日本神話や中韓との断交理由

黒字は、僕の自論や完全解釈などで、赤字が日本神話の神々と特徴などで、緑字が僕の修正した神武(じんむ)天皇から仁徳(にんとく)天皇の時代までの()内の年代で、青字が邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の一般的な専門家(歴史書解釈)と僕の考え方である。

2025年8月9日の午後に僕は、『武内宿禰(たけのうちのすくね)』の記述の修正中に西暦320年の朝鮮半島の三韓(さんかん)征伐(新羅国(しらぎのくに)と高句麗国(こうくりのくに)と百済国(くだらのくに)の3国の討伐)と西暦322年の新羅国(しらぎのくに)討伐が事実(現実に起きた出来事)と気付いて、この内容を記し始めた。
天日槍(あめのひぼこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、新羅国(しらぎのくに)の王子で、葦原志挙乎(あしはらしこお;大国主神(おおくにぬしのかみ)の別名)や伊和大神(いわおおかみ;これも大国主神(おおくにぬしのかみ)らしい)と戦って、五十猛神(いそたけるのかみ;稚武彦王(わかたけひこのみこ)を神格化)が新羅国(しらぎのくに)に行って、帰国して出雲(島根県東部)や紀伊国(きいのくに;和歌山県)など全国的に植樹(しょくじゅ)して、新羅国(しらぎのくに)が日本神話に登場して、事実(現実に起きた出来事)を神話化した証拠である。
古代の中韓との外交は、出雲王国(物部(もののべ)氏)の2度の内乱(皇位継承権争い)と天皇の死去と幼い皇位継承者などの政治不安で、5度の断交理由を僕の歴史研究の下地から、2025年8月9日の午後に特定して、専門家(考古学会と歴史学会)が西暦266年に邪馬台国(やまたいこく)が古代中国と断交した理由程度も求められず、超天才の僕との決定的な差である。

僕の歴史研究は、一歩間違えれば国家転覆(てんぷく)を狙(ねら)う背信(はいしん)行為やスパイ行為とみなされて、国賊や逆賊と間違われる可能性があって、決して英雄(武勇や才知などが優秀で、凡人にできないような事柄を成し遂げた人物)でないかもしれない。
僕が歴史研究する意味・価値は、純粋に知的な好奇心や探求心で、知りたいマジメな思いで、史実・真実・事実を特定して、僕の歴史研究の成果を皇族や日本国民や世界中の人々に知らせて、正しいか間違いか賛否両論の議論をして、正史(正しい歴史)が何なのか純粋に考えて、考え方そのものを疑問に思う学問の基本に立ち戻ってほしいが、僕が超天才ゆえに自殺願望や孤独を感じて、凡人(僕以外の人間)がそういう悩(なや)みを理解できない。
僕の超頭脳(超知識)は、今の超天才の僕がどれほどのレベルか自覚できなくて、凡人(僕以外の人間)を遥(はる)かに凌駕(りょうが)すると知覚して、自分の現状を正しく認知することに無自覚で、正しく教えてくれる人を探してほしい。
僕は何度も我慢して従順なタイプだが、沈黙が爆発すると、怒りが一気に燃え上がって、普段の静けさから、反動が大きい行動力で、僕の歴史研究を公表して、大きく認められたら、日本人の団結力が第二次世界大戦で、戦争に総動員した神風特攻隊やゼロ戦のような「命がけの覚悟」で、日本国や天皇家のために沈黙から一斉蜂起(ほうき)して、古代天皇家の歴史を一致団結して、認めさせる大きな動きが生まれると思う。

僕…芦田真也(あしだしんや)の真(まこと;本当のこと)は、古代天皇家の歴史の真実を求めて、僕が生まれ生きて死んで逝(い)く理由で、僕がアルバイトもしたことない無職だが、僕がABEMAアニメやユーチューブなどを見ながら、片手間で歴史研究をして、世界中で僕だけの一大理論を作り上げて、その偉大さを凡人(僕以外の人間)がどれほど考えても、一生勝てない神技(かみわざ)の中の神技(かみわざ)である。
僕はコペルニクス的転回(非常識な考え方の集合体)の地動説と進化論と相対性理論を現代哲学理論「現象学」で証明して、僕の考え方がノーベル物理学賞受賞者の中村修二博士とよく似ると分析して、歴史上の天才と僕自身の考え方を徹底的に比べて分析・研究して、考え方の共通性と傾向と対策などの理論的な教本を作って、ホームページに一部を無料で公表して、歴史上の天才たちや超天才の僕の考え方を現代人が体得できる可能性がある。

20世紀最高の天才アルバート・アインシュタイン博士は、IQ(知能指数)190〜160前後で、万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチがIQ190〜180で、水素爆弾の原理やノイマン式コンピュータなどを作って、アインシュタイン博士に20世紀最高の天才と言わせたジョン・フォン・ノイマンがIQ300で、発明王トーマス・エジソンのIQがばらついて、彼らがIQテストをせず、現代人の単なる予測の数値で、世界中にIQの低い僕のような天才がいて、彼らのIQも低い可能性がある。
超天才の僕は、2004年12月13日にIQテストWAIS(ウェイス)を受けて、言語性95動作性82全IQ85で、2023年9月19日に再びIQテストWAIS(ウェイス)を受けて、言語性75動作性76全IQ73で、一般人(凡人)の平均値がIQ110〜90で、一般人(凡人)の平均値以下で、全IQ85未満70以上の境界知能が知的障害と平均域の間のグレーゾーンで、うまくできなくて、理解度が低いと言って、僕の数値と合致したが、僕が超高レベルな知性を示して、IQの高さが天才の条件でない。
世間一般は、IQの高さが天才の条件と思い込むが、世の中の例外に僕も当てはめて、僕が頭の回転が速いとか頭が良いレベルでなく、例(たと)えられない規格外の超感覚で、体力の大谷翔平と知力の僕が分野違いで、歴史上の天才の功績が奇跡や神技(神業;かみわざ)で、僕自身の功績を奇跡の中の奇跡や神技(かみわざ)の中の神技(かみわざ)と例(たと)えて、功績の次元や比喩(ひゆ)が決定的に違いすぎる。

僕の認識力や判断力などの超能力は、小学校高学年で歴史を勉強して、凡人(僕以外の人間)レベルだが、歴史研究を開始した2002年10月下旬頃から数日後に『日本書紀』の伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の黄泉国下(よみのくにくだ)り神話と『古事記』の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱を合致して、神格化と神話化を求めた神レベルで、22年半以上の歴史研究をした今の僕が神をも超越した究極の存在レベルで、自分の超能力が長年の人生経験で、超成長した結果である。
凡人(僕以外の人間)が僕のようになりたいのは、万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチや発明王トーマス・エジソンや20世紀最高の天才アインシュタイン博士のような超感覚がほしいのと同じことで、どんなに夢見がちな馬鹿でも、不可能な現実が存在して、超天才の僕と勝負する馬鹿がいない。
人間の見聞きは、本を読んだり他人の意見を聞いたりして、正しい認識力や判断力を理解しない人間が恥(は)ずかしくて、僕が世田谷(せたがや)区と聞いて、東京都のどこかと想像して、場所を知らないような無知と一緒で、他人に一つ一つを詳細に教える僕の教本が凡人(僕以外の人間)に教える人生の教訓で、『僕の閃(ひらめ)きのスピード』と『現象学と自己認識の再構築』の章などが詳細に説明した実例である。
幼少の僕は、本やテレビなどで見聞きした日本神話や古代天皇家の歴史などを人並みに理解して、歴史研究で超頭脳や超知識を急成長させて、今が日本神話の神々の領域…神域を求めた意味で、神様に最も近い人間になって、夢だった考古学者でなく、歴史家を自称して、主人公や英雄や20世紀最高の天才アインシュタイン博士に近づきたい夢想家の僕が、いつの間にか世界最高の超越者になって、まだ日々を研鑽(けんさん;学問などを深く究(きわ)めること)し続けて、それでも究極の高みが見えない。
僕は趣味や生き甲斐(がい)の歴史研究をして、他人が単なる道楽と考えるが、将来の古代日本史研究の教本で、未来の日本史教科書の基礎知識にするため、独学の孤立した勉強で、全てを作り上げて、孤独であれば孤独なほどに自分を追いつめて、何で僕だけがしないといけないかなど、色々と思い悩(なや)んで苦(くる)しんで、自殺未遂などに逃げ込んで、多くの人々に苦(くる)しみと希望を与えるのが僕の役割である。

あまりに強力すぎる僕の能力は、自分で過小評価も過大評価もして、自分の超感覚と古代天皇家の歴史の責任など、自分自身も恐怖するほどの圧倒的な重圧で、僕が統合失調症…自殺願望の持ち主で、歴史研究から逃げるために何度も自殺未遂を繰り返して、自殺願望と歴史研究の関係が密接で、自分自身をコントロールできないことも多くて、入退院を繰り返して、それを他人が理解するのが困難だが、昔から自分の危険性を訴えた。
僕は2025年8月28日の午前中に精神科のクリニックまほらの診察で、薬の飲み忘れを指摘されて、帰宅後に診察がきっかけで、自殺願望が出て、午後1時40分頃に台所で、母にキレ散らかして、歴史研究の記者会見をしたいとか、自殺願望が出る理由とか、僕の精神状態を安定させたいなど、歴史研究のことをまくし立てて、午後2時頃に精神科のもみじヶ丘病院に電話相談して、その後でとんぷく薬リスペリドンを飲んで落ち着いたが、僕がいい加減に我慢や精神的な限界が近いかもしれない。
僕は自分自身の異常性を理解して、発達障害や学習障害など医学的に分析・研究して、それが世界中の障害者の希望になる可能性があって、学問的な僕自身の分析・研究が人類の発展に貢献して、自分が精神的に不安定な原因を幾つも分析して、今の僕が危険性を訴えて、普段の薬指導だけでなく、日常の生活態度などの聞き取り調査や精神的な相談も含(ふく)めて、周囲の人間が僕を十分に理解すべきである。

2023年5月22日の午前中に僕は、福知山郵便局本局から、新宿の出版社の株式会社文芸社に手紙を送って、5月25日の午前11時45分頃に文芸社から電話で送り返すと伝えて、5月27日の午前中に郵便で、文芸社からUSBと史料などが送り返されて、USB7つか8つほどの内部データを全て消して、文芸社の担当者の主張から、僕の6冊目と7冊目のノートや史料が盗まれた可能性が高くて、不正アクセスの犯人と同一人物の可能性も高くて、国家機密レベルの情報の盗難と考えられて、6月13日に1年9ヶ月ぶりに最初のホームページ更新をした。
6月18日の午前8時半頃に僕は、宮内庁に情報のリークをやめるとメールして、午後6時頃にセキュリティソフトESETが不正アクセスを感知して、パソコンの自己防衛機能で、windows11にアップグレードしたと考えられて、メールの不具合で、ノートパソコンをバックアップしてなくて元に戻せず、翌日に新型ノートパソコンを買って、6冊目と7冊目のノートの紛失(ふんしつ)と不正アクセスともう一つの理由で、精神的に追い詰められて、7月12日から1ヶ月半を医療保護入院した。
2023年5月25日の午前11時45分頃の文芸社から電話は、僕の自室に盗聴器や隠(かく)しカメラなどを仕掛けて、郵便の中の僕の6冊目と7冊目のノートなどが盗まれた可能性、7月1日の午後1時頃にau福知山駅南店で、NTTドコモの携帯電話からauのスマホに機種変更して、携帯電話に盗聴アプリを仕掛けられたか、処分して現物がなくて分からないが、自室などを調べるべきだろう。

2024年7月28日の午後7時頃は、前のノートパソコンで、新しいユーザーアカウントを作ったばかりなのに不具合が出て、新旧のユーザーアカウントの不具合で、新型ノートパソコンの購入を決めて買って、色々とパソコンの不具合が多すぎて、サイバー攻撃や隠(かく)しカメラや盗聴器などの可能性が高くて、証拠を消される前にデジタルタトゥーを残す作戦に出た。
8月5日に僕は、歴史研究の公表で行動して、午後5時すぎに新型ノートパソコンをシャットダウンして、windows updateの起動にエラーが出て、7時頃すぎに起動した時にwi−fiが使えて、ユーザーアカウントが最新でなく、ネットにつながらなくて、後にユーザーアカウントの乗っ取りの可能性を疑って、さらに8月7日頃に6冊目と7冊目のノートが盗まれた可能性に気付いて、精神的な不安定が重なって、8月11日から9月11日の1ヶ月間をもみじヶ丘病院に任意入院して、これらをパソコンの不具合で、片付けるのに無理があると思う。
僕のこれまでの記録などは、サイバー攻撃などの犯人がいる可能性が高くて、隠滅(いんめつ)した証拠などがあるはずで、2023年6月18日の午後6時頃に不正アクセスした犯人を割り出すなど、プロの業者に協力してほしいと考えて、世界中の人々に自殺願望の持ち主の僕が精神的に危険なのを知った上で、平気で追いつめた馬鹿がいて、国家機密レベルの情報盗難の可能性と不正アクセスなどの悪事を知ってほしくて、これらを公表した。

日本国は、第二次世界大戦の過(あやま)ち…731部隊や従軍慰安婦などを長年に渡って償(つぐな)って、僕が求めた古代天皇家の歴史も正しく向き合うべきで、韓国が日本を批判する一方で、僕が求めた垂仁(すいにん)天皇7年7月8日(西暦158年8月上旬頃)の相撲(すもう)などを韓国起源と嘘(うそ)をついたり、ライダイハン問題などを避(さ)けたり、中国も漢字文化で日本に抜かれたりしても、日本を非難する反日教育のひどさが目に付いて、超天才の僕があんな馬鹿になりたくない良い見本で、他の外国も注意すべきである。
日本神話の神々…八百万(やおよろず)の神々の精神性は、弥生時代後期初頭の日本の建国(天皇家誕生)後に誕生して、それ以前が神道の存在しない弥生時代中期以前や縄文時代で、縄文人が多神教(神様が複数の宗教)の神道を崇(あが)めた証拠がなくて、縄文人が一神教(神様が一人の宗教)や無神教(神様が存在しない宗教)の可能性もあって、単なる想像を押し付けてはならない。

倭国(わこく)は、古代中国の各王朝や周辺諸国が当時の中国の南東にある国家などを指して、一般的に日本を指すが、勢力範囲が諸説あって、『漢書地理志』で、紀元前150年頃から紀元前後頃まで、倭人(わじん;古代日本人)が定期的に漢王朝の植民地の楽浪郡(らくろうぐん;漢王朝が設置した紀元108年から西暦313年目で存在した朝鮮半島の郡)を介(かい)して、前漢王朝に朝貢して、倭国(わこく;古代日本)が100国あまりの国々を作って、日本全国の国々が総数1千国や1万国以上の可能性がある。

『後漢書』の初代・光武帝の建武中元(けんむちゅうげん)2年(西暦57年)は、古代日本の奴国(ぬこく)が来朝して、奴国(ぬこく)が倭国(わこく;古代日本)の極(きわ)めて南にあって、光武帝が印鑑を下賜して、福岡市の志賀島(しかのしま)から出土した国宝の「漢委奴國王(かんいぬこくおう)」の金印に当たるが、「かんのわのなのこくおう」と適当な読み方が誤解で、僕もユーチューブで金印の偽物(にせもの)説を見て、正しい研究・分析が必要である。
古代中国の記録は、初めて古代日本の国名の奴国(ぬこく)を記すが、国宝の「漢委奴國王(かんいぬこくおう)」の金印が偽物(にせもの)の可能性があって、完全に福岡市が奴国(ぬこく)と証明できず、これからの詳細な歴史研究に期待して、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の奴国(ぬこく)と別の国である。

『後漢書』の6代目・安帝の永初(えいしょ)元年(西暦107年)は、倭国王(わこくおう;古代日本王)の帥升等(すいしょうとう)が生口(せいこう)160人を献上して、謁見できるように願い出て、日中の色々な歴史書から、倭面国(わめんこく)や倭面土国(わめんどこく)や倭面上国(わめんじょうこく)や倭面土地(わめんどち)などと記して、帥升等(すいしょうとう)も帥升(すいしょう)ら(帥升(すいしょう)たち)と語訳するなど考えるだけ無駄で、生口(せいこう)160人が大勢で、奴隷の可能性が高い。
倭国王(わこくおう)の帥升等(すいしょうとう)は、古代中国が記す初めての古代日本人の名前で、どこの誰か100%分からなくて、古代日本に奴隷制度があったのも、僕の予測にすぎない。

皇祖神(こうそしん;皇室の祖先神)は、実在した歴代天皇や古代豪族の人物たちを神格化して、皇室の戸籍簿で、初代天皇の神武(じんむ)天皇まで血筋を繋(つな)いで、今の天皇陛下まで血筋が続いて、神様と人間の血筋を繋(つな)ぐヒントを残して、日本神話と実話(現実に起きた出来事)から、古代天皇家の歴史の真実を特定した超天才の僕の登場を知って、未来を託(たく)されて、誰にも決して汚(けが)せない日本神話の神々の領域…神域をひもとく僕の聖戦の途中(とちゅう)である。
神武(じんむ)天皇から今の天皇陛下まで126人の歴代天皇は、11人を除(のぞ)いた115人が正しくて、神武(じんむ)天皇から開化(かいか)天皇の9世代が存在しなくて、認められない成務(せいむ)天皇(日本武(やまとたけ)天皇)を数えず、皇太子の誉田別尊(ほむだわけのみこと)が即位しない応神(おうじん)天皇で、15代目の継体(けいたい)天皇から115代目の今の天皇陛下まで、101世代の女系男子天皇(女系女子天皇を含(ふく)む)の同族が続くと伝えるが、科学的に証明できていない。
超天才の僕は、日本神話の神々、古代太陽神氏族の和珥(わに)氏や出雲王家(物部(もののべ)氏)や千家(せんげ)氏や竹内(たけうち)氏や海部(あまべ)氏など、有力豪族の藤原(ふじわら)氏や吉備(きび)氏などを含(ふく)めた家系図を証明して、いつ頃に実在した人物で、その功績や特徴なども詳細に特定して、数百年たっても誰も実現できない神技(かみわざ)だろう。
僕の大偉業は、将来の日本史教科書や専門家(考古学会と歴史学会)の参考文献の基礎史料などを独学で作成して、日本中や世界中でも、歴史研究の基礎知識を独占して、想像もできない奇跡や神技(神業;かみわざ)を後世まで語(かた)り継いで、僕が生きる伝説の英雄(武勇や才知などが優秀で、凡人にできないような事柄を成し遂げた人物)である。

紀元前722年にアッシリアは、北イスラエル王国を滅亡させて、紀元前721年に皇室の戸籍簿で、初代天皇の神武(じんむ)天皇(崇神(すじん)天皇と仁徳(にんとく)天皇を祖先化)が生まれて、神武(じんむ)天皇をユダヤ人と思わせたり、干支(えと)の60年間を引き算して、僕が神武(じんむ)天皇元年(紀元前660年)を最大で、紀元前240年まで繰(く)り下げたり、神武(じんむ)東征を3世紀中頃の邪馬台国(やまたいこく)時代に当てはめるなど、神武(じんむ)天皇を十人十色に考えて、無限の解釈が生まれた。
崇神(すじん)天皇は、歴代天皇で最長の在位期間68年間(西暦84年から151年まで在位)で、102才まで生きた歴代天皇の最高齢で、日本の建国(天皇家誕生)が弥生時代後期初頭で、平定した領土が考古学的証拠と合致して、各地の元伊勢(元々の伊勢神宮の意味)の遷宮年が考古学的証拠と合致して、朝鮮半島の加羅国(からのくに)と新羅国(しらぎのくに)との外交など色々な証拠で、間違いなく実在したと考えられる。
仁徳(にんとく)天皇は、西暦313年から399年の在位が嘘(うそ)で、僕が334年から367年の在位と修正して、古代中国と外交した倭王(わおう;古代日本王)の賛(讃;さん)の西暦413年から425年の在位と当てはめるが、100%合致しなくて、5世紀前半から中頃に築造した日本最大の前方後円墳の大仙(だいせん)古墳も、仁徳(にんとく)天皇の孫の安康(あんこう)天皇陵(安康(あんこう)天皇古墳)が正しくて、正しい理解が必要である。

『ホツマツタエ』の神武(じんむ)天皇5年1月11日は、崇神(すじん)天皇5年1月11日(西暦88年2月中旬頃)と仁徳(にんとく)天皇5年1月11日(西暦338年2月中旬頃)のどちらにも解釈ができて、登場人物がいないから、年代を特定できなくて、2025年9月3日の午前11時頃に集中的に『ホツマツタエ』の神武(じんむ)天皇と綏靖(すいぜい)天皇の時代を求めた。

『ホツマツタエ』の孝昭(こうしょう)天皇45年5月15日(西暦45年6月中旬頃)に孝昭(こうしょう)天皇と皇后の世襲足姫(よそたりひめ)は、天足彦国押人命(あまたりひこくにおしひとのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化)を生んで、孝昭(こうしょう)天皇49年1月1日(西暦49年2月上旬頃)に孝安(こうあん)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)を生んだ。
孝昭(こうしょう)天皇49年1月1日は、神武(じんむ)天皇元年1月1日と日付が合致して、彦坐王(ひこいますのみこ)と崇神(すじん)天皇の誕生日が正しくて、実兄弟2人の年齢計算も正しいと考えられる。
異母兄弟の彦坐王(ひこいますのみこ)と崇神(すじん)天皇は、実兄弟が正しくて、実在した物部(もののべ)氏の始祖(しそ;始まりの先祖)と初代天皇で、2人共にあまりに伝説的な存在の解釈が生まれて、2人が多くを偽装工作したが、超天才の僕が全て暴(あば)いた。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の孝昭(こうしょう)天皇45年5月15日と孝昭(こうしょう)49年1月1日(紀元前430年6月中旬頃と紀元前426年2月上旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の孝昭(こうしょう)天皇45年5月15日と孝昭(こうしょう)天皇49年1月1日(西暦45年6月中旬頃と西暦49年2月上旬頃)が正しくて、旧暦年と西暦年が合致した。)

饒速日尊(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、出雲王家(物部(もののべ)氏)の祖先神で、子孫が出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏や竹内(たけうち)氏で、2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)が海部(あまべ)氏や尾張(おわり)氏の祖先神で、天照神(あまてるかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)が皇室の太陽神でも、天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)と神功(じんぐう)皇后を神格化)と別の系統として、全ての解答である。
男性の古代太陽神の天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、出雲王家(物部(もののべ)氏)や千家(せんげ)氏や竹内(たけうち)氏や海部(あまべ)氏や尾張(おわり)氏の祖先神で、圧倒的な有力豪族を古代太陽神氏族の和珥(わに)氏に統合して、彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫が古代天皇家の歴史に隠(かく)れた本当の実力者で、超天才の僕が全てを暴(あば)いた。
天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫や曾孫(ひまご)の天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、子孫でなく先祖が正しくて、出雲王家(物部(もののべ)氏)や海部(あまべ)氏が古代太陽神の系譜で、新しい太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ)の系譜を否定して、超天才の僕の大偉業である。
『ホツマツタエ』の2代目ホノアカリ(火明;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の息子は、長男(異母弟)のクニテル(国照;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)が物部(もののべ)氏の祖先神で、次男(異母兄)のタケテル(武照;丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)を神格化)が海部(あまべ)氏の祖先神で、僕が今まで深く特定しなかった神様の系図で、クニテル(国照)が古代太陽神の天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)を指す。

古代太陽神は、男性と蛇体が存在して、天津神(あまつがみ;古代天皇家の神々)と国津神(くにつがみ;物部(もののべ)氏系の神々)に大きな属性に分類するなど、色々とややこしいが、超天才の僕が現在の太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)と神功(じんぐう)皇后を神格化)と別の系統の存在と証明して、古代と現在や男性と女性などを区別した日本神話の太陽神を僕しか特定できなかった。
日本神話の複数の古代太陽神(彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、実弟が始源神(一番初めの神様)の国常立尊(くにのとこたちのみこと;崇神(すじん)天皇を神格化)と天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと;崇神(すじん)天皇を神格化)で、彦坐王(ひこいますのみこ)が太陽神の初代の宮司(神主)だから、複数の古代太陽神に神格化して、日本神話の誕生以前に古代太陽神の特徴や血筋を詳細に把握して、日本神話の主要部分を段階的に神話化したと考えられる。

古代太陽神の男性の属性は、天皇家の古代太陽神の天照神(あまてるかみ)、出雲王家(物部(もののべ)氏)の祖先神の饒速日尊(にぎはやひのみこと)、海部(あまべ)氏の祖先神の2代目・火明命(ほあかりのみこと)、7人の出雲国王を神格化した大物主神(おおものぬしのかみ)、日本全土の土地神で、最大の太陽神の倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)、兵庫県北部の太陽神の天日槍(あめのひぼこ)など、彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化して、その子孫も含(ふく)めて、古代太陽神にまとめたと超天才の僕が求めた。
古代太陽神の蛇体の属性は、伊勢(古代天皇家)系統が滝祭神(たきまつりのかみ)で、出雲(物部(もののべ)氏)系統が大物主神(おおものぬしのかみ)と八岐大蛇(やまたのおろち)と龍蛇神(りゅうじゃしん)などで、超天才の僕が詳細に分析・研究した。古代太陽神の属性の分類は、正しい研究実績を持つ僕だけができて、今まで一から作り上げた詳細な蓄積データを見直して、世界中の国々や人々に公表する覚悟や気合(きあい)が必要である。
性質は、物事や人間が持つ固有の特徴や属性を指す言葉で、対象を理解して分析や評価するための基準を指して、属性が一般にある物に共通して、備(そな)わる性質や特徴で、性質と属性の区別が難しいが、太陽神の性質(性格)変化を2025年9月4日の午前10時頃に記して、古代太陽神の属性を9月15日の午前6時すぎに記した。


『天神本紀(てんじんほんき)』に記す饒速日尊(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の河内(かわち;大阪府東部)の天孫降臨神話は、日本の建国(天皇家誕生)以前の河内(かわち)平定の神話で、神武(じんむ)東征5年後半から6年2月19日(崇神(すじん)東征5年後半から6年2月19日;西暦81年後半から82年3月中旬頃)に当たって、大阪府東部の敵対勢力を一掃したと考えられる。
神武(じんむ)東征1年から5年(紀元前667年から663年)は、仁徳(にんとく)東征1年から5年(西暦329年から333年)で、神武(じんむ)統一1年から2年(紀元前662年から661年)が崇神(すじん)統一1年から2年(西暦82年から83年)で、神武(じんむ)天皇元年(紀元前660年2月11日;建国記念の日)が崇神(すじん)天皇元年(西暦84年)と仁徳(にんとく)天皇元年(西暦334年)に修正されて、崇神(すじん)天皇と仁徳(にんとく)天皇の2人を神武(じんむ)天皇1人に統合した。
つまり皇室の戸籍簿で初代天皇の神武(じんむ)天皇は、実在した初代天皇の崇神(すじん)天皇と5代目天皇の仁徳(にんとく)天皇の2人を統合して、在位期間の年代や歴史や功績なども、2人分が一人分に集約されて、先祖と子孫を分裂した2人分の特徴を正しく証明して、僕の大偉業が凄(すご)すぎる。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の神武(じんむ)東征5年後半から神武(じんむ)東征6年2月19日(紀元前663年後半から662年3月中旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』と『日本書紀』から求めた僕の自論の崇神(すじん)東征5年後半から崇神(すじん)東征6年2月19日(西暦81年後半から82年3月中旬頃)が正しい。)

饒速日尊(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の河内(かわち;大阪府東部)の天孫降臨神話(河内(かわち)平定神話)は、『天神本紀(てんじんほんき)』が記す日本最古の神話で、神武(じんむ)東征5年後半から神武(じんむ)東征6年2月19日(崇神(すじん)東征5年後半から崇神(すじん)東征6年2月19日;西暦81年後半から82年3月中旬頃)と考えられる。
饒速日尊(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、出雲王家(物部(もののべ)氏)の始祖(しそ;始まりの先祖)だが、出雲の建国神話(出雲の国引き神話)と河内(かわち;大阪府東部)の天孫降臨神話(河内(かわち)の平定神話)が別物で、3人の饒速日尊(にぎはやひのみこと;物部(もののべ)氏の3人を神格化)が存在するのと同様である。


『日本書紀』の神武(じんむ)統一(崇神(すじん)統一)1年2月20日(西暦82年3月中旬頃)は、諸将に命令して、士卒を選(えら)んで訓練させて、後に奈良県に進軍して、神武(じんむ)統一(崇神(すじん)統一)神話が奈良県の敵対勢力を懐柔(かいじゅう)や討伐して、統一の意味が分立する者を統合して支配することで、僕が神武(じんむ)統一(崇神(すじん)統一)神話と名付けた。
饒速日尊(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の河内(かわち;大阪府東部)の天孫降臨神話は、崇神(すじん)東征5年後半から崇神(すじん)東征6年2月19日(西暦81年後半から82年3月中旬頃)までに河内(かわち)を平定して、神武(じんむ)統一(崇神(すじん)統一)神話が神武(じんむ)統一(崇神(すじん)統一)1年2月20日から神武(じんむ)統一(崇神(すじん)統一)2年メ月20日(西暦82年3月中旬頃から83年11月中旬頃)までで、前後関係が正しいと考えられる。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の神武(じんむ)統一1年2月20日から神武(じんむ)統一2年メ月10日(紀元前662年3月中旬頃から661年11月上旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』と『日本書紀』から求めた僕の自論の崇神(すじん)統一1年2月20日から崇神(すじん)統一2年メ月10日(西暦82年3月中旬頃から83年11月上旬頃)が正しい。)

『日本書紀』の崇神(すじん)統一2年8月16日(西暦83年9月中旬頃)に崇神(すじん)天皇は、正妃を選(えら)ぼうと思って、貴族の子女を探(さが)して、9月24日(西暦83年10月下旬頃)に媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと;御井津比売(みいつひめ)を祖先化)が正妃になって、崇神(すじん)天皇元年2月16日(西暦84年3月中旬頃)に10才の御井津比売(みいつひめ)が皇后になった。
『日本書紀』神武(じんむ)統一2年8月16日と9月24日は、崇神(すじん)統一2年8月16日と9月24日(西暦83年9月中旬頃と10月下旬頃)に修正して、皇后の選定と任命の前後関係を証明して、崇神(すじん)統一1年から2年(西暦82年から83年)に奈良県の敵対勢力を懐柔(かいじゅう)や討伐して、国家成立の前後関係も事実(現実に起きた出来事)と証明した。
神武(じんむ)天皇の皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)は、崇神(すじん)天皇の皇后の御井津比売(みいつひめ)と仁徳(にんとく)の皇后の磐之媛(いわのひめ)の2人を祖先化して、媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと;磐之媛(いわのひめ)を祖先化)が4世紀前半の仁徳(にんとく)天皇2年6月(西暦335年7月頃)に死去で、出雲(島根県東部)の物部(もののべ)氏の血筋で、古墳時代前期の4世紀前半に出雲の蹈鞴(たたら)製鉄が存在したと臭(にお)わせる人名と考えられる。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の神武(じんむ)統一2年8月16日と9月24日(紀元前661年9月中旬頃と10月下旬頃)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の崇神(すじん)統一2年8月16日と9月24日(西暦82年9月中旬頃と10月下旬頃)が正しい。)

『ホツマツタエ』の崇神(すじん)統一2年メ月10日(西暦83年11月上旬頃)は、三輪山(みわやま)の大祭をして、祭神が倭大国御魂神(やまとおおくにみたまかみ;大物主神(おおものぬしのかみ)や倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)や大国魂神(おおくにたまのかみ)などを統合した神名)で、実在した初代天皇の崇神(すじん)天皇の即位にあまねく(広く)触(ふ)れたが、三輪山(みわやま)の祭祀(さいし)が後世の崇神(すじん)天皇7年メ月1日(西暦90年11月上旬頃)で、この記述を証明できない。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の神武(じんむ)統一2年メ月10日(紀元前661年11月上旬頃)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の崇神(すじん)統一2年メ月10日(西暦83年11月上旬頃)が正しい。)

三輪山(みわやま)の大物主神(おおものぬしのかみ)は、大和(おおやまと)神社の大国魂神(おおくにたまのかみ)や素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)の息子(孫)の大国御魂(おおくにみたまのかみ;宇迦都久怒(うかずくぬ)を神格化)などと同一神で、『ホツマツタエ』を正しく解釈すれば求められる。

『ホツマツタエ』の神武(じんむ)天皇元年1月1日(崇神(すじん)天皇元年(アスス暦621年)キナエの春1月13日;西暦84年2月中旬頃)に35才の神武(じんむ)天皇(崇神(すじん)天皇)は、おそらく奈良県磯城(しき)郡(奈良県の桜井市全域と橿原市や天理市や宇陀市の一部)で、男性の古代太陽神の饒速日命(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)から神位(神様の地位)を譲(ゆず)られて、皇位(天皇の地位)に変換して、実在した初代天皇に即位した。
『ホツマツタエ』の神武(じんむ)天皇元年1月1日は、崇神(すじん)天皇元年1月13日(西暦84年2月中旬頃)と仁徳(にんとく)天皇元年1月3日(西暦334年2月上旬頃)の両方に修正して、神武(じんむ)東征(仁徳(にんとく)東征)の登場人物が即位に出席して、崇神(すじん)天皇時代を否定した。
神武(じんむ)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)は、奈良県橿原市の皇居の橿原宮(かしはらのみや)で即位して、孝安(こうあん)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)の皇居が奈良県御所市(ごせし)室(むろ)の室秋津嶋宮(むろあきつしまのみや)で、崇神(すじん)天皇の皇居が磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)で、崇神(すじん)天皇陵が奈良県橿原市の瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)で、色々と総合して、奈良県橿原市が正しいと考えられて、2025年8月23日に比較して求めた。
神武(じんむ)天皇元年1月1日(紀元前660年2月11日;建国記念の日)に神武(じんむ)天皇は即位して、孝昭(こうしょう)天皇49年1月1日(西暦49年2月上旬頃)に孝安(こうあん)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)が生まれて、2024年が建国1940年目で、日本国政府が休日の建国記念の日を廃止して、本当の建国記念日(天皇家誕生の日)を新しい国民の休日に制定し直すはずで、正しい西暦年月日を求める必要がある。
(『日本書紀』の崇神(すじん)天皇即位年は、干支(えと)の甲申(きのえさる)の年で、歴史学会(歴史書解釈)の定説の崇神(すじん)天皇元年1月13日(紀元前97年2月中旬頃)が完全な間違いで、『ホツマツタエ』と『日本書紀』から求めた僕の自論の崇神(すじん)天皇元年1月13日(西暦84年2月中旬頃)が正しい。)

崇神(すじん)天皇元年1月13日(西暦84年2月中旬頃)に彦坐王(ひこいますのみこ)は、天皇家の太陽神で、男性の古代太陽神の天照神(あまてるかみ)を祭って、後に女性の太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ)に入れ替わって、後に彦坐王(ひこいますのみこ)と倭姫命(やまとひめのみこと)と神功(じんぐう)皇后も神格化したが、元々の天皇家の太陽神として、非常に重要な意味・価値を忘れ去られた。
崇神(すじん)天皇は、皇室の先祖である太陽神の子孫だが、実兄の彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化した古代太陽神の子孫でなく、崇神(すじん)天皇の息子で、彦坐王(ひこいますのみこ)の孫の垂仁(すいにん)天皇の子孫なら、全ての子孫が彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化した古代太陽神の子孫と考えられる。

神武(じんむ)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)時代は、饒速日命(にぎはやひのみこと;初代出雲国王の彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)が「空見(そらみ)つ日本国(やまとのくに)(大空から眺(なが)めて、良い国だと選ばれた日本(やまと)の国)」と日本の国名を名付けて、大和国の建国神話で、日本と出雲(いずも)の国名を彦坐王(ひこいますのみこ)が名付けた。
古代太陽神の饒速日命(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の神位(神様の地位)は、初代天皇の神武(じんむ)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)の皇位(天皇の地位)に移譲(いじょう)して、僕が神武(じんむ)東征(仁徳(にんとく)東征)神話の後でないと証明して、僕が神武(じんむ)即位(崇神(すじん)即位)神話と名付けた。


崇神(すじん)天皇元年(西暦84年2月中旬頃)から摂政(せっしょう)69年4月17日(西暦329年5月中旬頃)は、日本の建国(天皇家誕生)から神功(じんぐう)皇后の死去までで、時代区分を弥生時代後期と古墳時代から、僕が古墳時代の以前の呼び名である大和時代を再定義して、新しい大和時代(西暦84年から329年)を概念化した。
狭義(きょうぎ;狭(せま)い意味)の大和は、奈良県橿原市と桜井市と天理市の付近を指して、大和国(やまとのくに)が奈良県全体も指して、日本国も「やまとのくに」と発音して、飛鳥(あすか)時代の飛鳥(あすか)が奈良県高市郡(たかいちぐん)明日香村(あすかむら)を指して、奈良時代の奈良が奈良市の平城京(へいじょうきょう)を指して、奈良時代の奈良と奈良県も全く別の意味で、大切な区別である。
大阪府は、弥生時代中期末に大規模集落遺跡の大半が消滅か断絶して、弥生時代後期初頭(西暦100年前後)に小規模集落遺跡が急増して、天皇家誕生で平定した土地を整備した証拠で、朝鮮半島から仕入れた鉄製品を京都府や兵庫県や鳥取県や島根県などの日本海側から運ぶが、鉄製品が重くて運べないために奈良県周辺で、弥生時代後期の鉄製品の出土量が少なくて、弥生時代が稲作で栄えて、鉄製品と米が古代天皇家の権力の象徴と考えられる。

『ホツマツタエ』の崇神(すじん)天皇元年2月16日(西暦84年3月中旬頃)に10才の御間城姫(みいつひめ;御井津比売(みいつひめ)が正しい名前)は、皇后にして3人の妾(めかけ)も地位を上げて、孝安(こうあん)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)時代と合致した。
孝安(こうあん)天皇元年1月7日(紀元前392年2月上旬頃)に孝安(こうあん)天皇は、即位後に2人の妻の地位を上げて、孝安(こうあん)天皇26年2月14日(紀元前367年3月中旬頃)に姪(めい)の押媛(おしひめ;御井津比売(みいつひめ)を祖先化)を皇后にして、孝安(こうあん)天皇26年が崇神(すじん)天皇26年11月1日(西暦109年12月上旬頃)生まれの崇神(すじん)天皇と皇后の御井津比売(みいつひめ)の長男と合致して、事実(現実に起きた出来事)と証明した。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の崇神(すじん)天皇元年2月16日(紀元前97年3月中旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の崇神(すじん)天皇元年2月16日(西暦84年3月中旬頃)が正しい。)

『ホツマツタエ』の神武(じんむ)天皇(崇神(すじん)天皇)3年(西暦86年)に五月雨(さみだれ)は、40日も降(ふ)り続いて、疫病(えやみ)が流行して、稲が稲熱病(いもちびょう)になって、崇神(すじん)天皇の命令で、天種子(あめたねこ;誰か不明)と櫛甕玉(くしみかたま;彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化)が滋賀県の野洲川辺(やすかわべ)に仮屋(かりや)を建てて、祈祷(きとう)した神力で、数年後に疫病(えやみ)が治(おさ)まった。
この疫病(えやみ)は、物部(もののべ)氏の祖先神の直(なお)り大物主神(おおものぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の仕業(しわざ)で、崇神(すじん)天皇4年以降の大物主神(おおものぬしのかみ)の祟(たた)りと合致した。
藤原氏の祖先神の直(なお)り中臣神(なかとみのかみ;誰を神格化したか不明)は、藤原氏の先祖の大鹿島(おおかしま)が垂仁(すいにん)天皇の息子で、祖父の祖別命(みおやわけのみこと)と娘の弟橘姫(おとたちばなひめ)が景行(けいこう)天皇と結婚して、次男の稲瀬彦皇子(いなせひこのみこ)が生まれて、祖別命(みおやわけのみこと)と娘の弟橘姫(おとたちばなひめ)と孫の稲瀬彦皇子(いなせひこのみこ)の先祖が血筋不明の大鹿島(おおかしま)に当たると考えられる。
崇神(すじん)天皇3年(西暦86年)は、すでに滋賀県の野洲川辺(やすかわべ)を統治下に置いて、早い段階から滋賀県の記述が日本神話などに見られると考えられる。崇神(すじん)天皇3年(西暦86年)の疫病(えきびょう)は、古代中国の歴史書などがパンデミック(病気の大流行)を記すか不明で、ネット検索で見つからず、誰か探してほしい。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の神武(じんむ)天皇3年(紀元前658年)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の仁徳(にんとく)天皇3年(西暦336年)が正しい。)

奈良県桜井市の大神(おおみわ)神社の祭神である7人の大物主神(おおものぬしのかみ;7人の出雲国王(物部(もののべ)氏)を神格化)は、大きな物部(もののべ)氏の主(あるじ)を意味して、出雲大社の祭神の初代・大国主神(おおくにぬしのかみ;初代出雲国王の彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)を神格化)が大きな国の主(あるじ)を意味して、神名の意味・価値が重要である。
『ホツマツタエ』の7人の大物主神(おおものぬしのかみ)や初代と2代目の大国主神(おおくにぬしのかみ)は、全て物部(もののべ)氏の出雲国王を神格化して、同一神や別神とする理由が説明できて、超天才の僕が特定した。


『ホツマツタエ』と『日本書紀』の神武(じんむ)統一2年(崇神(すじん)統一2年)3月7日(西暦83年4月上旬頃)は、皇居を作る命令を出して、この月(3月中;西暦83年4月頃)に都造(みやこづく)りに着手して、崇神(すじん)天皇3年9月(西暦86年10月頃)に皇居の磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)が完成して、新しい都市遺跡を一から建造して、当てはまる考古学的証拠がなくて、前後関係の解釈が正しいと考えられる。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の神武(じんむ)統一2年3月7日と崇神(すじん)天皇3年9月(紀元前661年4月上旬頃と紀元前95年10月頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』と『日本書紀』から求めた僕の自論の崇神(すじん)統一2年3月7日と崇神(すじん)天皇3年9月(西暦83年4月上旬頃と西暦86年10月頃)が正しい。)

