳥のミミズクから来ている話で、竹内宿禰都久がこの時代に生まれた可能性が高い。

新羅と百済はそもそも高句麗(こうくり)の属民で朝貢したが、やがて辛卯(かのとう;西暦391年)年以降に朝貢しなくなったので、高句麗の好太王(こうたいおう)が百済と日本と新羅を破って臣民とした。
西暦391年のこの記述は高句麗19代目の好太王の功績を記した好太王碑(こうたいおうひ)に刻まれたものだが、『日本書紀』に関連する記述がなくて少し信憑性(しんぴょうせい)にとぼしいが、故意に『日本書紀』に記さなかった可能性が高い。
年代的には允恭(いんぎょう)天皇か安康(あんこう)天皇の時代だろう。
允恭天皇の国風諡号(しごう)は雄朝津間稚子宿禰尊(おあさづまわくごのすくねのみこと)で、5代目・武内宿禰の名前が若子宿禰(わかごのすくね)で允恭天皇との同一人物説があって年代的に生きた時代が重なるようだが、名前の酷似も年代の合致も偶然の産物で、正統『竹内文書』の伝承を信じるわけにはいかない。

応神(おうじん)天皇3年(西暦392年)に百済の辰斯王が天皇に失礼をして、そこで紀角宿禰(きのつののすくね)・羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね)・石川宿禰(いしかわのすくね)・木莵宿禰(つくのすくね)らを派遣して責めて、百済国が辰斯王を殺して、阿花王(あくえおう)が即位した。
『古事記』を調べると紀角宿禰と羽田矢代宿禰と石川宿禰と木莵宿禰の4人共が武内宿禰の息子とされるが、初代・武内宿禰が西暦330年代に百歳頃でその子供ならば、この年代に生きたわけがなく記述の間違いで、他の人間を派遣しているのが正しい。
初代・武内宿禰の息子が紀角宿禰だから、この人物は確実に年代が違う。
4代目・武内宿禰の息子で7代目・竹内宿禰都久(たけのうちのすくねのつく)と波多矢代(はたのやしろ)が兄弟で、平群木莵宿禰(へぐりのつくのすくね)と羽田矢代宿禰に当たって、この時代の人物の可能性が高い。
『古事記』に武内宿禰の息子として蘇我石川宿禰(そがのいしかわのすくね)が記されて、石川宿禰に当たって歴代武内宿禰の子孫から出た傍系氏族で、正統『竹内文書』に蘇我(そが)氏が記されないと考えられて、この時代の人物の可能性が高い。
蘇我氏は渡来氏族で蘇我石川宿禰の子の蘇我満智宿禰(そがのまちのすくね)が木満致(もくまんち)と同一人物として、蘇我満智宿禰の子の蘇我韓子(そがのからこ)と孫の蘇我高麗(そがのこま)が渡来系氏族の名前を受け継いだのが、単なる憶測にすぎなくて間違いで、この程度の認識力が歴史学者の現状である。
蘇我馬子(そがのうまこ)などの本拠地から2代目・竹内宿禰の子の葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の本拠地に近いと判断して、葛城(かつらぎ)氏の直系子孫と考えるのは単なる憶測にすぎず、現代日本人レベルの認識力がこの程度である。

応神(おうじん)天皇7年9月(西暦396年10月頃)に高句麗・百済・任那(みまな)・新羅などが来朝した。
武内宿禰に命じて諸々の韓人らをひきいて池を作らせて、その池を韓人池(からひとのいけ)と言う。
何代目かの武内宿禰に命じたとされるが、この時代に治水工事があったか疑問で、考古学的証拠が期待しにくい。

