仁徳(にんとく)天皇の東征(とうせい)と即位


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

西暦330年代の仁徳(にんとく)天皇の東征は、祖先化した神武(じんむ)天皇の東征の物語で、それを詳しく紹介する。
神武天(じんむ)皇は、実在しない作られた天皇で、実在の初代の崇神(すじん)天皇と5代目の仁徳(にんとく)天皇を祖先化して、凡人(僕以外の人間)に求められるはずもなく、世界でただ一人の僕だけが完全解釈できる。
仁徳(にんとく)天皇の東征は、海幸彦(うみさちひこ)と山幸彦(やまさちひこ)の神話に神話化するが、ここでは省(はぶ)いて進める。

摂政(せっしょう)3年1月3日(西暦263年2月上旬頃)に実兄の誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)でなく、弟の2才弱の誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)を立太子(りったいし;皇太子になること)して、三種の神器で2種類の八重垣剣(やえがきのつるぎ)と1種類の草薙剣(くさなぎのつるぎ)を入れ替えて、2種類の八咫鏡(やたのかがみ)の片方と1種類の八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)と草薙剣を持たせて、誉田別尊(ほむだわけのみこと)と共に日向(ひうが;宮崎県)に行かせた。
摂政(せっしょう)69年4月17日(西暦329年5月中旬頃)に神功(じんぐう)皇后が亡くなって、実年齢が99才で、10月15日(11月中旬頃)に神功(じんぐう)皇后を葬礼した。
誉田別尊(ほむだわけのみこと)は、仲姫(なかひめ)との間に仁徳天皇をもうけて、宮主宅媛(みやぬしやかひめ)との間に菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)をもうけて、高城入姫(たかぎいりひめ)との間に大山守皇子(おおやまもりのみこ)をもうけた。
応神(おうじん)天皇40年1月24日(西暦309年2月下旬頃;摂政(せっしょう)49年)に父の誉田別尊(ほむだわけのみこと)は、皇位継承権を持つ息子3人を選んで、菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)が太子(皇太子と記さない)で、仁徳(にんとく)天皇が菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)の補佐として国事を見せて、大山守皇子(おおやまもりのみこ)が山川林野を司(つかさど)る役目とした。
誉田別尊(ほむだわけのみこと)は、母の神功(じんぐう)皇后が摂政(せっしょう;天皇の代わりの政治を行う役職)の在位中の応神(おうじん)天皇41年2月15日(西暦年310年3月中旬頃;摂政(せっしょう)50年)に宮崎県で、49才で亡くなって、宮崎市の生目(いきめ)1号墳が誉田別尊(ほむだわけのみこと)陵の有力候補と考えられる。

『ホツマツタエ』の神武(じんむ)東征は、記述を省略して簡単に記していく。
仁徳(にんとく)天皇の異母兄弟の菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)は、神武(じんむ)天皇の実兄の五瀬命(いつせのみこと)に祖先化して、仁徳(にんとく)天皇を神武(じんむ)天皇に祖先化して、大山守皇子(おおやまもりのみこ)を長髄彦(ながすねひこ)に祖先化したと考えられる。
長髄彦(ながすねひこ;大山守皇子(おおやまもりのみこ)を祖先化)は、天種子(あまのたねこ;藤原氏の先祖)が神武(じんむ)天皇(仁徳天皇を祖先化)のお供(とも)として旅立って留守の隙(すき)に、三笠社(みかさやしろ)に納(おさ)めておいた『世嗣文(よつぎふみ)』(三種の神器と考えられる)を盗み写して、これをはじめとして長髄彦(ながすねひこ)が神武(じんむ)天皇のいないことを良いことに、我がまま放題に政治をして、世を騒(さわ)がせた。
多賀宮(たかのみや;伊勢神宮外宮の別宮)の統治者の五瀬命(菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)を祖先化)は、この騒動に驚いて、神武(じんむ)天皇(仁徳(にんとく)天皇を祖先化)の後を追って、近畿地方から九州に降りて、神武(じんむ)天皇と共に九州を統治した。
ある時に塩土翁(しおづちのおじ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)は、神武(じんむ)天皇(仁徳(にんとく)天皇を祖先化)に、「飛鳥(あすか)の宮の饒速日命(にぎはやひのみこと;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)が配下の長髄彦(ながすねひこ;大山守皇子(おおやまもりのみこ)を祖先化)を従えて、宮中にそむいている。大和の国へ出向かれて平定されるのがよろしいでしょう」と進言されて、すると諸臣も神武(じんむ)天皇も、「もっともである」と口をそろえて言った。
塩土翁(しおづちのおじ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)は、また「先に長髄彦(ながすねひこ;大山守皇子(おおやまもりのみこ)を祖先化)が『世嗣文(よつぎふみ)』(三種の神器と考えられる)を盗み写したことへの制裁も加えないといけない。神武(じんむ)天皇(仁徳(にんとく)天皇を祖先化)はすみやかに行かれた方が良いでしょう」と言った。