『ホツマツタエ』の崇神(すじん)天皇4年10月23日(西暦87年11月下旬頃)は、三種の神器の国常立尊(くにのとこたちのみこと)を神璽(かんをして)に付けて、天照神(あまてるかみ)を八咫鏡(やたのかがみ)に付けて、倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)を八重垣剣(やえがきのつるぎ)に付けて、常に祭って皇居に安置したが、その神々の神威が強すぎて、畏(おそ)れ多く思って、病(やまい)を鎮(しず)めるために外(そと)に祭ることにした。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の崇神(すじん)天皇4年10月23日(紀元前94年11月下旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の崇神(すじん)天皇4年10月23日(西暦87年11月下旬頃)が正しい。)

国常立尊(くにのとこたちのみこと;崇神(すじん)天皇を神格化)は、神璽(かんをして)の八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)で、天照神(あまてるかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)を八咫鏡(やたのかがみ)で、倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)を八重垣剣(やえがきのつるぎ)で、それぞれを司(つかさど)ると考えられる。
三種の神器は、その神威が強大すぎて、それぞれバラバラの宮中に安置することにして、これが政教(政治と神道)分離の考え方の始まりで、八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)をまだ神器に加えず、彦坐王(ひこいますのみこ)が預(あず)かって、後に出雲王家(物部(もののべ)氏)の宮殿で保管して、八重垣剣(やえがきのつるぎ)と八咫鏡(やたのかがみ)の二種の神器と考えられる。


『ホツマツタエ』の崇神(すじん)天皇5年(西暦88年)は、疫病(えやみ)が流行して、民の半分が死んで、民が離散して、村を離れ出てしまって、崇神(すじん)天皇が収集しがたい疫病(えやみ)が起こった罪(つみ)の許(ゆる)しを神様に乞(こ)い願って、古代太陽神3神(天照神(あまてるかみ)と倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)と初代・大物主神(おおものぬしのかみ)の3神)を祭ることにした。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の崇神(すじん)天皇5年(紀元前93年)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の崇神(すじん)天皇5年(西暦88年)が正しい。)

『ホツマツタエ』の崇神(すじん)天皇6年9月16日(西暦89年10月中旬頃)の夜に遷宮した奈良県天理市の大和(おおやまと)神社は、日本最古の神社で、神剣の八重垣剣(やえがきのつるぎ)を奉納して、翌日17日(10月中旬頃)の夜に奈良県の元伊勢(元々の伊勢神宮の意味)の笠縫邑(かさぬいのむら)に遷宮して、神鏡の八咫鏡(やたのかがみ)を奉納して、二種の神器の神剣と神鏡がレプリカ(複製品)で、八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)が神器に入らず、『ホツマツタエ』の八重垣剣(やえがきのつるぎ)の伝承が多くて、実在したのが間違いない。
日本最古の元伊勢の笠縫邑(かさぬいのむら)は、狭義(きょうぎ;狭(せま)い意味)の大和に祭って、奈良県の橿原市と桜井市と天理市の付近を指して、明確な候補地を特定できず、現代人の憶測や推測で比定する。
『古語拾遺(こごしゅうい)』は、三種の神器の草薙剣(くさなぎのつるぎ)と八咫鏡(やたのかがみ)の複製品(レプリカ)作成を記して、『ホツマツタエ』の神剣と神鏡の複製品(レプリカ)作成と合致して、三種の神器の八重垣剣(やえがきのつるぎ)と草薙剣(くさなぎのつるぎ)が別物で、『ホツマツタエ』だけが幻(まぼろし)の八重垣剣(やえがきのつるぎ)を記して、八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)が彦坐王(ひこいますのみこ)の預(あず)かりと考えられる。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の崇神(すじん)天皇6年9月16日と17日(紀元前92年10月中旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の崇神(すじん)天皇6年9月16日と17日(西暦89年10月中旬頃)が正しい。)

大和(おおやまと)神社の倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)と笠縫邑(かさぬいのむら)の天照神(あまてるかみ)は、古代太陽神と二種の神器の神威が強大すぎて、それぞれバラバラに安置して、これが政教(政治と神道)分離の考え方の始まりで、古代太陽神の天照神(あまてるかみ)が彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化せず、純粋な天皇家の太陽神の性格が重視されて、太陽神の性質(性格)変化を2025年9月4日の午前10時頃に気付いた。
崇神(すじん)天皇6年9月17日(西暦89年10月中旬頃)の夜に奈良県の元伊勢(元々の伊勢神宮の意味)の笠縫邑(かさぬいのむら)は、伊勢神宮内宮の遷宮で、垂仁(すいにん)天皇26年9月16日(西暦89年10月中旬頃)に天照神(あまてるかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化)を伊勢神宮内宮に最終遷宮して、垂仁(すいにん)天皇26年9月17日(西暦89年10月中旬頃)に豊受大神(とようけおおかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化)を伊勢神宮外宮に最終遷宮した。


『ホツマツタエ』の崇神(すじん)天皇7年メ月1日(西暦90年11月上旬頃)に初代・大田田根子(おおたたねこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化)は、先祖の初代・大物主神(おおものぬしのかみ)の正式な斎主(さいしゅ;神事をする人)になって、磯長尾市(しながおいち)が倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)の斎主(さいしゅ)となって、奈良県桜井市にある御神体山の三輪山(みわやま)の山頂に磐座(いわくら;石の祭壇)を祭ったと考えられる。
磯長尾市(しながおいち)は、倭国造(やまとくにみやつこ)と倭直(やまとのあたい)の先祖で、倭国造(やまとくにみやつこ)で海部(あまべ)氏の倭宿禰命(やまとすくねのみこと)と同族で、彦坐王(ひこいますのみこ)の息子の誰かと考えられるが、特定できるほど情報がなくて、崇神(すじん)天皇6年9月16日(西暦89年10月中旬頃)に渟名城姫命(ぬなきひめのみこと)が倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)を祭ったが、交代したと考えられる。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の崇神(すじん)天皇7年10月1日(紀元前91年11月上旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の崇神(すじん)天皇7年10月1日(西暦90年11月上旬頃)が正しい。)

三輪山(みわやま)の山頂の磐座(いわくら)は、岩を祭る古代信仰の証拠で、『ホツマツタエ』の解釈から、初代・大物主神(おおものぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)から7代目・大物主神(おおものぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)までの7神を鎮魂(ちんこん)して、超天才の僕しか7人の大物主神(おおものぬしのかみ)の正体を特定できない。
大物主神(おおものぬしのかみ)は、元々独立した日本神話の神様で、後世に『ホツマツタエ』の初代・大物主神(おおものぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)から7代目・大物主神(おおものぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)までを統一して、2代目・大物主神(おおものぬしのかみ;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)と7代目・大物主神(おおものぬしのかみ)が戦死した怨霊(おんりょう;恨(うら)み祟(たた)る霊魂)で、7人の大物主神(おおものぬしのかみ)全員が怨霊(おんりょう)と勘違いされた。
奈良県天理市の大和(おおやまと)神社と奈良県桜井市の大神(おおみわ)神社と所在地不明の元伊勢の笠縫邑(かさぬいのむら)は、倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)と初代・大物主神(おおものぬしのかみ)と天照神(あまてるかみ)の3神が彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化して、神々の共通性や血筋などを超天才の僕が証明した。


『ホツマツタエ』の崇神(すじん)天皇8年(西暦91年)は、高橋邑(たかはしむら;奈良市杏町高橋か天理市櫟本町(いちのもとちょう)付近)の活日(いくひ)と言う人物が初代・大物主神(おおものぬしのかみ)に酒を作って奉納して、12月8日(西暦92年1月上旬頃)に初代・大田田根子(おおたたねこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化)を斎主として、初代・大物主神(おおものぬしのかみ)の祭礼をした時に崇神(すじん)天皇が来られて、活日の献上した神酒(みき)を飲む宴(うたげ)をして、歌を詠(よ)んだ。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の崇神(すじん)天皇8年(紀元前90年)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の崇神(すじん)天皇8年(西暦91年)が正しい。)

『ホツマツタエ』の崇神(すじん)天皇9年3月15日(西暦92年4月中旬頃)の夜は、崇神(すじん)天皇の夢枕に神様が立たれて言って、赤と白と黄の矛を立てて、宇陀(うだ)や墨坂(すみさか)や大阪などの神々を残りなく祭って、死んだ罪人の霊が地上に留(とど)まるから祟(たた)って、4月22日(西暦92年5月下旬頃)に大鹿島(おおかしま;誰か不明)と初代・大田田根子(おおたたねこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化)が魂返(たまがえ)しの秘法で、迷う罪人の霊魂を祭り上げて、これでますます世が明るさを取り戻した。
崇神(すじん)天皇3年(西暦86年)から崇神(すじん)天皇9年4月22日(西暦92年5月下旬頃)は、疫病(えやみ)が初代・大物主神(おおものぬしのかみ)の祟(たた)りと考えられて、大物主神(おおものぬしのかみ)が明確に彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化したと証明できない。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の崇神(すじん)天皇9年3月15日と4月22日(紀元前89年4月中旬頃と5月下旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の崇神(すじん)天皇9年3月15日と4月22日(西暦92年4月中旬頃と5月下旬頃)が正しい。)

『ホツマツタエ』の崇神(すじん)天皇10年9月9日(西暦93年10月上旬頃)は、総大将の彦坐王(ひこいますのみこ)が出陣して、崇神(すじん)天皇11年4月13日(西暦94年5月中旬頃)に奈良県の皇居で、実弟の崇神(すじん)天皇に京都府北部と兵庫県北部の平定と統治者の任命を報告して、彦坐王(ひこいますのみこ)の息子の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)の人名から、丹波国(たにはのくに;古代の京都府北中部)と名付けて、この日を海部(あまべ)氏の誕生とする。
海部(あまべ)氏の誕生は、崇神(すじん)天皇11年4月13日(西暦94年5月中旬頃)で、正式な京都府北部の元伊勢が崇神(すじん)天皇39年3月3日(西暦122年4月上旬頃)に土地を定めた元伊勢籠(この)神社の奥宮(おくみや)の元伊勢真名井(まない)神社で、海部(あまべ)氏が西暦94年から250年頃までどこで暮らしたか不明で、西暦250年から420年頃まで京丹後市の付近で暮らして、その後も詳(くわ)しく知らないため、他人の知識を(か)借りる必要がある。
崇神(すじん)天皇元年2月16日(西暦84年3月中旬頃)に10才の御井津比売(みいつひめ)は、実兄の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)に3人の弟がいて、4つ子の長男なら73年頃の生まれで、おそらく西暦70年より前の生まれで、崇神(すじん)天皇11年4月13日(西暦94年5月中旬頃)に24才以上と考えるのが自然で、海部(あまべ)氏の誕生時に後継者がいて、垂仁(すいにん)天皇25年2月8日(西暦176年3月上旬頃)まで生きて、107才以上の皇室の最高齢と考えられる。
海部(あまべ)氏の本家の系図は、海部直勲尼(あまべのあたいのくんに)の息子が海部直伍佰道祝(あまべのあたいのいほじのはふり)でなく、ここで系図が途絶(とだ)えて、6世代から8世代ほどの空白があると考えられる。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の崇神(すじん)天皇10年9月9日(紀元前88年10月上旬頃)と崇神(すじん)天皇11年4月13日(紀元前87年5月中旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の崇神(すじん)天皇10年9月9日(西暦93年上旬頃)と崇神(すじん)天皇11年4月13日(西暦94年5月中旬頃)が正しい。)

崇神(すじん)天皇10年11月頃(西暦93年12月頃)に女武将の匹女(ひきめ)は、京都府福知山市大江町の有路(ありじ)や千原(せんばら)などで戦死して、崇神(すじん)天皇11年3月頃(西暦94年4月頃)に丹波(たんば)国王の玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)が兵庫県美方郡(みかたぐん)香美町(かみちょう)香住区(かすみく)鎧(よろい)などで戦死して、『但馬国司文書(たじまこくしもんじょ)』と『丹後風土記残缺(たんごふどきざんけつ)』などの分析結果の予測で、書物で戦死した土地が多少変わる。
丹波(たんば)国王の玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)と女武将の匹女(ひきめ)は、日本最古の鬼の伝承で、3つの大江山の鬼退治で最古で、人を鬼と例(たと)えて、僕が女武将の匹女(ひきめ)を丹波(たんば)王妃の可能性を指摘するが、証明できてない。
『但馬国司文書(たじまこくしもんじょ)』は、但馬(たじま;兵庫県北部)の古伝承をまとめた歴史書で、丹波(たんば)平定に国鎮武甕布津御剣(くにしずめたけみかふつのみつるぎ;物部(もののべ)氏の神刀の布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)が登場して、丹波(たんば)王国の戦利品の可能性がある。
京都府北部と兵庫県北部は、弥生時代中期末に大規模集落遺跡の大半が消滅か断絶して、弥生時代後期初頭(西暦100年前後)に小規模集落遺跡が急増して、古代天皇家が土地を整備して、京都府と兵庫県が弥生時代後期に鉄製品が大量出土して、朝鮮半島から持ち込まれたと考えられる。

2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の丹波(たんば;古代の京都府北中部)の天孫降臨神話は、丹波(たんば)の平定神話で、彦坐王(ひこいますのみこ)が丹波(たんば)を平定した証拠で、京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏が丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)の直系子孫で、海部(あまべ)氏の子孫に丹波(たんば)氏が存在しない。
元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏は、今も太陽神を祭る古代豪族の子孫で、日本最古の系図の『海部(あまべ)氏系図』と2代目・火明命(ほあかりのみこと)の神鏡2枚を伝えて、日本最古の伝世鏡(でんせいきょう;埋蔵されずに神社や寺に伝わる鏡)で、古代太陽神氏族の出雲王国(物部(もののべ)氏)と同族である。
2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の神鏡2枚は、邊津鏡(へつかがみ)が前漢(ぜんかん)王朝時代(約2050年前)の内行花文昭明鏡で、息津鏡(おきつかがみ)が後漢(ごかん)王朝時代(約1950年前)の内行花文長宜子孫八葉鏡で前漢(ぜんかん)時代と後漢(ごかん)時代の銅鏡2面で、饒速日命(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と天日槍(あめのひぼこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の神鏡2枚とも合致する。


『ホツマツタエ』の崇神(すじん)天皇12年3月11日(西暦95年4月中旬頃)に彦坐王(ひこいますのみこ)は、奈良県の皇居に行って、実弟の崇神(すじん)天皇に出雲(島根県東部)の平定と出雲王国(物部(もののべ)氏)の建国を報告して、彦坐王(ひこいますのみこ)が出雲国(いつものくに)と命名して、この日が出雲王家(物部(もののべ)氏)の誕生で、古代豪族で強力な武家と考えられる。
彦坐王(ひこいますのみこ)は、春日建国勝戸女(かすがのたけくにかつとめ)と結婚して、娘の沙本之大闇見戸女(さほのおおくらみとめ)が生まれて、娘とも結婚して、沙本毘古王(さほひこのみこ)と袁邪本王(おざほのみこ)と沙本毘売命(さほひめのみこと)と室毘古王(むろひこのみこ)が生まれて、西暦121年から124年頃に狭穂彦王(さほひこのみこ)が生まれて、出雲王家(物部(もののべ)氏)の誕生時に後継者がいなかった。
実在した初代天皇の崇神(すじん)天皇の実兄である彦坐王(ひこいますのみこ)は、初代出雲国王で、出雲王国(物部(もののべ)氏)と京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家である海部(あまべ)氏の始祖(しそ;始まりの先祖)で、太陽神の初代の宮司(神主)で、複数の古代太陽神に神格化した。
古代天皇家は、歴代天皇が崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して代替わりで、出雲王国(物部(もののべ)氏)の国王が生前に退位して、後継者に代替わりした実例を僕が求めて、実兄弟の彦坐王(ひこいますのみこ)と崇神(すじん)天皇の実年齢が高く、他の皇族や古代豪族も実年齢が高くなって、年齢計算が正しい。
崇神(すじん)天皇12年3月11日(西暦95年4月中旬頃)から仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月17日(西暦260年11月中旬頃)は、出雲王国(物部(もののべ)氏)の建国の報告から崩壊(滅亡)までで、7人の物部(もののべ)氏の出雲国王がいて、出雲王国時代と2025年8月25日以降に定義付けて、世間一般の出雲時代と別の認識で、3世紀末から4世紀前半の出雲大社の創建時期を含(ふく)めない。
物部(もののべ)氏の本家の系図は、4代目出雲国王の物部十市根(もののべのといちね)の孫が物部五十琴(もののべのいそこと)で、その息子の物部伊弗(もののべのいこふつ)で、系図が途切(とぎ)れて、物部五十琴(もののべのいそこと)と物部伊弗(もののべのいこふつ)の間に4世代から5世代ほどの空白の世代がいて、5世紀前半の物部伊弗(もののべのいこふつ)から曾曾孫の物部守屋(もののべのもりや)が6世紀後半の587年8月頃に戦死して、物部(もののべ)氏の本家が滅亡した。
は、「草かんむり」に呂の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の崇神(すじん)天皇12年3月11日(紀元前86年4月中旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の崇神(すじん)天皇12年3月11日(西暦95年4月中旬頃)が正しい。)

島根県出雲市斐川町(ひかわちょう)神庭(かんば)の荒神谷(こうじんだに)遺跡は、銅剣358本と銅矛16本と銅鐸(どうたく)6個が出土して、島根県雲南市(うんなんし)加茂町(かもちょう)岩倉(いわくら)の加茂岩倉(かもいわくら)遺跡で、銅鐸(どうたく)39個が出土して、出雲で弥生時代後期に青銅器の祭祀(さいし)が衰退して、近畿地方や東海地方や九州北部などと異なる。
2遺跡の銅鐸(どうたく)は、弥生時代後期に同型の銅鐸(どうたく)が近畿地方を中心に古代天皇家の勢力地から出土して、初代出雲国王で、出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏(物部(もののべ)氏と同族)の先祖である彦坐王(ひこいますのみこ)が弥生時代後期初頭に埋蔵したと考えられて、出雲で弥生時代後期に青銅器の祭祀(さいし)が衰退した時期と合致した。
出雲で青銅器は、弥生時代後期初頭に作られなくなって、日本海側の京都府と兵庫県と鳥取県と島根県が統治下に入って、朝鮮半島から鉄製品を輸入して、まだ国産の鉄器生産ができず、崇神(すじん)天皇58年8月(西暦141年9月頃)に朝鮮半島の加羅国(からのくに)の王子の都怒我阿羅斯等(つのがあらしと)が来日して、朝鮮半島と鉄器生産の関係を考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)で証明した。
日本海側の京都府と兵庫県と鳥取県と島根県は、崇神(すじん)天皇11年から12年(西暦94年から95年)に統治下に入って、弥生時代後期初頭から古墳時代に鉄製品が大量出土して、朝鮮半島から鉄製品を仕入れて、鉄製品が重くて運べないために奈良県周辺で出土せず、鉄製品を溶(と)かして加工して、鉄素材を加工して鉄製品を製作してないと考えられて、2025年9月22日の昼食中に鉄製品急増の理由を求めた。

出雲の建国神話(出雲の国引き神話)は、出雲の創造神の八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)が水神(出雲王家(物部(もののべ)氏)を神格化)で、巨神(きょしん;巨大な神様)でもあって、神様の系図や特徴を詳細に把握した証拠である。
『出雲国風土記(いずものくにふどき)』の出雲の国引き神話(出雲の建国神話)は、出雲(いつも)と名付ける訳(わけ)が八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと;初代出雲国王の彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)が「八雲(やくも)立つ」と言って、だから「八雲(やくも)立つ出雲(いずも)」と言って、スサノヲ(日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)の出雲国(いずものくに)の名付けが嘘(うそ)と考えられる。
男性の古代太陽神の饒速日尊(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神話化)と2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神話化)は、出雲王国(物部(もののべ)氏)と京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家である海部(あまべ)氏の祖先神で、河内(かわち;大阪府東部)を平定した後に大和(奈良県)も平定して、後に丹波(たんば;古代の京都府北中部)と出雲(島根県東部)も平定した。
奈良県桜井市に祭る初代・大物主神(おおものぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神話化)は、島根県の出雲大社に祭る初代・大国主神(おおくにぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神話化)と同一神で、大物主神(おおものぬし)と大国主神(おおくにぬし)の神名が優秀な武将を意味して、彦坐王(ひこいますのみこ)が武家の物部(もののべ)氏の先祖である。
彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫の物部(もののべ)氏は、出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏の先祖で、熊野と醜(色;しこ)と可美(甘美;うまし)の神名や言葉などが共通して、古代太陽神と火の神様と雷神と水神と海神と土の神様に神格化して、古代天皇家を支(ささ)える筆頭氏族だから多く神格化して、太陽神を祭った事実を隠(かく)した。


『日本書紀』の崇神(すじん)天皇17年7月1日(西暦100年8月上旬頃)は、海辺の民に船がなくて、献上品を運ぶのに苦労して、諸国に命じて船を作らせて、10月(11月頃)に初めて船舶(せんぱく;大型の船)を作って、平定した淡路島と四国(香川県と徳島県)から、献上品を運ぶ船と考えられて、出雲までの伝令がたどり着く月日でなくて、出雲に渡る船でない。
『ホツマツタエ』のシマツヒコ(嶋津彦;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、伝説的な舟の創始者で、子孫が船作りと海運に優秀な一族で、彦坐王(ひこいますのみこ)から始まる古代太陽神氏族の物部(もののべ)氏や海部(あまべ)氏なども海洋氏族で、軍船を保有した武家でもあって、西暦100年に船舶(せんぱく;大型の船)を作った一族の可能性が高い。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の崇神(すじん)天皇17年7月1日と10月(紀元前81年8月上旬頃と11月頃)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の崇神(すじん)天皇17年7月1日と10月(西暦100年8月上旬頃と11月頃)が正しい。)

国生み神話の淡路島と阿波国(あわのくに;徳島県)は、兵庫県の淡路島と徳島県の平定神話で、天皇家誕生(日本の建国)の16年後の領土だから、かなり古い日本神話の部類と証明して、淡路島と香川県と徳島県をそれ以前に平定したと証明できない。

兵庫県淡路市の舟木(ふなき)遺跡は、弥生時代後期初頭弥生時代後期末まで鉄器と手工業品を生産して、同じく兵庫県淡路市の五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡が弥生時代後期初頭から100年ほど続く鉄器生産集落で、古代天皇家が鉄器生産した証拠である。
前方後円墳の形の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)は、紀元前3世紀頃(約2200年前)の香川県高松市の高松空港跡地(あとち)遺跡が最古の築造年代で、垂仁(すいにん)天皇元年10月11日(西暦152年11月中旬頃)葬礼の崇神(すじん)天皇陵(崇神(すじん)天皇古墳)が奈良県橿原市の瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)で、前方後円墳の形を採用して、前方後円墳の形の誕生が日本の建国(天皇家誕生)以前である。
徳島県阿南(あなん)市の若杉山辰砂(しんしゃ)採掘遺跡は、弥生時代後期から古墳時代初頭の遺跡で、西暦180年以前に水銀朱が見つかって、垂仁(すいにん)天皇29年(西暦180年)に殺した吉備(きび)国王の温羅(うら)の墓(はか)が岡山県倉敷市の楯築(たてつき)遺跡(2世紀後半)の埋葬施設で、赤い水銀朱の塗料を使って、奈良県桜井市のホケノ山古墳(3世紀前半の前方後円墳)の埋葬施設でも、赤い水銀朱の塗料を使ったと考えられる。

徳島県は、古代に北部が粟(あわ)の生産地で、粟国(あわのくに)と呼んで、南部を長国(ながのくに)と呼んで、7世紀後半の律令制(りつりょうせい)で、南部の長国(ながのくに)も含(ふく)めた粟国(あわのくに)が成立して、8世紀初頭の和銅(わどう)6年(西暦713年)に元明(げんめい)天皇が粟国(あわのくに)を阿波国(あわのくに;徳島県)に改名した。
日本神話の徳島県は、国生み神話で早くできたが、しょせん神話の作り話で、天皇家誕生(日本の建国)の16年後の領土で、『古語拾遺(こごしゅうい)』で、西暦329年から333年の神武(じんむ)東征(仁徳(にんとく)東征)の後で、太玉命(ふとだまのみこと;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)の孫の天富命(あめとみののみこと;誰か不明)を派遣して、徳島県を開拓した伝承などがあって、邪馬台国(やまとこく)論争の阿波(あわ)説が嘘(うそ)である。
『阿波国風土記(あわのくにふどき)』は、興味深い伝承が多いが、根本的に内容が史実・真実・事実か分からないのに信じる馬鹿が多くて、正しく解釈する必要がある。

兵庫県の淡路島は、瀬戸内海の東に浮かぶ島で、日本神話の国生み神話で、最初に生んだ特別な島で、天皇家誕生(日本の建国)の16年後の領土で、古代から大和朝廷と深い関係で、古代から平安時代まで御食国(みけつくに;皇室と朝廷に海水産物などの御食料(みけりょう;穀物以外の副食物)を献上した国)で、仁徳(にんとく)天皇の4つ子の第3子である反正(はんぜい)天皇が淡路島で生まれたが、事実か分からない。
2016年4月8日に兵庫県南あわじ市の砂置き場は、7個の銅鐸(どうたく)を発見して、周辺の地名から松帆銅鐸(まつほどうたく)と名付けて、銅鐸(どうたく)の中でもかなり古い形式で、天皇家誕生以前の紀元前3世紀から2世紀頃に作ったと推定して、墓の副葬品でなく、発見がほとんど偶然で、銅鐸(どうたく)が主に農耕祭祀(さいし)や儀式で使って、音を鳴らす楽器の鈴の証拠がどこにもない。
紀元前後に淡路島は、青銅器文化が栄えた平野の集落遺跡に取って代わって、山間地の集落遺跡が出現して、鉄器文化を畿内地方の中心部に先駆けて取り入れて、古代天皇家が鉄器文化の集落遺跡を作って、応神(おうじん)天皇から仁徳(にんとく)天皇の時代頃に淡路島で水軍などの海人(あま)が活躍して、海人(あま)が3世紀から6世紀頃に淡路島で、塩作りをしたと考古学(遺跡・遺物)で証明した。

『ホツマツタエ』の崇神(すじん)天皇26年11月1日(西暦109年12月上旬頃)に崇神(すじん)天皇と35才頃で皇后の御井津比売(みいつひめ)は、長男の豊城彦命(とよきひこのみこと)を生んで、崇神(すじん)天皇29年1月1日(西暦112年2月上旬頃)に垂仁(すいにん)天皇を生んだ。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の崇神(すじん)天皇26年11月1日と崇神(すじん)天皇29年1月1日(紀元前72年12月上旬頃と紀元前69年2月上旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の崇神(すじん)天皇26年11月1日と崇神(すじん)天皇29年1月1日(西暦109年12月上旬頃と西暦112年2月上旬頃)が正しい。)

日本神話の始源神(一番初めの神様)の国常立尊(くにのとこたちのみこと;崇神(すじん)天皇を神格化)と天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと;崇神(すじん)天皇を神格化)は、多くの書物に妻の女神(御井津比売(みいつひめ)を神話化)が見つからず、息子が実兄弟の弥志理都比古神(みしりつひこのかみ;豊城彦命(とよきひこのみこと)を神格化)と伊弉諾尊(いざなぎのみこと;垂仁(すいにん)天皇を神格化)である。

『ホツマツタエ』の神武(じんむ)天皇30年(アスス87年)夏は、崇神(すじん)天皇30年(西暦113年)と崇神(すじん)天皇37年(西暦120年)の計算が合わなくて、久米命(くめのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化)が数え年77才で、娘の小百合姫(さゆりひめ;狭穂姫(さほひめ)を祖先化)が数え年20才で、崇神(すじん)天皇38年(西暦121年)に彦坐王(ひこいますのみこ)が実年齢76才の計算で、狭穂彦王(さほひこのみこ)の出生年を表わす計算でない。
しかし垂仁(すいにん)天皇7年(西暦158年)夏に戦死した狭穂彦王(さほひこのみこ)は、西暦121年から124年頃の生まれと考えられて、息子が野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(たえまのくえはや)で、崇神(すじん)天皇12年3月11日(西暦95年4月中旬頃)の出雲王家(物部(もののべ)氏)の誕生時に後継者がいなかった。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の神武(じんむ)天皇30年(アスス暦87年;紀元前631年)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の崇神(すじん)天皇30年(西暦113年)と崇神(すじん)天皇37年(西暦120年)が正しい。)

『ホツマツタエ』と『元伊勢の秘宝と国宝海部(あまべ)氏系図』の崇神(すじん)天皇39年3月3日(西暦122年4月上旬頃)は、崇神(すじん)天皇の娘の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が伊勢神宮の斎王(さいおう;伊勢神宮で太陽神に仕(つか)える未婚の皇女)で、京都府宮津市の土地を見つけて、8月18日(西暦122年9月中旬頃)に元伊勢(元々の伊勢神宮の意味)真名井(まない)神社に瑞籬(みずがき;石の祭壇)を作って、2022年が遷宮1900年目である。
崇神(すじん)天皇11年4月13日(西暦94年5月中旬頃)は、奈良県の皇居で、京都府北部と兵庫県北部の平定を報告して、彦坐王(ひこいますのみこ)の息子の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)が京都府北部の統治者(海部(あまべ)氏の先祖)になって、姪(めい)の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が崇神(すじん)天皇39年3月3日(西暦122年4月上旬頃)に京都府宮津市の元伊勢の土地を見つけて、順番の出来事が正しいと証明した。
京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社の奥宮である真名井(まない)神社は、場所が判明した最古の元伊勢で、伊勢神宮内宮の最終遷宮よりも古いため、元伊勢と呼ばれて、石の祭壇が古代信仰の証拠で、元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏が彦坐王(ひこいますのみこ)の息子である丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)の子孫で、丹波(たんば;古代の京都府北中部)の統治者一族である。
京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社は、伊勢神宮の内宮(ないぐう)と外宮(げぐう)が分かれず、一緒に祭って、京都府福知山市大江町の元伊勢の内宮(ないぐう)と外宮(げぐう)が伊勢神宮の内宮(ないぐう)と外宮(げぐう)の最終遷宮より後世で、3世紀後半以降の創建と証明した。
日本最古の書物『ホツマツタエ』は、京都府北部の元伊勢を崇神(すじん)天皇39年3月3日(西暦122年4月上旬頃)と京都府宮津市と天橋立(あまのはしだて)と明記して、もう一つの元伊勢の候補地が福知山市大江町の元伊勢内宮(ないぐう)で、海部(あまべ)氏が3世紀後半以降に創建して、もう一つの元伊勢の候補地が京丹後市丹後町の竹野(たかの)神社で、西暦250年頃に海部(あまべ)氏が創建したと考えられて、もう一つの元伊勢の候補地が京都府舞鶴市の笶原(やはら)神社だが、天平勝宝(てんぴょうしょうほう)元年(西暦749年)頃の創建とされて、それ以前の伝承がない。
京都府北部の元伊勢は、宮津市の元伊勢籠(この)神社と福知山市大江町の元伊勢内宮(ないぐう)以外の候補地が京丹後市丹後町の竹野(たかの)神社で、開化(かいか)天皇(日本武尊(やまとたけのみこと)を祖先化)の妃の竹野媛(たかのひめ;両道入姫(ふたじいりひめ)の宮簀姫(みやずひめ)のどちらかを祖先化)が晩年(ばんねん)に奈良県から帰郷(ききょう)して、西暦250年頃に海部(あまべ)氏が京都府宮津市の元伊勢の分霊(ぶんれい;本社の神霊を別の神社で、分(わ)けて祭ること)である竹野(たかの)神社を創建したと考えられる。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の崇神(すじん)天皇39年3月3日と8月18日(紀元前59年4月上旬頃と9月中旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』と参考文献『元伊勢の秘宝と国宝海部(あまべ)氏系図』(編著者・海部光彦 発行・元伊勢籠神社社務所)から求めた僕の自論の崇神(すじん)天皇39年3月3日と8月18日(西暦112年4月上旬頃と9月中旬頃)が正しい。)

海部(あまべ)氏の祖先神の2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、正式名称が天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)で、男性の古代太陽神の天照神(あまてるかみ)が火明命(ほあかりのみこと)と饒速日命(にぎはやひのみこと)の3神が合体した神名である。
古代太陽神の2代目・天火明命(あめのほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、息子を天香語山命(あめのかごやまのみこと;丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)を神格化)で、孫の天村雲命(あめのむらくものみこと;朝廷別王(みかどわけのみこ)を神格化)を先祖として、海部(あまべ)氏の系図につながる。


『ホツマツタエ』の神武(じんむ)天皇24年(アスス81年;崇神(すじん)天皇41年:西暦124年)に神武(じんむ)天皇(崇神(すじん)天皇でなく、彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化)と阿比良比売(あひらひめ;沙本之大闇見戸女(さほのおおくらみとめ)を祖先化)は、すでに息子の手研耳命(たぎしみみのみこと;狭穂彦王(さほひこのみこ)を祖先化)を生んで、狭穂彦王(さほひこのみこ)が西暦124年以前の生まれと考えられる。
先に神武(じんむ)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)と皇后の五十鈴媛(いすずひめ;御井津比売(みいつひめ)を祖先化)は、兄弟の神八井耳命(かみやいみみのみこと;豊城彦命(とよきひこのみこと)を祖先化)と綏靖(すいぜい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)を生んで、崇神(すじん)天皇と御井津比売(みいつひめ)の息子の豊城彦命(とよきひこのみこと)と垂仁(すいにん)天皇の系図と合致した。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の神武(じんむ)天皇24年(アスス81年;紀元前637年)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の崇神(すじん)天皇41年(西暦124年)が正しい。)

饒速日尊(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、御炊屋姫(みかしやひめ;沙本之大闇見戸女(さほのおおくらみとめ)を神格化)と結婚して、宇摩志麻治命(うましまじのみこと;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格)を生んだ。

『ホツマツタエ』の崇神(すじん)天皇58年8月(西暦141年9月頃)に崇神(すじん)天皇は、福井県敦賀(つるが)市に行った時に朝鮮半島の加羅国(からのくに)の王子の都怒我阿羅斯等(つのがあらしと)が来て、大変に忠義深く仕(つか)えて、地名の福井県敦賀(つるが)市が人名の都怒我阿羅斯等(つのがあらしと)から名付けて、古代天皇家が日本国外の外国と初外交して、丹波(たんば;古代の京都府北中部)王国などが外国と表現しない。
都怒我阿羅斯等(つのがあらしと)は、朝鮮半島から日本にやって来る前に美しい少女を妻にしたいと思って、大阪市の比売語曽(ひめごそ)神社より大分県東国東郡姫島村の比売語曽(ひめごそ)神社に至って、少女が神になったと言って、朝鮮半島が狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱に介入して、少女が狭穂姫(さほひめ)に当たるか分からず、史料が少なすぎて特定できない。
日本海側の京都府と兵庫県と鳥取県と島根県は、崇神(すじん)天皇11年から12年(西暦94年から95年)に統治下に入って、朝鮮半島から鉄製品を仕入れたが、明確な外交関係がないために少量で、崇神(すじん)天皇58年8月(西暦141年9月頃)から加羅国(からのくに)と外交を始めて、弥生時代後期の日本海側で、鉄製品が大量出土して、鉄製品が重くて運べないために奈良県周辺で出土せず、朝鮮半島と鉄器生産の関係を考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)で証明して、2025年9月22日の昼食中に鉄製品急増の理由を求めた。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の崇神(すじん)天皇58年8月(紀元前40年9月頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の崇神(すじん)天皇58年8月(西暦141年9月頃)が正しい。)

加羅国(からのくに)は、『三国志・魏志倭人伝』の狗邪韓国(くやかんこく)で、王都が韓国の釜山(プサン)市に近い金海(キメ)市で、建国が西暦43年と伝承して、2世紀中頃の崇神(すじん)天皇63年(西暦146年)に実在して、国家の実在年代を引き上げて、西暦414年の広開土王碑(こうかいどおうひ)で、任那加羅(みまなから)が史料の初見となる。
弥生時代中期(紀元前4〜3世紀)以降の狗邪韓国(くやかんこく)は、従来の土器と様式の異なる弥生土器が急増して、狗邪韓国(くやかんこく)につながる日本人が進出したと考えられて、1世紀中頃に進んだ社会統合が弁韓(べんかん)諸国に登場して、2世紀から3世紀に朝鮮半島東南部が辰韓(しんかん)と弁韓(べんかん)に分かれて、弁韓(べんかん)地域で一番有力な狗邪韓国(くやかんこく)が金官国(きんかんこく)や駕洛国(からこく)とも言う。
4世紀末から5世紀前半に古代天皇家は、高句麗(こうくり)と激しく戦争して、新羅(しらぎ)と百済(くだら)と加羅(から)を巻き込んで、5世紀後半以降から大加羅国(だいからこく)を中心とする諸国の連合体(後期加羅連盟)ができて、6世紀の西暦532年に任那(みまな)の金官国(きんかんこく)が新羅(しらぎ)に降伏して、562年に大加羅国(だいからこく;高霊;こうれい)が新羅(しらぎ)に滅ぼされて、残る任那(みまな)諸国が新羅(しらぎ)に合併した。
加羅国(からのくに)と任那国(みまなのくに)は、同一国でもあるが、広義と狭義の意味で使われて、ややこしい研究・分析の結果で、歴史が成立した。

初めて朝鮮の国号を生み出した檀君(だんくん)は、朝鮮建国の祖とされる神様で、平壌(ピョンヤン)に都を置いて紀元前2333年に建国したとされて、檀君(だんくん)神話が瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の日向(ひうが;宮崎県)の天孫降臨神話とよく似て、日向(ひうが;宮崎県)の天孫降臨神話が摂政(せっしょう)3年(西暦263年)で、4世紀以降に日向(ひうが;宮崎県)の天孫降臨神話が朝鮮半島に伝わって、檀君(だんくん)神話を作ったのが間違いない。檀君(だんくん)神話は、朝鮮半島の神話で、朝鮮半島の加羅国(からのくに)が最初に登場するため、加羅国(からのくに)の下に記して、檀君(だんくん)神話の研究・分析の結果が間違いと考えにくい。

『ホツマツタエ』の崇神(すじん)天皇63年(西暦146年)に朝鮮の加羅国(からのくに)は、日本語読みの任那国(みまなのくに)の呼び名を与(あた)えて、都怒我阿羅斯等(つのがあらしと)が崇神(すじん)天皇より拝領した土産(みやげ)を新羅国(しらぎのくに)の者に奪われて、この時に両国の戦争が始まって、古代天皇家が日本国外の外国と初めて戦争した。
崇神(すじん)天皇は、実兄の彦国葺(ひこくにふく;彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化)の孫の潮乗津彦(しおのりつひこ)を武将に派遣して、背丈が一丈五咫(ひたけいた)で、八十人力を誇りとして、勇猛なことこの上ない人物で、潮乗津彦(しおのりつひこ)に吉(よし)という姓(せい)を授(さず)けた。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の崇神(すじん)天皇63年(紀元前35年)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の崇神(すじん)天皇63年(西暦146年)が正しい。)

古代の朝鮮半島南東部にあった新羅国(しらぎのくに)は、建国が紀元前57年で、当初が国名を斯蘆(しろ)と称して、西暦503年に正式な国名を新羅(しらぎ)にして、『三国史記』新羅本紀が辰韓(しんかん)の斯蘆国(しろのくに)時代から一貫した新羅(しらぎ)の歴史を記すが、4世紀の17代目・奈勿王(なもつおう)以降が史実(歴史上の事実)で、『ホツマツタエ』で、2世紀中頃の崇神(すじん)天皇63年(西暦146年)に実在して、国家の実在年代を引き上げて、西暦935年に滅亡した。
新羅(しらぎ)は、朝鮮半島北部の高句麗(こうくり)と朝鮮半島南西部の百済(くだら)との並立時代を経過して、7世紀中頃までに朝鮮半島中部以南をほぼ統一して、高麗(こうらい)と李氏(りし)朝鮮に続く後世の朝鮮半島国家の祖形となって、内乱や飢饉(ききん)で、国力を弱体化して、高麗(こうらい)に降伏して、国が滅亡した。
6世紀中頃に新羅(しらぎ)は、朝鮮半島中南部の加羅(から)諸国を滅亡させて、その支配下に置いて、7世紀に古代中国の唐(とう)が西暦660年に百済(くだら)で、西暦668年に高句麗(こうくり)を滅亡させる過程で、新羅(しらぎ)が唐(とう)軍の指揮下で、軍事的に協力した。
その後に唐(とう)は、吐藩(とばん;7世紀初めから9世紀中頃のチベットの統一王国)と戦争を開始すると、新羅(しらぎ)が反旗を翻(ひるがえ)して、旧百済(くだら)領の全域と旧高句麗(こうくり)の南半分を統治した唐(とう)の役所を襲撃して、官員を殺して、新羅(しらぎ)が朝鮮半島中南部の統一に成功して、首都(国都)がだいたい金城(現在の慶尚北道慶州市)に置いた。
9世紀末に新羅(しらぎ)の国力は、衰退して百済(くだら)と高句麗(こうくり)の再興を目指す勢力が台頭して、後百済(ごくだら)と後高句麗(ごこうくり)との三つ巴の抗争になって、最終的に新羅(しらぎ)が後高句麗(ごこうくり)から興(おこ)った高麗(こうらい)に帰順して、その歴史を終えた。