応神天皇9年4月(西暦398年5月頃)に4代目・武内宿禰を筑紫(九州の可能性が高い)に派遣して人民を観察させた時、4代目・武内宿禰の弟・甘美内宿禰(うましうちのすくね)が天皇に4代目・武内宿禰を除こうとして天皇に讒言(ざんげん)を申し上げて、「4代目・武内宿禰は天下を狙う野心があって、今筑紫にいてひそかに語って言って、『筑紫を割(さ)いて取り、三韓を自分に従わせたら天下を取ることができる』と言っているそうだ」と言った。
天皇は使いを派遣して4代目・武内宿禰を殺すことを命じて、4代目・武内宿禰が歎(なげ)いて、「手前は元より二心がなく、忠心(まめこころ)をもって君に仕えている。今何の科(とが)で罪なくして死ななければならないのか」と言った。
壱岐直(いきのあたい)の先祖の真根子(まねこ)という人がいて、その容貌(ようぼう)が4代目・武内宿禰によく似ていた。
武内宿禰が罪なくして空(むな)しく死ぬのを惜しんで4代目・武内宿禰に語って、「大臣は忠心をもって君にお仕えして、腹黒い心がないことが天下の人が皆知っている。ひそかに朝廷に参り、自ら罪のないことを弁明して、後に死んでも遅くないだろう。他の人も、『お前の顔形は4代目・武内宿禰に似ている』と言う。今私が大臣に代わって死んで、大臣の赤心(せきしん)を明らかにする」と言って、即座に自分に剣を当てて死んだ。
4代目・武内宿禰は大いに悲しみ、ひそかに筑紫を逃れて船で南海を回(まわ)って、紀伊(きい)の港に泊(と)まって、やっと朝廷にたどり着き、罪のないことを弁明した。
天皇は4代目・武内宿禰と甘美内宿禰を対決させて問われて、二人が互いに譲らず是非が決めがたかった。
天皇は神祇(じんぎ)に祈って、4代目・武内宿禰と甘美内宿禰に探湯(くがたち;神に祈り誓(ちか)って手を熱湯に入れて、ただれた者を邪(よこしま)とする)をさせて、磯城川(しきがわ)のほとりで探湯をして4代目・武内宿禰が勝った。
そこで大刀を取って甘美内宿禰を倒して殺そうとしたが、天皇の言葉で許されて、紀直(きのあたい)らの先祖に賜った。

甘美内宿禰は4代目・武内宿禰の弟と記されて、兄の4代目・武内宿禰の讒言を言ったことから殺されそうになったが、年代的に考えて4代目・武内宿禰から孫の6代目・武内宿禰の若子宿禰だったのかもしれない。
竹内氏に伝わる探湯という神事があり、魔法みたいな話だが決して火傷(やけど)しない方法があるらしい。

仁徳天皇87年1月(西暦399年2月頃)に仁徳天皇が崩御(天皇が亡くなること)されて、羽田矢代宿禰に娘がいて、平群木莵宿禰が高位の役職に就(つ)いている。
7代目・竹内宿禰都久と波多矢代が兄弟で、平群木莵宿禰と羽田矢代宿禰に当たって、この時代の人物の可能性が高い。
仁徳天皇の崩御は間違いで、平群木莵宿禰(7代目・竹内宿禰都久)が高位の役職にあった。

履中(りちゅう)天皇2年1月4日(西暦401年2月上旬頃)に平群木莵宿禰と蘇我満智宿禰と物部伊沸大連(もののべのいこふつのおおむらじ)と円大使主(つぶらのおおみ)らは共に国の政治にたずさわった。
は「草かんむり」に呂の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
7代目・竹内宿禰都久が平群木莵宿禰に当たって、この時に7代目・竹内宿禰都久が7代目・武内宿禰の地位を受け継いでいたか分からない。
蘇我満智宿禰はこの時代の人物と考えられる。

応神天皇16年8月(西暦405年9月頃)に平群木莵宿禰と的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)を加羅に派遣して、兵を集めて新羅の国境にせまり、新羅王がこれを恐れて逃げて、弓月の民を連れて葛城襲津彦と共に帰還した。
平群木莵宿禰に当たるのが7代目・竹内宿禰都久で、年代が正しい可能性がある。
的戸田宿禰は葛城襲津彦の息子とされるが、西暦330年代に葛城襲津彦が40歳くらいだと考えると、的戸田宿禰がこの年代に生きたとして派遣できる年齢か分からないため、的戸田宿禰が葛城襲津彦の息子かあやしい。