祖母の神功(じんぐう)皇后は死去して、大臣の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)の要請で、奈良県で反乱した異母兄弟の大山守皇子(おおやまもりのみこ)が三種の神器を盗み出して、騒動に気付いた皇太子の菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)が近畿地方から逃げて、宮崎県にいた異母兄弟の仁徳(にんとく)天皇に助けを求めて、共に奈良県に向かって、異母兄弟の大山守皇子(おおやまもりのみこ)を討伐する古代天皇家の4度目の皇位継承権争いが起こった。
忠臣の大老の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)は、皇位継承者の3人の内乱に干渉(かんしょう)できず、ただ奈良県で新天皇の即位を見守るしかなく、皇位継承権争いを早く終わらせてほしいと願って、裏で色々と画策したと考えられる。

神武天皇(仁徳天皇を祖先化)の軍を乗せた船が速水戸(はやすいど;愛媛県佐田岬と大分県佐賀関に挟まれた豊予海峡)に至ると、海人(あま)が乗る一艘(いっそう)の小船が近づいてきて、天日別(あまひわけ)がその船人に尋ねると、「私は国神(くにつかみ)の珍彦(うづひこ)です。海にて釣りをしていますと、神武(じんむ)天皇の船がこちらに見えることを聞き、お迎えに参った次第です」と答えた。
その後に神武天皇(仁徳天皇を祖先化)の軍は、筑紫(つくし;九州)のヲシ門(と;岡水門とすれば、福岡県の遠賀川河口付近)に寄って、次いで安芸(あき)の国(広島県西部)のチノ宮に立ち寄り、次に吉備(きび;岡山県と広島県東部)の高島宮(たかしまのみや;広島県広島市高島)に至り、そこで3年間政治をして、この間に政治が整って船が高島宮を出発して東に向かった。

天日別は度会(わたらい)氏の先祖で、珍彦が別名を椎根津彦(しいねつひこ)で、海部(あまべ)氏の先祖で、明国彦命(あけくにひこのみこと)か難波根子健振熊命(なにわねこたけふるくまのみこと)辺りの人物と考えられる。
神武東征は、船旅や陸路で各地に敵味方が幾らも存在して、敵だらけで味方が存在しないのが正しいはずで、神武天皇が仁徳天皇を祖先化して、仁徳天皇時代に九州全土から東北地方南部までの土地が全て統治下にあって、敵も味方もそこら中に存在するからである。
仁徳天皇の進軍は、早く即位するための強行軍(きょうこうぐん)のはずで、広島県広島市高島で3年間とどまったのが創作と考えられる。

大阪府から神武天皇(仁徳天皇を祖先化)は上陸して、竜田(奈良県北葛城郡王寺町竜田)に向かうと、道が狭くきちんと並んで行けないほどで、生駒山(いこまやま;大阪府と奈良県の境にある生駒山地の主峰)を越えると長髄彦(大山守皇子を祖先化)が軍を起こして出現して、神武天皇の軍に向かい、「わが国を奪おうとするのか」と孔舎衛坂(くさえざか;大阪府枚岡市日下町の山麓地帯から草香山を越える坂道か?)にて戦いを挑んできた。
その合戦で五瀬命(いつせのみこと;菟道稚郎子皇子を祖先化)は運悪く肘(ひじ)を射られて、進軍をはばまれたが神武天皇(仁徳天皇を祖先化)が会議をして気勢を上げ、これによって軍勢が八尾(やお;大阪府八尾市)へしりぞくと敵が攻めてこなかったので、船にて茅渟(ちぬ;大阪府東部)の山城(大阪府泉南市樽井)に至ると、そこで五瀬命が亡くなり、紀伊(きい)国の竃山(かまやま;和歌山市の竃山神社)に五瀬命を埋葬した。

五瀬命は菟道稚郎子皇子を祖先化したと考えられて、五瀬命を葬った和歌山市の竃山神社が菟道稚郎子皇子を葬礼した神社と考えられる。
『日本書紀』に大山守皇子の反乱の後に菟道稚郎子皇子が自殺して、莵道山上(うじのやまのうえ)に葬礼されたと記して、京都府宇治市の丸山古墳に当たるとするが、竃山神社が本当の菟道稚郎子皇子の墓と考えられる。