新羅(しらぎ)王朝は、3氏が王朝交代して、朴(ぼく)氏(紀元前57年から西暦57年)と昔(せき)氏(西暦57年から261年)と金(きん)氏(西暦261年から935年)に当たって、昔(せき)氏の脱解(だっかい;西暦57年から80年在位)の母が倭国(わこく;古代日本国)の東北一千里にある多婆那国(たばなこく;丹波国か但馬国?)の王妃で、妊娠して7年たって大きな卵を産んで、不吉だとして箱に入れて海に流して、やがて辰韓に流れ着いて老婆の手で箱が開けられて、中から一人の男の子が出てきた。
箱が流れ着いた時は、鵲(かささぎ)が側(そば)にいたので、鵲(かささぎ)の字を略して、「昔(せき)」を名字(みょうじ)として、箱を開けて生まれ出て来たことから、「脱解(だっかい)」を名前として、後に2代目・新羅(しらぎ)王の南解次次雄(なんかいじじゆう)の娘(阿孝夫人)の婿(むこ)になって、さらに後に王位を譲(ゆず)られて、昔(せき)氏の王朝が始まって、脱解(だっかい)が新羅(しらぎ)語で、「太陽」や「日の出」を意味して、日本の古代太陽神の天日槍(あめのひぼこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と合致した。
京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社の伝承は、丹波(たんば;古代の京都府北中部)の人の瓠公(ここう)が新羅(しらぎ)に向かって、脱解(だっかい)王になったと伝えて、多婆那国(たばなこく)が丹波国(たんばのくに)の可能性が高くて、瓠公(ここう)が彦坐王(ひこいますのみこ)の一族の可能性が高くなるが、新羅(しらぎ)王朝が脱解(だっかい)の即位した西暦57年に存在した証拠がなく、『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇63年(西暦146年)に新羅国(しらぎのくに)が古代天皇家と戦争した記述が信頼できる。
崇神(すじん)天皇39年(西暦122年)の天日槍(あめのひぼこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、新羅国(しらぎのくに)の王子だが、間違いなく実在した初代天皇の崇神(すじん)天皇の実兄で、年代が垂仁(すいにん)天皇39年(西暦190年)に修正されて、崇神(すじん)天皇63年(西暦146年)を支持する物でなく、皇室の戸籍簿で、初代天皇の神武(じんむ)天皇の実兄である稲飯命(いなひのみこと)が新羅(しらぎ)王朝の先祖とするが、脱解(だっかい)と稲飯命(いなひのみこと)や彦坐王(ひこいますのみこ)の実在年代が合致しない。
新羅(しらぎ)王朝の脱解(だっかい)王(西暦57年から80年在位)は、新羅国(しらぎのくに)が『ホツマツタエ』の崇神(すじん)天皇63年(西暦146年)に存在して、新羅(しらぎ)王朝が朴(ぼく)氏と昔(せき)氏と金(きん)氏の3氏が王朝交代した伝承などから、脱解(だっかい)王が倭国(わこく;古代日本国)から来て即位した王様だが、古代天皇家と無関係と考えられる。


参考文献『古代日本史への挑戦』の三重県の元伊勢(元々の伊勢神宮の意味)は、崇神(すじん)天皇64年(西暦147年)の伊賀(いが;三重県北西部)の隠市守宮(なばりいちもりのみや)が三重県名張(なばり)市に候補地が複数あって、崇神(すじん)天皇66年(西暦149年)の伊賀(いが)の穴穂宮(あなほのみや)は、三重県伊賀(いが)市に候補地が複数あって、垂仁(すいにん)天皇2年(西暦153年)の伊賀(いが)の敢都美恵宮(あえとみえのみや)が三重県伊賀(いが)市に候補地が2つあって、三重県の平定年代を証明した。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の崇神(すじん)天皇64年と崇神(すじん)天皇66年と垂仁(すいにん)天皇2年(紀元前32年と紀元前30年と紀元前26年)は、完全な間違いで、参考文献『古代日本史への挑戦』(著者・僕 発行・株式会社オカムラ)から求めた僕の自論の崇神(すじん)天皇64年と崇神(すじん)天皇66年と垂仁(すいにん)天皇2年(西暦147年と西暦149年と西暦153年)が正しい。)

崇神(すじん)天皇65年(西暦148年)創建の和歌山県田辺市の熊野本宮(ほんぐう)大社は、熊野大神(くまののおおかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)が死去したから神社を創建して、太陽神の初代の宮司(神主)である彦坐王(ひこいますのみこ)を古代太陽神に神格化して、元伊勢の古代太陽神の天照神(あまてるかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)が誕生して、伊賀(いが;三重県北西部)の元伊勢の創建時期と合致したと考えられて、太陽神の性質(性格)変化を2025年9月4日の午前10時頃に求めた。
崇神(すじん)天皇63年(西暦146年)頃に彦坐王(ひこいますのみこ)は、100才頃で死去して、息子の狭穂彦王(さほひこのみこ)が西暦121年から124年頃の生まれで、22才から27才ほどで、2代目出雲国王に即位したと考えられる。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の崇神(すじん)天皇65年(紀元前33年)は、完全な間違いで、ネット情報から求めた僕の自論の崇神(すじん)天皇65年(西暦148年)が正しい。)

ネット情報の和歌山県田辺市の熊野本宮(ほんぐう)大社創建年は、崇神(すじん)天皇65年(西暦148年)で、祭神の熊野大神(くまののおおかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)が孝昭(こうしょう)天皇45年5月15日(西暦45年6月中旬頃)生まれで、島根県松江市の熊野(くまの)大社も西暦148年頃の創建で、同名の熊野大神(くまののおおかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)を祭ったと考えられて、100才頃まで生きた可能性を2025年8月9日以降に求めた。
島根県松江市の熊野(くまの)大社は、出雲市の出雲大社よりの社格(神社の格付け)が上で、火の神様(物部(もののべ)氏を神格化)が始まる神社とされて、彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫の熊野久須毘命(くまのくすびのみこと;少彦男心命(すくなひこおこころのみこと)を神格化)も火の神様で、和歌山県の熊野(くまの)三山とも深く関係して、熊野(くまの)の名前が物部(もののべ)氏を指して、出雲大社よりも古い島根県最古の神社と考えられる。


『ホツマツタエ』の崇神(すじん)天皇65年7月(西暦148年8月頃)に任那国(みまなのくに;加羅国:からのくに)は、使者の蘇那曷叱智(そなかしち)を派遣して、貢物(みつぎもの)を贈って、任那国(みまなのくに)の位置が筑紫(つくし;九州)から北へ二千程(のり)の海をへだて、新羅国(しらぎのくに)の西南にある。 (歴史学会(歴史書解釈)の定説の崇神(すじん)天皇65年7月(紀元前33年8月頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の崇神(すじん)天皇65年7月(西暦148年8月頃)が正しい。)

『ホツマツタエ』の崇神(すじん)天皇68年12月5日(西暦152年1月上旬頃)に崇神(すじん)天皇は、102才で崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、垂仁(すいにん)天皇元年10月11日(西暦152年11月中旬頃)に亡骸(なきがら)を瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)に葬礼して、5人か33人の殉死(じゅんし)者を供葬して、崇神(すじん)天皇を秋津神(あきつかみ)の神名で祭った。
『ホツマツタエ』の神武(じんむ)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)陵は、33人の殉死(じゅんし;主人の後を追って、従者を生き埋(う)めにすること)者を供葬して、孝安(こうあん)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)陵が5人の殉死(じゅんし)者を供葬して、崇神(すじん)天皇の息子の垂仁(すいにん)天皇陵が殉死(じゅんし)者を供葬せず、正しく解釈した。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の崇神(すじん)天皇68年12月5日(紀元前29年1月上旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の崇神(すじん)天皇68年12月5日(西暦152年1月上旬頃)が正しい。歴史学会(歴史書解釈)の定説の垂仁(すいにん)天皇元年10月11日(紀元前29年11月中旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇元年10月11日(西暦152年11月中旬頃)が正しい。
歴史学会(歴史書解釈)の定説の神武(じんむ)天皇31年4月1日(紀元前630年5月上旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の崇神(すじん)天皇31年4月1日(西暦114年5月上旬頃)が正しい。)


崇神(すじん)天皇陵(崇神(すじん)天皇古墳)は、奈良県橿原市城殿町(しきどのちょう)の瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)で、全長が約26メートルで、2016年に発掘結果を発表して、埋葬者が見つからず、2世紀中頃から後半頃の築造年代で、天皇陵だから前方後円墳の形で、前方後円墳をネット検索して、2022年10月18日に求めて、2025年8月25日以降に僕が崇神(すじん)天皇古墳と名付けた。
崇神(すじん)天皇陵の瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)は、西暦694年に持統(じとう)天皇が作った藤原京の一画にあって、畝傍山(うねびやま)の東南東にあって、皇室の戸籍簿で、初代天皇の神武(じんむ)天皇陵が畝傍山(うねびやま)の北北東の奈良県橿原市大久保町(おおくぼちょう)にある四条ミサンザイ古墳で、神武(じんむ)天皇陵の形が円墳か八角墳で、100%前方後円墳の形でなく、初代天皇陵が畝傍山(うねびやま)の近くにあると証明した。
円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)は、弥生時代の前方後円墳の形をした墓(はか)の名前で、僕が弥生時代と古墳時代の墓(はか)を前方後円墳の名前に統一して、生時代早期から中期の西暦83年までが弥生時代と訂正して、弥生時代後期初頭の西暦84年と古墳時代を区別して、僕の再定義した時代区分を認めるべきと思う。

弥生時代の墓(はか)は、墳丘墓(ふんきゅうぼ)と呼んで、古墳時代の墓(はか)を古墳と呼んで、弥生時代と古墳時代の境目(さかいめ)を2代目天皇の垂仁(すいにん)天皇陵(垂仁(すいにん)天皇古墳)の纏向(まきむく)石塚古墳か3代目天皇の景行(けいこう)天皇陵(景行(けいこう)天皇古墳)の箸墓(はしはか)古墳として、専門家(考古学会と歴史学会)が曖昧(あいまい)に認識して、一般に公表した結果である。
前方後円墳の形の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)は、弥生時代の墓(はか)と定義して、古墳時代の墓(はか)が前方後円墳とするが、そもそも同じ形で曖昧(あいまい)に区別して、弥生時代と古墳時代の時代区分も曖昧(あいまい)で、意見の統一を日本国政府の主導で、専門家(考古学会と歴史学会)が議論すべきと僕は思う。
専門家(考古学会と歴史学会)は、垂仁(すいにん)天皇陵(垂仁(すいにん)天皇古墳)の纏向(まきむく)石塚古墳か景行(けいこう)天皇陵(景行(けいこう)天皇古墳)の箸墓(はしはか)古墳から、古墳時代の始まりだが、超天才の僕が初代天皇の崇神(すじん)天皇陵(崇神(すじん)天皇古墳)である瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)を古墳時代の始まりに再定義したいと思う。

『ホツマツタエ』と『日本書紀』の垂仁(すいにん)天皇2年(西暦153年)は、朝鮮半島の任那国(みまなのくに;加羅国:からのくに)が使者の蘇那曷叱智(そなかしち)を派遣して、垂仁(すいにん)天皇の即位を祝(いわ)って、献上品が贈(おく)られて、この年に新羅国(しらぎのくに)と戦争して、武将の潮乗津彦(しおのりつひこ)を派遣した。
朝鮮半島の加羅国(からのくに)の王子である怒我阿羅斯等(つのがあらしと)は、美しい少女が狭穂姫(さほひめ)の可能性があるが、狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱に朝鮮半島の新羅国(しらぎのくに)が介入したか証明できない。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の垂仁(すいにん)天皇2年(紀元前28年)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇2年(西暦153年)が正しい。)

『ホツマツタエ』の垂仁(すいにん)天皇2年2月(西暦153年3月頃)に垂仁(すいにん)天皇は、彦坐王(ひこいますのみこ)の娘の狭穂姫(さほひめ)を皇后に迎(むか)えて、この前から狭穂姫(さほひめ)が実兄の狭穂彦王(さほひこのみこ)と不貞(ふてい)行為があった。
不倫(ふりん)は、一般的に既婚者(きこんしゃ;配偶者のある人)が配偶者以外の人と交際関係を持つことを指して、特に男女関係の不道徳な関係を意味して、浮気(うわき)と区別して、不貞(ふてい)を既婚者(きこんしゃ)が配偶者以外の異性と性的な関係を持つことで、不貞(ふてい)行為と不倫(ふりん)が同義ともされて、実兄妹の狭穂彦王(さほひこのみこ)と狭穂姫(さほひめ)が結婚前の性的関係で、不貞(ふてい)行為でないが、息子の誉津別命(ほむつわけのみこと)がどちらの子か不明で、不貞(ふてい)行為と認識すべきである。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の垂仁(すいにん)天皇2年2月(紀元前28年3月頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇2年2月(西暦153年3月頃)が正しい。)

伊弉諾尊(いざなぎのみこと;垂仁(すいにん)天皇を神格化)と伊弉冉尊(いざなみのみこと;3人の皇后を神格化)は、神生み神話で、多くの神々を生んだのが嘘(うそ)で、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)を除(のぞ)いた4人が正しくて、火夜子(ひよるこ)と素戔嗚尊(すさのおのみこと)を出雲王家(物部(もののべ)氏)の関係で、重ね合わせることもあって、3人の皇后以外の妃(きさき)を神格化した証拠が絶対に存在しない。

『ホツマツタエ』の垂仁(すいにん)天皇2年12月(西暦154年1月頃)に垂仁(すいにん)天皇と最初の皇后の狭穂姫(さほひめ)は、息子の誉津別命(ほむつわけのみこと)を生んで、垂仁(すいにん)天皇23年10月8日に誉津別命(ほむつわけのみこと)が出雲と関係して、伯父(おじ)の狭穂彦王(さほひこのみこ)が2代目出雲国王で、3人が出雲王家(物部(もののべ)氏)の血筋である。
実兄の狭穂彦王(さほひこのみこ)は、結婚前から狭穂姫(さほひめ)と不貞(ふてい)行為があって、誉津別命(ほむつわけのみこと)が不義の子の可能性から、垂仁(すいにん)天皇の実子と証明できず、以降に誉津別命(ほむつわけのみこと)の子孫が「記紀」に登場しない証拠で、結婚から出生までの期間を逆算して、狭穂彦王(さほひこのみこ)が謀反(むほん)を起こす「きっかけ」で、皇位継承権を持たない黙殺された皇子と考えられる。
邪馬台国(大和国;やまとこく)の垂仁(すいにん)天皇と出雲王家(物部(もののべ)氏)の狭穂彦王(さほひこのみこ)は、従妹(いとこ;実妹)で皇后の狭穂姫(さほひめ)を巡って、不義の子の可能性がある皇子の誉津別命(ほむつわけのみこと)の所有権も絡(から)んで、ややこしい内乱(皇位継承権争い)になった。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の垂仁(すいにん)天皇2年12月(紀元前27年1月頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇2年12月(西暦154年1月頃)が正しい。)

夫婦神の伊弉諾尊(いざなぎのみこと;垂仁(すいにん)天皇を神格化)と伊弉冉尊(いざなみのみこと;狭穂姫(さほひめ)を神格化)は、息子の火夜子(ひよるこ;誉津別命(ほむつわけのみこと)を神格化)を生んで、垂仁(すいにん)天皇の従弟(いとこ)が伯父(おじ)の軻遇突智(かぐつち;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)で、伯父(おじ)と母子が出雲王家(物部(もののべ)氏)の出身で、火の神様に神格化した。
参考文献『完訳秀真伝』の日寄(ひよ)る子(こ)は、僕が火夜子(ひよるこ;誉津別命(ほむつわけのみこと)を神格化)と修正して、誉津別命(ほむつわけのみこと)が狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱の時に生まれて、伊弉冉尊(いざなみのみこと;狭穂姫(さほひめ)を神格化)が生む時に火傷(やけど)して、火夜子(ひよるこ)が火の神様(物部(もののべ)氏を神格化)だから、誉津別命(ほむつわけのみこと)の人名に火(ほ)の人名を付けて、火の神様と火(ほ)の人名が物部(もののべ)氏の共通性と2023年11月29日に気付いた。
出雲王家(物部(もののべ)氏)の火(ほ)の人名は、狭穂彦王(さほひこのみこ)と狭穂姫(さほひめ)と誉津別命(ほむつわけのみこと)以外なら、実兄の弟誉田別尊(ほむだわけのみこと)と誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)など、物部(もののべ)氏の直系子孫の証拠である。
伊弉諾尊(いざなぎのみこと;垂仁(すいにん)天皇を神格化)と伊弉冉尊(いざなみのみこと;狭穂姫(さほひめ)を神格化)の子供は、淡路島(あわじしま:誉津別命(ほむつわけのみこと)を神格化)が吾恥島(あはじしま;吾(われ)は恥(は)ずかしい島)の意味で、同一神の火夜子(ひよるこ;誉津別命(ほむつわけのみこと)を神格化)が不義の子の可能性があって、恥(は)ずかしいと言う意味である。


『ホツマツタエ』の垂仁(すいにん)天皇3年1月(西暦154年2月頃)は、新羅国(しらぎのくに)の王子である天日槍(あめのひぼこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)が息子の諸助(もろすけ;誰を祖先化したか不明)を家臣にしたが、彦坐王(ひこいますのみこ)の息子でなく、敗戦した人質(ひとじち)で、王子の息子(朝鮮語読みの人名が分からない)を家臣にして、垂仁(すいにん)天皇の崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)年から逆算した3年(垂仁(すいにん)天皇37年;西暦188年)と年数が重なると考えられる。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の垂仁(すいにん)天皇3年1月(紀元前27年2月頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇3年1月(西暦154年2月頃)が正しい。)

『ホツマツタエ』の垂仁(すいにん)天皇4年9月1日(西暦155年10月上旬頃)に2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)は、実妹で皇后の狭穂姫(さほひめ)に夫の垂仁(すいにん)天皇を殺して、皇位(天皇の地位)を皇族の自分に渡してほしいとお願いして、謀反(むほん;皇位継承権争い)を計画した。
『ホツマツタエ』の綏靖(すいぜい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)時代の反乱(皇位継承権争い)4年間は、綏靖(すいぜい)反乱1年から4年(紀元前585年から582年)が垂仁(すいにん)天皇4年から7年(西暦155年から158年)の内乱(皇位継承権争い)4年間と合致して、久米道臣(くめみちをみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化)の娘の糸薄依姫(いとすきよりひめ;別名を小百合姫(さゆりひめ):狭穂姫(さほひめ)を祖先化)が神武(じんむ)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)と結婚した。
神武(じんむ)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)の異母兄(従弟;いとこ)の手研耳(たぎしみみ;狭穂彦王(さほひこのみこ)を祖先化)は、結婚前から実妹の狭穂姫(さほひめ)と不貞(ふてい)関係で、垂仁(すいにん)天皇から無理矢理に奪(うば)おうと考えて、狭穂姫(さほひめ)に夫の垂仁(すいにん)天皇を殺してほしいとお願いして、これが謀反(むほん;皇位継承権争い)の全貌(ぜんぼう)である。
大伴(おおとも)氏の本家の系図は、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の子孫が天押日命(天忍日命;あめのおしひのみこと)で、その子孫が道臣(みちおみ)から下(くだ)って武日(たけひ)で、その子孫が大伴室屋(おおとものむろや)などだが、系図がツギハギだらけで、瀛津世襲(おきつよそ)の子孫が大伴武日(おおとものたけひ)で、その子孫の道臣(みちおみ)から、さらに子孫の大伴室屋(おおとものむろや)などに繋(つな)がって、超天才の僕が再現した。
3世紀中頃の大伴武日(おおともたけひ)は、大伴(おおとも)氏の名字(みょうじ)を名乗るが、明確に名字(みょうじ)を名乗ったか調査・研究が必要で、そのような研究も面白いだろう。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の綏靖(すいぜい)反乱1年から4年(紀元前585年から582年)と垂仁(すいにん)天皇4年9月1日(紀元前26年10月上旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇4年から7年(西暦155年から158年)と垂仁(すいにん)天皇4年9月1日(西暦155年10月上旬頃)が正しい。)

武家の大伴(おおとも)氏は、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の子孫の天押日命(天忍日命;あめのおしひのみこと:瀛津世襲(おきつよそ)を神格化)を祖先神で、『ホツマツタエ』の系図が瀛津世襲(おきつよそ)の直系子孫を大伴武日(おおともたけひ)と記して、現在の大伴(おおとも)氏系図が瀛津世襲(おきつよそ)を記さず、正しい系図でない。
天押日命(あめのおしひのみこと:瀛津世襲(おきつよそ)を神格化)の子孫の久米道臣(くめみちをみ;別名を久米命(くめのみこと):彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化)は、大伴武日(おおともたけひ)の直系先祖だが、彦坐王(ひこいますのみこ)が瀛津世襲(おきつよそ)の甥(おい)で、系図が繋(つな)がらなくて、大伴武日(おおともたけひ)が3世紀中頃の武将で、直系子孫の大伴道臣(おおとものみちおみ;別名を久米道臣(くめみちおみ):誰か不明)が4世紀中頃の神武(じんむ)東征(仁徳(にんとく)東征)で活躍した。
久米道臣(くめみちをみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化)は、西暦45年から145年頃まで生きて、伯父(おじ;母の兄)の瀛津世襲(おきつよそ)の直系子孫である大伴道臣(おおともみちおみ;誰か不明)が330年代の武将で、彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫の古代太陽神氏族と別の系譜である。
『ホツマツタエ』の久米命(くめのみこと)と道臣(みちおみ)は、共に彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化した人物と、神武(じんむ)東征(仁徳(にんとく)東征)の道臣(みちおみ;誰か不明:大伴道臣(おおとものみちおみ)が別名を久米道臣(くめのみちおみ)と同一人物)で、久米(くめ)氏の先祖の大久米命(おおくめのみこと;誰か不明)と共に登場した。
『ホツマツタエ』の分析・研究は、共に武家の久米(くめ)氏と大伴(おおとも)氏が同族で、久米(くめ)氏の名字(みょうじ)をいつから名乗ったか不明で、研究してみるのも学問の中(うち)で、2025年9月20日に大伴(おおとも)氏の系図を特定した。


倭国大乱(わこくたいらん)は、2世紀中頃に起きて、日本全土が寒冷期で戦争状態に入ったとか、邪馬台国(やまたいこく)連合で内乱が起きたなど多くの説があって、邪馬台国(やまたいこく)が初めて歴史に登場して、僕だけが西暦156年を始まりと特定した。

『ホツマツタエ』の垂仁(すいにん)天皇5年6月1日(西暦156年7月上旬頃)に垂仁(すいにん)天皇は、奈良県高市(たかいち)郡に滞在して、皇后の狭穂姫(さほひめ)が実兄の狭穂彦王(さほひこのみこ)の謀反(むほん)を告白して、古代天皇家で最初の内乱(皇位継承権争い)が起きた。
神武(じんむ)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)の息子は、実兄弟の神八井耳命(かみやいみみのみこと;豊城彦命(とよきひこのみこと)を祖先化)と綏靖(すいぜい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)で、異母弟(従弟;いとこ)の手研耳命(たぎしみみのみこと;狭穂彦王(さほひこのみこ)を祖先化)が内乱(皇位継承権争い)を起こして、実兄弟の豊城彦命(とよきひこのみこと)と垂仁(すいにん)天皇が協力して、従弟(いとこ)の狭穂彦王(さほひこのみこ)と敵対した。
謀反(むほん)が発覚した垂仁(すいにん)天皇5年6月1日(西暦156年7月上旬頃)は、僕が狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(倭国大乱;わこくたいらん)の始まりで、垂仁(すいにん)天皇7年7月8日(西暦158年8月上旬頃)に野見宿禰(のみのすくね)を3代目出雲国王に任命して、内乱(皇位継承権争い)の決着と定義付けた。
邪馬台国(大和国;やまとこく)時代は、垂仁(すいにん)天皇5年(西暦156年)の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(倭国大乱;わこくたいらん)から摂政(せっしょう)6年(西暦266年)に神功(じんぐう)皇后が西晋(せいしん)王朝の泰始(たいし)2年(西暦266年)に遣使した年号までの合計111年である。
怒我阿羅斯等(つのがあらしと)と美しい少女の記述は、少女が狭穂姫(さほひめ)の可能性があるが、内乱(皇位継承権争い)に朝鮮半島の新羅国(しらぎのくに)が介入したか証明できない。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の垂仁(すいにん)天皇5年6月1日(紀元前25年7月上旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇5年6月1日(西暦156年7月上旬頃)が正しい。)

『日本書紀』の綏靖(すいぜい)反乱(干支(えと)の己卯(つちのとう;紀元前582年)の年)4年11月(紀元前582年12月頃)は、垂仁(すいにん)天皇6年11月(西暦157年12月頃)で、綏靖(すいぜい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)と実兄の神八井耳命(かみやいみみのみこと;豊城彦命(とよきひこのみこと)を祖先化)が協力して、手研耳命(たぎしみみのみこと;狭穂彦王(さほひこのみこ)を祖先化)の攻撃をよく防(ふせ)いで、先帝の山陵(稲城;いなき)を作った。
稲城(いなき)は、弥生時代後期中頃の城(しろ)で、稲作が普及した弥生時代と合致して、稲刈(いねか)りが9月から10月頃で、旧暦11月(12月頃)に刈(か)り取った稲穂(いなほ)で、稲城(いなき)を作った時期が正しい。
『日本書紀』の綏靖(すいぜい)反乱4年(干支(えと)の己卯(つちのとう;紀元前582年)の年)11月は、垂仁(すいにん)天皇7年11月(西暦158年12月頃)に修正すると、戦争が終結して矛盾(むじゅん)するため、垂仁(すいにん)天皇6年11月(西暦157年12月頃)に修正するしかなくて、干支(えと)の60年周期を足し算して、西暦139年(己卯;つちのとう)が垂仁(すいにん)天皇7年(西暦158年)と合致せず、計算して作られた干支年(かんしねん)である。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の綏靖(すいぜい)反乱4年11月(紀元前582年12月頃)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇6年11月(西暦157年12月頃)が正しい。)

『ホツマツタエ』の神武(じんむ)天皇30年(アスス暦87年)夏は、垂仁(すいにん)天皇7年(西暦158年)夏(4月から6月;5月から7月頃)に修正して、皇后の狭穂姫(さほひめ)が手に抱(だ)いた息子の誉津別命(ほむつわけのみこと)を兵士が救出したが、兵士が皇后を助けられず、狭穂姫(さほひめ)が燃(も)える稲城(いなき)に入って、実兄の狭穂彦王(さほひこのみこ)と共に焼死して、反乱(皇位継承権争い)が終戦した。
崇神(すじん)天皇38年(西暦121年)から崇神(すじん)天皇41年(西暦124年)頃の生まれの狭穂彦王(さほひこのみこ)は、33才から36才頃で戦死して、実妹の狭穂姫(さほひめ)が20才から23才くらいに戦死したと考えられて、狭穂彦王(さほひこのみこ)の息子(同母か異母か不明)の野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(たえまのくえはや)が参戦して、野見宿禰(のみのすくね)が垂仁(すいにん)天皇で、当麻蹶速(たえまのくえはや)が父の狭穂彦王(さほひこのみこ)に味方(みかた)したと考えられる。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の神武(じんむ)天皇30年(アスス暦87年;紀元前631年)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇7年(西暦158年)が正しい。)

垂仁(すいにん)天皇は、狭穂彦王(さほひこのみこ)の謀反(むほん;皇位継承権争い)を知らされて、最終決戦地が三重県熊野市有馬町(ありまちょう)の花の窟(いわや)神社か、島根県松江市東出雲町揖屋(いや)の伊賦夜坂(いふやざか)のどちらかで、2つの候補地にまで絞(しぼ)った。
『日本書紀』の黄泉国下(よみのくにくだ)り神話の一書(ある説によると)に登場する花の窟(いわや)神社は、日本最古の神社と錯覚(さっかく)するが、伊弉冉尊(いざなみのみこと;狭穂姫(さほひめ)を神格化)と息子(実兄)の軻遇突智(かぐつち;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)の墓(はか)で、実兄妹の遺体が燃(も)えて残らず、西暦158年以降に岩石の古代信仰の神社に祭って、崇神(すじん)天皇6年9月16日(西暦89年10月中旬頃)の夜に祭った日本最古の神社の大和(おおやまと)神社より後世である。
伊賦夜坂(いふやざか)は、黄泉国(よみのくに)の入り口の黄泉比良坂(よもつひらさか)で、狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱の舞台の可能性が考えられる。軻遇突智(かぐつち;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)は、2代目・大物主神(おおものぬしのかみ;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)と火雷神(ほのいかずちのかみ;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)などと同一神である。

倭国大乱(わこくたいらん)の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(皇位継承権争い)は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと;垂仁(すいにん)天皇を神格化)の黄泉国下(よみのくにくだ)り神話に神話化して、黄泉国(よみのくに)が地獄で、黄泉国下(よみのくにくだ)り神話を京都の民話の『山姥(やまんば)と馬吉』に民間伝承したと僕が証明した。
参考文献『歪(ゆが)められた日本神話』(著者・萩野貞樹 発行・PHP研究所)は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと;垂仁(すいにん)天皇を神格化)が地獄に黄泉国下(よみのくにくだ)りした神話とギリシア神話のオルフェウスが地獄に冥界下(めいかいくだ)りした神話が共通して、共通性の確立が何十万分の一の可能性と書いて、黄泉国下(よみのくにくだ)り神話が戦争を神話化して、古代ギリシアの何らかの戦争を神話化したのがオルフェウス神話でなく、シルクロードでギリシア神話を仕入れて、日本神話に記した可能性が考えられる。
つまりギリシア神話のオルフェウス神話は、戦争を神話化した黄泉国下(よみのくにくだ)り神話と別の物語を神話化して、シルクロードでギリシア神話を知った古代日本人が黄泉国下(よみのくにくだ)り神話を作って、神話の共通性から現代日本人が色々な考察をして、意見の混乱を生んだ可能性があって、古代天皇家がギリシア神話を作った王家と共通の先祖を持つ可能性も考えられる。


『ホツマツタエ』の垂仁(すいにん)天皇7年7月1日(西暦158年8月上旬頃)に焼死した狭穂姫(さほひめ)の代わりに樺井月姫(かばいつきひめ)は、2番目の皇后になって、妹の迦具夜姫(かぐやひめ)を妾(めかけ)にして、皇后が決まって5日(8月上旬頃)にそのお祝いをして、7日(8月上旬頃)の皇后選定後に初めての棚機(たなばた)の祭礼をした。
棚機(たなばた)の祭礼は、『ホツマツタエ』の日本古来の祭りで、蚕(かいこ)と機織(はたお)りを祭って、現在の七夕(たなばた)が中国の西王母(せいおうぼ)信仰に由来して、棚機(たなばた)から七夕(たなばた)に変化したと考えられる。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の垂仁(すいにん)天皇7年7月(紀元前23年8月頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇7年7月(西暦158年8月頃)が正しい。)

『ホツマツタエ』の垂仁(すいにん)天皇7年7月7日(西暦158年8月上旬頃)に初めての棚機(たなばた)の祭礼は、当麻(たえま;奈良県葛城市当麻町(たいまちょう)の統治者の当麻蹶速(たえまのくえはや)が兄弟(同母か異母か不明)の野見宿禰(のみのすくね)と神事の角力(相撲;すもう)の勝負を提案して、3代目出雲国王に任命される権利を賭(か)けた。
翌日の7月8日(西暦158年8月上旬頃)は、日本最古のスポーツの相撲(すもう)をして、兄弟の野見宿禰(のみのすくね)が当麻蹶速(たえまのくえはや)と組み合って投げ倒して、脇(わき)を踏(ふ)み付けて、腰(こし)までを踏(ふ)んで殺して、垂仁(すいにん)天皇が勝者の野見宿禰(のみのすくね)に褒美(ほうび)を与えて、3代目出雲国王に任命して、当麻蹶速(たえまのくえはや)の土地の当麻(たえま;奈良県葛城市当麻町)をもらって、名前が不明の妻を迎(むか)えた。
日本最古のスポーツの相撲(すもう)は、2025年で相撲(すもう)の誕生から1867年目で、邪馬台国(大和国;やまとこく)が歴史に登場した2年後で、古墳で力士(りきし)の埴輪(はにわ)が出土して、日本の国技(こくぎ;国の固有や伝統的な技芸や競技)で、1957年(昭和32年)3月末に女相撲(おんなずもう)を引退した若緑関(わかみどりぜき;遠藤志げのさん)が初めて女性で土俵(どひょう)に上がって、大相撲(おおずもう)の土俵(どひょう)が女人(にょにん)禁制である。
邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の倭国大乱(わこくたいらん)は、垂仁(すいにん)天皇5年6月1日(西暦156年7月上旬頃)から垂仁(すいにん)天皇7年7月8日(西暦158年8月上旬頃)までの狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱で、出雲王家(物部(もののべ)氏)の勢力が衰退(すいたい)して、内乱(皇位継承権争い)後の政治不安で、朝鮮半島との交流を断交した。
2代目出雲国王で父の狭穂彦王(さほひこのみこ)は、33才から36才頃で戦死して、息子の野見宿禰(のみのすくね)が成人年齢で、3代目出雲国王に任命されて、年齢計算が正しいと考えられる。 (歴史学会(歴史書解釈)の定説の垂仁(すいにん)天皇7年7月8日(紀元前23年8月上旬頃)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇7年7月8日(西暦158年8月上旬頃)が正しい。)

出雲王国(物部(もののべ)氏)の崩壊(出雲の国譲(くにゆず)り神話)は、武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)と建御名方神(たけみなかたのかみ;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)が取っ組み合いして、西暦158年より後世の西暦260年間神無月だから、日本最古の相撲(すもう)が日本神話でなく、実話(現実に起きた出来事)と証明した。

『ホツマツタエ』の物部(もののべ)氏の系図は、2代目ホノアカリの息子がニギハヤヒで、その息子がモノベウマシマチで、その息子がモノベトチネで、その息子がモノベナツハナで、その息子がヒコユキで、その息子がイツモシコで、その息子がイツシココロで、子孫にトイチネがいるが、先祖モノベトチネと子孫トイチネが同一人物である。
2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の息子の饒速日命(にぎはやひのみこと;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)は、その息子が可美真手命(うましまじのみこと;野見宿禰(のみのすくね)を神格化)で、その息子が物部十市根(もののべのといちね)で、野見宿禰(のみのすくね)からが物部(もののべ)氏の名字(みょうじ)を名乗ったと分かる。
モノベウマシマチの孫のモノベナツハナまでは、物部(もののべ)氏の名字(みょうじ)を名乗ったが、ヒコユキが景行(けいこう)天皇と物部(もののべ)氏の養女の弟橘姫(おとたちばなひめ)が生んだ長男の神櫛皇子(かんぐしのみこ)で、6代目出雲国王の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)と同一人物で、モノベナツハナとヒコユキの血筋が途絶(とだ)えるためで、正しい血筋を特定した僕が凄(すご)すぎる。

可美真手命(うましまじのみこと;野見宿禰(のみのすくね)を神格化)は、神武(じんむ)東征(父の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱)の武勲(ぶくん)や息子の物部十市根(もののべのといちね)が古代中国から持ち帰った十種(とくさ)の神宝(かんだから)の献上など、動乱の収束に大きく貢献(こうけん)して、神武(じんむ)天皇(垂仁(すいにん)天皇か景行(けいこう)天皇を祖先化)が警察権を持つモノノベ(物部)の役職を作って、その統括(とうかつ)に歴代出雲国王(物部(もののべ)氏)を任命して世襲させて、物部(もののべ)氏が誕生した。
野見宿禰(のみのすくね)は、父の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱で、鎮圧に活躍したのが垂仁(すいにん)天皇時代で、息子の物部十市根(もののべのといちね)が古代中国の後漢(ごかん)王朝から、十種(とくさ)の神宝(かんだから)を持ち帰って、献上したのが景行(けいこう)天皇時代で、物部(もののべ)氏の名字(みょうじ)を名乗った『ホツマツタエ』の前後の記述を詳細に研究・分析する必要がある。
『ホツマツタエ』のモノヘ(物部)氏やモノベ(物部)氏は、役職名のモノノベ(物部)と氏族名が入れ替わった可能性があって、モノノベ(物部)をまとめる剣臣(つるぎとみ;右大臣)のオオモノヌシ(大物主神;おおものぬしのかみ:7人の出雲国王を神格化)が正しくは左大臣で、天皇の次の地位が左大臣で、その次の地位が右大臣で、歴代の出雲国王の地位が非常に重要である。
『ホツマツタエ』の歴代の大物主神(おおものぬしのかみ)は、大きな物部(もののべ)の主(あるじ)を意味して、7人の出雲国王を神格化して、後世に一人の神様の大物主神(おおものぬしのかみ)に統一して、正しい伝承が忘れ去られたと考えられる。

垂仁(すいにん)天皇10年(西暦161年)に創建した美濃(みの;岐阜県南部)の伊久良河宮(いくらがわのみや)天神(てんじん)神社は、岐阜県瑞穂市の元伊勢(元々の伊勢神宮の意味)で、『ホツマツタエ』の元伊勢が…近江(おうみ;滋賀県)から美濃国(みののくに;岐阜県南部)を巡って、伊勢国(三重県中部)の飯野(いいの)に至る。
『倭姫命世紀(やまとひめのみことせいき)』の元伊勢は、垂仁(すいにん)天皇10年(西暦161年)が美濃(みの)の伊久良河宮(いくらがわのみや)で、次の垂仁(すいにん)天皇14年(西暦165年)が尾張(おわり;愛知県西部)の中嶋宮(なかじまのみや;所在地不明)で、垂仁(すいにん)天皇14年(西暦165年)の伊勢(三重県中部)の桑名野代宮(くわなのしろのみや)で、岐阜県と愛知県と三重県の平定が西暦160年頃と考えられる。
垂仁(すいにん)天皇10年(西暦161年から165年)の美濃(みの;岐阜県南部)の統治者は、彦坐王(ひこいますのみこ)の息子の神大根王(かみおおねのみこ)と崇神(すじん)天皇の息子の八坂入彦命(ややさいりひこのみこと)を任命して、『ホツマツタエ』の日本神話で、沫蕩尊(あわなぎのみこと;崇神(すじん)天皇を神格化)が根(ね)の国(岐阜県)を統治して、平定年代が合致した。
美濃(みの;岐阜県南部)の太陽信仰は、2世紀中頃(西暦140年から160年頃)に岐阜県南部の考古学(遺跡・遺物)的に統一して、古代太陽神氏族の和珥(わに)氏の神大根王(かみおおねのみこ)が古代太陽神を祭ったと考えられて、2025年9月2日に記した。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の垂仁(すいにん)天皇10年(紀元前20年)は、完全な間違いで、参考文献『古代日本史への挑戦』(著者・僕 発行・株式会社オカムラ)から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇10年(西暦161年)が正しい。)

『ホツマツタエ』の垂仁(すいにん)天皇12年9月16日(西暦163年10月中旬頃)に垂仁(すいにん)天皇と2番目の皇后の樺井月姫(かばいつきひめ)は、倭姫命(やまとひめのみこと)と倭五狭芹彦命(やまといさせりひこのみこと)と倭稚屋姫命(やまとわかやひめのみこと)の3つ子を生んで、垂仁(すいにん)天皇20年の真冬(西暦171年1月頃)に3番目の皇后の日葉酢媛(ひばすひめ)が次男の景行(けいこう)天皇を生んで、次に実妹の大中姫(おおなかひめ)を生んだ。
邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の卑弥呼(ひみこ)と男弟(だんてい)は、邪馬台卑弥呼(やまとひみこ;倭姫命:やまとひめのみこと)と男弟(だんてい;異母弟)の景行(けいこう)天皇で、「記紀」が景行(けいこう)天皇の実妹を倭姫命(やまとひめのみこと)と記して、『ホツマツタエ』がヤマトヒメの異母弟を景行(けいこう)天皇と事実を記して、正史(正しい歴史)を隠(かく)した。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の垂仁(すいにん)天皇12年9月16日と垂仁(すいにん)天皇20年の真冬(紀元前18年10月中旬頃と紀元前10年1月頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇12年9月16日と垂仁(すいにん)天皇20年の真冬(西暦163年10月中旬頃と西暦171年1月頃)が正しい。)

イザナギ(垂仁(すいにん)天皇を神格化)とイザナミ(樺井月姫(かばいつきひめ)を神格化)は、姉(異母姉)のアマテラス(倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)を生んで、イザナミ(日葉酢媛(ひばすひめ)を神格化)が弟(異母弟)のツクヨミ(景行(けいこう)天皇を神格化)と娘の和歌姫(わかひめ;別名が昼子姫(ひるこひめ):大中姫(おおなかひめ)を神格化)を生んだ。
邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の卑弥呼(ひみこ)と男弟(だんてい)は、『ホツマツタエ』でヤマトヒメの異母弟の景行(けいこう)天皇で、日本神話の姉弟のアマテラス(倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)とツクヨミ(景行(けいこう)天皇を神格化)に当たって、古代天皇家が史実・真実・事実を把握した証拠である。


『ホツマツタエ』の垂仁(すいにん)天皇13年12月1日(西暦165年1月上旬頃)に垂仁(すいにん)天皇と迦具夜姫(かぐやひめ)は、祖別命(みおやわけのみこと)と五十足彦命(いしたりひこのみこと)と胆武別命(いたけわけのみこと)の男子の3つ子を生んで、長男の祖別命(みおやわけのみこと)がおとぎ話の桃太郎のモデルである。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の孝霊(こうれい)天皇13年12月1日(紀元前278年1月上旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇13年12月1日(西暦165年1月上旬頃)が正しい。)

参考文献『古代日本史への挑戦』の垂仁(すいにん)天皇14年(西暦165年)は、尾張(おわり;愛知県西部)の中嶋宮(なかじまのみや;所在地不明)が『倭姫命世紀(やまとひめのみことせいき)』で、倭姫命(やまとひめのみこと)が創建したが、『ホツマツタエ』垂仁(すいにん)天皇12年9月16日(西暦163年10月中旬頃)生まれのヤマトヒメが祭れず、西暦165年に尾張(おわり)氏が男性の古代太陽神を祭って、後世に元伊勢(元々の伊勢神宮の意味)を語(かた)って、これ以前に尾張(おわり)平定が証明できないと考えられる。
垂仁(すいにん)天皇14年(西暦165年)の尾張国(おわりのくに;愛知県西部)は、太陽神を祭る京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏から、分家した尾張(おわり)氏が統治して、西暦165年に尾張(おわり)氏の誰が統治したか不明で、西暦165年頃が尾張(おわり)氏の名字(みょうじ)の誕生と考えられて、2025年10月6日に修正した。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の垂仁(すいにん)天皇14年(紀元前16年)は、完全な間違いで、参考文献『古代日本史への挑戦』(著者・僕 発行・株式会社オカムラ)から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇14年(西暦165年)が正しい。)

