成務(せいむ)天皇の疑問点


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

実在した初代の崇神(すじん)天皇は疑問点が多くて、実在した2代目の垂仁(すいにん)天皇と3代目の景行(けいこう)天皇の疑問点が少なくて、架空の天皇の成務天皇も疑問点が多く存在する。
成務天皇は在位期間が60年間なのに記述が即位から数年間しか目立たず、在位したか自体が疑問点となるが、そこに立ちふさがるのが謎の皇子の日本武尊(やまとたけのみこと)である。
僕の自論の成務天皇と日本武尊の同一人物説は、架空の推論か事実か正しく見極めるために説明していく。

景行天皇2年12月15日(西暦193年1月中旬頃)に皇后の播磨稲日大郎姫(はりまのいなひおいらつめ)が双子を生んで、兄が大碓命(おおうすのみこと)で、弟を小碓尊(おうすのみこと)で、後の日本武尊だがこの母子関係自体が創作である。
景行天皇5年11月15日(西暦195年12月中旬頃)に皇后の八坂高依媛(やさかたかよりひめ)が成務天皇を生んで、諱(いみな)を高義(たかよし)で名を莵道仁(うちひと)で、幼名を武内麿(たけうちまろ)と記されて、その後に皇后の八坂高依媛が10人以上の皇子と皇女を生んで、景行天皇の寵愛(ちょうあい)を深く受けた証である。
諱は「忌み名」とも「真名(まな)」とも呼ばれて、本当なら本名を口にすることをはばかれて、古代に貴人や死者を本名で呼ぶことを避ける風習があって、諱が人の本名を指すようになってから、諱に対して普通に人を呼ぶ時に使う名前を字(あざな)と言う。
幼名の武内麿がもっと後に生まれる初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)の名前を「たけうちのすくね」とも言う)と重なり、そう呼んだのが本当に正しいかあやしい。
八坂高依媛が成務天皇を生んだのが莵道麿(うぢまろ)の館で、屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)がいたと記すが、屋主忍男武雄心命が景行天皇の孫なのであり得ず、屋主忍男武雄心命の息子が初代・武内宿禰で、八坂高依媛が紀伊国(古代の和歌山県)を訪れて成務天皇を出産したのも嘘だろう。
八坂高依媛は莵道麿の館で出産したのが嘘で、八坂高依媛が紀伊国で成務天皇を生んだのも嘘と考えられる。
日本武尊の母親は景行天皇の唯一の皇后である八坂高依媛で、日本武尊の生年月日が景行天皇5年11月15日(西暦195年12月中旬頃)で、「記紀」を正しく完全解釈できる僕にしか求められない。

成務天皇は『日本書紀』に稚足彦尊(わかたりひこのみこと)と記されて、日本武尊が別名を小碓尊とも記されて、同天皇時代に2人の皇子に「尊(みこと)」が使われた例外がなく、「命(みこと)」より「尊」の方が高位であって、人名が国政執行した人物だけに限られると考えられる。
景行天皇が足彦(たりひこ)で息子の日本武尊が稚足彦(わかたりひこ)で孫の仲哀天皇が足仲彦(たりなかひこ)で、祖父と子と孫までの3世代で足(たり)の字が使われて「足(たり)」王朝と呼ぶ学者もいるが、全ての人物は景行天皇と成務天皇と仲哀天皇が親子関係にないと考えて、「足」王朝が成立しないと思い込む。
成務天皇と日本武尊は同一人物ならば、祖父と子と孫までの「足」王朝が成立して、歴代天皇の国風諡号(しごう)に共通性がある場合が証明される。
『日本書紀』の人名に「尊」が使われることは、歴代天皇の皇子・皇女時代以外に日本武尊がいるが、他に神功(じんぐう)皇后の気長足姫尊(おきながたりひめのみこと)と飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)の忍海飯豊青尊(おしぬみいいとよあおのみこと)が記されて、神功皇后も飯豊青皇女も国政執行している。
日本武尊が国政執行したことは、日本武尊が皇族に認められない太陽神殺しの天皇として大罪をおかして、皇太子の日本武尊が仮にも天皇になって、形だけでも残すために架空の天皇の成務天皇をでっちあげたと考えられる。
日本武尊が天皇として強行即位したことは、古代天皇家最大の禁忌として隠された史実で、成務天皇と日本武尊の史実を塗り替えることで隠したが、アインシュタイン博士以上の天才の僕に嘘が通じなかった。

『古事記』に成務天皇の妃は、穂積(ほづみ)氏の建忍山垂根(たけおしやまたりね)の娘・弟財郎女(おとたからのいらつめ)で、息子の和訶奴気王(わかぬけのみこ)を生んだと記す。
『日本書紀』に日本武尊の妃は、穂積氏の忍山宿禰(おしやまのすくね)の娘・弟橘姫(おとたちばなひめ;伊香色謎命(いかがしこめのみこと)を子孫化)で、息子の稚武彦王(わかたけひこのみこ)を生んだと記されて、『ホツマツタエ』に弟橘姫の実父が田道間守(たじまもり)で押山(おしやま)が義理の父親に当たると記す。
総合すると弟橘姫の実父が田道間守(祖別命(みおやわけのみこと)と同一人物)で義理の父親が野見宿禰(のみのすくね)と考えられて、建忍山垂根と忍山宿禰が共通の穂積氏の出身で、日本武尊を架空の人物としたのが成務天皇なら、弟橘姫を架空の人物としたのが弟財郎女で、稚武彦王を架空の人物としたのが和訶奴気王になって、要するに実在の人物と架空の人物が同一人物になる。
成務天皇の妃と日本武尊の妃らが共通する名前で、成務天皇と日本武尊を同一人物とする有力な根拠である。

日本武尊は『ホツマツタエ』や「記紀」などで特別待遇の皇子で、『常陸国風土記』で「倭武(やまとたけ)天皇」と記されて、『阿波国風土記』で「倭健天皇命(やまとたけのすめらみこと)」と記されて、天皇になることなく不遇の死を遂げた人物が他書で天皇と記すのが明らかにおかしい。
日本武尊が天皇と記すのは明確な根拠があるからで、成務天皇と同一人物なら全て説明ができる。
成務天皇は在位期間が60年でありながら、在位10年足らずの記述しか目立たず、むしろ在位しなかったと考えるのが自然で、日本武尊と同一人物だとすれば架空の天皇としても説明しやすい。

成務天皇陵は狭城楯列陵(さきたたなみのみささぎ)と記されて、佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群の前方後円墳に比定するが、成務天皇が在位しないから成務天皇陵が存在するはずがない。
日本武尊陵は奈良県か島根県のどちらにあるか分からず、日本武尊が亡くなったのが出雲王国の崩壊での戦死で、白鳥陵(しらとりのみささぎ)に比定されるのが全て間違いである。
成務天皇は実在性が日本武尊との二重性で混乱させて、架空の天皇と実在の謎の皇子を作り上げて、真実を隠そうと躍起になっていたが、いつか誰かがひもとくことを願ってあちこちに証拠を残した。
それを成し遂げたのは僕で、専門家をはるかにしのぐ僕の超頭脳だけが答えを導き出して、この史実をひもとけたのである。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『古代日本史への挑戦』
僕・著者 株式会社オカムラ・発行
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