神武天皇(仁徳天皇を祖先化)のひきいる軍は和歌山県と三重県を海路で迂回(うかい)して、つつがなく荒坂(あらさか;三重県熊野市二木島町の荒坂)まで進み、そこで動物霊をあやつる丹敷戸(にしきど)が軍を拒んで妖気を吐(は)きかけ、神武天皇の軍がその毒気に当てられ、皆が疲れ伏し眠ってしまった。
すると高倉下(たかくらした;藤原氏の近縁氏族)は、男性の古代太陽神の天照神(あまてるかみ;神功皇后を神格化)と武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰を神格化)の語り合う夢を見た。
高倉下(藤原氏の近縁氏族)の夢で、天照神(神功皇后を神格化)が武甕槌神(初代・武内宿禰を神格化)に命じて、「国が騒がしいので平定してこい」と言われると、武甕槌神が答えて、「私が行かなくても、国平(くにむ)けの剣(つるぎ)を降ろせば大丈夫です」とおっしゃり、天照神が、「もっともだ」と言われた。
さらに夢の中で武甕槌神(初代・武内宿禰を神格化)が高倉下(藤原氏の近縁氏族)に言われて、「武甕槌神の布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)が倉に置いてある。これを神武天皇(仁徳天皇を祖先化)に奉(たてまつ)れ」と、そして高倉下が「ははっ!」と答えた。
高倉下(藤原氏の近縁氏族)は夢から覚めて倉を開けてみると、不思議なことに倉の底板に布都御魂剣が立っており、これを神武天皇(仁徳天皇を祖先化)に進めると、神武天皇が妖気の眠りから覚めて、諸臣も皆が眠りから覚めることができた。

仁徳天皇らの軍は三重県に上陸して三重県熊野市二木島町の荒坂まで行くと、大山守皇子の味方の丹敷戸に何らかの方法で邪魔されたと考えられる。
高倉下は藤原氏の直系先祖の天種子と親戚関係で、神功皇后と大臣の初代・武内宿禰に仕える忠実な家臣だと考えられる。
高倉下は天香語山命(あめのかごやまのみこと)かその息子と考えられるが間違いで、『ホツマツタエ』の天種子の親戚関係が正しい。
死に際の神功皇后は、大臣の初代・武内宿禰に天皇になる孫を助けよと遺言(ゆいごん)されて、初代・武内宿禰が高倉下に布都御魂剣を仁徳天皇の助けとするために届けよと命じたと考えられる。
大臣の初代・武内宿禰から神刀の布都御魂剣を授かった高倉下は、仁徳天皇の元に届けて進軍のきっかけとして、諸臣も活気付いて丹敷戸を討伐したと考えられる。
『古事記』で布都御魂剣と記す神刀は、経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)と武甕槌神(初代・武内宿禰を神格化)の帯剣で、奈良県天理市の石上(いそのかみ)神宮の禁足地から明治7年に発掘された大刀があり、それを布都御魂剣として石上神宮に祭るが、一般への公開がされないと言う。

しかし今度は長髄彦(大山守皇子を祖先化)の兵が現われて、激しい戦いに神武天皇(仁徳天皇を祖先化)の軍が苦戦をしいられて、時にたちまち氷雨(ひさめ)が降り出して、金色の鵜(う)が飛び来て神武天皇の弓弭(ゆはず)に止まり、不思議な金色の鵜が照り輝いた。
長髄彦(大山守皇子を祖先化)は戦いを止めて神武天皇(仁徳天皇を祖先化)に言って、「昔に天照神の孫の初代・火明命(ほあかりのみこと)が岩船に乗って天降って来られた。飛鳥(あすか)に宮を定め、その養子として饒速日命(にぎはやひのみこと)が世継(よつ)ぎとなられた。饒速日命は我が妹の御炊屋(みかしや)を妃として、可美真手命(うましまちのみこと)を生んだ。我が君は饒速日命一人である。神は天照神の十種(とくさ)の神宝(かんだから)を授かっている。この饒速日命をさし置いて、神の孫と偽って我らの国を奪おうとするのか。これいかに」と。
時に神武天皇(仁徳天皇を祖先化)が答えて、「お前、長髄彦(大山守皇子を祖先化)が真の統治者だというなら、璽(しるし)があるはずである。それを示せ」と長髄彦が靫(ゆき)より羽羽矢(ははや)を取り、天に向かってそれを示すと、羽羽矢に神璽(かんをして;ホツマ文字)が記されて、また神武天皇も歩靫(かちゆき)より羽羽矢を取り出すと、そこにも神璽が記されていて、それを家臣に命じて長髄彦に示させた。
戦いは一向に進まず、守りを固めるばかりで、しかし先の戦いや今の様子などから、神武天皇(仁徳天皇を祖先化)が真の心を持ったお方だとさとった饒速日命(初代・武内宿禰を神格化)が、部下の長髄彦(大山守皇子を祖先化)が生まれつき、天と地の区別もつかない頑固な性格なのを仕方なく思い、その場で斬り捨てて軍勢をひきいて服従の意を示した。
神武天皇(仁徳天皇を祖先化)はもとより饒速日命(初代・武内宿禰を神格化)の忠義心を確かなものだと知っていたので、親しく君臣の契(ちぎ)りを交(か)わした。