参考文献『古代日本史への挑戦』の垂仁(すいにん)天皇14年(西暦165年)は、伊勢(三重県中部)の桑名野代宮(くわなのしろのみや)が三重県桑名(くわな)市に候補地が3つある元伊勢(元々の伊勢神宮の意味)で、この年代に初めて伊勢を平定して、以降に元伊勢を多く伊勢に創建して、垂仁(すいにん)天皇26年9月16日と9月17日(西暦177年10月中旬頃)に伊勢神宮の内宮(ないぐう)と外宮(げぐう)を最終遷宮する「きっかけ」になったと考えられる。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の垂仁(すいにん)天皇14年(紀元前16年)は、完全な間違いで、参考文献『古代日本史への挑戦』(著者・僕 発行・株式会社オカムラ)から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇14年(西暦165年)が正しい。)

西暦180年代頃に女王国の幼少の卑弥呼(ひみこ)は、女王に推薦(すいせん)して共立して、鬼道で民衆を惑(まど)わせたと勘違いした。

垂仁(すいにん)天皇23年1月1日(西暦174年2月上旬頃)に卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)は、2代目の伊勢神宮の斎王(さいおう;太陽神に奉仕する未婚の皇女)となるため、初代の斎王(さいおう)の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に仕(つか)えて、斎王(さいおう)の見習い任命で、仮(かり)の卑弥呼(ひみこ)共立である。
女王と勘違いした卑弥呼(ひみこ)と台与(とよ)は、倭姫命(やまとひめのみこと)と神功(じんぐう)皇后以外に特定できず、女性の太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ)と関連付けるが、理論的に僕にしか求められず、女王が実在した幻想を完全に排除して、僕の求めた歴代天皇時代の証拠が凄(すご)すぎた。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の垂仁(すいにん)天皇23年1月1日(紀元前7年2月上旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇23年1月1日(西暦174年2月上旬頃)が正しい。)

垂仁(すいにん)天皇25年3月10日(西暦176年4月上旬頃)に初代の斎王(さいおう;太陽神に仕(つか)える未婚の皇女)の豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)は102才で、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)を女王国(伊勢国)で、正式な伊勢神宮の斎王(さいおう)に任命して、正式な卑弥呼(ひみこ)共立である。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の垂仁(すいにん)天皇25年3月10日(紀元前5年4月上旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇25年3月10日(西暦176年4月上旬頃)が正しい。)

『ホツマツタエ』の垂仁(すいにん)天皇26年9月16日(西暦177年10月中旬頃)は、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)が14才の誕生日に伊勢神宮内宮(ないぐう)を最終遷宮して、翌日の17日(10月中旬頃)に伊勢神宮外宮(げぐう)を最終遷宮して、伊勢神宮の正式な最終遷宮日で、2年後の2027年10月頃が遷宮1850年目で、正確な西暦年月日を特定して、皇族を招待した祭りを開催(かいさい)したいと思う。
伊勢神宮の内宮(ないぐう)と外宮(げぐう)は、神域のためかネット検索しても、ほとんど考古学的証拠が出てこなくて、史料になる参考文献が少なくて、考えるだけ無駄だが、僕の歴史研究の公表が「きっかけ」になるかもしれない。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の垂仁(すいにん)天皇26年9月16日と17日(紀元前4年10月中旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇26年9月16日と17日(西暦177年10月中旬頃)が正しくて、遷宮年を紀元前の創建2千年以上にしたのがヨーロッパの太陽暦を使用したためである。
『日本書紀』の伊勢神宮内宮(ないぐう)の遷宮日は、垂仁(すいにん)天皇26年10月甲子(きのえね)の日と記すが、ネット検索が西暦177年11月19日で、間違いの可能性がある。)


伊勢神宮内宮(ないぐう)を最終遷宮は、男性の古代太陽神の天照神(あまてるかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)を祭って、天皇家の太陽神や祖先神の性格を祭って、後世に怨霊(おんりょう;恨(うら)み祟(たた)る霊魂)の父方の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)の性格を加(くわ)えて、後世に母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)が天皇家の祖先神や女系男子天皇の性格も加(くわ)えた。
彦坐王(ひこいますのみこ)は、太陽神の初代の宮司(神主)だから、古代太陽神に神格化して、倭姫命(やまとひめのみこと)が伊勢神宮の巫女(みこ)だから、太陽神に神格化して、倭姫命(やまとひめのみこと)が一生独身で、父方の太陽神の血筋が途絶(とだ)えて、母方の祖先神の神功(じんぐう)皇后に太陽神の要素がなくて、これを統合した天照神(あまてるかみ)と天照大神(あまてらすおおみかみ)が生まれて、太陽神の性質(性格)変化を2025年9月4日の午前10時頃に気付いた。

『九鬼文書(くかみもんじょ)』は、太陽神・自然神としての「天照日大神(あまてらすひおおみかみ)」、素盞嗚(すさのお)天皇と並ぶ大女王としての「天照座(あまてらすいます)天皇」、皇室の祖先神としての「天照大日靈(あまてらすおおひるめ)天皇」と言う3人のアマテラスが登場して、僕が特定した天照神(あまてるかみ)の彦坐王(ひこいますのみこ)と天照大神(あまてらすおおみかみ)の倭姫命(やまとひめのみこと)と神功(じんぐう)皇后の3人を神格化したことを指す。


『ホツマツタエ』の垂仁(すいにん)天皇27年2月5日(西暦178年3月上旬頃)に皇女の大中姫(おおなかひめ)は、4代目出雲国王の物部十市根(もののべのといちね)の正妻になって、以降に出雲王家(物部(もののべ)氏)の血筋を皇統に加える代償として、出雲王国の宮殿で保管した神宝の八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)を石上(いそのかみ)神宮に奉納して、二種の神器に八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)を加えて、三種の神器になった。
2代目出雲(物部(もののべ)氏)国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(倭国大乱;わこくたいらん)は、実妹で皇后の狭穂姫(さほひめ)が焼死して、以降に皇統に物部(もののべ)氏の血筋を加えることを禁止して、賠償金(ばいしょうきん)の八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)を献上して、再び皇統に血筋を加える許可を出して、物部(もののべ)氏の高田媛(たかだひめ)と弟橘姫(おとたちばなひめ)が景行(けいこう)天皇の妾(めかけ)になった。
八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)は、出雲神話に登場して、垂仁(すいにん)天皇時代に丹波(たんば;古代の京都府北中部)と奈良県天理市の石上(いそのかみ)神宮に関係して、狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(倭国大乱(わこくたいらん)との関係が明白である。
古代の賠償金(ばいしょうきん)は、物々(ぶつぶつ)交換だけで、現代のお金の流通と違って、古代人と現代人の感覚の違いを理解して、求めることが大切である。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の垂仁(すいにん)天皇87年3月10日(西暦58年4月上旬頃)は、完全な間違いで、干支(えと)の60年間を引き算して、『ホツマツタエ』から求めた垂仁(すいにん)天皇27年2月5日(西暦178年3月上旬頃)が正しい。)

出雲神話の八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)は、大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)と共に国造りした少彦名命(すくなひこなのみこと;少彦男心命(すくなひこおこころのみこと)を神格化)が見つけた玉造(たまつくり)温泉で、櫛明玉命(くしあかるたまのみこと;誰を神格化したか不明)が作った。

垂仁(すいにん)天皇28年10月5日(西暦179年11月上旬頃)は、垂仁(すいにん)天皇の異母兄の倭彦命(やまとひこのみこと)が亡くなって、11月2日(12月上旬頃)に場所不明の桃花鳥坂(つきさか)に葬礼して、従者を生き埋めにしたが、昼夜に泣き呻(うめ)いて、腐(くさ)った肉を犬や鳥が啄(ついば)むなどの悲惨さから、垂仁(すいにん)天皇が殉死(じゅんし;主人の後を追って従者が死ぬこと)を禁止した。
考古学(遺跡・遺物)的な殉死(じゅんし)は、証明されてないが、『魏志倭人伝』と『ホツマツタエ』と「記紀」の記述と埴輪(はにわ)などで証明して、纏向(まきむく)遺跡で見つかった犬の「こまき(2025年10月6日に命名発表)」が日本犬か、中国か朝鮮半島から送られた犬種か、その交雑種の骨で、その時代に野犬もいたと考えられる。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の垂仁(すいにん)天皇28年10月5日と11月2日(紀元前2年11月上旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇28年10月5日と11月2日(西暦179年11月上旬頃と12月上旬頃)が正しい。)

『ホツマツタエ』の垂仁(すいにん)天皇29年(西暦180年)に長男の祖別命(みおやわけのみこと)と三男の胆武別命(いたけわけのみこと)は、吉備(きび;岡山県と広島県東部)国王の温羅(うら;おんら)を殺し、温羅(うら)の墓(はか)が2世紀後半の岡山県倉敷市の楯築(たてつき)遺跡で、埋葬施設の赤色の水銀朱が徳島県阿南(あなん)市の若杉山辰砂(しんしゃ)採掘遺跡で、採掘したと考えられる。
大吉備諸進命(おおきびのもろすすみのみこと;豊城彦命(とよきひこのみこと)を祖先化)は、吉備(きび)平定の総大将で、実弟の孝霊(こうれい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)の息子が兄稚武彦命(えわかたけひこのみこと;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)と弟稚武彦命(おとわかたけひこのみこと;胆武別命(いたけわけのみこと)を祖先化)の兄弟で、兄弟が吉備(きび)平定の武将で、2人共に吉備(きび)氏の先祖とする。
豊城彦命(とよきひこのみこと)は、垂仁(すいにん)天皇36年4月(西暦187年5月頃)か垂仁(すいにん)天皇37年4月(西暦188年5月頃)で、奈良県磯城郡(しきぐん)田原本町(たわらもとちょう)多(おお)の多坐弥志理都比古(おおにいますみしりつひこ)神社に弥志理都比古神(みしりつひこのかみ;豊城彦命(とよきひこのみこ)を神格化)として葬礼した。
西暦180年に胆武別命(いたけわけのみこと)は、吉備(きび)の統治者にして、翌年の西暦181年に実兄の祖別命(みおやわけのみこと)が古代中国に旅立ったが、西暦191年4月頃に帰国して死去して、祖別命(みおやわけのみこと)の息子の吉備武彦(きびたけひこ)を吉備(きび)の統治者にして、祖別命(みおやわけのみこと)と胆武別命(いたけわけのみこと)の兄弟の子孫が娘か孫娘の世代頃に混血して、吉備(きび)氏が誕生して、吉備(きび)氏の名字(みょうじ)を名乗ったと考えられる。
豊城彦命(とよきひこのみこと)と祖別命(みおやわけのみこと)と胆武別命(いたけわけのみこと)の3人は、『ホツマツタエ』と「記紀」の実在年代の計算で、前後関係が論理矛盾しないと僕が証明して、吉備(きび)氏の誕生と歴史なども証明して、吉備(きび)氏が2世紀後半から吉備(きび;岡山県と広島県東部)を統治して、考古学的に吉備(きび)氏が5世紀前半に最盛期を迎(むか)えて、5世紀中頃に2回反乱して、吉備(きび)氏が衰退した。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の孝霊(こうれい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)53年(アスス暦480年;紀元前238年)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇29年(西暦180年)が正しくて、『ホツマツタエ』のアスス暦と西暦年が合致した。)

日本国内で2番目に古い鬼退治の桃太郎は、桃太郎が祖別命(みおやわけのみこと)で、鬼が温羅(うら)で、人を鬼と例(たと)えて、お供(とも)の犬と猿と雉(きじ)に例(たと)えた家臣も僕が詳細に求めて、最も桃太郎の原形に近い古伝承で、完全な事実(現実に起きた出来事)である。
2007年9月に出版した僕の最初の著書は、『三国志・魏志倭人伝』の僕の現代日本語訳で、西暦250年以前の邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の国々を対比して、但馬(たじま;兵庫県北部)と吉備(きび;岡山県と広島県東部)が邪馬台国(大和国;やまとこく)の領土で、因幡(いなば;鳥取県東部)と安芸(あき;広島県東部)より西側が出雲王国(物部(もののべ)氏)の領土と考えられる。
吉備(きび;岡山県と広島県東部)の元伊勢は、崇神(すじん)天皇54年(西暦137年)創建の吉備(きび)の名方浜宮(なかたはまのみや;所在地不明)だが、垂仁(すいにん)天皇26年9月16日(西暦177年10月中旬頃)に伊勢神宮内宮(ないぐう)を最終遷宮して、吉備(きび)平定が西暦180年で、吉備(きび)の元伊勢を紀伊(きい;和歌山県)に書き間違えたと考えられて、正式な元伊勢が和歌山県の候補地2神社で、論理的な年代矛盾で、岡山県と広島県の元伊勢を否定した。
垂仁(すいにん)天皇29年(西暦180年)に滅亡した吉備(きび)王国は、古代中国と非常に大きくつながって、翌年の垂仁(すいにん)天皇30年2月(西暦181年3月頃)に古代中国の後漢(ごかん)王朝に船で向かったと考えられる。

『ホツマツタエ』の垂仁(すいにん)天皇30年2月(西暦181年3月頃)に垂仁(すいにん)天皇は、息子の祖別命(みおやわけのみこと)を後漢(ごかん)王朝の使者の代表に任命して、古代中国に派遣して、お供(とも)が物部十市根(もののべのといちね)と考えられる。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の垂仁(すいにん)天皇90年2月(西暦61年3月頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇30年2月(西暦181年3月頃)が正しくて、歴代天皇時代を西暦1年で、計算した節目である。)

垂仁(すいにん)天皇32年7月6日(西暦183年8月上旬頃)は、皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が亡くなって、葬礼の時に諸臣を集めて、殉死(じゅんし;;主人の後を追って従者が死ぬこと)を止(や)めて、3代目出雲国王の野見宿禰(のみのすくね)が出雲の土部(はじべ)を百人ほど集めて、土偶や様々な形を土で作らせて、今後に土で作った人を生きている人の代わりに陵(みささぎ)に立てようと垂仁(すいにん)天皇に提案して、大いに喜ばれて、野見宿禰(のみのすくね)を埴輪(はにわ)造りの土師(はじ)氏に任命した。
考古学(遺跡・遺物)的な殉死(じゅんし)は、証明されてないが、『魏志倭人伝』と『ホツマツタエ』と「記紀」の記述と埴輪(はにわ)などで証明して、垂仁(すいにん)天皇陵(垂仁(すいにん)天皇古墳)の纏向(まきむく)石塚古墳で出土した最古の土師器(はじき)、景行(けいこう)天皇陵(景行(けいこう)天皇古墳)の箸墓(はしはか)古墳で出土した特殊器台埴輪(はにわ)などで、殉死(じゅんし)と埴輪(はにわ)が史実・真実・事実と証明された。
土師器(はじき)は、弥生式土器の流れを組んで、古墳時代から奈良・平安時代まで生産された素焼きの土器で、特殊器台土器と同じ土器だから最古の土師器(はじき)が特殊器台埴輪(はにわ)につながって、考古学と歴史学を誰も100%否定できない。
出雲の土部(はじべ)を百人ほどは、すでに出雲王国(物部(もののべ)氏)が統治下にあって、正しい史実・真実・事実で、3代目出雲国王の野見宿禰(のみのすくね)が物部(もののべ)氏の出身でも、何もおかしくない。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の垂仁(すいにん)天皇32年7月6日(西暦3年8月上旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇32年7月6日(西暦183年8月上旬頃)が正しい。)

『ホツマツタエ』の綏靖(すいぜい)天皇4年(アスス暦137年)4月は、垂仁(すいにん)天皇36年4月(西暦187年5月頃)か垂仁(すいにん)天皇37年4月(西暦188年5月頃)で、年代計算が正しくて、神八井耳命(かみやいみみのみこと;豊城彦命(とよきひこのみこと)を祖先化)を弥志理都比古神(みしりつひこのかみ)に神格化して、奈良県磯城郡(しきぐん)田原本町(たわらもとちょう)多(おお)の多坐弥志理都比古(おおにいますみしりつひこ)神社に葬礼した。
多坐弥志理都比古(おおにいますみしりつひこ)神社は、弥志理都比古神(みしりつひこのかみ;豊城彦命(とよきひこのみこと)を神格化)を祭って、神八井耳命(かみやいみみのみこと;豊城彦命(とよきひこのみこと)を祖先化)の子孫の多(おお)氏の拠点で、多(おお)氏の子孫で、『古事記』を作った一人の太安万侶(おおのやすまろ)も祭って、豊城彦命(とよきひこのみこと)の子孫の上毛野(かみつけの)氏(群馬県の統治者)と下毛野(しもつけの)氏(栃木県の統治者)が同族である。
『ホツマツタエ』綏靖(すいぜい)天皇4年(アスス暦137年)4月は、垂仁(すいにん)天皇4年9月1日(西暦155年10月上旬頃)に2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)が謀反(むほん)を計画して、実兄弟の神八井耳命(かみやいみみのみこと;豊城彦命(とよきひこのみこと)を祖先化)と綏靖(すいぜい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)が異母兄(従兄;いとこ)の手研耳命(たぎしみみのみこと;狭穂彦王(さほひこのみこ)を祖先化)の反乱(皇位継承権争い)を阻止(そし)したのと合致した。
崇神(すじん)天皇と皇后の御井津比売(みいつひめ)は、『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇26年11月1日(西暦109年12月上旬頃)に長男の豊城彦命(とよきひこのみこと)を生んで、垂仁(すいにん)天皇36年4月(西暦187年5月頃)か垂仁(すいにん)天皇37年4月(西暦188年5月頃)に葬礼して、76才か77才頃に亡くなったと考えられて、2025年9月2日の午後1時頃に特定した。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の綏靖(すいぜい)天皇4年(アスス暦137年)4月(紀元前578年5月頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇36年4月か垂仁(すいにん)天皇37年4月(西暦187年5月頃か西暦188年5月頃)が正しい。)

古代中国に学習するために行った邪馬台国(やまたいこく)は、初めて後漢王朝に遣使して、遣漢使(けんかんし:遣隋使や遣唐使に基づいた僕の造語)で、超天才の僕なら簡単に詳細を特定できるが、現代人(僕以外の人間)が絶対に不可能である。

『ホツマツタエ』の垂仁(すいにん)天皇37年7月10日(西暦188年8月上旬頃)に後漢(ごかん)王朝の皇帝は、祖別命(みおやわけのみこと)に宝物を下賜して、宝物が天日槍(あめのひぼこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の神宝である八種(やくさ)の神宝(かんだから)と饒速日尊(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の神宝である十種(とくさ)の神宝(かんだから)などと合致して、兵庫県の出石(いずし)神社に奉納して、今が行方不明で、3つを特定した。
崇神(すじん)天皇39年(西暦122年)は、垂仁(すいにん)天皇39年(西暦190年)で、垂仁(すいにん)天皇3年が垂仁(すいにん)天皇の死去年(西暦190年)から3年間を逆算した垂仁(すいにん)天皇37年(西暦188年)で、垂仁(すいにん)天皇30年が西暦181年で、垂仁(すいにん)天皇37年が西暦188年で、垂仁(すいにん)天皇88年が西暦181年で、景行(けいこう)天皇元年が西暦191年で、天日槍(あめのひぼこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)に関係した年代が全て合致した。
2007年9月の出版した僕の最初の著書は、天日槍(あめのひぼこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)に関係した年代が垂仁(すいにん)天皇37年(西暦188年)と合致して、男性の古代太陽神3神の神鏡2枚が国宝や重文(重要文化財)に指定せず、国宝に指定する重要な意味・価値があると僕は思う。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の垂仁(すいにん)天皇88年7月10日(西暦59年8月上旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇37年7月10日(西暦188年8月上旬頃)が正しい。)

男性の古代太陽神の天日槍(あめのひぼこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、朝鮮半島の新羅国(しらぎのくに)の王子で、『播磨国風土記(はりまのくにふどき)』で、葦原志挙乎(あしはらしこお;大国主神(おおくにぬしのかみ)の別名)や伊和大神(いわおおかみ;これも大国主神(おおくにぬしのかみ)らしい)と戦って、日本神話に新羅国(しらぎのくに)が登場した。
天日槍(あめのひぼこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の神宝の胆狭浅太刀(いであさのたち)は、饒速日尊(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の神宝の八握剣(やつかのつるぎ)と合致して、国宝の東大寺山(古墳出土)鉄刀が「中平(ちゅうへい)?年五月丙午(ひのえうま)」の文字を刻んで、後漢(ごかん)王朝の中平(ちゅうへい)年間(西暦184年から189年)に当たる。
京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社に伝わる2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の神宝の神鏡2枚(邊津鏡(へつかがみ)と奥津鏡(おきつかがみ)は、日本最古の伝世鏡(でんせいきょう;埋蔵されずに神社や寺に伝わる鏡)で、前漢(ぜんかん)王朝時代(約2050年前)と後漢(ごかん)王朝時代(約1950年前)の銅鏡2面と判明して、3神の神鏡2枚が彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化・神話化して、物部(もののべ)氏と海部(あまべ)氏などが同族で、後漢(ごかん)王朝時代とも合致した。
奥津(沖津;瀛津:おきつ)は、海の沖(おき)を意味して、邊津鏡(辺津;へつかがみ)が海辺(うみべ)を意味して、古代太陽神3神の天日槍(あめのひぼこ)と饒速日尊(にぎはやひのみこと)と2代目・火明命(ほあかりのみこと)の神鏡2枚が共通して、古代中国の後漢(ごかん)王朝が与えた宝物で、渡海(とかい)した銅鏡2面を指して、国宝に指定すべき日本神話や実話(現実に起きた出来事)の共通性である。


『ホツマツタエ』の垂仁(すいにん)天皇39年7月1日(西暦190年8月上旬頃)に垂仁(すいにん)天皇は、78才で崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、垂仁(すいにん)天皇39年12月10日(西暦191年1月上旬頃)に亡骸(なきがら)を纏向(まきむく)石塚古墳に葬礼して、考古学会が3世紀前半の前方後円墳と考えて、2025年8月25日以降に僕が垂仁(すいにん)天皇古墳と名付けた。
古代天皇家は、殉死(じゅんし;主人の後を追って、従者が死ぬこと)を禁止して、垂仁(すいにん)天皇32年7月6日(西暦183年8月上旬頃)に皇后の日葉酢媛(ひばすひめ)陵に殉死(じゅんし)者の代わりの埴輪(はにわ)を立てて、垂仁(すいにん)天皇陵の纏向(まきむく)石塚古墳で、最古の土師器(はじき)を確認して、埴輪(はにわ)が土師器(はじき)の一種である。
『日本書紀』の綏靖(すいぜい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)33年5月(紀元前548年6月頃)は、綏靖(すいぜい)天皇が干支(えと)の癸酉(みずのととり)の日に崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、垂仁(すいにん)天皇39年7月1日(西暦190年8月上旬頃)が癸酉(みずのととり)の日の可能性があって、古代天皇家が垂仁(すいにん)天皇の生没年月日を把握した可能性が高い。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の垂仁(すいにん)天皇99年7月1日と12月10日(西暦70年8月上旬頃と71年1月上旬頃)は、完全な間違いで、干支(えと)の60年間を引き算して、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇39年7月1日と12月10日(西暦190年8月上旬頃と西暦191年1月上旬頃)が正しい。
垂仁(すいにん)天皇元年(西暦152年)から垂仁(すいにん)天皇39年(西暦190年)までは、本当の在位期間だが、歴史学会(歴史書解釈)の定説の垂仁(すいにん)天皇元年(紀元前29年)から垂仁(すいにん)天皇39年(西暦10年)に干支(えと)の60年間を足し算して、垂仁(すいにん)天皇99年(西暦70年)まで増やして偽装工作した。)


『ホツマツタエ』の景行(けいこう)天皇元年3月(西暦191年4月頃)に古代中国から帰国した祖別命(みおやわけのみこと)は、父親の垂仁(すいにん)天皇の死去を知って、禁止した殉死(じゅんし;主人を追って、従者が自殺すること)をしたが、病(やまい)で亡くなった可能性もあって、使者が古代中国の後漢(ごかん)王朝の文化(太陰太陽暦や漢字や製紙業など)を持ち帰った。
2世紀末の西暦191年から数年間は、漢字の音読みと訓読みを作って、音読みが古代中国語読みで、訓読みが古代日本語読みで、3世紀中頃の西暦252年から260年まで在位した仲哀(ちゅうあい)天皇の仲(なか)が哀(かな)しい漢風諡号(しごう)の意味が父親の日本武(やまとたけ)天皇と対立して、内乱(皇位継承権争い)で戦争したからと証明して、5世紀の倭(わ)の五王が人名を歴代天皇の漢風諡号(しごう)の頭文字(かしらもじ)を当てはめて、漢風諡号(しごう)が漢字の音読みである。
古代天皇家の漢字の音読みと訓読みの作成は、ヒラガナ(平仮名)とカタカナ(片仮名)などの日本語の文字(言語)体系を作り上げて、現代日本語読みの基礎を古代天皇家が作ろうとして生まれて、古代天皇家が日本語を作った最大要因と言い換えられて、漢字が言霊(ことだま;言葉の霊魂)とつながって、日本語で霊的な思いさえ伝わって、私見で日本語が世界中で、最優秀の言語だと思う。
高知県南国(なんこく)市の若宮ノ東(わかみやのひがし)遺跡で出土した刻書(こくしょ;表面に文字を記す)土器は、「何不」の文字が刻まれて、「何(なに)も知(し)ら不(ず)」などの文章を想像できて、出土時期が2世紀後半から3世紀中頃だが、漢字を作った時期から考えて、3世紀前半以降と考えられる。
古代の紙(かみ)は、紀元前2世紀頃に古代中国で作成して、2世紀初めの西暦105年頃に後漢(ごかん)王朝の役人の蔡倫(さいりん)が製紙法を改良して、使いやすい実用的な紙(かみ)を大量生産して、漢字の音読みと訓読みの開発・研究に紙(かみ)を使って、『ホツマツタエ』の原本の『ミソギノフミ(禊(みそぎ)の文(ふみ)』を摂政(せっしょう)46年(西暦306年)に神功(じんぐう)皇后に献上して、漢字や製紙業を証明すると考えられる。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の景行(けいこう)天皇元年3月(西暦71年4月頃)は、完全な間違いで、僕の自論の景行(けいこう)天皇元年3月(西暦191年4月頃)が正しい。)

『ホツマツタエ』の武神の5代目オオモノヌシ(大物主;野見宿禰(のみのすくね)を神格化)は、息子のオモイカネ(思兼;物部十市根(もののべのといちね)を神格化)が頭の良い神様だが、武神でなく、その息子のタヂカラヲ(手力雄;物部夏花(もののべのなつはな)を神格化)が武神で、祖父と孫を武神に神格化して、明らかに共通すると証明した。
オモイカネ(物部十市根(もののべのといちね)を神格化)は、古代中国で暦(こよみ;太陰太陽暦)を学んで、後に4代目出雲国王になって、次に暦(こよみ)をムラクモ(牟羅雲;稲瀬彦皇子(いなせひこのみこ)を神格化)が継いで、6代目出雲国王の神櫛皇子(かんぐしのみこ)の実弟で、次に5代目出雲国王のタヂカラヲ(物部夏花(もののべのなつはな)を神格化)が継いで、出雲王家(物部(もののべ)氏)が共通した。


『ホツマツタエ』の景行(けいこう)天皇元年4月末日(西暦191年5月下旬頃)の夜半は、夫の祖別命(みおやわけのみこと)が亡くなった花橘(はなたちばな)が娘の弟橘姫(おとたちばなひめ)を生んで、景行(けいこう)天皇の命令で、花橘(はなたちばな)が3代目出雲国王の野見宿禰(のみのすくね)と再婚して、弟橘姫(おとたちばなひめ)が物部(もののべ)氏の養女になった。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の景行(けいこう)天皇元年4月末日(西暦71年5月下旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の景行(けいこう)天皇元年4月末日(西暦191年5月下旬頃)が正しい。)

椋杵(くらきね;野見宿禰(のみのすくね)を神格化)と指美女(さしみめ;花橘(はなたちばな)を神格化)は、椋子姫(くらこひめ;弟橘姫(おとたちばなひめ)を神格化)を生んだが、椋杵(くらきね)が祖別命(みおやわけのみこと)を神格化した可能性があって、正しく証明できていない。

垂仁(すいにん)天皇13年12月1日(西暦165年1月上旬頃)生まれの祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)は、垂仁(すいにん)天皇30年2月(西暦181年3月頃)に妻の花橘(はなたちばな)を同伴して、古代中国の後漢(ごかん)王朝に出発して、景行(けいこう)天皇元年3月(西暦191年4月頃)に帰国して亡くなって、吉備武彦(きびたけひこ)が弟橘姫(おとたちばなひめ)の同母兄か異母兄か分からなくて、花橘(はなたちばな)が航海中か古代中国で、生んだ同母兄かもしれない。
祖別命(みおやわけのみこと)の息子の吉備武彦(きびたけひこ)は、3世紀初頭の西暦210年頃に成人年齢で、吉備(きび;岡山県と広島県東部)の統治者(吉備(きび)氏)になって、武家の吉備(きび)氏が出雲王国(物部(もののべ)氏)と血縁や地理的に近い。この後は、古代中国の後漢(ごかん)王朝に遣使しなくて、垂仁(すいにん)天皇39年7月1日(西暦190年8月上旬頃)に垂仁(すいにん)天皇が死去したために断交して、景行(けいこう)天皇20年から30年(西暦210年から220年)に再び遣使した。

卑弥呼(ひみこ)の男弟(だんてい)は、実質的に邪馬台国(やまたいこく)を統治して、女王国の卑弥呼(ひみこ)を邪馬台国(やまたいこく)の女王と勘違いして、男弟(だんてい)が卑弥呼(ひみこ)を補佐したと誤訳した。
3世紀頃の邪馬台国(やまたいこく)は、男弟(だんてい)の崇神(すじん)天皇が統治して、卑弥呼(ひみこ)が姑(おば)の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)で、邪馬台国(やまたいこく)と女王国が同一国と勘違いして、日本武尊(やまとたけのみこと)が4世紀前半で、神功(じんぐう)皇后が4世紀後半で、5世紀の倭(わ)の五王が応神(おうじん)天皇から雄略(ゆうりゃく)天皇の7人の中にいると勘違いした。


景行(けいこう)天皇元年7月11日(西暦191年8月中旬頃)に景行(けいこう)天皇は、3代目天皇に即位して、伯父(おじ;父の兄)の祖別命(みおやわけのみこと)の死去、祖別命(みおやわけのみこと)の娘の弟橘姫(おとたちばなひめ)と3代目出雲国王を引退した野見宿禰(のみのすくね)の養子縁組、古代中国の後漢王朝から帰国した使者から、古代中国の文化(製紙業と漢字など)などの報告など、ごたごたして即位まで、時間がかかったと考えられる。
(『日本書紀』の景行(けいこう)天皇即位年は、干支(えと)の辛未(かのとひつじ)の年で、歴史学会(歴史書解釈)の定説の景行(けいこう)天皇元年7月11日(西暦71年8月中旬頃)が完全な間違いで、僕の自論の景行(けいこう)天皇元年7月11日(西暦191年8月中旬頃)が正しい。)

『ホツマツタエ』の景行(けいこう)天皇2年12月15日(西暦193年1月中旬頃)に景行(けいこう)天皇と皇后の八坂高依媛(やさかたかよりひめ)は、息子の日本武尊(やまとたけのみこと)を生んだ。
特別扱いの日本武尊(やまとたけのみこと)は、暴力性が素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)と一緒で、正しく求めると皇太子と天皇で、不倫と内乱(皇位継承権争い)と出雲王国(物部(もののべ)氏)を崩壊させた逆賊で、出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏の先祖で、古代天皇家の有名人の清廉潔白(せいれんけっぱく)な悲劇的英雄の嘘(うそ)を作って、徹底的に事実を隠(かく)した。
日本武尊(やまとたけのみこと)は、可美葦牙彦舅尊(うましあしかびひこじのみこと)と素戔嗚尊(すさのおのみこと)と天穂日命(あめのほひのみこと)と建御名方神(たけみなかたのかみ)に神格化して、開化(かいか)天皇と武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)と出雲振根(いずもふりね)に祖先化して、成務(せいむ)天皇と大碓命(おおうすのみこと)と同一人物である。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の景行(けいこう)天皇2年12月15日(西暦73年1月中旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の景行(けいこう)天皇2年12月15日(西暦193年1月中旬頃)が正しい。)

月読尊(つくよみのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)と瀬織津姫穂之子(せおりつひめほのこ;八坂高依姫(やさかたかよりひめ)を神格化)は、息子の素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)を生んで、『ホツマツタエ』のスサノヲが日本武尊(やまとたけのみこと)の生まれ変わりと記す。

『ホツマツタエ』の景行(けいこう)天皇4年11月1日(西暦194年12月上旬頃)に景行(けいこう)天皇は、新しい奈良県桜井市の皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや;纏向(まきむく)遺跡)に入って、『日本書紀』から景行(けいこう)天皇58年2月11日(西暦248年3月中旬頃)まで皇居で、仁徳(にんとく)天皇元年(西暦334年)以降に放棄された。
纏向(まきむく)遺跡は、東西が約2キロメートルで、南北が約1.5キロメートルで、後世の皇居の藤原京や平城京にも匹敵する都市遺跡で、邪馬台国(大和国;やまとこく)の王都と勘違いした佐賀県の集落遺跡の吉野ヶ里(よしのがり)遺跡より7から8倍近い規模の大きな遺跡で、2世紀末から4世紀前半の遺跡の存在時期が考古学(遺跡・遺物)的に合致して、100%間違いないと証明した。
纏向(まきむく)遺跡や大和(おおやまと)古墳群は、多くの費用を負担した発掘調査をして、成果を出し続けた背景があるが、超天才の僕が特定した古代天皇家の歴史が嘘(うそ)でなく、考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)が後押しして、全てを否定するのが不可能である。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の景行(けいこう)天皇4年11月1日(西暦74年12月上旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の景行(けいこう)天皇4年11月1日(西暦194年12月上旬頃)が正しい。)

桃は、古来より破邪退魔の力があって、纏向(まきむく)遺跡の3世紀前半の大型建物跡の近くで出土した祭祀土坑(さいしどこう)が祭るために大きく掘(ほ)った穴で、有名なのが桃の種(たね)が約2769個見つかって、2世紀中頃の西暦156年からの狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(倭国大乱;わこくたいらん)を神話化した黄泉国下(よみのくにくだ)り神話で、投げた桃が『古事記』の意富加牟豆美命(大神実命;おおかむづみのみこと:誰を神格化したか不明)の神名で登場して、2つの年代が合致した。
この桃の種(たね)は、名古屋大学などの2018年の調査結果で、西暦135年から230年頃の物と判明して、崇神(すじん)天皇時代から景行(けいこう)天皇時代に当たって、祭りに使ったと考えて間違いなくて、意富加牟豆美命(おおかむづみのみこと)の「美」の漢字から、女神を連想すると考えられる。


総合的に分析した僕の自論は、景行(けいこう)天皇11年(西暦201年)までに邪馬台国(大和国;やまとこく)が山口県と徳島県と高知県を平定して、九州全土の王国と外交して、熊襲(くまそ)王国(熊本県球磨(くま)郡と鹿児島曽於(そお)郡と宮崎県の連合国)とも外交したのが確実である。『ホツマツタエ』の解釈は、景行(けいこう)天皇12年7月(西暦202年8月頃)に古代天皇家は、南九州の熊襲(くまそ)王国(熊本県球磨(くま)郡と鹿児島曽於(そお)郡と宮崎県の連合国)から、貢物(みつぎもの)が献上されなかった。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の景行(けいこう)天皇12年7月(西暦82年8月頃)は、完全な間違いで、総合的に分析した僕の自論の景行(けいこう)天皇12年7月(西暦202年8月頃)が正しい。)

『ホツマツタエ』の景行(けいこう)天皇12年9月5日(西暦202年10月上旬頃)は、周防(すおう;山口県東部)の婆麼(さば;防府市佐波か?)に至って、景行(けいこう)天皇が南の方角を見て、「南の方が何か騒がしく活気付いているが、つつがなく治まっているのだろうか」と言われて、多臣(おおのおみ)の武諸(たけもろ)と紀伊国の菟名手(うなで)と物部(もののべ)氏の夏花(なつはな)の三人を派遣されて、様子をうかがわせた。
この日以降は、九州全土の平定の開始で、景行(けいこう)天皇自身が総大将として、全軍を指揮して、拘奴国(くぬこく;熊襲(くまそ)王国)の討伐を『ホツマツタエ』と『日本書紀』を完全解釈して、もみじヶ丘病院に医療保護入院した2023年7月15日の午後4時頃に求めて、拘奴国(くぬこく)を一般的に「くなこく」と発音するのが間違いである。
4代目出雲国王の物部十市根(もののべのといちね)と皇女の大中姫(おおなかひめ)は、息子の物部夏花(もののべのなつはな)を生んだが、母親が分からないように偽装工作して、九州平定の武将の一人で、後に5代目出雲国王になって、武勇に秀(ひい)でた息子がいなくて、景行(けいこう)天皇と弟橘姫(おとたちばなひめ)の長男の神櫛皇子(かんぐしのみこ)を後継者の6代目出雲国王にした。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の景行(けいこう)天皇12年9月5日(西暦82年10月上旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の景行(けいこう)天皇12年9月5日(西暦202年10月上旬頃)が正しい。)

『ホツマツタエ』の景行(けいこう)天皇16年1月3日(西暦206年2月上旬頃)に景行(けいこう)天皇と物部(もののべ)の養女の弟橘姫(おとたちばなひめ)は、長男の神櫛皇子(かんぐしのみこ)を生んで、6代目出雲国王の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)と同一人物で、この血筋も偽装工作した。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の孝元(こうげん)天皇(景行(けいこう)天皇を祖先化)13年(アスス暦516年)1月3日(紀元前202年2月上旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の景行(けいこう)天皇16年1月3日(西暦206年2月上旬頃)が正しくて、『ホツマツタエ』のアスス暦と西暦年が合致した。)

白人(白仁;しらひと:景行(けいこう)天皇を神格化)と椋子姫(くらこひめ;弟橘姫(おとたちばなひめ)を神格化)は、神狭日(かんさひ;神櫛皇子(かんぐしのみこ)を神格化)と兵主(つわものぬし;津速産霊(つはやむすび)と同一神:稲背彦皇子(いなせひこのみこ)を神格化)を生んで、3つ子の娘の宗像(むなかた)三神を生んで、3つ子が景行(けいこう)天皇19年頃(西暦209年頃)生まれの忍穂耳(おしほみみ;仲哀(ちゅうあい)天皇を神格化)より先に生まれて、5人兄妹と特定した。
月読(つきよみ;景行(けいこう)天皇を神格化)と小益姫早子(こますひめはやこ;弟橘姫(おとたちばなひめ)を神格化)は、3つ子の娘の宗像(むなかた)三神を生んで、長女が瀛津嶋姫竹子(おきつしまひめたけこ)で、次女が江ノ嶋姫瑞子(えのしまひめたきこ)で、三女が市杵嶋姫田奈子(いちきしまひめたなこ)を生んで、3人とも誰を神格化したか分からず、3人とも結婚して子孫もいて、実在した人物を神格化した証拠である。

兵主神(つわものぬしのかみ;別名を津速産霊神(つはやむすびのかみ:稲背彦皇子(いなせひこのみこ)を神格化)は、平安時代の藤原(ふじわら)氏の祖先神で、『富士宮下文書(ふじみやしたもんじょ)』が藤原(ふじわら)氏と物部(もののべ)氏が同族と記して、藤原(ふじわら)氏の祖先神が3系統の物部(もののべ)氏の人物を神格化した混血の血筋と僕が証明した。
藤原(ふじわら)氏系図は、祖先神の5代目・高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)が彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化して、崇神(すじん)天皇時代の先祖の大鹿島(おおかしま)が彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化した可能性が高いが、今の僕でも完全な証明が難しくて、彦坐王(ひこいますのみこ)と証明できるか分からなくて、藤原(ふじわら)氏の祖先神が直(なお)り中臣神(なかとみのかみ)などと呼ばれて、改名(かいめい;名字(みょうじ)を改(あらた)めること)する前の中臣(なかとみ)氏がいつから呼んだか不明である。
中臣鎌足(なかとみのかまたり)は、天智(てんじ)天皇と共に蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)親子を殺して、大化(たいか)の改新(かいしん)などの功績を認められて、死ぬ直前の天智(てんじ)天皇8年10月16日(西暦669年11月14日)頃に天智(てんじ)天皇から藤原姓(せい)を与(あた)えられて、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)と改(あらた)めて、息子の藤原不比等(ふじわらのふひと)以降も、藤原氏を名乗った。


邪馬台国(やまたいこく)は、『後漢書』で拘奴国(くぬこく)と初めて戦争をして、邪馬台国(やまたいこく)が拘奴国(くぬこく)と海を挟(はさ)むと記して、邪馬台国(大和国;やまとこく)と南九州の熊襲(くまそ)で間違いない。

『ホツマツタエ』の景行(けいこう)天皇18年4月3日(西暦208年5月上旬頃)は、熊県(くまのあがた;熊本県球磨(くま)郡)の長である熊津彦(くまつひこ)の兄弟を呼び出して、ところが兄が来たけれど、弟が来なくて、景行(けいこう)天皇が家臣と兄を派遣して諭(さと)させたが、まだ拒(こば)むため弟を殺した。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の景行(けいこう)天皇18年4月3日(西暦88年5月上旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の景行(けいこう)天皇18年4月3日(西暦208年5月上旬頃)が正しい。)

