「記紀」に頼りすぎ


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

『日本書紀』は歴代天皇の時代が西暦年で記録しているが、西暦506年以前が本当に歴代天皇が実在したか分からず、西暦506年以前を参考にしない学者もいる。
『古事記』は歴代天皇の時代が西暦年で記録されず、『日本書紀』の一書によるとのように反(そ)れることもなく、一直線に読めて参考にしやすいと重宝(ちょうほう)する。
どうであるにしても「記紀」は、古代日本史を特定する上で一番重要な歴史書とされて、多くの日本人に大切な歴史書と理解されている。
しかし凡人にはなじみのない難しい本で、現代語訳本を購入するのが歴史好きだったりして、大衆の娯楽本のように重視されない。
それでも僕は邪馬台国論争と倭の五王に革命を起こす人間として、学校教育で「記紀」と僕の歴史研究の結果が重視されて、根本的な考え方が360度の転換を迫(せま)られることが簡単に想像できる。
僕の歴史研究が受け入れられるのはいつか分からないが、「記紀」を完全解釈できる世界でただ一人の人間として、僕が古代日本史の権威になるのが当然の真実である。

今の考古学会と歴史学会は、「記紀」に頼りすぎて他の歴史書を付属物のように考える者もいるだろうが、古史古伝(「記紀」に反する書物)や『風土記(ふどき)』など重要なものも多い。
「記紀」に頼りすぎる連中は、古史古伝を馬鹿にして過去の人間が「記紀」に反する烙印(らくいん)を押しただけで、歴史書として価値がないという思い込みにすぎない。
思い込みは固定観念や先入観で、人間の本能的な考え方であっても、それを排除していける僕のような人間の方がはるかに優秀である。
「記紀」の真実を知らない人間は、神武(じんむ)天皇の東征や欠史(けっし)八代が実在した架空の説、実在しない倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)が卑弥呼と考えたり、神功(じんぐう)皇后を卑弥呼としたり、三韓征伐が史実と思い込んだり滅茶苦茶である。
単なる想像で有りもしない史実をでっちあげて、狗奴国(くぬこく)が邪馬台国を滅ぼしたとか、狗奴国が卑弥呼を殺したとか、邪馬台国が東征して大和朝廷になったとか、数えられないほどたくさん想像で語りすぎて、全て論理的根拠から僕は一蹴できる。
倭の五王は応神(おうじん)天皇から雄略(ゆうりゃく)天皇の7人の中にいて、稲荷山鉄剣の「加多支鹵(わくかたしる)大王」が雄略天皇の国風諡号(しごう)の幼武(わかたける)に当てはめて日本語読みで、古代中国語読みの倭王「武」と比定して、間違っていて当然である。
は「獣へん」に「草かんむり」がなくて隻の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
しょせん『後漢書』や『魏志倭人伝』や『宋書』を正しく現代語訳できない日本人は、馬鹿な有りもしない想像で語るだけの大馬鹿者で、日中の歴史書も完全解釈できないくせに、理想だけを高く持って自分たち(専門家)を信じろと訴える。
考古学会も歴史学会も専門家自身が間違いで、それを認められない大馬鹿なのは僕の自論が証明していて、北九州4ヶ国(北九州の属国)の定説を否定した僕の自論が受け入れられなくて、学会自体が凝(こ)り固まった馬鹿な考えに取り付かれているためである。
「記紀」に頼りすぎることが馬鹿なのは、「記紀」や中国の歴史書など日中の代表的な史書ばかり見て、大局的・多角的な視野を持てない未熟者に言いたいことである。

「記紀」を完全解釈できる世界でただ一人の僕は、偽装工作の即位年干支法や系図の神格化・祖先化・子孫化や年代・内容の改変・変更、神名と人名の末名「尊(みこと)」と「命(みこと)」の違いなどの基本を理解せず、ただひたすら解釈する現代日本人に真実など味方しない。
即位年干支法は『日本書紀』の歴代天皇全員の即位年などに干支(えと)が記されて西暦年と対比できて、西暦506年以前の空白年代だろうと歴代天皇の在位期間をはじき出せれば、後の時代を埋めていくことなど朝飯前である。
系図の神格化・祖先化・子孫化は、神格化と祖先化の例がこのホームページに記した色々な系図で、子孫化がややこしくなるので省(はぶ)くが、ここまで求めたのに史実・真実・事実と認めない馬鹿共にも困らされる。
年代・内容の改変・変更は、「記紀」の様々な年代で当たり前にほどこして、歴代天皇時代の記述と考えられるようにうまくごまかすが、アインシュタイン博士以上の天才の僕が論理的根拠から嫌と言うほど、このホームページでひもといている。
神名と人名の末名「尊(みこと)」と「命(みこと)」の違いは『日本書紀』で、神名なら尊を歴代の天皇と皇后と重要人物を神格化した場合にしか記さず、人名なら尊を歴代天皇の皇子・皇女時代と政治を行なった天皇以外の人物に使っている。
この程度の論理的根拠は僕にとって当たり前の常識でも、現代日本人からするとコペルニクス的転回(非常識な考え方の集合体)に当たるほど画期的な考え方のようで、僕と凡人の頭脳差を露呈(ろてい)させる具体例になってしまった。
僕は「記紀」や日中の代表的な歴史書だけでなく、端役の歴史書や古史古伝などの注目されない史書にも目を通して、現代に現れた神のごとき救世主であって、現代人と段違いの超頭脳の持ち主として覚醒している。
僕という超天才の一大理論は、いつになったら日の目を見て世界中に革命をもたらして、人類史上に名を残す英雄になれるのだろうか?

<参考文献>
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行

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