安康(あんこう)天皇3年11月13日(西暦456年12月中旬頃)に平群臣真鳥(へぐりのおみまとり)を大臣として、大伴連室屋(おおとものむらじむろや)と物部連目(もののべのむらじめ)を大連(おおむらじ)とした。
平群臣真鳥は8代目・武内宿禰の竹内真鳥(たけうちのまとり)に当たる。

清寧(せいねい)天皇元年1月15日(西暦480年2月中旬頃)に大伴室屋大連(おおとものむろやのおおむらじ)を大連(おおむらじ)の役に、平群真鳥大臣(へぐりのまとりのおおおみ)を大臣の役とした。
平群真鳥大臣は8代目・武内宿禰の竹内真鳥に当たる。

仁徳天皇50年3月(西暦482年4月頃)に武内宿禰が登場するが、何代目の武内宿禰に当たるか分からず考えるだけ難しいが、8代目・武内宿禰の竹内真鳥に当てはめるのが正しいだろう。

仁賢(にんけん)天皇11年8月(西暦498年9月頃)に大臣の平群真鳥臣(へぐりのまとりのおみ)がもっぱら国政をほしいままにして、日本の王になろうと欲してことごとくおごり高ぶって、全く臣下としての節度をわきまえなかった。
武烈(ぶれつ)天皇は物部麁鹿火大連(もののべのあらかいのおおむらじ)の娘の影媛(かげひめ)をめとろうと思われて、仲人(なこうど)を命じて影媛の家におもむかせて、双方行き会う約束をされた。
影媛は以前に真鳥大臣(まとりのおおおみ)の子の鮪(しび)に犯(おか)されていて、武烈(ぶれつ)天皇の期待にそむくことを恐れて返事申し上げて、「私は海柘榴市(つばきち;三輪(みわ)山麓に開かれた古代の市(いち)のこと)の辻でお待ちいたします」と伝えた。
そこで武烈天皇は約束した場所へ行こうとして、近習の者を遣(つか)わして平群大臣(へぐりのおおおみ)の家に行かせて、武烈天皇の命として官馬を出すように求めた。
大臣(おおおみ)はふざけて偽りを申し上げて言うのに、「官馬は誰のための物でもない。あなたのお心のままにお使い下さい」と言ったが、一向に差し上げなかった。
武烈天皇は心中で変に思われたが、こらえて顔色に出されなかった。
約束通りの所へ行って、歌垣の人の中にまじって、影媛の衣の袖(そで)を捕らえて、立ち止まったり歩いたりしながら、そっと誘(さそ)いかけた。
しばらくすると鮪臣(しびのおみ)がやって来て、武烈天皇と影媛に間を押しのけて中に入った。
そこで武烈天皇は影媛の袖を放(はな)して、向きを変えて前に回って、鮪と面と向き合われて歌って言われた。
潮瀬(しおせ)の 波折(なお)りを見(み)れば 遊(あそ)び来(く)る 鮪(しび)が鰭(は)た手(て)に 妻立(つまた)てり見(み)ゆ
(潮の流れている早瀬の波の折り重なりを見ると、泳いでくる鮪臣のそばに、私の女が立っているのが見える)
鮪が返歌して、
臣(おみ)の子(こ)の 八重(やえ)の韓垣(からかき) 許(ゆる)せとや皇子(みこ)
(臣(平群真鳥臣)の子(鮪臣)の幾重にも囲(かこ)った立派な垣の中に、自由に入らせよと武烈天皇はおっしゃるのですか)
武烈天皇が歌って言われる。
大太刀(おおたち)を 垂(た)れ佩(は)き立(た)ちて 抜(ぬ)か不(ず)共(とも) 末果(すえは)たしても 遇(あ)はむとぞ思(おも)ふ
(私は大きな太刀を腰に垂らして立っているが、今それを抜かなくても、いつか思い通り影媛と会おうと思う)
鮪臣の返し歌。