『日本書紀』の景行(けいこう)天皇18年5月(西暦208年6月頃)は、ことごとく襲(そ)の国(鹿児島県曽於(そお)郡)を平定した。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の景行(けいこう)天皇13年5月(西暦83年6月頃)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の景行(けいこう)天皇18年5月(西暦208年6月頃)が正しい。)

『ホツマツタエ』と『日本書紀』から総合的に分析した僕の自論の熊襲(くまそ)王国(熊本県球磨(くま)郡と鹿児島曽於(そお)郡と宮崎県の連合国)は、兄の厚鹿文(あつかや)と弟の鹿文(せかや)が統治して、景行(けいこう)天皇18年4月3日(西暦208年5月上旬頃)に熊本県球磨(くま)郡の厚鹿文(あつかや)を殺して、景行(けいこう)天皇18年5月(西暦208年6月頃)に別働隊で、鹿児島県曽於(そお)郡の鹿文(せかや)を殺して、熊襲(くまそ)王国を平定したと考えられる。
は、「しんにょう」に乍の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
景行(けいこう)天皇は、厚鹿文(あつかや)の娘の辺鹿文(へかや)を熊襲(くまそ)王国の国造(くにみやつこ;統治者)にして、伯父(おじ)か叔父(おじ)の子供の取石鹿文(とりいしかや)と結婚させて、国王一族が代変わりして、代官を置いて、反乱しないように監視した。

『ホツマツタエ』の景行(けいこう)天皇19年9月8日(西暦209年10月上旬頃)に景行(けいこう)天皇一行は、奈良県桜井市の皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや;纏向(まきむく)遺跡)に帰国して、九州全土の平定が終了した。
九州全土の平定は、3世紀初頭の景行(けいこう)天皇12年から19年(西暦202年から209年)で、九州最古の前方後円墳が福岡市の那珂八幡(なかはちまん)古墳が3世紀中頃の築造で、間違いなく正しい考古学的証拠である。吉野ヶ里(よしのがり)遺跡は、邪馬台国(やまたいこく)の王都でなく、国造(くにみやつこ;国主)か県主(あがたぬし)がいた都で、邪馬台国(大和国;やまとこく)の統治下の要衝(ようしょう;交通や商業や軍事などの面から見て、最も大切な場所)と考えられて、非常に大きい意味だが、証明していない。
福岡県宗像(むなかた)市の宗像(むなかた)大社と沖ノ島(おきのしま)は、景行(けいこう)天皇19年(西暦209年)以前に生まれた景行(けいこう)天皇と弟橘姫(おとたちばなひめ)の3つ子の娘を宗像(むなかた)3神に神格化して祭って、沖ノ島(おきのしま)が4世紀から9世紀まで祭祀(さいし)が隆盛して、考古学(遺跡・遺物)的に証明して、僕のホームページに詳細を記す。
弥生時代の北九州の鉄製品は、出土数が全国一位で、景行(けいこう)天皇12年から19年(西暦202年から209年)に九州全土を平定して、崇神(すじん)天皇17年10月(西暦100年11月頃)から船舶(せんぱく;大型の船)で、淡路島と四国(香川県と徳島県)から、大量に献上品を運ばせたように北九州からも献上させて、3世紀前半頃の古墳時代初頭から奈良県周辺で、鉄製品が大量出土して、北九州と鉄器生産の関係を考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)で証明して、2025年9月22日の昼食中に鉄製品急増の理由を求めた。

(歴史学会(歴史書解釈)の定説の景行(けいこう)天皇19年9月8日(西暦89年10月上旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の景行(けいこう)天皇19年9月8日(西暦209年10月上旬頃)が正しい。)

総合的に分析した僕の自論の弟橘姫(おとたちばなひめ)は、義父の野見宿禰(のみのすくね)が景行(けいこう)天皇26年(西暦216年)以前に亡くなったと聞いて、お義父(とう)さん子だったため、落ち込んだ所を義理の息子の日本武尊(やまとたけのみこと)に慰(なぐさ)められて、不倫(ふりん)関係に発展したと考えられる。
『ホツマツタエ』で、造船の神様であるシマツヒコ(嶋津彦;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の7世孫(孫)のカナサキ(野見宿禰(のみのすくね)を神格化)は、ナカクニ(中国;現在の近畿地方にほぼ匹敵)のクニカミ(国守)で、3代目出雲国王として、イサナキ(伊弉諾;垂仁(すいにん)天皇を神格化)とイサナミ(伊弉冉;3人の皇后を神格化)の夫婦神の国家再建に尽力して、アマテルカミ(景行(けいこう)天皇を神格化)の即位でも活躍した。
老(お)いたカナサキ(金析;野見宿禰(のみのすくね)を神格化)は、『古事記』の神名が宇都志日金析命(宇都志日金拆命;うつしひかなさきのみこと)で、アマテルカミ(天照神;景行(けいこう)天皇を神格化)の名代(みょうだい)として、ツクシ(筑紫;九州)全土を統治した。
野見宿禰(のみのすくね)は、景行(けいこう)天皇18年(西暦208年)以降に九州全土を監視して、伊都国(いとこく)の一大率(いちだいそつ;北九州の監察官)に当たって、位登郷(いとごう;福岡県田川郡糸田町(いとだまち)で監視した可能性があるが、伊都国(いとこく)の一大率(いちだいそつ;北九州の監察官)が一軍属や監視の将軍にすぎない可能性も考えられる。


西暦220年に滅亡した古代中国の後漢王朝は、邪馬台国(やまたいこく)が年代不明で遣使して、日本武尊(やまとたけのみこと)と弟橘姫(おとたちばなひめ)の不倫(ふりん)が原因で、出雲王国との政治不安で、古代中国と断交した。

『ホツマツタエ』の景行(けいこう)天皇27年1月12日(西暦217年2月中旬頃)に日本武尊(やまとたけのみこと)は、父親の景行(けいこう)天皇の妾(めかけ)である弟橘姫(おとたちばなひめ)との不倫(ふりん)が発覚して、義理の母子の間に子供ができて、不倫(ふりん)が判明した可能性があって、日本武尊(やまとたけのみこと)の最初の罪(つみ)である。
日本武尊(やまとたけのみこと)と弟橘姫(おとたちばなひめ)の不倫(ふりん)は、素戔嗚尊(すさのおのみこと)と小益姫早子(こますひめはやこ)の不倫(ふりん)、胡久美(こくみ)と椋子姫(くらこひめ)の不倫(ふりん)、開花(かいか)天皇と伊香色謎命(いかがしこめのみこと)の不倫(ふりん)、大碓命(おおうすのみこと)と兄遠子(えとおこ)や弟遠子(おととおこ)の姉妹との不倫(ふりん)など、日本武尊(やまとたけのみこと)の神格化や異母兄弟の不倫(ふりん)などに偽装工作して、100%証明した。
日本武尊(やまとたけのみこと)は、清廉潔白(せいれんけっぱく)な悲劇的英雄の嘘(うそ)を作って、天皇と皇太子の立場を異母兄弟の成務(せいむ)天皇で、弟橘姫(おとたちばなひめ)との不倫を同母兄の大碓命(おおうすのみこと)や神格化した素戔嗚尊(すさのおのみこと)などで、逆賊を祖先化した武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)に押し付けたが、超天才の僕が全て暴(あば)いた。
不倫(ふりん)は、一般的に既婚者(きこんしゃ)が配偶者以外の人と交際関係を持つことを指して、特に男女関係の不道徳な関係を意味して、浮気(うわき)と区別して、不貞(ふてい)を既婚者(きこんしゃ;配偶者のある人)が配偶者以外の異性と性的な関係を持つことで、不貞(ふてい)行為と不倫(ふりん)が同義ともされて、日本武尊(やまとたけのみこと)と弟橘姫(おとたちばなひめ)が不倫(ふりん)で間違いない。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の開化(かいか)天皇7年1月12日(紀元前151年2月中旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の景行(けいこう)天皇27年1月12日(西暦217年2月中旬頃)が正しい。)

景行(けいこう)天皇の妾(めかけ)の弟橘姫(おとたちばなひめ)は、3代目出雲国王の野見宿禰(のみのすくね)の養女で、出雲王国(物部(もののべ)氏)の養女だから、邪馬台国(大和国;やまとこく)と出雲王国との政治不安で、景行(けいこう)天皇30年(西暦220年)に滅亡した古代中国の後漢(ごかん)王朝と同年に建国した魏(ぎ)王朝などと断交したと考えられる。
『後漢書』は、「自(みずか)ら女王国(伊勢国;三重県中部)を西に海を渡って、千里余りで南九州の拘奴国(くぬこく;熊襲(くまそ)王国)に至って、全てが日本の民族でも、天皇に従属しない。」と訳して、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の九州説を否定して、後漢王朝が滅亡する景行(けいこう)天皇30年(西暦220年)までに遣使したと証明した。

『ホツマツタエ』で天照神(あまてるかみ;景行(けいこう)天皇を神格化)の娘の宗像(むなかた)三神は、「記紀」が素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)の娘で、「記紀」を作った8世紀前半の天皇家が日本武尊(やまとたけのみこと)の不倫(ふりん)を理解して、「記紀」の誓約(うけい)神話を作った証拠である。
『ホツマツタエ』のスサノヲ(素戔嗚)とイナダヒメ(稲田姫)は、オオヤヒコ(大屋彦)とオオヤヒメ(大屋姫)とツマツヒメ(抓津姫)とコトヤソ(事八十)と初代オオモノヌシ(大物主)とオオトシ(大歳)とカツラギヒトコトヌシ(葛城一言主)とスセリヒメ(須勢理比売)の8神を生んだ。
『ホツマツタエ』のヤマトタケ(日本武)とオトタチバナヒメ(弟橘姫)は、ワカタケヒコ(稚武彦)とイナリワケ(稲入別)とアシカミカマミ(蘆髪蒲見)とタケコカヒ(武蚕養)とイキナガタワケ(息長田別)とイソメヒコ(五十目彦王)とイガヒコ(伊賀彦)の男ばかりの7人兄弟を生んで、「記紀」が稚武彦王(わかたけひこのみこ)だけで、『先代旧事本紀』が8人で、後世の情報の混乱で、滅茶苦茶になった。
スサノヲ(素戔嗚)とイナダヒメ(奇稲田姫)は、子供の8神がヤマトタケ(日本武)とオトタチバナヒメ(弟橘姫)の7人息子を神格化して、娘のスセリヒメ(須勢理比売)がヤマトタケ(日本武)とフタジイリヒメ(両道入姫)の娘のヌノオリヒメ(布忍姫)を神格化して、1神を除(のぞ)いた7神の計算が合致して、神格化でツマツヒメ(抓津姫)が性別変更したと証明できた。


景行(けいこう)天皇16年1月3日(西暦206年2月上旬頃)生まれの神櫛皇子(かんぐしのみこ)は、6代目出雲国王の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)と同一人物で、孫の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね;たけうちのすくね)が景行天皇45年11月15日(西暦235年12月中旬頃)生まれだから、息子の7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)が景行(けいこう)天皇30年頃(西暦220年頃)生まれになる。
総合的に分析した僕の自論の景行天皇45年11月15日(西暦235年12月中旬頃)は、7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)と布忍姫(ぬのおしひめ)が息子の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね;たけうちのすくね)を生んで、両親が同じ宇迦都久怒(うかずくぬ)が同じぐらいの年齢で、兄か弟か分からず、仁徳(にんとく)天皇元年1月3日(西暦334年2月上旬頃)に98才まで生きて、出雲王家(物部(もののべ)氏)の分家の竹内(たけうち)氏が誕生した時期が出雲王家の崩壊の可能性が高い。
4代目出雲国王の物部十市根(もののべのといちね)の子孫である物部守屋(もののべのもりや)は、用明(ようめい)天皇2年7月(西暦587年8月頃)に断絶した物部(もののべ)氏の本家の人物で、宇迦都久怒(うかずくぬ)が出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏の先祖で、竹内(たけうち)氏が物部(もののべ)氏の本家よりも、千家(せんげ)氏に近い分家と証明したが、物部(もののべ)氏から竹内(たけうち)氏が分家した事実(現実に起きた出来事)が変わらない。
竹内(たけうち)氏の保管する正統『竹内文書(たけのうちもんじょ)』は、出雲王家(物部(もののべ)氏)の伝承が多くて、3世紀中頃生まれの初代・武内宿禰(たけのうちのすくね;たけうちのすくね)から、2020年1月13日に死去した73代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の竹内睦泰(たけうちむつひろ)氏までの系図を記して、日本の建国(天皇家誕生)以前の歴史(縄文時代や弥生時代中期まで)を記す可能性もあるが、僕が文章の全部を証明したわけでなく、一部分にすぎない。
竹内(たけうち)氏の本家の系図は、景行天皇45年11月15日(西暦235年12月中旬頃)生まれの初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)から、直系子孫の平群臣塩手(へぐりのおみのしおて)が用明(ようめい)天皇2年(西暦587年)の13代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の竹内塩手(たけうちのしおて)まで、実在年代が正しくて、系図の途切(とぎ)れが見られない正確な系図と考えられる。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の景行(けいこう)天皇14年11月15日(西暦83年12月中旬頃)は、完全な間違いで、総合的に分析した僕の自論の景行(けいこう)天皇45年11月15日(西暦235年12月中旬頃)が正しい。)

2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)と素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)の娘の須勢理比売(すせりひめ;布忍姫(ぬのおしひめ)を神格化)は、兄弟の事代主神(ことしろぬしのかみ;宇迦都久怒(うかずくぬ)を神格化)と武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)を生んで、兄弟を2025年7月18日の午前中に証明した。

邪馬台国(やまたいこく)は、古代中国の魏(ぎ)王朝の景初(けいしょ)3年6月(西暦239年7月頃)に初めて遣使して、翌年の正始元年(西暦240年)に「親魏倭王(しんぎわおう)」の金印と三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)を卑弥呼(ひみこ)が受け取ったと勘違いして、男弟(だんてい;異母弟)の景行(けいこう)天皇が受け取って、遣魏使(けんぎし;遣隋使や遣唐使に基づいた僕の造語)である。

『日本書紀』と『三国志・魏志倭人伝』の景行(けいこう)天皇49年(干支(えと)の己未(つちのとひつじ)の年)6月に景行(けいこう)天皇は、大夫(たゆう)の難升米(なんしゅうまい)らを派遣して、天子(てんし;魏(ぎ)王朝の皇帝)に謁見(えっけん)と言って、貢(みつぎ)を持って行って、帯方郡(たいほうぐん;古代中国が朝鮮半島中西部に置いた郡)の太守の劉夏(りゅうか)が役人を派遣して、魏(ぎ)王朝の国都の洛陽(らくよう)まで送らせた。
『日本書紀』は、「この年が太歳(たいさい)己未(つちのとひつじ)で、明帝の景初(けいしょ)3年6月(西暦239年7月頃)…」で、『三国志・魏志倭人伝』が「景初(けいしょ)2年6月…」と記して、『日本書紀』の年代が正しいと考えられる。
帯方郡(たいほうぐん)は、西暦204年から313年まで、古代中国が朝鮮半島中西部に置いた郡で、郡の都が北朝鮮の平壌(ピョンヤン)より南に存在したが、諸説あって確定していない。
大夫(たゆう)の難升米(なんしゅうまい)は、大夫(たゆう;たいふ;だいぶ)が古代中国に派遣された古代日本の使者が自称した地位で、難升米(なんしゅうまい)が一般的に「なしめ」と呼ぶが、正しい発音が重要である。
『後漢書』の邪馬台国(やまたいこく)は、『三国志・魏志倭人伝』が邪馬壱国(やまいちこく)と壱与(いちよ)と記して、壱与(いちよ)が台与(たいよ)と訂正して、総合した邪馬台国(大和国;やまとこく)と台与卑弥呼(とよひみこ;豊姫命:とよひめのみこと)に修正して、正しい発音が拘奴国(狗奴国;くぬこく)で、「くなこく」の一般的な呼び名が間違いで、正す必要がある。
(『日本書紀』の干支(えと)の年は、己未(つちのとひつじ)が西暦239年で、歴史学会(歴史書解釈)の定説の摂政(せっしょう)39年(西暦239年)が完全に合致して、『日本書紀』から求めた僕の自論の景行(けいこう)天皇49年(西暦239年)が正しくて、旧暦年と西暦年が合致した。)

景行(けいこう)天皇49年(西暦239年)に邪馬台国(大和国;やまとこく)は、男生口(せいこう)4人と女生口(せいこう)6人を献上して、景行(けいこう)天皇53年(西暦243年)に生口(せいこう)を献上して、摂政(せっしょう)元年(西暦261年)の内乱(皇位継承権争い)以降に生口(せいこう)30人を献上して、生口(せいこう)が奴隷を指すと考えにくい。
後漢(ごかん)王朝で物部十市根(もののべのといちね)は、太陰太陽暦を学んで、後に4代目出雲国王になって、先に6代目出雲国王の実弟の稲瀬彦皇子(いなせひこのみこ)で、次に息子で5代目出雲国王の物部夏花(もののべのなつはな)に太陰太陽暦を教えて、『ホツマツタエ』の日本神話が出雲王家(物部(もののべ)氏)つながりと考えられて、後漢(ごかん)王朝が邪馬台国(大和国;やまとこく)の生口(せいこう)を記さず、魏(ぎ)王朝の生口(せいこう)が奴隷でなく、古代中国の文化を学ぶ学者や学生の可能性が高い。

『日本書紀』と『三国志・魏志倭人伝』の景行(けいこう)天皇50年(魏(ぎ)王朝の正始(せいし)元年;西暦240年)に帯方郡(たいほうぐん;古代中国が朝鮮半島中西部に置いた郡)の太守の弓遵(きゅうじゅん)は、建忠校尉(けんちゅうこうい)・梯儁(ていしゅん)らを派遣して、詔書(しょうしょ)と印綬(いんじゅ)を持って、日本国に行かせて、景行(けいこう)天皇に仮(かり)に拝謁して、詔書(しょうしょ)をもたらして、金・絹・錦・毛織物・刀・鏡・采物を下賜した。
景行(けいこう)天皇は、使者によって上表文を受けて、天子(てんし;魏(ぎ)王朝の皇帝)の恩典(おんてん)を答えて謝礼した。印綬(いんじゅ)は、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)でなく、男弟(だんてい;異母弟)の景行(けいこう)天皇が受け取った「親魏倭王(しんぎわおう)」の金印で、魏(ぎ)王朝が滅亡した西暦265年以降の古墳に埋葬したと考えられて、出土する可能性が低くて、銅鏡100枚が古墳から出土した三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)で、僕が考古学(遺跡・遺物)に関係なく、完全に邪馬台国(大和国;やまとこく)論争を決着した。
三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)は、魏(ぎ)王朝の元号(げんごう)の「青龍(せいりゅう)三年(西暦235年)」と「景初(けいしょ)三年(西暦239年)」と「正始(せいし)元年(西暦240年)」を刻(きざ)む7面が出土して、魏(ぎ)王朝に存在しない元号(げんごう)の「景初(けいしょ)四年(西暦240年)」が京都府福知山市の広峯(ひろみね)15号墳出土と宮崎県西都市の持田(もちだ)古墳群出土と伝える2面があって、銅鏡の日本国産説を有力視するが、結論を出せない。
2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の神宝の邊津鏡(へつかがみ)と奥津鏡(おきつかがみ)は、京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社の神鏡2枚が前漢(ぜんかん)王朝時代(約2050年前)と後漢(ごかん)王朝時代(約1950年前)の銅鏡2面で、後漢(ごかん)王朝の邪馬台国(大和国;やまとこく)への下賜品(かしひん)で、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)と無関係である。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の摂政(せっしょう)40年6月(西暦240年7月頃)は、完全に合致して、『日本書紀』から求めた僕の自論の景行(けいこう)天皇50年6月(西暦240年7月頃)が正しい。)

西暦240年に「親魏倭王(しんぎわおう)」の金印は、中国から船で帰還して、瀬戸内海を通過して運んで、邪馬台国(大和国;やまとこく)に献上して、西暦252年以降に出雲王国(物部(もののべ)氏)と敵対して、福岡県を縦断する陸路の末路国(まつろこく;蓑生郷(みのふごう:福岡県福津市西部)から不弥国(ふみこく;筑城郡(ついきぐん:福岡県築上郡築上町北部)を経由して、築上町から太平洋に出て、投馬国(とうまこく)の土佐国(とさこく;高知県)に寄港(きこう)して、邪馬台国(大和国;やまとこく)に宝物を運んだ。
邪馬台国(やまたいこく)の属国の北九州4ヶ国は、定説が末路国(まつろこく;佐賀県松浦郡(まつうらぐん)から不弥国(ふみこく;福岡県粕屋郡(かすやぐん)宇美町(うみちょう)で、方向や国名の対比が嘘(うそ)で、間違った土地を豊富な費用で、考古学的に発掘しまくった証拠を主張して、地元に嘘(うそ)の博物館まで建てたが、超天才の僕を騙(だま)せず、西暦252年以降に出雲王国(物部(もののべ)氏)と敵対して、日本海と瀬戸内海の航路を使えないための福岡県の縦断ルートだった。
邪馬台国(大和国;やまとこく)の多くの疑問は、僕の自論で徹底的に分析・研究した史料があるため、参考史料として大いに役立てて、僕の歴史研究の終着点を楽しみにしてほしい。

古代中国の魏(ぎ)王朝の正始(せいし)4年(西暦243年)に邪馬台国(やまたいこく)は、使者を派遣した。

『日本書紀』と『三国志・魏志倭人伝』の景行(けいこう)天皇53年(西暦243年)に景行(けいこう)天皇は、また使者の大夫(たゆう)の伊聲耆(いせいき)や掖邪狗(えきやく)ら8人を派遣して、…献上品を届けて、掖邪狗(えきやく)たちが率善中郎将(そつぜんちゅうろうしょう)の印綬(いんじゅ)を拝礼(はいれい)した。「率善中郎将(そつぜんちゅうろうしょう)」の印綬(いんじゅ)は、印鑑だから考古学(遺跡・遺物)に期待するが、「親魏倭王(しんぎわおう)」の金印と一緒で、あまり期待できない。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の摂政(せっしょう)43年(西暦243年)は、完全に合致して、『日本書紀』から求めた僕の自論の景行(けいこう)天皇53年(西暦243年)が正しい。)

古代中国の魏(ぎ)王朝の正始(せいし)6年(西暦245年)に邪馬台国(やまたいこく)は、使者を派遣した。

『三国志・魏志倭人伝』の景行(けいこう)天皇55年(西暦245年)は、魏(ぎ)王朝の皇帝が命令して、大夫(たゆう)の難升米(なんしゅうまい)に黄色の旗(はた)を賜(たま)えて、帯方郡(たいほうぐん)に付(ふ)して、仮(かり)に授(さず)けた。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の正始(せいし)6年(西暦245年)は、完全に合致して、『日本書紀』から求めた僕の自論の景行(けいこう)天皇55年(西暦245年)が正しい。)

古代中国の魏(ぎ)王朝の正始(せいし)8年(西暦247年)に邪馬台国(やまとこく)は、狗奴国(くぬこく)と戦争して、『後漢書』の拘奴国(くぬこく)と同一国で、南九州の熊襲(くまそ)王国で間違いなくて、魏(ぎ)王朝の最後の年号である。

『ホツマツタエ』の熊襲(くまそ)王国(宮崎県と熊本県と鹿児島県の統一王国)は、再び天皇家に背(そむ)いて、国々を侵略し始めて、景行(けいこう)天皇57年10月13日(西暦247年11月中旬頃)に日本武尊(やまとたけのみこと)に熊襲(くまそ)王国の討伐を命じて、熊襲(くまそ)王国の討伐を命じた西暦247年11月頃より前に九州全土の総監督者が帯方郡(たいほうぐん;古代中国が朝鮮半島中西部に置いた郡)に使者を送ったと考えられる。
『ホツマツタエ』景行(けいこう)天皇27年は、景行(けいこう)天皇57年から30年間をズラして、『ホツマツタエ』と『日本書紀』の年代の常套(じょうとう)手段で、干支(えと)の60年間を足し算や引き算したり、旧暦年と西暦年を合致したりなど、当然の年代操作である。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の景行(けいこう)天皇27年10月13日(西暦97年11月中旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の景行(けいこう)天皇57年10月13日(西暦247年11月中旬頃)が正しい。)

『ホツマツタエ』の景行(けいこう)天皇57年12月(248年1月頃)に日本武尊(やまとたけのみこと)は、南九州に到着して、熊襲(くまそ)王国を滅亡させて、熊襲(くまそ)国王の取石鹿文(とりいしかや)を殺して、また大和へ帰る途中で、吉備穴門(きびあなと;広島県深安郡)と波速(なみは・難波(なにわ);現在の大阪市)の柏済(かしわのわたり;淀川河口付近の船着場)にいた賊を皆殺しにしたが、賊の皆殺しが事実か分からない。
景行(けいこう)天皇18年(西暦208年)に平定した熊襲(くまそ)王国は、兄弟が分かれて統治した連合王国だが、熊襲(くまそ)国王一族が代替わりして、景行天皇57年12月(248年1月頃)に熊襲(くまそ)国王の取石鹿文(とりいしかや)と熊襲国造(くまそくにみやつこ;熊襲国(くまそのくに)の統治者)の辺鹿文(へかや)の夫婦が統治した統一王国の熊襲(くまそ)王国が滅亡した。
熊襲(くまそ)王国が滅亡した宮崎県は、景行(けいこう)天皇と襲国(そのくに;鹿児島曽於(そお)郡)の御刀媛(みはかせひめ)の息子である豊国皇子(とよくにのみこ)が日向国造(ひうがくにみやつこ;宮崎県の統治者)になって、他にも古代天皇家が任命した宮崎県の統治者がいて、後世に平定した宮崎県に神武(じんむ)天皇(仁徳(にんとく)天皇を祖先化)が暮らした。
『ホツマツタエ』の発音は、日向(ひうが;宮崎県)で、「ひむか」や「ひゅうが」でなく、最も正しい古代の発音と考えられる。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の景行(けいこう)天皇27年12月(西暦98年1月頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の景行(けいこう)天皇57年12月(248年1月頃)が正しい。)

『三国志・魏志倭人伝』の景行(けいこう)天皇57年(西暦247年)は、帯方郡(たいほうぐん;古代中国が朝鮮半島中西部に置いた郡)の太守に王(おうき)が任官して、景行(けいこう)天皇が熊襲(くまそ)国王の卑弥弓呼(ひみきゅうこ)と元々不和で、(景行(けいこう)天皇が)使者の載斯烏越(さいしうえつ;誰か不明)たちを帯方郡(たいほうぐん)に派遣して、お互いが攻撃する状況を伝えた。
は、「斤へん」に頁の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
(王(おうき)は、)塞曹掾史(さいそうえんし)・張政(ちょうせい)たちを派遣して、詔書(しょうしょ)と黄色の旗をもたらして、太夫(たいふ)の難升米(なんしゅうまい;誰か不明)に仮(かり)に授(さず)けて、檄文(げきぶん)を作って、これを告諭(こくゆ)させた。
『三国志・魏志倭人伝』の正始(せいし)8年(西暦247年)は、僕の自論の景行(けいこう)天皇57年(西暦247年)と合致して、『ホツマツタエ』と『日本書紀』の景行(けいこう)天皇27年に年代変更したが、僕が歴史研究を始めた2年後の2004年10月頃までに特定した。拘奴国(狗奴国;くぬこく)の熊襲(くまそ)王国(宮崎県と熊本県と鹿児島県の統一王国)滅亡は、地元の南九州の考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)を正しく分析・研究すれば、新しい発見があるかもしれない。

『ホツマツタエ』の景行(けいこう)天皇58年2月1日(西暦248年3月上旬頃)に日本武尊(やまとたけのみこと)一行は、奈良県桜井市の皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや;纏向(まきむく)遺跡)に帰国して、熊襲(くまそ)王国を滅亡させた褒美(ほうび)で、父の景行(けいこう)天皇が日本武尊(やまとたけのみこと)の武名を与えて、熊襲(くまそ)国王から日本武尊(やまとたけのみこと)の武名を与えたとドラマチック(感動的)な物語に変換したと考えられて、皇太子に返り咲いた。
日本武尊(やまとたけのみこと)の褒美(ほうび)は、皇太子に返り咲いて、不倫した弟橘姫(おとたちばなひめ)を皇太子妃(正妻)と認めて、孝元(こうげん)天皇(景行(けいこう)天皇を祖先化)と開化(かいか)天皇(日本武尊(やまとたけのみこと)を祖先化)の妻が伊香色謎命(いかがしこめのみこと;弟橘姫(おとたちばなひめ)を祖先化)で、開化(かいか)天皇の皇后(正妻)になった証拠と考えられる。
海を渡った吉備穴門(きびあなと)と波速(なみは)の柏済(かしわのわたり)にいた賊は、東京湾で入水(じゅすい)自殺した弟橘姫(おとたちばなひめ)を連想させて、熊襲(くまそ)王国の滅亡に弟橘姫(おとたちばなひめ)が関係する証拠と考えられる。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の景行(けいこう)天皇28年2月1日(西暦98年3月上旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の景行(けいこう)天皇58年2月1日(西暦248年3月上旬頃)が正しい。)

吉備穴門(きびあなと)と波速(なみは)の柏済(かしわのわたり)にいた賊は、実在したか証明できず、出雲王国(物部(もののべ)氏)に亡命した因幡(いなば)の白兎(しろうさぎ;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)神話と、白兎(しろうさぎ)が隠岐島(おきのしま)から鳥取県に海を渡るのが東京湾で、入水(じゅすい)自殺した弟橘姫(おとたちばなひめ)を連想させる。

『日本書紀』の景行(けいこう)天皇58年3月1日(西暦248年4月上旬頃)は、皇太子の日本武尊(やまとたけのみこと)が息子の仲哀(ちゅうあい)天皇と異母弟の蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)の2人を皇位継承者にして、これが天皇不在の年(西暦251年)の内乱(皇位継承権争い)が起きた原因の一つである。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の成務(せいむ)天皇48年3月1日(西暦178年4月上旬頃)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の景行(けいこう)天皇58年3月1日(西暦248年4月上旬頃)が正しい。)

京都府北部の元伊勢は、宮津市の元伊勢籠(この)神社と福知山市大江町の元伊勢内宮(ないぐう)以外の候補地が京丹後市丹後町の竹野(たかの)神社と舞鶴市の笶原(やはら)神社で、笶原(やはら)神社が天平勝宝(てんぴょうしょうほう)元年(西暦749年)頃の創建で、それ以前の伝承がなくて、海部(あまべ)氏が創建したために元伊勢の古伝承につながったと考えられる。
開化(かいか)天皇(日本武尊(やまとたけのみこと)を祖先化)の妃の竹野媛(たかのひめ;両道入姫(ふたじいりひめ)か宮簀姫(みやずひめ)のどちらかを祖先化)は、晩年(ばんねん)に奈良県から帰郷(ききょう)して、西暦250年頃に海部(あまべ)氏が京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社の分霊(ぶんれい;本社の神霊を別の神社で、分(わ)けて祭ること)である竹野(たかの)神社を創建したと考えられる。
崇神(すじん)天皇11年4月13日(西暦94年5月中旬頃)は、京都府北部と兵庫県北部の平定と統治者の任命を報告して、彦坐王(ひこいますのみこ)の息子の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)が丹波国(たにはのくに;古代の京都府北中部)の統治者になって、丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)の子孫が京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏で、日本最古の書物『ホツマツタエ』が京都府北部の元伊勢を崇神(すじん)天皇39年3月3日(西暦122年4月上旬頃)と宮津(みやづ)と天橋立(あまのはしだて)と明記する。
海部(あまべ)氏の誕生は、崇神(すじん)天皇11年4月13日(西暦94年5月中旬頃)で、正式な京都府北部の元伊勢が崇神(すじん)天皇39年3月3日(西暦122年4月上旬頃)に土地を定めた元伊勢籠(この)神社の奥宮(おくみや)の元伊勢真名井(まない)神社で、海部(あまべ)氏が西暦94年から250年頃までどこで暮らしたか不明で、西暦250年から420年頃まで京丹後市の付近で暮らして、その後も詳(くわ)しく知らないため、他人の知識を(か)借りる必要がある。
元伊勢内宮(ないぐう)は、富士山の山頂と出雲大社を結ぶレイライン(太陽の道)上にあって、天皇不在の年6月頃(西暦251年7月頃)に富士山を統治下に置いて、3世紀後半に海部(あまべ)氏の大倉岐命(おおくらきのみこと)が創建したのが最古の可能性で、僕が4つある京都府北部の元伊勢の正確な創建年代を特定したと考えられる。

小登與命(乎止与命;おとよのみこと)の妹の両道入姫(ふたじいりひめ)は、日本武尊(やまとたけのみこと)との間に息子の仲哀(ちゅうあい)天皇を生んで、小登與命(おとよのみこと)の娘が宮簀姫(みやずひめ)で、日本武尊(やまとたけのみこと)との間に息子の武田王(たけだのみこ)と佐伯王(さえきのみこ)を生んで、2人共に海部(あまべ)氏の出身で、3世紀前半から後半頃に生きたと考えられて、西暦250年頃の竹野(たかの)神社の創建時期と合致した。
参考文献『前ヤマトを創った大丹波王国 国宝「海部(あまべ)系図」が解く真実の古代史』(著者・伴とし子 発行・叶V人物往来社)は、海部(あまべ)氏の先祖である3世紀中頃の建稲種命(たけいなだねのみこと)から4世紀中頃の建振熊宿祢(たけふるくまのすくね)辺りまで、京都府の熊野(くまの)郡と竹野(たけの)郡(丹後(たんご;京都府北部)の北西部)と加佐(かさ)郡(丹後(たんご;京都府北部)の中部)に葬礼して、記した人物が複数の海部(あまべ)氏の別人を重複して記して、僕が疑問だらけの『海部(あまべ)氏系図』を『尾張(おわり)氏系図』と対比して、詳細を分析・研究したが、古墳埋葬者の特定が難しい。
京都府熊野(くまの)郡(京丹後市久美浜町(くみはまちょう)は、島根県松江市の熊野(くまの)大社と和歌山県田辺市の熊野本宮(くまのほんぐう)大社の祭神である熊野大神(くまののおおかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と名前が合致して、京丹後市が海部(あまべ)氏と元伊勢の竹野(たかの)神社などと関係して、非常に重要な土地である。
建稲種命(たけいなだねのみこと)の孫の大倉岐命(おおくらきのみこと)は、川上郷(かわかみごう;京丹後市久美浜町(くみはまちょう)の川上地区)の関係者の川上眞稚命(かわかみまわかのみこと)と重なって、系図が滅茶苦茶になって、海部(あまべ)氏の同一人物か別人か、僕が作成した『海部(あまべ)氏の系図』の分析・研究をやり直す必要がある。
僕が作成した『海部(あまべ)氏の系図』は、参考文献『元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図』(編著者・海部光彦 発行・元伊勢籠神社社務所)と『推理◎邪馬台国と日本神話の謎 古代物部(もののべ)氏と『先代旧事本紀』の謎』(著者・安本美典 発行・勉誠出版梶jの『尾張(おわり)氏の系図』を参考にして、『海部(あまべ)氏系図』の「本系図」と「勘注(かんちゅう)系図」の全てを調査・研究してなくて、系図の作成段階で情報が不足して、完全な再現をしてないと考えられる。
参考文献『元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図』と『前ヤマトを創った大丹波王国 国宝「海部(あまべ)系図」が解く真実の古代史』の史料からは、海部(あまべ)氏系図の川上眞稚命(かわかみまわかのみこと)が本系図の参考人物と別人の可能性があって、海部(あまべ)氏に伝わる宮司の人数が正しいかも疑(うたが)って、専門家の歴史学者や僕などが系図の信頼性を調査・研究する必要がある。

京都府京丹後市の弥栄町(やさかちょう)と峰山町の大田南(おおたみなみ)古墳群は、3世紀中頃から4世紀中頃の古墳群で、「青龍3年(西暦235年)」を刻(きざ)む方格規矩四神鏡や鉄製品などが出土して、京都府京丹後市の前方後円墳の蛭子山(えびすやま)1号墳と網野銚子山(あみのちょうしやま)古墳と神明山(しんめいやま)古墳の3古墳を「日本海三大古墳」と総称して、丹後(たんご;京都府北部)で上位3つの墳墓の大きさで、考古学的(遺跡・遺物)に重視する。
蛭子山(えびすやま)1号墳は、4世紀中頃の築造で、墳丘長145メートルで、網野銚子山(あみのちょうしやま)古墳が4世紀末から5世紀初頭の築造で、墳丘長201メートルで、神明山(しんめいやま)古墳が4世紀末から5世紀初頭の築造で、墳丘長190メートルで、4世紀中頃から5世紀初頭の京都府京丹後市で、海部(あまべ)氏が生活したと考えられる。
京都府京丹後市峰山町の赤坂今井(あかさかいまい)墳墓は、3世紀前半の墳丘墓で、勾玉(まがたま)や管玉(くだたま)鉄製品などが出土して、埋葬者が海部(あまべ)氏の可能性があって、京都府京丹後市の奈具丘(なぐおか)が1世紀の水晶工房遺跡で、日本の建国(天皇家誕生)以前の丹波(たんば)王国の遺跡と考えられる。
京都府京丹後市は、3世紀前半から5世紀前半頃まで海部(あまべ)氏の先祖の居住地と考えられて、考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)が証明して、2025年9月18日の午後2時頃に特定して、その後に記述を何度も修正した。

『ホツマツタエ』の景行(けいこう)天皇60年6月(西暦250年7月頃)は、東日本の蝦夷(えみし;古代天皇家に抵抗する者を蔑(さげす)む呼び名)が反乱して、蝦夷(えみし)の領土が福井県東部と岐阜県北部と長野県と神奈川県を含(ふく)めた以東で、古代天皇家で最大の領土を獲得した戦争で、東日本の3世紀後半から4世紀前半の前方後円墳の埋葬者を正確に僕が特定して、史実・真実・事実である。
僕の最初の著書は、『三国志・魏志倭人伝』の僕の現代日本語訳が西暦250年まで古代天皇家の領土で、都支国(としこく)の遠江国(とおとうみのくに;静岡県西部)と彌奴国(みぬこく)の美濃国(みののくに;岐阜県南部)と好古都国(こうことこく)の若狭国(わかさのくに;福井県西部)と考えられて、3世紀後半から4世紀前半の東日本の古墳(前方後円墳を含(ふく)む)が平定した領土を証明した。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の景行(けいこう)天皇40年6月(西暦130年3月中旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の景行(けいこう)天皇60年6月(西暦250年7月頃)が正しい。)

『ホツマツタエ』の景行(けいこう)天皇60年10月2日(西暦250年11月上旬頃)に皇太子の日本武尊(やまとたけのみこと)は、東海平定の総大将で、異母弟の武虎別皇子(たけこわけのみこ)が北陸平定の総大将で、2人が滋賀県の皇居の志賀高穴穂宮(しがたかあなほのみや)から、東国平定に出陣した。
皇太子の日本武尊(やまとたけのみこと)の護衛は、稲背彦皇子(いなせひこのみこ)と武渟川別(たけぬなかわわけ)と初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)と吉備武彦(きびたけひこ)と大伴武日(おおとものたけひ)の5人の武将で、比古伊那許士別命(ひこいなこしわけのみこと)を膳部(かしわでべ;食事係)として、東海平定に出陣した。
武虎別皇子(たけこわけのみこ)の護衛は、崇神(すじん)天皇の息子である豊城彦命(とよきひこのみこと)の孫の彦狭島命(ひこさしまのみこと)で、仲哀(ちゅうあい)天皇4年(255年)に東山道十五国の都督(かみ)を命じたが、亡くなった彦狭島王(ひこさしまのみこ)と同一人物で、北陸平定に出陣した。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の景行(けいこう)天皇40年10月2日(西暦110年11月上旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の景行(けいこう)天皇60年10月2日(西暦250年11月上旬頃)が正しい。)

『日本書紀』の景行(けいこう)天皇60年11月7日(西暦250年12月上旬頃)に景行(けいこう)天皇は、皇居の志賀高穴穂宮(しがたかあなほのみや)で、79才で崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、皇太子の日本武尊(やまとたけのみこと)が東国平定でいなくて、皇位継承者の仲哀(ちゅうあい)天皇と蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)を押す者がいて、混乱して皇位継承問題が起きた。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の景行(けいこう)天皇60年11月7日(西暦130年12月上旬頃)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の景行(けいこう)天皇60年11月7日(西暦250年12月上旬頃)が正しい。)

月読尊(つくよみのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)の神名は、景行(けいこう)天皇の在位期間60年間を干支(えと)の年月(一周60年間)で読む意味である。

『ホツマツタエ』の天皇不在の年1月28日(西暦251年2月下旬頃)に東国平定の武将たちは、駿河(するが;静岡県中部)に入って、相模(さがみ;神奈川県)を平定して、静岡県と神奈川県の県境(けんざかい)の富士山が統治下に入ってないと考えられる。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の景行(けいこう)天皇41年1月28日(西暦131年2月下旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の天皇不在の年1月28日(西暦251年2月下旬頃)が正しい。)

『ホツマツタエ』から予測した僕の自論は、天皇不在の年6月頃(西暦251年7月頃)に相模(さがみ;神奈川県)の小野(おの;神奈川県秦野市の辺りか?)に城をかまえて、父の景行(けいこう)天皇の死去を聞いた皇太子の日本武尊(やまとたけのみこと)が奈良県に引き返して、8月1日(西暦251年9月上旬頃)に東国平定の武将たちが東山道の武蔵国(むさしのくに;東京都と埼玉県)に入ったと考えられる。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の景行(けいこう)天皇41年6月頃と8月1日(西暦131年7月頃と9月上旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の天皇不在の年6月頃と8月1日(西暦251年7月頃9月上旬頃)が正しい。)