今度は大山守皇子の兵が現われて、激しい戦いに仁徳天皇の軍が苦戦をしいられて、時にたちまち氷雨が降り出して、金色の鵜が飛び来て仁徳天皇の弓弭に止まり、不思議な金色の鵜が照り輝いた。
大山守皇子の反乱で氷雨が降り出した記述から季節が冬でないかと考えられて、金色の鵜が仁徳天皇に味方して大山守皇子と一時休戦させた人物を差すと考えられる。
大山守皇子の話は矛盾していて、天照神(神功皇后を神格化)の子である初代・火明命(品夜和気命(ほむやわけのみこと)を神格化)の先祖の2代目・火明命(彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)が岩船で降臨して、その子の饒速日命(狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)が出雲王国の世継ぎとなった。
饒速日命(狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)は長髄彦(誰か不明)の妹の御炊屋(誰か不明)と結婚して、可美真手命(野見宿禰(のみのすくね)を神格化)を生んで、天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと;彦坐王を神格化)の十種の神宝を授かったという内容になる。
品夜和気命は『古事記』に記される人名で、仲哀(ちゅうあい)天皇と神功皇后の第一子で、仁徳天皇の伯父(おじ)に当たるが、実在した人物でなければ初代・火明命に神格化された人物がいないことになる。
天皇家の象徴である羽羽矢が2つ存在してホツマ文字が記されて、仁徳天皇と大山守皇子の双方が持っており、互いに正統な皇位継承者だと考えられる。
古代天皇家でホツマ文字が使われて、『ホツマツタエ』の存在から神代(しんだい)文字が漢字以前の確実な古代文字で、伊勢神宮内宮の神宮文庫資料の神代文字などが本物と考えられる。
参考文献『日本超古代文明のすべて』で世界中に神代文字があって、日本独自の古代文字でないことになる。
仁徳天皇が即位することを望んだのが大臣の初代・武内宿禰で、初代・武内宿禰は孫で武将の葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を仁徳天皇に味方させたと考えられる。
仁徳天皇が天皇にふさわしいお方だとさとった大臣の初代・武内宿禰は、大山守皇子が父の誉田別尊が異母兄弟の菟道稚郎子皇子を皇太子にしたのを恨(うら)んで、葛城襲津彦の謀略で大山守皇子を殺して、初代・武内宿禰が軍勢をひきいて服従の意を示した。
仁徳天皇は、大臣の初代・武内宿禰の忠義心を確かなものだと知り、親(した)しく天皇と家臣の関係を築いた。

仁徳(にんとく)天皇元年1月3日(西暦334年2月上旬頃)に仁徳(にんとく)天皇は、5代目天皇に即位して、天皇陵を含む大和(おおやまと)古墳群と景行(けいこう)天皇の皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)である纏向(まきむく)遺跡を放棄して、放棄した4世紀前半の年代と合致して、『日本書紀』で3年間皇位が空白で、祖母の神功(じんぐう)皇后の死去の329年から5年後に即位して合致する。
仁徳(にんとく)天皇は、大臣の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)が98才で補佐して、初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を武甕雷神(たけみかづちのかみ)と饒速日命(にぎはやひのみこと)と塩土老翁(しおつちのおじ)の3神に神格化して、海幸彦(うみさちひこ)と山幸彦(やまさちひこ)の神話と神武(じんむ)東征に登場した。
仁徳(にんとく)天皇の東征は、異母兄弟の4人が皇位継承権争いして、神武(じんむ)東征や海幸彦(うみさちひこ)と山幸彦(やまさちひこ)の神話に祖先化・神話化して、現代人(僕以外の人間)に絶対に求められないが、状況証拠を残しすぎて、逆に僕に特定させた。

仁徳(にんとく)天皇は、西暦334年即位で、367年死去で、4世紀前半から中頃の天皇で、仁徳(にんとく)天皇陵の大仙(だいせん)古墳が5世紀前半から中頃の築造で、仁徳(にんとく)天皇の孫か曾孫の在位期間と合致して、仁徳(にんとく)天皇陵でないと考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)で証明した。
初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)は、仁徳(にんとく)天皇元年1月3日(西暦334年2月上旬頃)に98才で、その息子で2代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)が約70才で、孫の葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)が約40才で、曾孫の磐之姫命(いわのひめのみこと)が約20才で、磐之姫命(いわのひめのみこと)が仁徳(にんとく)天皇の皇后で、年齢的に自然である。
考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)は、仁徳(にんとく)天皇の東征と即位を証明して、僕にしか求められない神技(かみわざ)だった。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼編・著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『日本超古代文明のすべて』
株式会社日本文芸社・発行
インターネット

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