大君(おおきみ)の 八重(やえ)の組(く)み垣(かき) 編結(かか)め共(とも) 汝(な)を編(あ)ましびむ 組結不(かかぬ)くみ垣(かき)
(武烈天皇は立派な組み垣を編(あ)んで、影媛を捕られないようにしたいだろうが、あなたに編めないだろうから、立派な組み垣ができない)
武烈天皇は歌って、
臣(おみ)の子(こ)の 八重(やえ)の柴垣(しばがき) 下響(したと)よみ 地震(ない)が震(よ)り来(こ)ば 破(や)れむ柴垣(しばがき)
(鮪臣の編み目の多い立派な柴垣。それは見かけが立派だが、地下が鳴動して地震が襲えば、すぐに壊れるような柴垣だ)
武烈天皇はまた影媛に歌を送って、
琴頭(ことかみ)に 来居(きい)る影媛(かげひめ) 玉(たま)ならば 我(あ)が欲(ほ)る玉(たま)の 鮪真珠(あわびしらたま)
(琴の音に引かれて、琴のそばに神が影になって寄って来るという影媛は、もし玉にたとえるならば、私の最も欲しいと思うアワビの真珠のようだ)
鮪臣が影媛のために返し歌をして、
大君(おおきみ)の 御帯(みおび)の倭文絵(しつはた) 結(むす)び垂(た)れ 誰(たれ)やしも人(ひと)も 相思(あいおも)は莫(な)くに
(武烈天皇の御帯の倭文織(しずおり)の布を垂れる―そのタレという言葉のように、タレか別の人に私が思いをかけることはないのに。;鮪臣だけを思っているという意味)
武烈天皇は初めて鮪がすでに影媛と通じていたことを知って、事々に無礼な父子の有り様を知られて、武烈天皇が真っ赤になって大いに怒られた。
その夜に早速大伴金村連(おおとものかなむらのむらじ)の家に行かれて、兵を集めて計画して大伴連(おおとものむらじ)が数戦の兵をひきいて、逃げ道をふさいで鮪臣が奈良山(奈良盆地の北にある丘陵)で殺された。
この時に影媛は殺された所に追って行って、その殺されるまでを見て、驚き恐れて気を失って、悲しく涙が目にあふれて、そして歌を作った。
石(いそ)の上(かみ) 布留(ふる)を過(す)ぎて 薦枕(こもまくら) 高橋過(たかはしす)ぎて 物多(ものさ)はに 大宅過(おおやけす)ぎ 春日(はるひ)の 春日(かすが)を過(す)ぎ 妻籠(つまこも)る 小佐保(おさほ)を過(す)ぎ 玉笥(たまけ)には 飯(いい)さえ盛(も)り 玉(たまも)ひに 水(みず)さえ盛(も)り 泣き沾(そ)ほち行(ゆ)くも 影媛憐(かげひめあわ)れ
は怨の心が皿に変わった漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
(石上(いそのかみ)の布留を過ぎて、高橋を過ぎて、大宅を過ぎて、春日を過ぎて、小佐保を過ぎて、死者に供(そな)える美しい食器には飯まで盛り、美しい椀(わん)に水まで盛って、泣きぬれて行くよ。影媛は、ああ)
こうして影媛は埋葬も終わって、家に帰ろうとするに当たって、むせび泣きして言った。「つらい事だなあ、今日我が愛する夫を失った」と。さめざめと涙を流して、重い心を歌った。
青丹好(あおによ)し 奈良(なら)の谷間(はさま)に 鹿如物(ししじもの) 水就(みづ)く辺隠(へこも)り 水注(みなそそ)ぐ 鮪(しび)の稚子(わくこ)を 求食(あさ)りつ勿猪子(ないのこ)
(奈良山の谷間に、鹿が水びたしになるように死んで、水をあびている鮪の若子をあさり出すようなことはするなよ。猪よ。;猪は武烈天皇の兵を指して、鮪臣の骸(むくろ)を掘り出さないで欲しいという意味)