卑弥呼(ひみこ)は、死去して男王(だんおう)が即位して、国中が服従しなくて、戦争で千人余りが戦死したと解釈するが、前後関係がバラバラである。

『ホツマツタエ』の天皇不在の年8月4日(251年9月上旬頃)に奈良県に到着した日本武尊(やまとたけのみこと)は、三種の神器を強奪して、皇族に認められない成務(せいむ)天皇(日本武(やまとたけ)天皇と同一人物)に強行即位して、正妻の弟橘姫(おとたちばなひめ)と息子の蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)たちを味方(みかた)にして、もう一人の息子(異母兄)の仲哀(ちゅうあい)天皇と対立した。
日本最古の書物の『ホツマツタエ』は、景行(けいこう)天皇56年(西暦246年)まで記録して、天皇不在の年(西暦251年)の日本武(やまとたけ)天皇の反乱(皇位継承権争い;邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の男王(だんおう)の反乱)を隠(かく)して、『日本書紀』の景行(けいこう)天皇時代から仲哀(ちゅうあい)天皇時代の内乱(皇位継承権争い)を隠(かく)して、『日本書紀』の物語の整合性が凄(すさ)まじすぎると私見する。
日本武尊(やまとたけのみこと)は、『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)』が「倭武天皇命(やまとたけのすめらみこと)」で、『阿波国風土記(あわのくにふどき)』が「倭健(やまとたけ)天皇」で、『住吉大社神代記』が「父天皇」と記して、特別扱いの皇子でなく、皇太子と天皇が正しくて、異母兄弟の成務(せいむ)天皇と同一人物で、皇族に認められない天皇だから、僕が歴代天皇に含(ふく)まない。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の景行(けいこう)天皇46年8月4日(西暦116年9月上旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の天皇不在の年8月4日(西暦251年9月上旬頃)が正しい。)

『ホツマツタエ』の天皇不在の年9月15日(西暦251年10月上旬頃)に武虎別皇子(たけこわけのみこ)は、奈良市近郊の奈良坂に到着して、9月17日(10月中旬頃)に日本武(やまとたけ)天皇の反乱(皇位継承権争い)を知って、時期不明で日本武(やまとたけ)天皇の正妻の弟橘姫(おとたちばなひめ)が大坂(奈良県香芝市逢坂(おうさか)付近)から出陣して、弟橘姫(おとたちばなひめ)が場所不明で戦死した。
10月1日(西暦251年11月上旬頃)は、奈良県内を平定し終えて、日本武(やまとたけ)天皇の討伐に伊勢(三重県中部)に向かった。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の崇神(すじん)天皇10年9月と10月(紀元前88年10月と11月頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の天皇不在の年9月と10月(西暦251年10月と11月頃)が正しい。)

卑弥呼(ひみこ)は、男王(だんおう)に殺されたとか、狗奴国(くぬこく)に敗戦して戦死したとか、皆既日食が原因で殺されたとか、病死とか色々な死去説がある。

『ホツマツタエ』の天皇不在の年10月7日(西暦251年11月上旬頃)に男王(だんおう)の日本武(やまとたけ)天皇は、88才の伯母(おば)で、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)を伊勢市の磯(いそ)神社で殺して、卑弥呼(ひみこ)が戦死して、寿命で死んだわけでなく、太陽神の巫女(みこ)殺しが皇族全体を敵に回したため、日本武(やまとたけ)天皇が伊勢(三重県中部)から離脱しようとした。
(歴史学会(歴史書解釈)の景行(けいこう)天皇40年10月7日(西暦110年11月上旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の天皇不在の年10月7日(西暦251年11月上旬頃)が正しい。)

素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)は、父方の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)を殺した太陽神殺しの大罪で、天皇家の直系先祖の系図から外(はず)されて、殺された父方の天照大神(あまてらすおおみかみ)が怨霊(おんりょう;恨(うら)み祟(たた)る霊魂)である。

『ホツマツタエ』の天皇不在の年10月22日(西暦251年11月下旬頃)に倭姫命(やまとひめのみこと)は、三重県伊勢市の墓(はか)を宇治山田陵墓(うじやまだりょうぼ)と呼んで、宮内庁指定の古墳が間違いで、宇治が三重県伊勢市宇治館町1番地の伊勢神宮内宮を指して、殺害場所の伊勢市の磯(いそ)神社と陵墓名から考えて、形の分からない築造年代が3世紀中頃で、三重県伊勢市の古墳が卑弥呼(ひみこ)の墓(はか)と考えられる。
(歴史学会(歴史書解釈)の崇神(すじん)天皇10年10月22日(紀元前88年11月下旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の天皇不在の年10月22日(西暦251年11月下旬頃)が正しい。)

『日本書紀』の天皇不在の年11月1日(西暦251年12月上旬頃)に蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)は、諸国に伝令して、2日に山城(京都府南部)で、父親の日本武(やまとたけ)天皇と合流した。
(歴史学会(歴史書解釈)の仲哀(ちゅうあい)天皇元年11月1日と2日(西暦192年12月上旬頃)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の天皇不在の年11月1日と2日(西暦251年12月上旬頃)が正しくて、干支(えと)の60年間を足し算した。)

『日本書紀』の天皇不在の年11月4日(西暦251年12月上旬頃)に息子の蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)は、山城(京都府南部)で戦死して、父親の日本武(やまとたけ)天皇が出雲王国(物部(もののべ)氏)に亡命するため、京都北部の海岸に向かった。
日本武(やまとたけ)天皇は、最初の罪(つみ)の不倫(ふりん)を水に流したが、出雲王家(物部(もののべ)氏)を崩壊させた内乱(皇位継承権争い)の2度目の罪(つみ)を自分の命で償(つぐな)って、3度目がなかった。
(歴史学会(歴史書解釈)の仲哀(ちゅうあい)天皇元年閏年(うるうどし)11月4日(西暦192年12月上旬頃)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の天皇不在の年11月4日(西暦251年12月上旬頃)が正しくて、干支(えと)の60年間を足し算して、『日本書紀』が古代中国の太陰太陽暦に閏年(うるうどし)がなくて、ヨーロッパの太陽暦のユリウス暦に閏年(うるうどし)があると知って、記したと考えて間違いない。
太陰太陽暦の閏月(うるうづき)は、太陽暦のユリウス暦の閏年(うるうどし)と日付がズレて、仲哀(ちゅうあい)天皇元年閏年(うるうどし)11月4日の意味が重要で、「記紀」が太陽暦の西暦年を使用したと超天才の僕が証明した。)


『ホツマツタエ』8章のハタレは、動詞「徴(はた)る」の名詞形と考えられて、責め促(うなが)すや催促(さいそく)するなどの意味で、動物霊の霊力を備(そな)えて、庶民を先導して、宮中を危(あや)うくした日本武(やまとたけ)天皇の反乱(皇位継承権争い)などを神話化して、狐(きつね)の霊力を持つキク道(みち)3人がウケノミタマ(倉稲魂命;うかのみたまのみこと)の眷属(けんぞく;従者や家来など)である。
筑紫(つくし;九州)のハタレ3人は、ヲガ(日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)とメガ(弟橘媛(おとたちばなひめ)を神格化)とフスベ(蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)を神格化)で、山城(京都府南部)の花山(はなやま;現在の京都市山科区の花山(かざん)を指す)に仲間を集めて、ハタレ3人が父母と子供の親子3人を神格化した。
筑紫(つくし;九州)から来たヲガ(日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)は、狐(きつね)の霊力を持つキク道(みち)の一人で、景行(けいこう)天皇57年12月(248年1月頃)に南九州の熊襲(くまそ)王国(宮崎県と熊本県と鹿児島県の統一王国)を滅亡させて、明らかに共通した。
弟橘媛(おとたちばなひめ)は、天皇不在の年9月17日(西暦251年10月中旬頃)以降に大坂(奈良県香芝市逢坂(おうさか)付近)の近くで戦死して、11月4日(西暦251年12月上旬頃)に息子の蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)が山城(京都府南部)で戦死して、母子共に戦死して、ハタレ3人が親子3人の神格化で間違いない。
討伐の様子は、少し間をあけて省略して、ハタレのキク道(みち)3人の手下が全員で33万人にも及(およ)んで、ヲガ(日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)とメガ(弟橘媛(おとたちばなひめ)を神格化)とフスベ(蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)を神格化)の3人の首領を獄舎(ごくしゃ)に入れて、神軍が凱旋(がいせん;戦いに勝って帰ること)を始めた。


『日本書紀』の仲哀(ちゅうあい)天皇元年1月11日(西暦252年2月中旬頃)に仲哀(ちゅうあい)天皇は、4代目天皇に即位して、邪馬台国(大和国;やまとこく)側の仲哀(ちゅうあい)天皇と出雲王国の日本武(やまとたけ)天皇の親子が対立して、それぞれ三種の神器を所持して、2朝廷並列時代に突入して、台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后が正妻になった。
倭姫命(やまとひめのみこと)と同族(皇族)の神功(じんぐう)皇后は、卑弥呼(ひみこ)の宗女(同族の女性)の台与(とよ)と合致して、卑弥呼(ひみこ)と台与(とよ)が女王でなく、古代中国人の勘違いを鵜呑(うの)みにした現代人(日本人や中国人など)が誤解して、超天才の僕だけが正しく求めた。
(『日本書紀』の仲哀(ちゅうあい)天皇即位年は、干支(えと)の壬申(みずのえさる)の年で、歴史学会(歴史書解釈)の定説の仲哀(ちゅうあい)天皇元年1月11日(西暦192年2月中旬頃)が完全な間違いで、僕の自論の仲哀(ちゅうあい)天皇元年1月11日(西暦252年2月中旬頃)が正しくて、干支(えと)の60年間を足し算した。)

『ホツマツタエ』の仲哀(ちゅうあい)天皇元年2月8日(西暦252年3月上旬頃)に日本海を逃げた日本武(やまとたけ)天皇は、出雲王国(物部(もののべ)氏)に亡命して、家臣のマチカ(右近)とテチカ(左近)に妻の弟橘媛(おとたちばなひめ)の櫛(くし)と帯(おび)を渡して、奈良県で戦死した弟橘媛(おとたちばなひめ)の死をなげいて、吾妻(あづま;我が妻の意味)の歌を3度詠(よ)んだが、島根県から見た東(あずま)の奈良県を指して、東日本の東(あずま)でない。
(歴史学会(歴史書解釈)の景行(けいこう)天皇41年2月8日(西暦111年3月上旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の仲哀(ちゅうあい)天皇元年2月8日(西暦252年3月上旬頃)が正しい。)

因幡(いなば;鳥取県東部)の白兎(しろうさぎ)神話は、太陽神殺しの白兎(しろうさぎ;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)が鰐鮫(わにさめ;追いかける皇族や武将を乗せた船団を神格化)から逃げて、京都府北部の海岸から出雲王国(物部(もののべ)氏)に亡命して、日本海の逃亡を島根県隠岐島(おきのしま)から鳥取県の気多岬(けたみさき)に渡る神話に作り替えた。
出雲神話の八岐大蛇(やまたのおろち)は、島根県の斐伊川(ひいかわ)の流れを神格化した蛇神だが、伊勢神宮の横を流れる五十鈴川(いすずがわ)を神格化した蛇神の滝祭神(たきまつりのかみ)を怪物視して、滝祭神(たきまつりのかみ)が天照大神(あまてらすおおみかみ)と同格ほどの古代太陽神で、英雄の素戔嗚尊(すさのおのみこと)が邪神の八岐大蛇(やまたのおろち)を殺したのでなく、邪神の素戔嗚尊(すさのおのみこと)が古代太陽神の八岐大蛇(やまたのおろち)を殺して、逆の解釈が正しい。
かつて伊勢神宮内宮の草薙剣(くさなぎのつるぎ;天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と同一物)は、古代太陽神の八岐大蛇(やまたのおろち)の尻尾(しっぽ)が三重県の五十鈴川(いすずがわ)の河口で、五十鈴川(いすずがわ)の上流を頭に見立てて、五十鈴川(いすずがわ)の流れを神格化した蛇神の滝祭神(たきまつりのかみ)を怪物視したのが八岐大蛇(やまたのおろち)で、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)が太陽神殺しの大罪で、伊勢から出雲に草薙剣(くさなぎのつるぎ)を持ち去った。
八岐大蛇(やまたのおろち)は、『ホツマツタエ』で早子(はやこ;弟橘姫(おとたちばなひめ)を神格化)の怨念(おんねん)だが、蛇体の天照大神(あまてらすおおみかみ)、滝祭神(たきまつりのかみ)を怪物視した蛇神、伊勢神宮を神格化、7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)を蛇神の大物主神(おおものぬしのかみ)に神格化、出雲大社の龍蛇神(りゅうじゃしん)に当たるなど、どのようにも解釈できて、これが一般的な僕の解釈である。

彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫の全ては、僕が出雲王家(物部(もののべ)氏)と元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏などをまとめて、和珥(わに)氏と再定義して、因幡(いなば;鳥取県東部)の白兎(しろうさぎ)神話の鰐鮫(わにさめ;追いかける皇族や武将を乗せた船団を神格化)から、3世紀中頃に和珥(わに)氏の名字(みょうじ)が成立した可能性が考えられる。


仲哀(ちゅうあい)天皇元年(西暦252年)創建の愛知県名古屋市の熱田(あつた)神宮は、『ホツマツタエ』から日本武(やまとたけ)天皇の妾(めかけ)で、尾張(おわり)氏の宮簀媛(みやずひめ)が伊勢神宮の斎王(さいおう;伊勢神宮で太陽神に仕える未婚の皇女)に準じる神主の地位になって、スサノヲの祭祀(さいし)と三種の神器の草薙剣(くさなぎのつるぎ)を奉納した時より以前に尾張(おわり)氏が創建したと考えられる。
仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月17日(西暦260年11月中旬頃)に戦死したスサノヲ(日本武(やまとたけ)天皇を神格化)は、仲哀(ちゅうあい)天皇元年(西暦252年)の熱田(あつた)神宮の創建より後世に熱田(あつた)神宮に祭ったと考えられる。
崇神(すじん)天皇6年9月16日(西暦89年10月中旬頃)の夜は、奈良県天理市の大和(おおやまと)神社に八重垣剣(やえがきのつるぎ)を奉納して、元伊勢や伊勢神宮内宮に草薙剣(くさなぎのつるぎ)を奉納して、摂政(せっしょう)3年1月3日(西暦263年2月上旬頃)に三種の神器の八重垣剣(やえがきのつるぎ)と草薙剣(くさなぎのつるぎ)を入れ替えた。
仁徳(にんとく)天皇元年1月3日(西暦334年2月上旬頃)に仁徳(にんとく)天皇は、宮崎県から奈良県に草薙剣(くさなぎのつるぎ)を持ち帰って、以降に熱田(あつた)神宮へ草薙剣(くさなぎのつるぎ)を奉納したと考えられる。『ホツマツタエ』は、古代天皇家(三種の神器)の神剣が八重垣剣(やえがきのつるぎ)で、出雲王家(物部(もののべ)氏)の神剣が草薙剣(くさなぎのつるぎ)で、他書で昔に草薙剣(くさなぎのつるぎ)を元伊勢や伊勢神宮内宮に奉納したと記して、三種の神器の神剣を入れ替えて、僕の総合的な分析結果が上記である。 熱田(あつた)神宮の太陽信仰は、祭神の熱田大神(あつたのおおかみ)が草薙剣(くさなぎのつるぎ)の霊魂の天照大神(あまてらすおおみかみ)を指して、古代太陽神氏族の尾張(おわり)氏が熱田(あつた)神宮を創建して、垂仁(すいにん)天皇14年(西暦165年)から尾張(おわり)氏が尾張(おわり;愛知県東部)を統治して、多くの歴史書の記述を証明したと考えられる。
熱田(あつた)神宮の創建年は、天皇不在の年10月7日(西暦251年11月上旬頃)に父方のアマテラス(倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)が殺害された翌年が創建した仲哀(ちゅうあい)天皇元年(西暦252年)で、太陽神の鎮魂(ちんこん)が目的で、スサノヲ(日本武(やまとたけ)天皇を神格化)の祭祀(さいし)と草薙剣(くさなぎのつるぎ)の奉納が無関係と考えられて、創建理由を2025年9月1日の午前4時頃に求めた。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の仲哀(ちゅうあい)天皇元年(西暦192年)は、完全な間違いで、僕の自論の仲哀(ちゅうあい)天皇元年(西暦252年)が正しくて、干支(えと)の60年間を足し算した。)

熱田(あつた)神宮のアツタカミ(熱田神;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)は、『ホツマツタエ』からアツタ(熱田)の語意が熱(あつ)さを養(た)すで、日本武(やまとたけ)天皇を戦死させた義娘(ぎじょう)の神功(じんぐう)皇后が名付けた神名で、スサノヲ(日本武(やまとたけ)天皇を神格化)と同一神と考えられる。
熱田(あつた)神宮の熱田大神(あつたのおおかみ)は、一般的な読み方だが、滋賀県湖南(こなん)市の立志(りっし;りゅうし)神社で、祠(ほこら)の熱田社(あつたしゃ)が同一神の熱田大神(あつたおおかみ)を祭って、熱田大神(あつたのおおかみ;あつたおおかみ)のどちらの呼び方でも良いと考えられる。
熱田(あつた)神宮の勘違いは、『ホツマツタエ』が日本武(やまとたけ)天皇の戦死後にアツタカミ(熱田神)に神格化して、熱田(あつた)神宮を創建した直接理由と勘違いして、熱田(あつた)神宮の創建年の仲哀(ちゅうあい)天皇元年(西暦252年)に気付かないなど、複数の要因で求められず、これらの熱田(あつた)神宮の修正を2025年8月28日以降に求めて、9月5日の午前8時10分頃に修正した。


卑弥呼(ひみこ)の墓(はか)は、魏(ぎ)王朝の直径百歩余り(直径約144メートル前後)で、殉死(じゅんし;主人の後を追って従者が死ぬこと)者百人余(あま)りを供葬(きょうそう)と勘違いして、男弟(だんてい;異母弟)の景行(けいこう)天皇陵(景行(けいこう)天皇古墳)が正しい。

『日本書紀』の仲哀(ちゅうあい)天皇元年11月10日(西暦252年12月上旬頃)か仲哀(ちゅうあい)天皇2年11月10日(西暦253年12月上旬頃)は、卑弥呼(ひみこ;倭姫命(やまとひめのみこと)の男弟(だんてい;異母弟)である景行(けいこう)天皇の亡骸(なきがら)を箸墓(はしはか)古墳に葬礼して、箸墓(はしはか)古墳が宮内庁指定陵の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと;倭姫命(やまとひめのみこと)を祖先化)の墓(はか)でなくて、2025年8月25日以降に僕が景行(けいこう)天皇古墳と名付けた。
『三国志・魏志倭人伝』は、「大きく冢(つか)を作って、直径百歩余り(約144メートル)で、殉死(じゅんし;主人の後を追って従者が死ぬこと)者百人余り」と記して、箸墓(はしはか)古墳が後円部150メートルで、魏(ぎ)王朝の薄葬思想(墓(はか)を小さく作ること)を知って、箸墓(はしはか)古墳の全長280メートルを魏(ぎ)王朝に伝えず、殉死(じゅんし)者の代替物である最古の特殊器台埴輪(はにわ)が出土して、考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)で証明した。
成務(せいむ)天皇時代の年代は、『日本書紀』に記す年代で、決まった条件や特徴を列挙して、年代が1年後にズレる可能性があって、正しい年代を特定するのが困難で、成務(せいむ)天皇元年が仲哀(ちゅうあい)天皇元年か仲哀(ちゅうあい)天皇2年のどちらが正しいか断言できない。
初代天皇の崇神(すじん)天皇古墳は、瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)の全長が約26メートルで、2代目天皇の垂仁(すいにん)天皇古墳の纏向(まきむく)石塚古墳が全長96メートルで、3代目天皇の景行(けいこう)天皇古墳の箸墓(はしはか)古墳が全長280メートルで、3つ共に前方後円墳の形で、どんどん巨大化して、古代天皇家の勢力拡大を証明した。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の成務(せいむ)天皇元年2年11月10日(西暦132年12月上旬頃)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の仲哀(ちゅうあい)天皇元年11月10日(西暦252年12月上旬頃)か仲哀(ちゅうあい)天皇2年11月10日(西暦253年12月上旬頃)が正しい。)

『日本書紀』の仲哀(ちゅうあい)天皇2年9月(西暦253年10月頃)に仲哀(ちゅうあい)天皇は、京都府宮津市に皇居の丹波由良宮(たにはゆらのみや;別名が宮津由良宮(みやづゆらのみや)に居住し始めて、僕が名付けた皇居名である。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の仲哀(ちゅうあい)天皇2年9月(西暦193年10月頃)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の仲哀(ちゅうあい)天皇2年9月(西暦253年10月頃)が正しくて、干支(えと)の60年間を足し算した。)

『ホツマツタエ』の仲哀(ちゅうあい)天皇3年9月30日(西暦254年10月下旬頃)は、中部地方から東北地方南部を平定の武将たちが仲哀(ちゅうあい)天皇の皇居(おそらく京都府宮津市の丹波由良宮(たんばゆらのみや)に帰還して、東国平定が終了した。
参考文献『邪馬台国の考古学』(著者・石野博信 発行・株式会社吉川弘文館)は、3世紀後半から4世紀前半の東北地方南部の宮城県と山形県と福島県の古墳を記して、東日本の平定が間違いなく正しい考古学的証拠である。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の景行(けいこう)天皇54年9月30日(西暦124年10月下旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の仲哀(ちゅうあい)天皇3年9月30日(西暦254年10月下旬頃)が正しい。)

天皇不在の年12月頃から仲哀(ちゅうあい)天皇元年1月頃(西暦252年1月頃から2月頃)に東国平定の武将たちは、茨城県を平定したと考えられて、経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)と武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)の茨城県の平定神話に登場して、東国平定の事実を神話化した。
仲哀(ちゅうあい)天皇元年2月13日(西暦252年3月中旬頃)に東国平定の武将たちは、勿来(なこそ)の浜(福島県いわき市勿来(なこそ)に入ったと考えられて、経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)と武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)を東北地方南部に道案内したのが塩土老翁(しおつちのおじ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)である。


『日本書紀』の仲哀(ちゅうあい)天皇4年1月7日(西暦255年2月上旬頃)は、東国平定から帰国した武渟川別(たけぬなかわわけ)を左大臣で、初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を右大臣に任命した。 (歴史学会(歴史書解釈)の定説の成務(せいむ)天皇3年1月7日(西暦133年10月頃)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の仲哀(ちゅうあい)天皇4年1月7日(西暦255年2月上旬頃)が正しい。)

忍穂耳尊(おしほみみのみこと;仲哀(ちゅうあい)天皇を神格化)の左大臣は、経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)と布刀玉命(ふとだまのみこと;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)で、右大臣が武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)である。

『日本書紀』の仲哀(ちゅうあい)天皇4年1月7日(西暦255年2月上旬頃)は、東国平定から帰国した武渟川別(たけぬなかわわけ)を左大臣で、初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を右大臣に任命した。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の成務(せいむ)天皇3年1月7日(西暦133年10月頃)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の仲哀(ちゅうあい)天皇4年1月7日(西暦255年2月上旬頃)が正しい。)

『日本書紀』の仲哀(ちゅうあい)天皇5年9月(西暦256年10月頃)は、中部地方から東北地方南部の宮城県と秋田県まで統治下に置いて、日本各地の統治者の国造(くにみやつこ;国主)を任命して、『先代旧事本紀(せんだいくじほんき)』の10巻『国造本記(くにみやつこほんき)』に国造(くにみやつこ;国主)に記す。
古代天皇家は、2世紀中頃に美濃(みの;岐阜県南部)を平定して、岐阜県揖斐郡(いびぐん)大野町の前方後円墳の笹山(ささやま)古墳が西暦200年頃の築造年代で、仲哀(ちゅうあい)天皇3年6月頃(西暦254年7月頃)に飛騨(ひだ;岐阜県北部)を平定して、飛騨(ひだ)最古の前方後円墳が4世紀後半から5世紀中頃の岐阜県高山市の三日町大塚(みっかまちおおつか)古墳で、考古学(遺跡・遺物)で、岐阜県の東西分断を証明したと考えられる。
福島県河沼郡会津坂下町の前方後円墳の杵ヶ森(きねがもり)古墳は、3世紀末から4世紀初頭の築造で、石背国造(いわせくにみやつこ)の建彌依米命(たけみよりまいのみこと)か阿尺国造(あさかくにみやつこ)の比止彌命(ひとねのみこと)が古墳埋葬者と考えられる。
千葉県市原市の前方後円墳の神門(ごうど)3・4・5号墳は、3世紀後半の築造で、菊麻国造(きくまくにみやつこ)の大鹿国直(おおかくにのあたい)か上海上国造(かみうなかみくにみやつこ)の忍立化多比命(おしたちかたひのみこと)の一族が古墳埋葬者と考えられる。
長野県中野市の前方後円墳の高遠山(たかとおやま)古墳は、4世紀前半の前方後円墳で、三野後国造(みののみちのしりくにみやつこ)の臣賀夫良命(おみかぶらのみこと)が古墳埋葬者と考えられる。

仲哀(ちゅうあい)天皇5年9月(西暦256年10月頃)に小止与命(おとよのみこと)は、尾張国造(おわりくにみやつこ;愛知県西部の統治者)に任命して、娘が宮簣姫(みやずひめ)で、孫が大倉岐命(おおくらきのみこと)と尾綱根命(おづなねのみこと)か不明で、この兄弟の分岐が海部(あまべ)氏と尾張(おわり)氏の明確な分家を意味するが、尾張国造(おわりくにみやつこ)の任命と明確な2氏族の分家が同時期か証明でない。
『天孫本紀(てんそんほんき)』の尾張(おわり)氏の尾綱根命(おづなねのみこと)は、海部(あまべ)氏と明確に分家した最初の人物で、僕の自論で建稲種命(たけいなだねのみこと)の孫が大倉岐命(おおくらきのみこと)だが、川上眞稚命(かわかみまわかのみこと)と同一人物か別人か求められず、仲哀(ちゅうあい)天皇5年9月(西暦256年10月頃)に尾綱根命(おづなねのみこと)が海部(あまべ)氏と尾張(おわり)氏の分家した時期と証明できない。
『海部(あまべ)氏系図』と『尾張(おわり)氏系図』は、確実に正しい証拠が示せず、最近の僕の指摘で、系図が滅茶苦茶になって、詳細な調査・研究が必要で、僕が自分の能力を過信しすぎた。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の成務(せいむ)天皇5年9月(西暦135年10月頃)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の仲哀(ちゅうあい)天皇5年9月(西暦256年10月頃が正しい。)

ネット情報の仲哀(ちゅうあい)天皇7年7月7日(西暦258年8月中旬頃)は、出雲王国(物部(もののべ)氏)にいる父親の日本武(やまとたけ)天皇が朝鮮半島の新羅国(しらぎのくに)と協力して、息子の仲哀(ちゅうあい)天皇がいる京都府宮津市の皇居の丹波由良宮(たんばゆらのみや)を攻撃して、朝鮮半島の新羅国(しらぎのくに)と南九州の熊襲(くまそ)王国が山口県下関市の皇居の穴門豊浦宮(あなととゆらのみや)を襲撃したのに変換した。
日本武(やまとたけ)天皇と弟橘姫(おとたちばなひめ)の長男の稚武彦王(わかたけひこのみこ)は、出雲王国(物部(もののべ)氏)から、新羅国(しらぎのくに)に派遣した使者で、日本神話の完全解釈で、日本武(やまとたけ)天皇の反乱(皇位継承権争い)に新羅国(しらぎのくに)が共闘したと考えられる。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の仲哀(ちゅうあい)天皇7年7月7日(西暦198年8月中旬頃)で、完全な間違いで、ネット情報から求めた僕の自論の仲哀(ちゅうあい)天皇7年7月7日(西暦258年8月中旬頃)が正しくて、干支(えと)の60年間を足し算した。)

スサノヲ(素戔嗚)とイナダヒメ(稲田姫)の長男オオヤヒコ(大屋彦)は、「記紀」の五十猛神(いそたけるのかみ)と同一神で、父と共に古代朝鮮国家の新羅(しらぎ)に下って、帰国して出雲(島根県東部)に至って、日本中の植樹(しょくじゅ)した神様で、有功神(いさおしのかみ;大変に功績のある神様)と呼ばれて、紀伊国(きいのくに;和歌山県)に住み着いた。
スサノヲ(日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)とイナダヒメ(弟橘姫(おとたちばなひめ)を神格化)の長男の五十猛神(いそたけるのかみ;稚武彦王(わかたけひこのみこ)を神格化)は、父の日本武尊(やまとたけのみこと)の反乱で、西暦250年代に古代朝鮮の新羅国(しらぎのくに)に行って、協力を要請したが、日本武尊(やまとたけのみこと)が戦死して、出雲(島根県東部)や紀伊国(きいのくに;和歌山県)など全国的に植樹(しょくじゅ)したと考えられて、新羅国(しらぎのくに)が日本神話に登場した。


『日本書紀』の仲哀(ちゅうあい)天皇8年9月5日(西暦259年10月上旬頃)に仲哀(ちゅうあい)天皇は、出雲王国(物部(もののべ)氏)の討伐を相談して、翌年の仲哀(ちゅうあい)天皇9年1月下旬から2月5日頃(西暦260年2月下旬から3月上旬頃)に神功(じんぐう)皇后が次男の誉田別尊(ほむだわけのみこと)を身籠(みご)もったと考えられて、朝鮮半島の新羅国(しらぎのくに)討伐の相談に変換した。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の仲哀(ちゅうあい)天皇8年9月5日(西暦199年10月中旬頃)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の仲哀(ちゅうあい)天皇8年9月5日(西暦259年10月上旬頃)が正しくて、干支(えと)の60年間を足し算した。)

『日本書紀』とネット情報の仲哀(ちゅうあい)天皇9年2月5日(西暦260年3月上旬頃)に仲哀(ちゅうあい)天皇は、出雲王国(物部(もののべ)氏)の攻撃中に戦場で、矢で負傷して、翌日6日(3月上旬頃)に51才で戦死して、正妻の神功(じんぐう)皇后が義父の日本武(やまとたけ)天皇を恨(うら)んで、出雲から船団が京都府宮津市に撤退して、朝鮮半島の新羅国(しらぎのくに)の攻撃中に変換した。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の仲哀(ちゅうあい)天皇9年2月5日と6日(西暦200年3月上旬頃)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の仲哀(ちゅうあい)天皇9年2月5日と6日(西暦260年3月上旬頃)が正しくて、干支(えと)の60年間を足し算した。)

『日本書紀』の仲哀(ちゅうあい)天皇9年10月3日(西暦260年11月上旬頃)に神功(じんぐう)皇后は、京都府宮津市の皇居の丹波由良宮(たにはゆらのみや)から出雲王国(物部(もののべ)氏)を討伐する船団と出発した。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の仲哀(ちゅうあい)天皇9年10月3日(西暦200年11月上旬頃)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の仲哀(ちゅうあい)天皇9年10月3日(西暦260年11月上旬頃)が正しくて、干支(えと)の60年間を足し算した。)

邪馬台国(やまたいこく)論争は、全(まった)く出雲王国(物部(もののべ)氏)の崩壊に触(ふ)れてない。

『日本書紀』の仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月11日から17日(西暦260年11月中旬頃)に神功(じんぐう)皇后は、出雲王国(物部(もののべ)氏)を攻撃して、日付不明で日本武(やまとたけ)天皇が婿(むこ)養子で、40才頃で7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)を暗殺して、17日に67才の日本武(やまとたけ)天皇が戦死して、日本武(やまとたけ)天皇が2度目の罪(つみ;皇位継承権争い)を自分の死で償(つぐな)った。
西暦260年は、60年間を足し算して、仲哀(ちゅうあい)天皇9年(西暦320年)の朝鮮半島の三韓(さんかん)征伐(新羅国(しらぎのくに)と高句麗国(こうくりのくに)と百済国(くだらのくに)の3国の討伐)に変換して、出雲王国(物部(もののべ)氏)の崩壊(出雲の国譲(くにゆず)り神話)と三韓(さんかん)征伐をごちゃ混(ま)ぜにしたために混乱を生み出したと考えられる。
天皇不在の年(西暦251年)から仲哀(ちゅうあい)天皇9年(西暦260年)までの日本武(やまとたけ)天皇の反乱は、邪馬台国(大和国;やまとこく)と出雲王国の2度目の内乱(皇位継承権争い)で、短時間で出雲王国の上層部を一掃(出雲王国の崩壊)して、戦死者が少なかったと考えられる。西暦260年神無月は、出雲王家(物部(もののべ)氏)の滅亡でなく、4代目出雲国王の物部十市根(もののべのといちね)の子孫である物部守屋(もののべのもりや)が6世紀中頃の用明(ようめい)天皇2年7月(西暦587年8月頃)に戦死して、物部(もののべ)氏の本家が滅亡して、僕が崩壊の言葉を使う。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月11日から17日(西暦200年11月中旬頃)は、完全な間違いで、神無月11日から17日が出雲大社の神有祭(かみありさい)の期間で、『日本書紀』から求めた僕の自論の仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月11日から17日(西暦260年11月中旬頃)が正しくて、干支(えと)の60年間を足し算した。
『日本書紀』成務(せいむ)天皇60年6月11日に成務(せいむ)天皇(日本武(やまとたけ)天皇と同一人物)は、106才で崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、仲哀(ちゅうあい)天皇9年(西暦260年)と合致して、出雲大社の神有祭(かみありさい)の神無月11日とも日付が合致した。)


弥生時代後期は、全国的に高地性集落遺跡が作られて、出雲で3世紀中頃に多くの高地性集落遺跡が作られて、弥生時代後期に発展した出雲が3世紀中頃に衰退して、これも出雲王国(物部(もののべ)氏)の崩壊と時期が重なって、偶然と考えられない。
鳥取県鳥取市の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡の傷ついた人骨は、約千八百年前の物で、西暦260年神無月に出雲王国(物部(もののべ)氏)の上層部を短時間で一掃したのでなく、西暦95年の出雲王国(物部(もののべ)氏)のために鳥取県を平定した時か、垂仁(すいにん)天皇5年から7年(西暦156年から158年)の2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(倭国大乱;わこくたいらん)で、戦死した死者の人骨の可能性が高い。

出雲の国譲(くにゆず)り神話(出雲王国(物部(もののべ)氏)の崩壊)は、高天原(たかまがはら;天津神:あまつがみ)系の古代天皇家の人物と出雲系(国津神;くにつがみ)の物部(もののべ)氏の人物の戦争で、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)と婿(むこ)養子の2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)が戦死した。
古代天皇家の人物は、7代目・高皇産霊尊(たかみむすびのみこと;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)と身重(みおも)の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)のお腹(なか)にいた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと;誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)を神格化)と経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)と武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)などである。
物部(もののべ)氏側の人物は、2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)と須勢理比売(すせりひめ;忍布姫(ぬのおしひめ)を神格化)と事代主神(ことしろぬしのかみ;宇迦都久怒(うかずくぬ)を神格化)と建御名方神(たけみなかたのかみ;素戔嗚尊(すさのおのみこと)の日本武(やまとたけ)天皇を神格化)などである。
旧暦神無月11日から17日の出雲大社の神有祭(かみありさい)は、全国から神様が集合して会議をするが、仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月11日から17日(西暦260年11月中旬頃)の出雲王国(物部(もののべ)氏)の崩壊(出雲の国譲(くにゆず)り神話)と合致して、神無月17日に素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)が母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)の命令で殺されて、内乱(皇位継承権争い)が終戦した。
殺された怨霊(おんりょう;恨(うら)み祟(たた)る霊魂)の素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)と2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)は、7代目・大物主神(おおものぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)と同一神で、出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏と深い関係だが、僕が100%祖先神と証明して、謎(なぞ)の血筋を特定した。
古代太陽神(彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の子孫の素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)と2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)は、本来が太陽神の要素を持たないが、人によって太陽神の要素を持ったり、同一神と考えたりして、古代太陽神の血筋や別の神格が太陽神だったりして、根本的な解釈が十人十色で間違いでない。


総合的に分析した僕の自論の仲哀(ちゅうあい)天皇9年12月5日頃(西暦261年1月上旬頃)までに神功(じんぐう)皇后は、身重(みおも)の体で、この後に神功(じんぐう)皇后が船で、近畿地方に帰国して、それ以前に出雲王国(物部(もののべ)氏)の崩壊の戦後処理をして、出雲王国が統治した中国地方の各地に使者を飛ばして、対応に追われて、1ヶ月以上も出雲に滞在した。
この戦後処理は、戦死した7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)の息子である25才頃の宇迦都久怒(うかずくぬ)が景行天皇45年11月15日(西暦235年12月中旬頃)生まれの初代・武内宿禰(たけのうちのすくね;たけうちのすくね)と同母の兄弟だから、年齢計算が正しくて、出雲王家(物部(もののべ)氏)から分家した出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏で最初の人物で、最初の出雲国造(いずもくにみやつこ;出雲の統治者)にも任命されて、この時に初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)から始まる竹内(たけうち)氏も出雲王家(物部(もののべ)氏)から分家した可能性が高い。
千家(せんげ)氏の本家の系図は、宇迦都久怒(うかずくぬ)から曾曾曾孫の出雲宮向(いずものみやむき)まで、系図が途切(とぎ)れなくて、それ以降の千家(せんげ)氏系図が正しいか証明してなくて、竹内(たけうち)氏の本家の系図説明が景行天皇45年11月15日(西暦235年12月中旬頃)生まれの初代・武内宿禰(たけのうちのすくね;たけうちのすくね)の所に記した。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の仲哀(ちゅうあい)天皇9年12月5日頃(西暦201年1月上旬頃)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の仲哀(ちゅうあい)天皇9年12月5日頃(西暦261年1月上旬頃)が正しくて、干支(えと)の60年間を足し算した。)

『日本書紀』の仲哀(ちゅうあい)天皇9年12月14日(西暦261年1月中旬頃)に陣痛(じんつう)が始まった神功(じんぐう)皇后は、船を降(お)りて、京都市与謝郡(よさぐん)伊根町(いねちょう)の宇良(うら)神社で、仲哀(ちゅうあい)天皇の忘れ形見で、次男の誉田別尊(ほむだわけのみこと)を生んで、『日本書紀』に記す浦島太郎の正体が誉田別尊(ほむだわけのみこと)と息子の仁徳(にんとく)天皇である。
仲哀(ちゅうあい)天皇と神功(じんぐう)皇后の息子の誉田別尊(ほむだわけのみこと)は、神功(じんぐう)皇后が十月十日(とつきとおか)後に生んで、出雲王国(物部(もののべ)氏)で、仲哀(ちゅうあい)天皇が戦死した時に神功(じんぐう)皇后が一緒に戦争に参加して、夫が死ぬ前に妊娠したと考えられて、大臣の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)との間にできた不義の子の説を完全に否定して、初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)が左大臣か右大臣か分からない。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の仲哀(ちゅうあい)天皇9年12月14日(西暦201年1月中旬頃)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の仲哀(ちゅうあい)天皇9年12月14日(西暦261年1月中旬頃)が正しくて、干支(えと)の60年間を足し算した。)

邪馬台国(やまたいこく)は、遂(つい)に国中を平定した。

『日本書紀』の仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月17日(西暦260年11月中旬頃)に戦死した日本武(やまとたけ)天皇の反乱(皇位継承権争い)は、翌年の摂政(せっしょう)元年2月(西暦261年3月頃)に仲哀(ちゅうあい)天皇の息子の鹿坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)の兄弟が義母の神功(じんぐう)皇后に反乱(皇位継承権争い)を起こさせて、鹿坂皇子(かごさかのみこ)が死んで、3月5日(西暦261年4月上旬頃)以降に忍熊皇子(おしくまのみこ)が溺死して、京都府宇治市で水死体が見つかった。
鹿は、「鹿」の漢字の下に弭で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
鹿坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)の兄弟の反乱は、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争にも日本神話にも『ホツマツタエ』にも登場しない戦争で、「記紀」の記録に残る意味で、忘れ去られたように記すことを僕が幻(まぼろし)の内乱(皇位継承権争い)と例(たと)えた。
この内乱(皇位継承権争い)の影響で神功(じんぐう)皇后は、三種の神器の扱(あつか)いを考えて、『三国志・魏志倭人伝』の「国中遂定」の記述が摂政(せっしょう)元年(西暦261年)に内乱(皇位継承権争い)を遂(つい)に平定したことを指して、古代中国の魏(ぎ)王朝が滅亡する摂政(せっしょう)5年(西暦265年)までに使者を送った。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の摂政(せっしょう)元年(西暦201年)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の摂政(せっしょう)元年(西暦261年)が正しくて、干支(えと)の60年間を足し算した。)

殺された怨霊(おんりょう;恨(うら)み祟(たた)る霊魂)の鹿坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)の兄弟は、日本神話の神々に神格化してないが、鎮魂(みたましずめ;怨霊(おんりょう;恨(うら)み祟(たた)る霊魂)にならないように霊魂を鎮(しず)めること)を目的に祭る。

古代中国の魏(ぎ)王朝が滅亡した西暦265年までに卑弥呼(ひみこ)の宗女(一族)の台与(とよ)は、13才で選ばれて、女王になったと勘違いして、女帝に近い立場の間違いである。

『日本書紀』の摂政(せっしょう)元年10月2日(西暦261年11月上旬頃)に33才の神功(じんぐう)皇后は、摂政(せっしょう;天皇に代わって政治をする役職)に任命されて、この年が摂政(せっしょう)元年で、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)と同族(皇族)の台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后が13才と勘違いした。
神功(じんぐう)皇后の摂政(せっしょう)任命は、神功(じんぐう)天皇を最初の女性天皇に加(くわ)えて、女系天皇や女性天皇を支持する理由を生み出して、母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)の女系男子天皇の根拠にもしたい僕の漢がた方が反映(はんえい)される。 (『日本書紀』の神功(じんぐう)皇后の摂政(せっしょう)元年は、干支(えと)の辛巳(かのとみ)の年で、歴史学会(歴史書解釈)の定説の摂政(せっしょう)元年10月2日(西暦201年11月上旬頃)が完全な間違いで、僕の自論の摂政(せっしょう)元年10月2日(西暦261年11月上旬頃)が正しくて、干支(えと)の60年間を足し算した。)

天岩戸隠(あまのいわとかく)れ神話は、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)が父方の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)を殺して、天岩戸(あまのいわと)を開いて、母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)が出て来て、太陽神が交代した事実の神話化である。
『ホツマツタエ』のツワモノヌシ(稲瀬彦皇子(いなせひこのみこ)を神格化)は、天岩戸(あまのいわと)の前で、色々と作業して、稲瀬彦皇子が西暦250年から254年に東日本の平定に出陣して、仲哀(ちゅうあい)天皇元年1月11日(西暦252年2月中旬頃)の神功(じんぐう)皇后が皇后になった時、奈良県にいなくて、摂政(せっしょう)元年10月2日(西暦261年11月上旬頃)の天岩戸隠(あまのいわと)隠れ神話に参加したと考えられて、これを2025年1月16日の午前9時10頃に求めた。

参考文献『歪(ゆが)められた日本神話』(著者・萩野貞樹 発行・PHP研究所)は、天岩戸隠(あまのいわとかく)れ神話とギリシア神話のゼウスの姉デメテルが弟ポセイドンとのアルカディア地方の一伝で、共通性が偶然で片付けられなくて、戦争を挟(はさ)んだ指導者の交代を神話化したのでなく、シルクロードでギリシア神話を仕入れて、よく似た日本神話を作った可能性が考えられる。
つまりギリシア神話のアルカディア神話は、戦争を神話化した物でなく、シルクロードでギリシア神話を知った古代日本人がよく似た神話を思いついて、天岩戸隠(あまのいわとかく)れ神話を作ったことで、共通性が生まれて、後世の現代日本人が色々考察して、混乱させた可能性があって、古代天皇家がギリシア神話を作った王家と共通の先祖を持つ可能性も考えられる。


『日本書紀』の摂政(せっしょう)3年1月3日(西暦263年2月上旬頃)に台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后は、実兄の誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)でなく、実弟で2才弱の誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)を立太子(りったいし;皇太子になること)して、三種の神器の神剣を入れ替えて、新しい三種の神器と共に日向(ひうが;宮崎県)に行かせた。
実兄弟の誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)と誉田別尊(ほむだわけのみこと)は、10才に満たない皇位継承者で、2人共に皇太子の可能性が高く、奈良県と宮崎県に別(わか)れて住んで、誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)に子供がいないと考えられて、誉田別尊(ほむだわけのみこと)の息子の神武(じんむ)天皇(仁徳(にんとく)天皇を祖先化)が宮崎県から奈良県に東征して、即位した神武(じんむ)東征神話が生まれた。
『ホツマツタエ』は、三種の神器の神剣が八重垣剣(やえがきのつるぎ)で、景行(けいこう)天皇56年(西暦246年)に『ホツマツタエ』を献上したと記して、『日本書紀』摂政(せっしょう)3年1月3日(西暦263年2月上旬頃)の神剣の交代と西暦年月がすれ違って、2種類の八重垣剣(やえがきのつるぎ)と1種類の草薙剣(くさなぎのつるぎ)の入れ替えが嘘(うそ)と誤認されて、『ホツマツタエ』の八重垣剣(やえがきのつるぎ)の伝承が多くて、実在したのが間違いない。
おとぎ話の浦島太郎は、母と乙姫(おとひめ)に一生会えなくて、大阪府から宮崎県に旅立って、誉田別尊(ほむだわけのみこと)が母の神功(じんぐう)皇后とずっと会えなくて、仲姫(なかひめ)が乙姫(おとひめ)で、夫の誉田別尊(ほむだわけのみこと)が眠る宮崎県に残って、奈良県で即位した仁徳(にんとく)天皇が母の仲姫(なかひめ)とずっと会えなかった。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の摂政(せっしょう)3年1月3日(西暦203年2月上旬頃)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の摂政(せっしょう)3年1月3日(西暦263年2月上旬頃)が正しくて、干支(えと)の60年間を足し算した。)

素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)は、八岐大蛇(やまたのおろち;伊勢神宮を神格化)を襲撃して殺して、尻尾(しっぽ;伊勢神宮内宮)から天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を強奪して、出雲に持ち去って、出雲王国(物部(もののべ)氏)から、賠償金(ばいしょうきん)の天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を取り戻して、後世に草薙剣(くさなぎのつるぎ)と呼んだ。
古代の賠償金(ばいしょうきん)は、物々(ぶつぶつ)交換だけで、現代のお金の流通と違って、古代人と現代人の感覚の違いを理解して、求めることが大切である。
母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)は、息子の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと;誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化)に天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を持たせて、日向(ひうが;宮崎県)に天孫降臨させて、三種の神器の八重垣剣(やえがきのつるぎ)と天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を入れ替えた。
『ホツマツタエ』で三種の神器の八重垣剣(やえがきのつるぎ)は、他の歴史書に登場せず、日本神話で斧や逆矛(さかほこ)や剣など色々な形の武器で、天(あま)の逆鉾(さかほこ)や天沼矛(あめのぬぼこ)や天詔琴(あめののりごと)や伊勢神宮正殿下の心(しん)の御柱(みはしら)や新羅(しらぎ)王の門に立つ矛などで登場したと考えられる。
『ホツマツタエ』は、5代目オオモノヌシ(物部夏花(もののべのなつはな)を神格化)が養子にした6代目オオモノヌシ(神櫛皇子(かんぐしのみこ)を神格化)をアオカキトノ(青垣殿;奈良県桜井市の神坐日向(みわにますひむかい)神社)に住まわせて、神櫛皇子(かんぐしのみこ)に先祖伝来のムラクモノツルギ(草薙剣;くさなぎのつるぎ)を譲(ゆず)って、物部(もののべ)氏の神剣が草薙剣(くさなぎのつるぎ)と考えられる。

日向(ひうが;宮崎県)の天孫降臨神話で布刀玉命(ふとだまのみこと;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)は、神功(じんぐう)皇后の弟(同母か異母か不明)で、甥(おい)の誉田別尊(ほむだわけのみこと)を守る近衛(このえ)将軍である。
塩土老翁(しおつちのおじ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと;誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化)の息子の火火出見尊(ほほでみのみこと;仁徳(にんとく)天皇を神格化)を舟で送り出して、大臣の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)が誉田別尊(ほむだわけのみこと)を舟で、大阪府の海岸から宮崎県に送り出して、京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社の日本神話に変換された。


西暦265年に建国した古代中国の西晋(せいしん)王朝の泰始(たいし)2年(西暦266年)は、女王の台与(とよ)が遣使して、この年号を最後に邪馬台国(やまたいこく)が歴史上から消えて、遣西晋使(けんせいしんし;遣隋使や遣唐使に基づいた僕の造語)である。

『日本書紀』の摂政(せっしょう)6年(西暦266年)に女帝と勘違いした台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后は、邪馬台国(大和国;やまとこく)が遣使した最後の年号で、この後も何度か遣使したが、仲哀(ちゅうあい)天皇と神功(じんぐう)皇后の息子2人が10才に満たない皇位継承者の政治不安で、古代中国と断交して、専門家(考古学会と歴史学会)が断交理由を求められない。
韓国の都市の金海(キメ)は、狗邪韓国(くやかんこく)の加羅国(からのくに)の首都(国都)で、3世紀後半頃から日本製の遺物が出土しなくて、神功(じんぐう)皇后時代に古代中国と朝鮮半島との断交を考古学(遺跡・遺物)で証明した。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の摂政(せっしょう)6年(西暦206年)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の摂政(せっしょう)6年(西暦266年)が正しくて、干支(えと)の60年間を足し算した。)

『日本書紀』の摂政(せっしょう)25年頃(西暦285年頃)に皇太子の誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)と仲姫(なかひめ)は、仁徳(にんとく)天皇を生んで、仁徳(にんとく)天皇から武烈(ぶれつ)天皇の生没年月日を「記紀」でちゃんと記さず、神武(じんむ)天皇から武烈(ぶれつ)天皇までの在位期間を混乱させるための偽装工作と考えられる。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の応神(おうじん)天皇15年頃(西暦285年頃)は、完全な間違いで、僕の自論の摂政(せっしょう)25年頃(西暦285年頃)が正しくて、旧暦年と西暦年が合致した。)

瓊瓊杵尊(ほのににぎのみこと;誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化)は、大山祇神(おおやまつみのかみ;品陀真若王(ほむだまわかのみこ)を神格化)の娘の木花開耶姫(このはなさくやひめ;仲姫(なかひめ)と高城入姫(たかぎいりひめ)の姉妹を神格化)と結婚して、異母兄の火酢芹命(ほすせりのみこと;大山守皇子(おおやまもりのみこ)を神格化)と火火出見尊(ほほでみのみこと;仁徳(にんとく)天皇を神格化)を生んだ。

『日本書紀』の摂政(せっしょう)天皇31年9月10日(西暦291年10月上旬頃)に皇太子の誉田別尊(ほむだわけのみこと)は、宮崎県から奈良県への里帰りの途中で、吉備国(きびのくに;岡山県と広島県東部)の領土を分割して、吉備武彦(きびたけひこ)の息子と孫たちに与えられて、日付不明で誉田別尊(ほむだわけのみこと)が母の神功(じんぐう)皇后と再会して、記述が事実(現実に起きた出来事)と証明した。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の応神(おうじん)天皇22年9月10日(西暦291年10月上旬頃)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の摂政(せっしょう)31年9月10日(西暦291年10月上旬頃)が正しくて、旧暦年と西暦年が合致した。)

西暦297年に亡くなった西晋(せいしん)王朝の文官の陳寿(ちんじゅ)は、『三国志・魏志倭人伝』に邪馬台国(やまたいこく)を記した。

『ホツマツタエ(秀真伝)』の原本『ミソギノフミ(禊(みそぎ)の文(ふみ)』は、6代目出雲国王の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと;神櫛皇子(かんぐしのみこ)と同一人物)と曾孫の2代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)がまとめて、景行(けいこう)天皇56年(西暦246年)に献上したが、60年後の4世紀初頭の摂政(せっしょう)46年(西暦306年)に献上して、現存しない記録上の日本最古の書物と考えられる。
『ミソギノフミ(禊(みそぎ)の(ふみ)』は、出雲王国(物部(もののべ)氏)の2度の内乱(皇位継承権争い)に対する償(つぐな)いを記して、仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月17日(西暦260年11月中旬頃)の出雲王国(物部(もののべ)氏)の崩壊まで記して、仁徳(にんとく)天皇元年1月3日(西暦334年2月上旬頃)の神武(じんむ)天皇(仁徳(にんとく)天皇を祖先化)の即位を記さず、後世に神武(じんむ)東征(仁徳(にんとく)東征)を『ホツマツタエ』に加筆したと考えられる。
『ミソギノフミ(禊(みそぎ)の(ふみ)』は、景行(けいこう)天皇元年3月(西暦191年4月頃)に古代中国の後漢(ごかん)王朝から漢字と製紙業を持ち帰って、漢字の音読みと訓読みを作って、5世紀後半の辛亥(かのとい)年7月(西暦471年8月頃)の文字を記す稲荷山(いなりやま;古墳出土)鉄剣よりも古い文章の記録である。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の景行(けいこう)天皇56年(西暦126年)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の摂政(せっしょう)天皇46年(西暦306年)が正しいと考えられる。)

『ホツマツタエ』は、6代目・大物主神(おおものぬしのかみ;神櫛皇子(かんぐしのみこ)を神格化)と直系子孫(曾孫)の2代目・大田田根子(おおたたねこ;2代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)を祖先化)がまとめて、藤原氏の先祖の大鹿島(おおかしま;神櫛皇子(かんぐしのみこ)の実弟の稲瀬彦皇子(いなせひこのみこ)を祖先化)が花押(かおう;自著の代わりに使う記号)で署名(しょめい)して、景行(けいこう)天皇56年に献上したと記すが、原本の『ミソギノフミ(禊(みそぎ)の文(ふみ)』の間違いである。

『日本書紀』の摂政(せっしょう)49年1月24日(西暦309年2月下旬頃)に父の誉田別尊(ほむだわけのみこと)は、菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)を立てて皇太子として、大山守皇子(おおやまもりのみこ)が山川林野を管理させて、仁徳(にんとく)天皇を皇太子の補佐(ほさ)として、3人の皇子を皇位継承者にした。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の応神(おうじん)天皇40年1月4日(309年2月上旬頃)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の摂政(せっしょう)49年1月4日(西暦年310年2月上旬頃)が正しくて、西暦年が合致した。)

『日本書紀』の摂政(せっしょう)50年2月15日(西暦年310年3月中旬頃)に皇太子で49才の誉田別尊(ほむだわけのみこと)は、大隅宮(おおすみのみや;鹿児島県東部の宮殿)で亡くなったが、宮崎県の宮殿が正しいと考えられて、皇太子のため崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)と呼ばない。
宮崎市の前方後円墳の生目(いきめ)1号墳は、3世紀末から4世紀前半の築造で、景行(けいこう)天皇陵の箸墓(はしはか)古墳(景行(けいこう)天皇古墳)の相似形で、誉田別尊(ほむだわけのみこと)陵(即位しない応神(おうじん)天皇陵)の有力候補である。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の応神(おうじん)天皇41年2月15日(西暦年310年3月中旬頃)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の摂政(せっしょう)50年2月15日(西暦年310年3月中旬頃)が正しくて、西暦年が合致した。誉田別尊(ほむだわけのみこと)は、仲哀(ちゅうあい)天皇9年12月14日(西暦261年1月中旬頃)生まれで、摂政(せっしょう)50年2月15日(西暦年310年3月中旬頃)に49才で死去した。)

『日本書紀』の仲哀(ちゅうあい)天皇9年(西暦320年)は、朝鮮半島の三韓(さんかん)征伐(新羅国(しらぎのくに)と高句麗国(こうくりのくに)と百済国(くだらのくに)の3国の討伐)が世間一般で、嘘(うそ)と考えて、僕が60年引き算して、仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月(西暦260年11月頃)の出雲王国(物部(もののべ)氏)の攻撃に変換して、出雲王国の崩壊を考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)で証明して、三韓(さんかん)征伐が嘘(うそ)の可能性を僕が強調させた。
摂政(せっしょう)60年(西暦320年)は、新羅国(しらぎのくに)を攻撃して、敗戦で地図や戸籍を差し出して、それを見て高句麗国(こうくりのくに)と百済国(くだらのくに)が参戦しなくて、摂政(せっしょう)62年(西暦322年)の新羅国(しらぎのくに)討伐も事実で、仲哀(ちゅうあい)天皇9年(西暦320年)の三韓(さんかん)征伐の真実で、まだ判明して手つかずで、後に詳細を修正する。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の仲哀(ちゅうあい)天皇9年(西暦320年)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の摂政(せっしょう)天皇60年(西暦320年)が正しいと考えられる。)

古代の朝鮮半島南東部に存在した新羅国(しらぎのくに)は、2世紀中頃の崇神(すじん)天皇63年(西暦146年)と垂仁(すいにん)天皇2年(西暦153年)に初めて戦争した外国で、4世紀前半の摂政(せっしょう)60年(西暦320年)と摂政(せっしょう)62年(西暦322年)にも戦争して、『ホツマツタエ』と『日本書紀』が新羅国(しらぎのくに)の実在を証明した。

古代の朝鮮半島北部から満州の南部に存在した高句麗国(こうくりのくに)は、最盛期に朝鮮半島の大部分と中国東北部南部とロシア沿海地方の一部を支配して、朝鮮半島の南東部に新羅国(しらぎのくに)で、南西部に百済国(くだらのくに)で、南部に加羅(から)諸国がそれぞれ存在して、朝鮮史の時代区分が三国時代で、『日本書紀』から摂政(せっしょう)60年(西暦320年)に高句麗国(こうくりのくに)が実在した。
『三国史記(さんごくしき)』の伝説は、初代王の東明聖王(とうめいせいおう;朱蒙:しゅもう)が紀元前37年に高句麗(こうくり)を建国したが、考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)で、これよりもやや古くて、『漢書』の紀元前107年の句驪国(こまのくに)から実在したと考えられて、前漢王朝と後漢王朝の支配を受けず、3世紀以降に古代中国の歴代王朝や夫余(扶余;ふよ)や靺鞨(まっかつ)や百済(くだら)や新羅(しらぎ)や古代天皇家など、周辺諸国と攻防を繰り広げて、5世紀に最盛期を迎(むか)えた。高句麗(こうくり)は、東アジアで大きな影響力を持つが、西暦589年に古代中国を統一して、南北朝時代が終わると、統一王朝の隋(ずい)王朝と唐(とう)王朝から繰り返し攻撃を受けて、高句麗(こうくり)が長くこれに耐えた。
しかし西暦660年に百済(くだら)は、唐(とう)王朝が滅亡させて、新羅(しらぎ)も唐(とう)王朝と結託して、南北から挟(はさ)まれて、国内の内紛(ないふん)に乗じた唐(とう)王朝と新羅(しらぎ)の挟撃で、西暦668年10月22日に滅亡して、唐(とう)王朝に吸収されて、安東都護府(あんとうとごふ)を設置した。
西暦391年から412年に在位した高句麗国(こうくりのくに)の第19代王の広開土王(こうかいどおう)は、死後にその功績を讃(たて)える目的で建立した広開土王碑(こうかいどおうひ)が「記紀(『古事記』と『日本書紀』)」の記述と対比して、4世紀末から5世紀初頭の東アジア史の重要史料である。

高句麗(こうくり)の建国神話の朱蒙(しゅもう)神話は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の日向(ひうが;宮崎県)の天孫降臨神話や因幡(いなば;鳥取県東部)の白兎(しろうさぎ)神話や神武(じんむ)東征神話と共通性があって、摂政(せっしょう)3年(西暦263年)から神武(じんむ)東征5年(仁徳(にんとく)東征5年;西暦333年)までの年代を神話化して、日本神話が朝鮮半島の高句麗国(こうくりのくに)に伝わって、朱蒙(しゅもう)神話を作ったと考えられる。

古代の朝鮮半島西部から南西部に存在した百済国(くだらのくに)は、『日本書紀』から4世紀前半の摂政(せっしょう)60年(西暦320年)に実在して、歴史が首都(国都)の移動で、大きく漢城(かんじょう)時代(西暦475年まで)と熊津(ゆうしん)時代(西暦475年から538年)と泗(しび)時代(西暦538年から660年)に分類して、西暦660年7月以降に滅亡した。
は、「さんずいへん」に比で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
漢城(かんじょう)時代は、現在の京畿道(けいきどう)が中心だが、高句麗(こうくり)の攻撃で、首都(国都)の漢城(かんじょう)が陥落して、一時的に滅亡した後、現在の忠清南道(ちゅうせいなんどう)にあった熊津(ゆうしん;現在の公州)に首都(国都)を遷(うつ)して再興した。
熊津(ゆうしん)時代の百済(くだら)は、弱体化したが、武寧王(ぶねいおう)が高句麗(こうくり)を撃退したことで、徐々(じょじょ)に国力を回復して、南方の加羅(から)地方に勢力拡大して、西暦538年に新しい首都(国都)の泗(しび)を建設して、なおさら加羅(から)地方を含(ふく)めた周囲に勢力拡大を計画した。
百済国(くだらのくに)があった時代は、朝鮮半島北部から満洲地方にかけて高句麗(こうくり)で、朝鮮半島南東部に新羅(しらぎ)で、朝鮮半島南部に加羅(から)諸国が存在して、朝鮮史の時代区分が三国時代で、古代中国の南朝と親密な関係で、仏教と各種の南朝の文化・学問を導入して栄えて、周辺諸国とも交流した。
現在の百済の歴史は、『三国史記(さんごくしき)』と『日本書紀』と古代中国の歴代の正史(国家とが編修した歴史)などで知られて、また墓(はか)や寺院跡のような考古学(遺跡・遺物)からも、学術的に調査して、第25代王の武寧王陵(ぶねいおうりょう)が百済(くだら)で、最も有名な墳墓で、1971年に未盗掘で発見して、当時の文化遺産が多く残る。
『日本書紀』の歴代天皇時代は、百済国(くだらのくに)や百済(くだら)王の記述が多く見られて、古代朝鮮の加羅(から)諸国(任那国;みまなのくに)と共に多く記録して、それだけ深い外交関係だと証明する。

百済(くだら)の建国神話の温祚(おんそ)神話は、火火出見尊(ほほでみのみこと;誉田別尊(ほむだわけのみこと:即位しない応神(おうじん)天皇)を神格化)の神話と共通性が見られて、誉田別尊(ほむだわけのみこと)の生きた西暦261年から310年頃を神話化して、日本神話が朝鮮半島の百済国(くだらのくに)に伝わって、温祚(おんそ)神話を作ったと考えられる。

『日本書紀』の摂政(せっしょう)62年(西暦322年)は、朝鮮国家の新羅国(しらぎのくに)が朝貢せず、その年に葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を派遣して、新羅国(しらぎのくに)を討伐して、『百済記(くだらき)』の「干支(えと)の壬午(みずのえうま;允恭(いんぎょう)天皇5年:西暦382年)の年に日本が沙至比跪(さしひき)を派遣して、新羅国(しらぎのくに)を討伐した」と訳して、摂政(せっしょう)62年が西暦322年と西暦382年を重複させたと考えられる。
つまり摂政(せっしょう)62年(西暦322年)は、新羅国(しらぎのくに)が朝貢しなくて、その年に40才頃の葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を武将として派遣して、新羅国(しらぎのくに)を討伐させて、西暦320年の2年後が事実で、西暦329年から333年の5年間が内乱(皇位継承権争い)の政治不安で、朝鮮半島と断交して、元々が古代中国と交流していないと判明した。
允恭(いんぎょう)天皇5年(西暦382年)は、大和朝廷が葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)と別人の沙至比跪(さしひき)を派遣して、新羅国(しらぎのくに)を討伐して、摂政(せっしょう)62年が西暦322年と西暦382年を重複させて、葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の本当の年齢と血筋が判明して、正しい歴史が特定できた。
初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)は、仁徳(にんとく)天皇元年1月3日(西暦334年2月上旬頃)に98才で、摂政(せっしょう)62年(西暦322年)に孫の葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)が40才頃で、その娘の磐之姫命(いわのひめのみこと)が仁徳(にんとく)天皇2年3月8日(西暦335年4月上旬頃)に20才頃で、西暦382年に葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)が100才頃の年齢計算になる。
つまり葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)と沙至比跪(さしひき)は、同一人物と誤認させて、僕が摂政(せっしょう)60年(西暦320年)の三韓(さんかん)征伐と摂政(せっしょう)62年(西暦322年)の新羅国(しらぎのくに)討伐が事実と求めて、『日本書紀』の訳本の沙至比跪(さちひこ)の発音が間違いで、「さしひき」と正しく発音すべきで、2025年8月9日の午後に正しい史実・真実・事実を求めた。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の摂政(せっしょう)62年(西暦382年)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の摂政(せっしょう)62年(西暦322年)が正しいと考えられる。)

総合的に分析した僕の自論は、出雲王国(物部(もののべ)氏)の崩壊(出雲の国譲(くにゆず)り神話)の仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月17日(西暦260年11月中旬頃)に日本武(やまとたけ)天皇(スサノオ)が戦死して、出雲大社と富士山山頂がレイライン(太陽の道)上にあって、富士山が東国平定の天皇不在の年7月頃(西暦251年8月頃)に統治下に入って、4世紀初頭から前半(西暦300年から329年)までに出雲大社を創建したと考えられる。
出雲大社の境内(けいだい)は、2000年と翌年の調査で、直径1メートル30センチ余りの3つの柱根(はしらね)が出土して、『金輪御造営差図(かなわのごぞうえいさしず)』に記す出雲大社本殿の支柱の宇豆柱(うずばしら)で、科学的な証拠と歴史書解釈などで、鎌倉時代前半の1248年に造営した出雲大社本殿の宇豆柱(うずばしら)の可能性が非常に高くて、古代の出雲大社本殿が高さ48メートルと考えられる。
出雲大社本殿は、神代(かみよ;神様の時代)に32丈(96メートル)で、平安時代に16丈(48メートル)で、現在が8丈(24メートル)で、平安時代中期に書いた子供用の教科書の『口遊(くちずさみ)』に「雲太(うんた)・和二(わに)・京三(きょうさん)」と記して、出雲大社本殿の次に東大寺大仏殿で、次に平安京大極殿が低くて、当時の高さが不明だが、木造の高層建築で、出雲大社本殿が一番高いと証明した。
出雲大社に隣接する島根県立古代出雲歴史博物館は、出雲大社を考古学(遺跡・遺物)的に調査・研究して、発掘成果の史料を公表する博物館で、伊勢神宮の内宮(ないぐう)と外宮(げぐう)と違って、考古学的な調査・研究が充実する。
(4世紀初頭から前半(西暦300年から329年)は、『日本書紀』から求めた僕の自論の摂政(せっしょう)天皇40年から69年(西暦301年から329年)と合致して、出雲大社の創建年代と考えられる。)

神魂命(かみむすびのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)と息子の7代目・高皇産霊尊(たかみむすびのみこと;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)と孫娘の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)は、出雲大社を創建させて、摂政(せっしょう)69年4月17日(西暦329年5月中旬頃)の神功(じんぐう)皇后の死去日までに創建したと考えられる。

女王の台与(とよ)は、死去して邪馬台国(やまたいこく)論争の登場人物の多くが死去した。

『日本書紀』の摂政(せっしょう)69年4月17日(西暦329年5月中旬頃)に99才で台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后は、奈良県の皇居の磐余若桜宮(いわれわかざくらのみや)で、崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、10月15日(11月中旬頃)に大和(おおやまと)古墳群か柳本(やなぎもと)古墳群の前方後円墳に葬礼したと考えられて、死後の諡(おくりな)を息長足姫尊(いきながたりひめのみこと)と言って、神功(じんぐう)皇后が皇居と崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)と記して、女系天皇や女性天皇を支持する理由である。
(『日本書紀』の神功(じんぐう)皇后の死去年は、干支(えと)の己丑(つちのとうし)の年で、歴史学会(歴史書解釈)の定説の摂政(せっしょう)69年4月17日と10月15日(西暦269年5月中旬頃と11月中旬頃)が完全な間違いで、僕の自論の摂政(せっしょう)69年4月17日と10月15日(西暦329年5月中旬頃と11月中旬頃)が正しい。)

彦坐王(ひこいますのみこ)は、太陽神の初代の宮司(神主)だから、古代太陽神に神格化して、倭姫命(やまとひめのみこと)が伊勢神宮の巫女(みこ)だから、太陽神に神格化して、一生独身だから、父方の太陽神の血筋が途絶(とだ)えて、彦坐王(ひこいますのみこ)と神功(じんぐう)皇后が皇室の直系の祖先神で、母方の祖先神の神功(じんぐう)皇后に太陽神の要素がなくて、これらを統合した天照神(あまてるかみ)と天照大神(あまてらすおおみかみ)が生まれた。
母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)は、孫の仁徳(にんとく)天皇からの血筋が途絶(とだ)えて、神功(じんぐう)皇后から数えて、9世孫から11世孫ほどの継体(けいたい)天皇から今の天皇陛下まで、101世代が女系男子天皇(女系女子天皇も含(ふく)む)の血筋と伝えて、女系男子天皇と女系天皇と女性天皇を支持する理由で、『ホツマツタエ』が7世紀中頃以前に成立して、継体(けいたい)天皇以降の女系男子天皇を『ホツマツタエ』の古代太陽神の性格に加(くわ)えた。
男性の古代太陽神の天照神(あまてるかみ)は、彦坐王(ひこいますのみこ)と2人の曾孫の倭姫命(やまとひめのみこと)と神功(じんぐう)皇后の合計3人を神格化して、女性の太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ)が倭姫命(やまとひめのみこと)と神功(じんぐう)皇后の2人を神格化して、絶対に彦坐王(ひこいますのみこ)を加(くわ)えないと証明した。
男性の古代太陽神の天照神(あまてるかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、皇室の祖先神として、父方(男系)と母方(女系)の両方に複雑すぎて、求められないほど混血して、母方(女系)の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)を先祖とする女系天皇の血筋を今の天皇陛下まで受け継いで、最高神と太陽神の直系子孫の意味・価値が重要で、太陽神の性質(性格)変化を2025年9月4日の午前10時頃に気付いた。


『日本書紀』の仁徳(にんとく)東征1年4月18日(西暦329年5月中旬頃)以降は、奈良県にいる皇太子の菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)と皇位継承者の大山守皇子(おおやまもりのみこ)が対立して、内乱(皇位継承権争い)が起きた。
神武(じんむ)東征(仁徳(にんとく)東征)1年4月18日(西暦329年5月中旬頃)から武烈(ぶれつ)天皇32年12月8日(西暦507年1月上旬頃)は、大山守皇子(おおやまもりのみこ)の反乱(皇位継承権争い)の発生から武烈(ぶれつ)天皇の崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)までで、時代区分の古墳時代を倭王時代(西暦329年から506年)に新しく概念化した。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の神武(じんむ)東征1年4月18日(紀元前667年5月中旬頃)以降は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の仁徳(にんとく)東征1年4月18日(西暦329年5月中旬頃)以降が正しい。)

4兄弟の五瀬命(いつせのみこと)と稲飯命(いなひのみこと)と御毛入野命(みけいりののみこと)と神武(じんむ)天皇は、それぞれ異母兄弟の菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)と額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかひこのみこ)と大山守皇子(おおやまもりのみこ)と仁徳(にんとく)天皇を祖先化して、神武(じんむ)天皇(仁徳(にんとく)天皇を祖先化)の兄弟が合致した。
逆賊の長髄彦(ながすねひこ;大山守皇子(おおやまもりのみこ)を神格化)は、内乱(皇位継承権争い)を起こして、神武(じんむ)東征(仁徳(にんとく)東征)神話に登場する神様と人物が実在した人物を神格化・祖先化した。
神武(じんむ)東征(仁徳(にんとく)東征)神話は、海幸彦(うみさちひこ)の火酢芹命(ほすせりのみこと;大山守皇子(おおやまもりのみこ)を神格化)と山幸彦(やまさちひこ)の火火出見尊(ほほでみのみこと;仁徳(にんとく)天皇を神格化)の神話にも変換して、海幸彦(うみさちひこ)と山幸彦(やまさちひこ)の神話がおとぎ話の浦島太郎のモデルである。


『ホツマツタエ』の仁徳(にんとく)東征1年10月3日(西暦329年11月上旬頃)に仁徳(にんとく)天皇は、異母兄の菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)などの皇子と家臣と共に船団を揃(そろ)えて、自分たちが管理する三種の神器を持ち出して、宮崎県から船出(ふなで)した。
神功(じんぐう)皇后の亡くなった時は、皇太子の菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)と皇位継承者の大山守皇子(おおやまもりのみこ)が奈良県にいて、同じ皇位継承者の仁徳(にんとく)天皇が宮崎県にいて、大山守皇子(おおやまもりのみこ)の攻撃から逃げた菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)が船出(ふなで)して、宮崎県にいる仁徳(にんとく)天皇と合流したと考えられる。
景行(けいこう)天皇は、宮崎県を含む熊襲(くまそ)王国を平定して、日本武尊(やまとたけのみこと)が宮崎県を含む熊襲(くまそ)王国を滅亡させて、皇太子の誉田別尊(ほむだわけのみこと)が宮崎県で暮らして、仁徳(にんとく)天皇が宮崎県で生まれて、宮崎県が3代目の景行(けいこう)天皇から5代目の仁徳(にんとく)天皇(仲哀(ちゅうあい)天皇を除く)の4世代が関係した皇室の故郷(ふるさと)である。
(『日本書紀』の神武(じんむ)東征1年は、干支(えと)の甲寅(きのえとら)の年で、歴史学会(歴史書解釈)の定説の神武(じんむ)東征1年(アスス暦51年)10月3日(紀元前667年11月上旬頃)が完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の仁徳(にんとく)東征1年10月3日(西暦329年11月上旬頃)が正しい。)

『日本書紀』の仁徳(にんとく)東征1年11月9日(西暦329年12月上旬頃)に仁徳(にんとく)天皇は、筑紫国(つくしのくに;福岡県東部)の岡水門(おかのみなと;福岡県の遠賀川(おんががわ)の河口の辺り)から、吉備国(きびのくに;岡山県と広島県東部)の高島宮(たかしまのみや;岡山市高島)に到着して、仁徳(にんとく)東征5年1月頃(西暦333年2月頃)まで、船団や食料などを準備した。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の神武(じんむ)東征1年11月9日(紀元前667年12月上旬頃)から神武(じんむ)東征5年1月頃(紀元前663年2月頃)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の仁徳(にんとく)東征1年11月9日(西暦329年12月上旬頃)から仁徳(にんとく)東征5年1月頃(西暦333年2月頃)が正しい。)

『ホツマツタエ』の仁徳(にんとく)東征5年2月11日(西暦333年3月中旬頃)に仁徳(にんとく)天皇は、浪速(なみはや)の港(難波津;なにわづ)に着いた。
(『日本書紀』の神武(じんむ)東征5年は、干支(えと)の戊午(つちのえうま)の年で、歴史学会(歴史書解釈)の定説の神武(じんむ)東征5年(アスス暦55年)2月11日(紀元前663年3月中旬頃)が完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の仁徳(にんとく)東征5年2月11日(西暦333年3月中旬頃)が正しい。)

『日本書紀』の仁徳(にんとく)東征5年5月8日(西暦333年6月上旬頃)に仁徳(にんとく)天皇の軍は、八尾(やお;大阪府八尾市)へ退(しりぞ)いて、船で茅渟(ちぬ;大阪府東部)の山城(大阪府泉南市樽井)に至ると、そこで菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)が亡くなって、紀伊国(きいのくに;和歌山県)の竃山(かまやま;和歌山市の竃山(かまやま)神社)に埋葬した。
和歌山市の竃山(かまやま)神社に埋葬した五瀬命(いつせのみこと;道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)を祖先化)は、竃山墓(かまやまのはか)が宮内庁指定陵の五瀬命(いつせのみこと)陵だが、本当の菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)陵で、考古学的に発掘せず、京都府宇治市の丸山古墳が宮内庁指定陵の菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)陵が間違いと考えられる。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の神武(じんむ)東征5年5月8日(紀元前663年6月上旬頃)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の仁徳(にんとく)東征5年5月8日(西暦333年6月上旬頃)が正しい。)

『日本書紀』の仁徳(にんとく)東征5年12月4日(西暦334年1月上旬頃)は、冬だから氷雨(ひさめ)が降(ふ)って、仁徳(にんとく)天皇が左大臣の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)の助けで、奈良市の辺りで、異母兄弟の大山守皇子(おおやまもりのみこ)を殺して、内乱(皇位継承権争い)が終わった。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の神武(じんむ)東征5年12月4日(紀元前662年1月上旬頃)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の仁徳(にんとく)東征5年12月4日(西暦334年1月上旬頃)が正しい。)

神武(じんむ)東征(仁徳(にんとく)東征)神話は、古代太陽神の饒速日尊(にぎはやひのみこと;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)の助けで、神武(じんむ)天皇(仁徳(にんとく)天皇を祖先化)が異母兄弟の長髄彦(ながすねひこ;大山守皇子(おおやまもりのみこ)を神格化)を殺して、内乱(皇位継承権争い)が終戦した。
殺された怨霊(おんりょう;恨(うら)み祟(たた)る霊魂)の火酢芹命(ほすせりのみこと;大山守皇子(おおやまもりのみこ)を神格化)と長髄彦(ながすねひこ;大山守皇子(おおやまもりのみこ)を神格化)は、火火出見尊(ほほでみのみこと;仁徳(にんとく)天皇を神格化)と神武(じんむ)天皇(仁徳(にんとく)天皇を祖先化)に殺された。


『ホツマツタエ』の神武(じんむ)天皇元年1月1日(仁徳(にんとく)天皇元年1月3日;西暦334年2月上旬頃)に神武(じんむ)天皇(仁徳(にんとく)天皇)は、母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神話化)から、神位(神様の地位)を預(あず)かった左大臣で、男性の古代太陽神の饒速日命(にぎはやひのみこと;98才の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)から皇位(天皇の地位)を譲(ゆず)られて、5代目天皇に即位した。
仁徳(にんとく)天皇元年11月(西暦334年12月頃)は、大嘗(おおなめ)エ(大嘗祭;だいじょうさい)をして、『ホツマツタエ』の神武(じんむ)天皇元年1月1日が崇神(すじん)天皇元年1月13日(西暦84年2月中旬頃)と仁徳(にんとく)天皇元年1月3日(西暦334年2月上旬頃)の両方に修正して、神武(じんむ)東征(仁徳(にんとく)東征)の登場人物が即位に出席して、崇神(すじん)天皇時代を否定した。
『ホツマツタエ』神武(じんむ)天皇(崇神(すじん)天皇と仁徳(にんとく)天皇を祖先化)元年1月1日に神武(じんむ)東征(仁徳(にんとく)東征)の登場人物が出席して、神武(じんむ)天皇元年11月も、崇神(すじん)天皇時代でなくて、仁徳(にんとく)天皇時代が正しいと判明した。
仁徳(にんとく)天皇の皇居は、大阪市の難波高津宮(なにわたかつのみや)で、仁徳(にんとく)天皇陵が大阪府堺(さかい)市の大仙(だいせん)古墳だが、神武(じんむ)天皇(仁徳(にんとく)天皇を祖先化)の皇居が奈良県橿原(かしはら)市の橿原宮(かしはらのみや)で、即位した場所と皇居と天皇陵が所在地不明で、参考資料が全くない。
天皇陵を含む大和(おおやまと)古墳群と景行(けいこう)天皇の皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)である纏向(まきむく)遺跡は、古代大和朝廷が存在した奈良県桜井市にあって、2世紀末に出現して、4世紀前半に放棄した古代天皇家の考古学的(遺跡・遺物)証拠と証明して、正しい科学的な証拠である。
98才の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)は、何才まで生きたか不明で、高齢だから長寿の武内宿禰(たけのうちのすくね)伝承につなげて、子孫の竹内(たけうち)氏の名字(みょうじ)の誕生も不明で、僕の私見で、初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)の死後の可能性が高いが、明確に証明できない。
(『日本書紀』の応神(おうじん)天皇の崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)年は、応神(おうじん)天皇41年2月15日(西暦年310年3月中旬頃)が僕の自論の摂政(せっしょう)50年2月15日(西暦年310年3月中旬頃)が正しくて、『日本書紀』の仁徳(にんとく)天皇即位年が仁徳(にんとく)天皇元年1月3日(西暦313年2月上旬頃)で、空白期間が皇位継承権争いとする。
祖母の神功(じんぐう)皇后は、摂政(せっしょう)69年4月17日(西暦329年5月下旬頃)に死去して、仁徳(にんとく)東征1年(西暦329年)から仁徳(にんとく)東征5年(西暦333年)まで皇位継承権争いが続いて、『古事記』の応神(おうじん)天皇の崩御(ほうぎょ)年が干支(えと)の甲午(きのえうま)の年で、仁徳(にんとく)天皇即位年(西暦334年)に当たる。
歴史学会(歴史書解釈)の定説の神武(じんむ)天皇元年1月1日(紀元前660年2月上旬頃)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の仁徳(にんとく)天皇元年1月3日(西暦334年2月上旬頃)が正しくて、応神(おうじん)天皇の息子の仁徳(にんとく)天皇が「記紀」の崩年干支(ほうねんかんし)と即位年干支法(そくいねんかんしほう)が合致して、それ以外に計算が合わないと考えられる。)


仲哀(ちゅうあい)天皇9年(西暦320年)の朝鮮半島の三韓(さんかん)征伐(新羅国(しらぎのくに)と高句麗国(こうくりのくに)と百済国(くだらのくに)の3国の討伐)と摂政(せっしょう)62年(西暦322年)の新羅国(しらぎのくに)討伐は、仁徳(にんとく)東征1年から5年(西暦329年から333年)の内乱(皇位継承権争い)後の政治不安で、朝鮮半島と断交して、元々が古代中国と外交せず、古代の中国や朝鮮半島と5度の断交理由を僕が2025年8月9日の午後に特定した。
古代の中国や朝鮮半島との断交理由は、専門家(考古学会と歴史学会)が一度も特定できず、超天才の僕が5度も特定して、古代天皇家の正史(正しい歴史)を考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)で求めて、段違いの神技(かみわざ)を見せつけて、誰も反論する気力が生まれない。

神武(じんむ)即位(仁徳(にんとく)即位)神話は、古代太陽神の饒速日命(にぎはやひのみこと;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)の神位(神様の地位)が初代天皇の神武(じんむ)天皇(仁徳(にんとく)天皇を祖先化)の皇位(天皇の地位)に移譲(いじょう)した事実(現実に起きた出来事)を神話化した。
神武(じんむ)東征(仁徳(にんとく)東征)神話の後の神武(じんむ)即位(仁徳(にんとく)即位)神話は、仁徳(にんとく)天皇の即位日を神話化して、日本神話で最後の神話や正確な西暦年月を特定して、僕が神武(じんむ)即位(仁徳(にんとく)即位)神話と名付けた。
仁徳(にんとく)天皇は、左大臣の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)が補佐して、初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を饒速日尊(にぎはやひのみこと)と武甕雷神(たけみかづちのかみ)と塩土老翁(しおつちのおじ)の3神に神格化して、海幸彦(うみさちひこ)と山幸彦(やまさちひこ)の神話と神武(じんむ)東征神話に登場した。


『日本書記』の神武(じんむ)天皇(仁徳(にんとく)天皇)2年2月(西暦335年3月頃)は、八咫烏(やたがらす)の賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)の孫を葛野主殿県主(かずののとのもりあがたぬし;賀茂県主)に任命して、賀茂(かも)神社(上賀茂(かみがも)神社と下鴨(しもがも)神社)宮司家の賀茂県主(かもあがたぬし)氏が誕生して、西暦335年から337年までに賀茂(かも)神社を創建したと考えられる。
『ホツマツタエ』の神武(じんむ)天皇(仁徳(にんとく)天皇)4年2月(西暦337年3月頃)は、賀茂(かも)神社(上賀茂(かみがも)神社と下鴨(しもがも)神社)が登場して、仁徳(にんとく)天皇の父の賀茂別雷神(かもわけいかずちのかみ;誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)を神格化)が祭神で、崇神(すじん)天皇(仁徳(にんとく)天皇)7年(西暦340年)に下鴨(しもがも)神社の瑞垣(みずがき;神社の周囲を巡る垣(かき)を修造した記録がある。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の神武(じんむ)天皇2年2月(紀元前659年3月頃)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の仁徳(にんとく)天皇2年2月(西暦335年3月頃)が正しい。)