11月11日(西暦498年12月中旬頃)に大伴金村連が武烈天皇に申し上げて、「真鳥(まとり)の奴を討ちなさい。おっしゃれば討伐します」と言い、武烈天皇は、「天下争乱の恐れがある世にすぐれた人物でなければ治めることができない。よくこれを安らかにできるのはお前だろう」と言われて、そこで一緒に相談した。
そして大伴連が兵をひきいて自ら将となって、大臣(おおおみ)の家を囲んで火をかけて焼き払って、人々が指揮に雲のようになびき従った。
真鳥大臣は自分の計画の失敗を知って、逃れがたいことを悟って計画が挫折(ざせつ)して望みがついえた。広い海の潮を指さして呪いをかけてついに殺されて、科(とが)がその一族に及んだ。
呪う時にただ敦賀(つるが)の海の潮だけを忘れて呪いをかけずそのため敦賀の海から取れる塩は、天皇の御食用に使われたが、他の海の塩が天皇の忌(い)まれる所となった。
12月(西暦499年1月頃)に大伴金村連は賊を平定し終わって、政治を武烈天皇にお返しして、大伴金村連を大連(おおむらじ)とした。

平群真鳥臣は8代目・武内宿禰の竹内真鳥に当たって、その息子の竹内志昆(たけうちのしび)が鮪臣に当たるが、竹内志昆が9代目・武内宿禰に当たるか参考文献に記されず分からない。
竹内真鳥によって失脚した竹内(たけうち)氏が復権したのは、『日本書紀』用明(ようめい)天皇2年7月(西暦587年8月頃)に平群臣神手(へぐりのおみのかみて)が登場した時で、平群臣神手が改名して平群臣塩手(へぐりのおみのしおて)になって、平群臣塩手が竹内真鳥の曾曾孫の竹内塩手(たけうちのしおて)で13代目・武内宿禰とされて、物部守屋(もののべのもりや)を討伐した。
歴代の武内宿禰が国政に深く関わり続けたのが8代目・武内宿禰か9代目・武内宿禰までと考えられる。
歴代の武内宿禰の系図である竹内氏系図を調べると、4代目・武内宿禰辺りから13代目・武内宿禰まで年代的な間違いがないと考えられて、現在の73代目である武内宿禰の竹内睦泰氏までの系図に間違いがないと考えられる。

初代・武内宿禰の祖父・彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)は6代目・大物主神(おおものぬしのかみ)に神格化されて、『ホツマツタエ』前半22章を編纂(へんさん)して、その曾孫の2代目・武内宿禰が2代目・大田田根子(おおたたねこ)に祖先化されて、『ホツマツタエ』後半18章を編纂したとされるが、僕が内容の解釈をした結果として『ホツマツタエ』40章全てを2代目・武内宿禰が編纂したと考えられる。
『ホツマツタエ』編纂は3代目・武内宿禰か4代目・武内宿禰が任されたと考えられて、古代朝鮮国家と外交を再開した西暦366年以降に編纂されたと考えられるためで、出雲王家(物部氏)の直系子孫でも一番の出世頭だった可能性が高く、また古代天皇家や出雲王家の伝承に詳しかったと考えられる。
『ホツマツタエ』編纂の理由と歴代の武内宿禰の襲名には何らかのつながりがあるのかもしれない。

歴代の武内宿禰とその子孫を求めてみて、『日本書紀』の記録が大きく間違いないと考えられる。
歴代の武内宿禰が歴史の表舞台から姿を消した後に代々に渡って武内宿禰を襲名した竹内氏は、いつか古代天皇家の歴史の史実・真実・事実をひもとかれる日が来るまで歴史を陰から支えて、僕が歴代の武内宿禰に光を当てる時がやって来た。
竹内氏の努力は決して無駄でなく、竹内睦泰氏が正統『竹内文書』を一部でも公表したのが僕の登場を予感したからかもしれない。
武内宿禰という伝説的な人物が形成された裏には、歴代の武内宿禰の努力や活躍があって作り上げられて、直系子孫が決して忘れないように古代の伝承を守り続ける必死さがあった。

<参考文献>
『元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図』
海部光彦・編著者 元伊勢籠神社社務所・発行
『推理◎邪馬台国と日本神話の謎 古代物部氏と『先代旧事本紀』の謎』
安本美典・著者 発行・勉誠出版梶E発行
『日本書紀(上)(下)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『正統『竹内文書』の謎』 著者・竹内睦泰 発行・株式会社学研パブリッシング 『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『竹内文書・但馬故事記』
吾郷清彦・著者 発行・新国民社・発行
インターネット

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