京都市の世界遺産の賀茂(かも)神社は、上賀茂(かみがも)神社(賀茂別雷(かもわけいかずち)神社)が賀茂別雷神(かもわけいかずちのかみ;誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)を神格化)で、下鴨(しもがも)神社(賀茂御祖(かもみおや)神社)が賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)を祭って、賀茂県主(かもあがたぬし)氏の血筋を証明した。
神魂命(かむみむすびのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)の孫(息子)の賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)は、孫が下鴨(しもがも)神社の賀茂別雷神(かもわけいかずちのかみ;誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化)だが、賀茂(かも)神社宮司家(賀茂県主(かもあがたぬし)氏)が賀茂別雷神(かもわけいかずちのかみ)の子孫と伝えず、武虎別皇子(たけこわけのみこ)の子孫が賀茂県主(かもあがたぬし)氏で、賀茂朝臣(かもあそん)氏と別の系譜である。
神魂命(かむみむすびのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)の息子の賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)は、丹波(たんば;古代の京都府北中部)の神様の伊可古夜日売(いかこやひめ;誰を神格化したか不明)と結婚して、娘の玉依日売(たまよりひめ;神功(じんぐう)皇后を神格化)を生んで、火雷神(ほのいかずちのかみ;仲哀(ちゅうあい)天皇を神格化)と結婚して、賀茂別雷神(かもわけいかずちのかみ;誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化)を生んで、超天才の僕が解明した。

奈良県葛城(かつらぎ)系の賀茂朝臣(かもあそん)氏は、初代・大物主神(おおものぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の子孫である大田田根子(おおたたねこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化)の孫の大賀茂津美命(おおかもつみのみこと;誰を祖先化したか不明)を先祖で、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)の息子である葛城一言主神(かつらぎのひとことぬしのかみ;伊賀彦王(いがひこのみこ)を神格化)の子孫でもある。
彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫の日本武尊(やまとたけのみこと)は、出雲王国(物部(もののべ)氏)の養女の弟橘姫(おとたちばなひめ)と結婚して、生んだ伊賀彦王(いがひこのみこ)の子孫が大賀茂津美命(おおかもつみのみこと)と同一人物か同族で、出雲王国(物部(もののべ)氏)系の賀茂(かも)氏と同族と考えられる。
葛城(かつらぎ)系の賀茂朝臣(かもあそん)氏は、出雲王国(物部(もののべ)氏)系の賀茂(かも)氏と同族で、物部(もののべ)氏の葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の子孫である葛城(かつらぎ)氏とも同族で、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)の子孫の賀茂(かも)氏と別の系譜だが、同じ物部(もののべ)氏で、共通性が多いと証明した。

神武(じんむ)東征(仁徳(にんとく)東征)に登場した八咫烏(やたがらす)の賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと;葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を神格化)は、孫が賀茂別雷神(かもわけいかずちのかみ;履中(りちゅう)天皇を神格化)で、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)と別の血筋で、葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)と武虎別皇子(たけこわけのみこ)が同じ物部(もののべ)氏でも、混乱しやすい理由を下記する。
武虎別皇子(たけこわけのみこ)の息子の経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)は、葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の祖父の武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)と共に双璧(そうへき)の軍神(戦神;いくさがみ)で、2神共に物部(もののべ)氏の神刀である布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)の化身で、『古事記』で2神を同一神のように記して、混同して誤解する理由である。


『ホツマツタエ』の神武(じんむ)天皇(仁徳(にんとく)天皇)4年2月(西暦337年3月頃)に仁徳(にんとく)天皇は、天富(あめとみ;誰か不明)に命令して、父の賀茂別雷神(かもわけいかずちのかみ;誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化)を榛原(はりばら;奈良県宇陀(うだ)市榛原(はいばら)区)の鳥見山(とりみやま)に祭って、天田根(あたね)が下鴨(しもがも)神社の鴨建津身命(かもたけつみのみこと;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)の祭りを受け継いで、賀茂国造(かもくにつこ;かもくにみやつこ)とした。
鳥見山(とりみやま)が正しくは、奈良県の桜井市と宇陀(うだ)市の境(さかい)にあって、鳥見山(とりみやま)の西麓にある奈良県桜井市の等彌(とみ)神社の主祭神が上津尾社(うづおしゃ)の大日霊貴命(おおひるめむちのみこと;天照大神:あまてらすおおみかみ)だが、『ホツマツタエ』から主祭神を賀茂別雷神(かもわけいかずちのかみ;誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化)に訂正すると考えられる。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の神武(じんむ)天皇4年2月(紀元前657年3月頃)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の仁徳(にんとく)天皇4年2月(西暦337年3月頃)が正しい。)

鴨建津身命(かもたけつみのみこと;別名が賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと):武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)と同一神の太玉命(ふとだまのみこと;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)は、孫が天富命(あめとみのみこと;誰か不明)で、6代目・高皇産霊尊(たかみむすびのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)の孫である天目一箇神(あままひとつのかみ;誰を神格化したか不明)の子孫が天田根(あたね;誰か不明)で、『ホツマツタエ』やネット検索の血筋などで調べた。
天富命(あめとみのみこと;誰か不明)は、八咫烏(やたがらす)の賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)の子孫だから、賀茂別雷神(かもわけいかずちのかみ)を祭って、天田根(あたね;誰か不明)が賀茂国造(かものくにみやつこ)だが、記録にない氏族で、下鴨(しもがも)神社の祭祀(さいし)氏族と考えられる。


『ホツマツタエ』の神武(じんむ)天皇(仁徳(にんとく)天皇)8年(西暦341年)の秋に勅使(ちょくし)の高倉下(たかくらした;誰か不明)は、全国各地を写(うつ)した絵図を作って、仁徳(にんとく)天皇に献上して、褒美(ほうび)に紀国造(きのくにつこ;きのくにみやつこ)の大連(おおむらじ)に任命した。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の神武(じんむ)天皇8年(紀元前653年)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の仁徳(にんとく)天皇8年(西暦341年)が正しい。)

火明命(ほあかりのみこと)の息子の高倉下(たかくらした;誰か不明)は、古代太陽神氏族の海部(あまべ)氏の子孫で、和歌山県の紀伊国造(きいのくにみやつこ;紀国造)の大連(おおむらじ)に任命されて、和歌山県の熊野三山の宮司家である熊野国造(くまののくにみやつこ)が海部(あまべ)氏や物部(もののべ)氏とも、高倉下(たかくらした)とも近縁氏族で、物部(もののべ)氏の樋之速日命(ひのはやひのみこと;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)も絵図を献上して、高倉下(たかくらした)と初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)に共通性がある。
仁徳(にんとく)天皇8年(西暦341年)に高倉下(たかくらした;誰か不明)は、全国各地を写(うつ)した絵図を献上して、『ホツマツタエ』6章で、親戚のヒノハヤヒコ(樋之速彦;タケミカツチ(武甕槌)と同一神:初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)も国絵を写(うつ)すように命令されて、日本神話と実話(現実に起きた出来事)の関係を証明した。


『ホツマツタエ』の神武(じんむ)天皇42年(アスス暦99年;仁徳(にんとく)天皇16年)1月3日(西暦349年2月上旬頃)は、綏靖(すいぜい)天皇(履中(りちゅう)天皇を祖先化)を皇太子にして、鏡の臣(おみ;左大臣)を宇佐麿(うさまろ;誰か不明)で、大物主(おおものぬし;右大臣)が天立櫛根(あだつくしね;宇迦都久怒(うかずくぬ)の子孫の誰か)を任命して、履中(りちゅう)天皇の両羽(もろは)の臣(おみ;左大臣と右大臣)とした。
その年の11月(西暦349年12月頃)は、国を上げての即位の大嘗(おおなめ)エ(大嘗祭;だいじょうさい)をして、神饌(しんせん)を天神地祇(てんじんちぎ)に供(きょう)じて、祝詞(のりと)を奏上(そうじょう)した。
平安時代の藤原氏の先祖は、天種子(あめたねこ;誰か不明)の子が宇佐麿(うさまろ;誰か不明)で、大物主(おおものぬし;右大臣)の天立櫛根(あだつくしね;宇迦都久怒(うかずくぬ)の子孫の誰か)が出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏の直系先祖と考えられる。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の神武(じんむ)天皇42年1月3日(紀元前619年)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の仁徳(にんとく)天皇9年1月3日(西暦342年2月上旬頃)が正しい。)

『ホツマツタエ』の神武(じんむ)天皇(仁徳(にんとく)天皇)20年(西暦353年)は、越後(こしうしろ;えちご:新潟県)が初穂(はつほ)を献上せず、仁徳(にんとく)天皇が昔に高倉下(たかくらした;誰か不明)を越後(新潟県)の国主(くにもり)に任命して、長く越後(新潟県)を統治したので、代わりに妹婿(むこ)の天道根命(あまのみちねのみこと;紀角宿禰(きのつののすくね)を神格化)を紀国造(きのくにつこ;きのくにみやつこ)に任命して、紀(き)の館(たち;やかた)をもらった。
紀角宿禰(きのつののすくね)は、紀国造(きのくにみやつこ)が紀伊国造(きいのくにみやつこ)と同じで、仁徳(にんとく)天皇20年(西暦353年)に和歌山県の統治者になって、紀角宿禰(きのつののすくね)から始まる紀(き)氏が大和国(奈良県)の紀里(きのさと;奈良県生駒郡(いこまぐん)平群町(へぐりちょう)上庄(かみしょう)付近)が本拠地だが、考古学(遺跡・遺物)で証明できず、紀伊国造(きいのくにみやつこ)氏の子孫が和歌山市の日前(ひのまえ)神宮と国懸(くにかかす)神宮の神宮宮司家である。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の神武(じんむ)天皇20年(紀元前641年)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の仁徳(にんとく)天皇20年(西暦353年)が正しい。)

景行(けいこう)天皇45年11月15日(西暦235年12月中旬頃)生まれの初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)は、仁徳(にんとく)天皇元年1月3日(西暦334年2月上旬頃)に98才で、息子の紀角宿禰(きのつののすくね)が仁徳(にんとく)天皇20年(西暦353年)に初代の紀国造(きのくにみやつこ)に任命されて、天道根命(あまのみちねのみこと;紀角宿禰(きのつののすくね)を神格化)が血筋の分からない神様だが、超天才の僕が完全に特定した。

『ホツマツタエ』の神武(じんむ)天皇(仁徳(にんとく)天皇)31年4月1日(西暦364年5月上旬頃)は、仁徳(にんとく)天皇が「ああ何と美しいのが内木綿真幸国(うつゆうまさきくに;日本国)で、その形がトンボの交尾するようで、トンボにちなんで、この国を秋津洲(あきつしま;日本国)と讃(たた)えた。
天神(あまつかみ)は、浦安(うらやす)の大和国(やまとのくに;奈良県)を守護して、コエ根国(ねくに;北陸地方付近)、大山本日高見国(やまとひたかみくに;東北地方南部のどこか)、狭矛千足国(さほこちたるくに;島根県付近)、磯輪上秀真国(しわがみほつまくに;東海地方)、大己貴神(おおなむちのかみ)の出雲玉垣内宮(いずもたまかきうちつみや;出雲大社)、饒速日尊(にぎはやひのみこと)の空見(そらみ)つ大和飛鳥国(やまとあすかくに;奈良県の明日香村(あすかむら)、皆が麗(うるわ)しく、安らかに統治することよ」と言った。
仁徳(にんとく)天皇31年4月1日(西暦364年5月上旬頃)に仁徳(にんとく)天皇は、日本全土を大きく分類した国名を名付けて、神武(じんむ)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)時代に東北地方南部を平定してなくて、仁徳(にんとく)天皇時代に間違いない。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の神武(じんむ)天皇31年4月1日(紀元前630年5月上旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の仁徳(にんとく)天皇31年4月1日(西暦364年5月上旬頃)が正しい。)

『日本書紀』の仁徳(にんとく)天皇65年(仁徳(にんとく)天皇32年;西暦365年)に和珥(わに)氏の先祖の難波根子武振熊(なにわねこたけふるくま)は、飛騨(ひだ;岐阜県北部)の賊(ぞく)の両面宿儺(りょうめんすくな)を討伐して、『海部(あまべ)氏系図』の難波根子健振熊命(なにわねこたけふるくまのみこと)と同一人物で、息子が建振熊宿祢(たけふるくまのすくね)である。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の仁徳(にんとく)天皇65年(西暦377年)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の仁徳(にんとく)天皇32年(西暦365年)が正しくて、旧暦年と西暦年が合致した。)

『海部(あまべ)氏系図』の分注(ぶんちゅう)は、品田(ほむだ)天皇(応神(おうじん)天皇)時代に健振熊宿禰(たけふるくまのすくね)が「海部直(あまべのあたい;海部(あまべ)氏の名字(みょうじ)」を賜(たまわ)って、丹波国造(たんばくにみやつこ)として仕(つか)えたと記して、4世紀中頃に京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家が尾張(おわり)氏から、海部(あまべ)氏に改名(かいめい;名字(みょうじ)を改(あらた)めること)したと考えられる。
『ホツマツタエ』のオワリ氏は、アマベ氏より名字(みょうじ)が古いと考えられて、2世紀中頃の垂仁(すいにん)天皇14年(西暦165年)頃に尾張(おわり)氏の名字(みょうじ)を名乗って、正しい考え方である。

『日本書紀』の仁徳(にんとく)天皇33年3月1日(西暦366年4月上旬頃)は、卓淳国(とくじゅんこく;韓国の昌原(チャンウォン)市の付近)に斯摩宿禰(しまのすくね)を派遣して、百済(くだら;朝鮮半島西南部)王の近肖古王(きんしょうこおう)が斯摩宿禰(しまのすくね)を厚遇して宝物を託して、朝鮮半島の百済国(くだらのくに)と外交が始まって、後世に古代中国と外交が再開した。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の摂政(せっしょう)46年3月1日(西暦366年4月上旬頃)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の仁徳(にんとく)天皇33年3月1日(西暦366年4月上旬頃)が正しくて、西暦年が合致した。)

『ホツマツタエ』の神武(じんむ)天皇76年(アスス暦133年)1月15日(仁徳(にんとく)天皇34年1月16日;西暦367年2月中旬頃)は、仁徳(にんとく)天皇が崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、3月10日(4月上旬頃)に仁徳(にんとく)天皇を神格化して、神上(かみあが)られた。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の神武(じんむ)天皇76年1月15日と3月10日(紀元前585年2月中旬頃と4月上旬頃)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の仁徳(にんとく)天皇34年1月15日と3月10日(西暦367年2月中旬頃と4月上旬頃)が正しい。)

『古代天皇家の年表』の章は、履中(りちゅう)天皇元年2月1日(西暦367年3月上旬頃)から武烈(ぶれつ)天皇32年12月8日(西暦507年1月上旬頃)までの年代を詳細に記して、他の歴代天皇時代も詳細に記すために参考にしてほしい。

『日本書紀』の履中(りちゅう)天皇6年9月10日(西暦372年10月上旬頃)は、朝鮮半島の百済国(くだらのくに)から使者が千熊長彦(ちくまながひこ)に従ってやって来て、七枝刀(ななつさやのたち)一口など様々な宝物を収めて、これ以後に毎年あいついで、朝貢するようになった。
七枝刀(ななつさやのたち)は、石上(いそのかみ)神宮の国宝の七支刀(しちしとう)で、東晋(とうしん)王朝の太和4年(369年)を泰?(和)4年と記して、百済(くだら)王が倭王(わおう;古代日本王)のために作らせたと文字が読み取れる。
仁徳(にんとく)天皇33年(西暦366年)からは、百済国(くだらのくに)だけでなく、他の朝鮮半島の国々とも外交や戦争をして、古代中国の王朝とも外交した可能性があるが、安康(あんこう)天皇20年(西暦413年)に安康(あんこう)天皇が古代中国の東晋(とうしん)王朝に初めて遣使して、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争で、最後の年号の摂政(せっしょう)6年(西暦266年)に神功(じんぐう)皇后が西晋(せいしん)王朝に遣使してから、ようやく古代中国の歴史書に古代天皇家が登場した。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の摂政(せっしょう)52年9月10日(西暦372年10月上旬頃)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の履中(りちゅう)天皇6年9月10日(西暦372年10月上旬頃)が正しくて、西暦年が合致した。)

出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏の先祖である出雲宮向(いずものみやむき)は、「記紀」に登場しなくて、反正(はんぜい)天皇4年(西暦409年)か允恭(いんぎょう)天皇元年(西暦412年)に出雲(いずも)氏の名字(みょうじ)を与えられて、安康(あんこう)天皇16年(西暦409年)か安康(あんこう)天皇19年(西暦412年)が正しい年代である。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の反正(はんぜい)天皇4年(西暦409年)か允恭(いんぎょう)天皇元年(西暦412年)は、完全な間違いで、ネット検索から求めた僕の自論の反正(はんぜい)天皇4年(西暦409年)か允恭(いんぎょう)天皇元年(西暦412年)が正しくて、旧暦年と西暦年が合致した。)

古代中国の東晋(とうしん)王朝の義煕(ぎき)9年(西暦413年)に倭王(わおう;古代日本王)の賛(さん)は、初めて遣使して、遣東晋使(けんとうしんし;遣隋使や遣唐使に基づいた僕の造語)である。
古代中国の南朝宋(そう)王朝の永初(えいしょ)2年(西暦421年)は、倭王(わおう)の讃(さん)が初めて遣使して、昇明(しょうめい)2年(西暦478年)に倭王(わおう)の武(ぶ)が最後に遣使して、遣宋使(けんそうし;遣隋使や遣唐使に基づいた僕の造語)である。
古代中国の南朝斉(せい)王朝の建元(けんげん)元年(西暦479年)は、倭王(わおう)の武(ぶ)が一度だけ遣使して、遣斉使(けんせいし;遣隋使や遣唐使に基づいた僕の造語)である。
古代中国の南朝梁(りょう)王朝の天監(てんかん)元年(西暦502年)は、倭王(わおう)の武(ぶ)が一度だけ遣使して、遣梁使(けんりょうし;遣隋使や遣唐使に基づいた僕の造語)で、 これで倭(わ;古代日本)の五王が歴史から消えた。


『晋書(しんしょ)』と『梁書(りょうしょ)』は、安康(あんこう)天皇20年(東晋(とうしん)王朝の義煕(ぎき)9年;西暦413年)に倭王(わおう;古代日本王)の賛(さん)が古代中国の東晋(とうしん)王朝に初めて遣使して、方物を献上したと記して、南朝宋王朝に遣使した倭王(わおう;古代日本王)の讃(さん)と同一人物で、この年以降に日本神話を作ったと考えられる。
倭(わ;古代日本)の五王の定説は、歴史学(歴史書解釈)が5世紀初頭の允恭(いんぎょう)天皇2年(西暦413年)から6世紀初頭の武烈(ぶれつ)天皇4年(西暦502年)まで遣使して、倭王(わおう;古代日本王)の讃(さん)が応神(おうじん)天皇から履中(りちゅう)天皇で、讃(さん)の弟の珍(ちん)が反正(はんぜい)天皇で、済(せい)が允恭(いんぎょう)天皇で、済(せい)の世子(せいし;世継ぎ)の興(こう)が安康(あんこう)天皇、武(ぶ)が雄略(ゆうりゃく)天皇に対比したが、100%間違いである。
僕の自論の正解は、安康(あんこう)天皇20年(西暦413年)から武烈(ぶれつ)天皇28年(西暦502年)まで遣使して、讃(さん)が安康(あんこう)天皇で、珍(ちん)が雄略(ゆうりゃく)天皇で、済(せい)が清寧(せいねい)天皇で、世子(せいし;世継ぎ)の興(こう)が顕宗(けんそう)天皇で、武(ぶ)が武烈(ぶれつ)天皇で、僕が倭王(わおう)名を歴代天皇の漢風諡号(しごう)の頭文字(かしらもじ)と特定して、凡人(僕以外の人間)が和風諡号(しごう)を対比して勘違いした。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の允恭(いんぎょう)天皇2年(西暦413年)から武烈(ぶれつ)天皇4年(西暦502年)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の安康(あんこう)天皇20年(西暦413年)から武烈(ぶれつ)天皇28年(西暦502年)が正しくて、西暦年が合致した。)

古代天皇家は、西暦413年以降に古代中国の歴史書『三国史・魏志倭人伝』の登場人物4人を知って、アマテラスとツクヨミとスサノオの3姉弟に神格化したため、古代中国と確実に外交を再開した後と考えられて、西暦413年以前に古代中国との外交を証明できない。
倭(わ;古代日本)の五王は、5世紀初頭の西暦413年から西暦502年まで外交して、専門家(歴史学会)の定説が応神(おうじん)天皇から雄略(ゆうりゃく)天皇の7人の中にいると勘違いして、邪馬台国(大和国;やまとこく)時代が崇神(すじん)天皇で、4世紀前半が日本武尊(やまとたけのみこと)で、4世紀後半が神功(じんぐう)皇后時代で、倭(古代日本)の五王を応神(おうじん)天皇から雄略(ゆうりゃく)天皇の7人に当てはめて、100%勘違いさせた。

倭(わ;古代日本)の五王の在位期間は、倭王(わおう;古代日本王)の賛(讃;さん)が西暦394年から427年で、珍(ちん)が年代不明で2回遣使して、済(せい)が西暦443年から451年で、興(こう)が西暦462年で、武(ぶ)が西暦478年から502年で、古代中国王朝の遣使年が正しいと証明できる。
歴史学(歴史書解釈)の定説の在位期間は、応神(おうじん)天皇が西暦270年即位の西暦310年死去で、仁徳(にんとく)天皇が西暦313年即位の西暦399年死去で、履中(りちゅう)天皇が西暦400年即位の西暦405年死去で、反正(はんぜい)天皇が西暦406年即位の西暦410年死去で、允恭(いんぎょう)天皇が西暦412年即位の西暦453年死去で、安康(あんこう)天皇が454年即位の456年死去で、雄略(ゆうりゃく)天皇が西暦457年即位の西暦479年死去で、絶対に誤解である。
清寧(せいねい)天皇は、西暦480年即位の西暦484年死去で、顕宗(けんそう)天皇が西暦485年即位の西暦487年死去で、仁賢(にんけん)天皇が西暦488年即位の西暦497年死去で、武烈(ぶれつ)天皇が西暦498年即位の西暦506年死去で、無理矢理に『日本書紀』の在位期間を誤解させる目的だった。
僕の自論の在位期間は、応神(おうじん)天皇が261年正月頃生まれの310年死去で、仁徳(にんとく)天皇が334年即位の367年死去で、履中(りちゅう)天皇が367年即位の372年死去で、反正(はんぜい)天皇が373年即位の377年死去で、允恭(いんぎょう)天皇が378年即位の394年死去で、確実に倭(わ;古代日本)の五王の在位期間と合致しない。
安康(あんこう)天皇は、395年即位の427年死去で、雄略(ゆうりゃく)天皇が427年即位の429年死去で、清寧(せいねい)天皇が430年即位の457年死去で、顕宗(けんそう)天皇が458年即位の471年死去で、仁賢(にんけん)天皇が472年即位の474年死去で、武烈(ぶれつ)天皇が475年即位の506年死去で、正しい在位期間が完全に倭(わ;古代日本)の五王の在位期間と合致した。

僕は2002年10月頃に歴史研究を始めて、2003年6月頃に倭(わ)の五王の定説を否定して、5人の倭王名(わおうめい)が歴代天皇の漢風諡号(しごう)の頭文字(かしらもじ)と考えて、2003年8月頃に『日本書紀』の干支年(かんしねん)の即位年干支法(そくいねんかんしほう)を参考に何となく、応神(おうじん)天皇から雄略(ゆうりゃく)天皇の7人に誤解させた可能性に気付いた。
倭(わ)の五王の人名は、倭王(わおう;古代日本王)の賛(讃;さん)が安康(あんこう)天皇で、倭王(わおう)の珍(ちん)が雄略(ゆうりゃく)天皇で、倭王(わおう)の済(せい)が清寧(せいねい)天皇で、倭王(わおう)の興(こう)が顕宗(けんそう)天皇で、倭王(わおう)の武(ぶ)が武烈(ぶれつ)天皇までの頭文字(かしらもじ)で対比して、漢風諡号(しごう)の使用を証明した。
5世紀初頭から6世紀初頭の倭(わ)の五王は、歴代天皇5人が生前に漢風諡号(しごう)を使ったと証明して、現代の歴代天皇の漢風諡号(しごう)が死後に呼ぶと凡人(僕以外の人間)に勘違いさせて、上皇様を平成上皇で、天皇陛下を令和天皇と呼ぶのが失礼でなく、これからの常識となるはずで、2024年5月22日の午後10時半頃に求めて、『歴代天皇の漢風諡号(しごう)』の章で、詳細に説明して、倭(わ)の五王がややこしいために記述をここまでにした。

『日本書紀』の安康(あんこう)天皇34年10月1日(西暦427年11月上旬頃)に記すが、安康(あんこう)天皇は、かつて従兄弟の磐坂市辺押羽皇子(いわさかいちのべおしわのみこ)に皇位を譲(ゆず)ろうとして、皇太弟の雄略(ゆうりゃく)天皇が磐坂市辺押羽皇子(いわさかいちのべおしわのみこ)を殺して、息子の顕宗(けんそう)天皇と仁賢(にんけん)天皇が行方(ゆくえ)をくらました。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の『日本書紀』雄略(ゆうりゃく)天皇時代に記す安康(あんこう)天皇3年10月1日(西暦年456年11月上旬頃)は、完全な間違いで、僕の自論の安康(あんこう)天皇34年10月1日(西暦427年11月上旬頃)が正しい。)

『日本書紀』の清寧(せいねい)天皇25年11月(西暦454年12月頃)に履中(りちゅう)天皇の孫の顕宗(けんそう)天皇と仁賢(にんけん)天皇は、見つかって子供のいない清寧(せいねい)天皇が喜んだ。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の『日本書紀』顕宗(けんそう)天皇時代に記す清寧(せいねい)天皇2年11月(西暦481年12月頃)は、完全な間違いで、僕の自論の清寧(せいねい)天皇25年11月(西暦454年12月頃)が正しい。)

『日本書紀』の清寧(せいねい)天皇26年4月7日(西暦455年5月上旬頃)に仁賢(にんけん)天皇は皇太子で、顕宗(けんそう)天皇を皇子にした。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の清寧(せいねい)天皇3年4月7日(西暦482年5月上旬頃)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の清寧(せいねい)天皇26年4月7日(西暦455年5月上旬頃)が正しい。)

『日本書紀』の清寧(せいねい)天皇28年1月中(西暦457年2月頃)に顕宗(けんそう)天皇と仁賢(にんけん)天皇は、天皇を譲(ゆず)り合って即位しなくて、同母姉(同母妹)の飯豊女王(いいとよひめのみこ)が政治をして、自(みずか)らを忍海飯豊青尊(おしぬみいいとよあおのみこと)と尊称(そんしょう)して、11月(12月頃)に亡くなって、女性皇族として政治して、年齢不明である。
顕宗(けんそう)天皇の同母姉(同母妹)の飯豊女王(いいとよひめのみこ)は、自(みずか)ら名乗った忍海飯豊青尊(おしぬみめいいとよあおのみこと)の人名が国政執行した根拠で、摂政(せっしょう;天皇に代わって政治する役職)に近い立場に任命して、どういう役職か不明だが、女性天皇の飯豊(いいとよ)天皇と名付けて、歴代天皇に加えるべきで、女系男子天皇や女系天皇や女性天皇の根拠で、今の女性皇族の問題と直結する。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の清寧(せいねい)天皇5年(西暦484年)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の清寧(せいねい)天皇28年(西暦457年)が正しい。)

『日本書紀』の顕宗(けんそう)天皇元年1月1日(西暦458年2月上旬頃)に顕宗(けんそう)天皇は、公卿(くぎょう)百官を皇居の近飛鳥八釣宮(ちかつあすかのやつりのみや)に召(め)して、12代目天皇に即位した。
倭王(わおう;古代日本王)の済(せい)と倭王(わおう)の世子(せいし;世継ぎ)の興(こう)の関係は、清寧(せいねい)天皇と顕宗(けんそう)天皇が血縁断絶して、世子(せいし)の漢字の意味がそのまま世継ぎで、崇神(すじん)天皇から武烈(ぶれつ)天皇まで、血縁断絶してない証明である。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の顕宗(けんそう)天皇元年1月1日(西暦485年2月上旬頃)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の顕宗(けんそう)天皇元年1月1日(西暦458年2月上旬頃)が正しくて、西暦485年と西暦458年の数字が合致した。)

僕が総合的に分析した仁徳(にんとく)天皇陵の大仙(だいせん)古墳は、日本最大の古墳と前方後円墳で、允恭(いんぎょう)天皇16年12月14日(西暦394年1月中旬頃)に安康(あんこう)天皇が9代目天皇に即位して、安康(あんこう)天皇34年8月9日(西暦427年9月上旬頃)に殺されて、清寧(せいねい)天皇元年(西暦430年)に葬礼された安康(あんこう)天皇陵が正しいと考えられる。
安康(あんこう)天皇陵の大仙(だいせん)古墳は、2025年8月25日以降に僕が安康(あんこう)天皇古墳と名付けて、 安康(あんこう)天皇16年10月5日(西暦410年11月上旬頃)に土地を定めて、 安康(あんこう)天皇16年10月18日(西暦410年11月中旬頃)に築造し始めて、確実に清寧(せいねい)天皇元年(西暦430年)に安康(あんこう)天皇を葬礼して、西暦410年に築造開始の西暦430年に築造終了が僕の予測である。
仁徳(にんとく)天皇67年10月5日(西暦379年11月上旬頃)に仁徳(にんとく)天皇陵の大仙(だいせん)古墳は、土地を定めて、10月18日(西暦379年11月中旬頃)に築造し始めて、仁徳(にんとく)天皇87年1月16日(西暦399年2月中旬頃)に仁徳(にんとく)天皇が死去して、10月7日(西暦399年11月上旬頃)に大仙(だいせん)古墳に葬礼して、20年間の築造期間が僕の安康(あんこう)天皇の年代計算と合致する可能性が高い。
仁徳(にんとく)天皇陵の大仙(だいせん)古墳は、築造の開始や仁徳(にんとく)天皇の葬礼日を旧暦年月日で記して、安康(あんこう)天皇を葬礼した旧暦年月日を記さない理由が、超天才の僕が将来的に特定すると、確信した偽装工作と考えられる。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の仁徳(にんとく)天皇87年10月7日(西暦399年11月上旬頃)は、仁徳(にんとく)天皇の葬礼日だが、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の清寧(せいねい)天皇元年(西暦430年)が安康(あんこう)天皇を葬礼年で、確実に正しい。)

『日本書紀』の武烈(ぶれつ)天皇32年12月8日(西暦507年1月上旬頃)に武烈(ぶれつ)天皇は、崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、実姉の手白香皇女(たしらかのひめみこ)の婿(むこ)である継体(けいたい)天皇が継体(けいたい)天皇元年2月4日(西暦507年3月3日)に15代目天皇に即位して、これが今の皇室の直系先祖で、115代目の今上(きんじょう)天皇(今の天皇陛下)まで101世代の血筋が途絶(とだ)えてないと伝えるが、科学的に証明してない。
皇室の遠縁の倭彦王(やまとひこのみこ)と平群真鳥(へぐりのまとり)は、次代の天皇の候補になって、皇室の遠縁の継体(けいたい)天皇が母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)の5世孫だが、正しく求めると9世孫から11世孫ほどで、初代天皇の崇神(すじん)天皇の男系男子天皇より、古い皇祖神(こうそしん;皇室の祖先神)の女系男子天皇の理由で、女系天皇や女性天皇や女性宮家などの女性皇族の問題を解決する「きっかけ」である。
継体(けいたい)天皇と尾張連草香(おわりむらじのくさか)の娘の目子媛(めのこひめ)は、安閑(あんかん)天皇と宣化(せんか)天皇を生んで、尾張(おわり)氏が彦坐王(ひこいますのみこ)を始祖とする古代太陽神氏族だから、天皇になれたと考えられる。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の武烈(ぶれつ)天皇8年12月8日(西暦507年1月上旬頃)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の武烈(ぶれつ)天皇32年12月8日(西暦507年1月上旬頃と継体(けいたい)天皇元年2月4日(西暦507年3月3日)が正しい。)

『日本書紀』の武烈(ぶれつ)天皇32年12月8日(西暦507年1月上旬頃)に武烈(ぶれつ)天皇は、56才か57才で亡くなって、継体(けいたい)天皇元年3月5日(西暦507年4月上旬頃)に武烈(ぶれつ)天皇の実姉の手白香皇女(たしらかのひめみこ)が60才以上で皇后になった。
継体(けいたい)天皇は、清寧(せいねい)天皇21年頃(西暦450年頃)に生まれて、継体(けいたい)天皇元年2月4日(西暦507年3月3日)に新しい血筋の15代目天皇に即位して、継体(けいたい)天皇25年2月7日(531年3月10日)に実年齢81才で亡くなった。
継体(けいたい)天皇の享年(きょうねん)は、『日本書紀』が数え年82才で、『古事記』が数え年43才で、実年齢42才が武烈(ぶれつ)天皇15年頃(西暦489年頃)生まれの計算間違いで、西暦470年代か480年代に息子の欽明(きんめい)天皇が生まれて、実年齢81才で亡くなったと証明した。
清寧(せいねい)天皇21年頃(西暦450年頃)に武烈(ぶれつ)天皇は生まれて、武烈(ぶれつ)天皇32年12月8日(西暦507年1月上旬頃)に56才か57才で亡くなって、武烈(ぶれつ)天皇の実姉の手白香皇女(たしらかのひめみこ)が60歳以上で皇后になって、欽明(きんめい)天皇32年4月15日(西暦571年5月24日)に欽明(きんめい)天皇が亡くなって、逆算して享年(きょうねん)が90才から100才くらいと考えられる。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の武烈(ぶれつ)天皇8年12月8日(西暦507年1月上旬頃)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の武烈天皇32年12月8日(西暦507年1月上旬頃)が正しくて、西暦年が合致した。)

今年2025年は、日本の建国(天皇家誕生)1941年目で、5代目の仁徳(にんとく)天皇から115代目の今上(きんじょう)天皇(今の天皇陛下)まで女系男子天皇が続いて、世界最長の王朝が史実・真実・事実で、愛子様とその子孫が女性天皇と女系天皇を認める根拠で、僕が飛び下り自殺未遂でもみじヶ丘病院に入院した2021年11月9日に女系男子天皇を求めた。
継体(けいたい)天皇元年2月4日(西暦507年3月3日)から崇峻(すしゅん)天皇5年12月8日(西暦593年1月頃)は、継体(けいたい)天皇の即位から崇峻(すしゅん)天皇の崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)までで、時代区分の古墳時代を訂正して、新しい大和朝廷の時代を省略して、僕が新朝(しんちょう)時代と名付けて、新しい概念化が重要である。
5代目の仁徳(にんとく)天皇から14代目の武烈(ぶれつ)天皇は、古い古代天皇家の血筋が途絶(とだ)えて、15代目の継体(けいたい)天皇から115代目の今上(きんじょう)天皇(今の天皇陛下)まで、新しい天皇家の血筋を存続すると伝えて、新しい大和朝廷の時代の意味を重複して、意識させる意味もある。
古墳時代の次の飛鳥(あすか)時代は、広義で崇峻(すしゅん)天皇5年12月8日(西暦年に換算すると西暦593年1月頃)から和銅(わどう)3年(西暦710年)までの118年間を指して、狭義などの説明がややこしくて省略して、飛鳥(あすか)に皇居を置いたことが時代区分の名付けの理由である。

日本神話は、西暦81年から334年までの実話(現実に起きた出来事)を神話化して、4世紀後半の仁徳(にんとく)天皇33年(西暦366年)以降に古代中国で、『三国志・魏志倭人伝』の登場人物4人をアマテラスとツクヨミとスサノオの3姉弟に神格化して、各時代の神々の系図や特徴などの把握から考えて、段階的に物語を時代ごとに神話化して、6世紀までに日本神話をまとめた『ミミノハ(耳の葉)』が完成したと考えられる。
『ホツマツタエ(秀真伝)』の原本『ミソギノフミ(禊(みそぎ)の文(ふみ)』は、仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月17日(西暦260年11月中旬頃)までの出雲王国(物部(もののべ)氏)の2度に渡る内乱(皇位継承権争い)の償(つぐな)いの意味で、物部(もののべ)氏がまとめて、摂政(せっしょう)46年(西暦306年)に献上した現存しない記録上の日本最古の書物で、『ミミノハ(耳の葉)』と『ホツマツタエ』を物部(もののべ)氏がまとめた証拠がなくて、誰がまとめたか絶対に求められないと考えられる。
8世紀初頭の西暦708年(慶雲(けいうん)5年;和銅(わどう)元年)に献上した『古事記』は、日本最古の書物と嘘(うそ)をついて、本当の日本最古の書物である『ホツマツタエ』の存在を隠(かく)すためで、『ホツマツタエ』の内容を西暦681年(天武(てんむ)天皇10年)から、40年間も歴史研究して、「記紀」(『古事記』と『日本書紀』)を作成して、西暦720年(養老(ようろう)4年)に「記紀」を一緒に献上したと考えられる。
6世紀までに『ミミノハ(耳の葉)』は、日本神話をまとめて、『ホツマツタエ』の原本2つの『ミソギノフミ(禊(みそぎ)の文(ふみ)』と『ミミノハ(耳の葉)』を参考にして、7世紀の西暦645年か西暦672年以前に現存する日本最古の書物の『ホツマツタエ』が完成したと考えられて、『ミミノハ(耳の葉)』が日本神話をまとめた証拠がないが、僕の予測が正しいだろう。

日本神話のアマテラス(天照)とツクヨミ(月読)とスサノヲ(素戔嗚)の3姉弟は、三貴子(みはしらのうずのみこ)と言う3姉弟の高貴な子供の意味で、古代中国の西暦297年死去の陳寿(ちんじゅ)がまとめた『三国志・魏志倭人伝』の登場人物(卑弥呼(ひみこ)と台与(とよ)と男弟(だんてい)と男王(だんおう)の4人)を神格化して、古代中国の歴史書『三国志・魏志倭人伝』を読んで、三貴子(みはしらのうずのみこ)の3姉弟神を神格化して、古代中国と外交の再開後に読んだ証拠である。
摂政(せっしょう)6年(西暦266年)に台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后は、西晋(せいしん)王朝に遣使して、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争で最後の年号で、古代中国と断交して、安康(あんこう)天皇20年(西暦413年)に倭(わ;古代日本)の五王の賛(さん)である安康(あんこう)天皇が遣使して、ようやく古代中国の東晋(せいしん)王朝と外交を再開して、西暦413年以降に『三国志・魏志倭人伝』を読んで、三貴子(みはしらのうずのみこ)の3姉弟神の血筋を神格化した可能性が高い。
『日本書紀』の仁徳(にんとく)天皇33年3月1日(西暦366年4月上旬頃)は、朝鮮半島の百済国(くだらのくに)と外交を再開して、履中(りちゅう)天皇6年9月10日(西暦372年10月上旬頃)に百済国(くだらのくに)が七枝刀(ななつさやのたち)一口など献上して、石上(いそのかみ)神宮の国宝の七支刀(しちしとう)で、東晋(とうしん)王朝の太和4年(369年)を泰?(和)4年と記して、百済(くだら)王が倭王(わおう;古代日本王)のために作らせたと文字が読み取れる。
しかし古代中国と外交の再開は、摂政(せっしょう)6年(西暦266年)に西晋(せいしん)王朝と断交して、安康(あんこう)天皇20年(西暦413年)に東晋(せいしん)王朝と外交を再開して、西暦413年以降に『三国志・魏志倭人伝』を読んで、日本神話の三貴子(みはしらのうずのみこ)に神格化したと考えるのが普通で、日中の歴史書の遣使年を正しく分析・研究する読解力が大切である。

『ホツマツタエ』は、男性の古代太陽神の天照神(あまてるかみ)で、「記紀」が女性の太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ)で、母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)の女系男子天皇を把握して、女性の太陽神が推古(すいこ)天皇以降の女性天皇の権威付けが目的と考えられて、男性と女性の太陽神の性格(性質)変化を2025年9月4日の午前10時頃に気付いた。
母方(女系)の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)の女系男子天皇は、最高神と太陽神の直系子孫の意味で、孫の仁徳(にんとく)天皇から武烈(ぶれつ)天皇までの血筋が途絶(とだ)えて、神功(じんぐう)皇后から9世代から11世代ほどの子孫の継体(けいたい)天皇から今の天皇陛下まで、101世代の血筋が途絶(とだ)えない女系男子天皇と伝えて、初代天皇の神武(じんむ)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)の男系男子天皇より古くて、女系男子天皇から男系男子天皇に続く血統とも証明した。
天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)の子孫の継体(けいたい)天皇は、継体(けいたい)天皇元年2月4日(西暦507年3月3日)に即位して、それ以降に断絶した仁徳(にんとく)天皇の女系男子天皇と継体(けいたい)天皇から続く女系男子天皇を把握して、女系男子天皇と6人の女系女子天皇が女系天皇や女性天皇や女性宮家の根拠で、聖徳太子が用意した現代の皇室の希望と考えられる。

彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化した複数の古代太陽神は、日本神話の誕生以前に古代太陽神の特徴や血筋を詳細に把握して、実在の人物を神格化した他の日本神話の神々も、特徴や血筋を詳細に記録して、日本神話の主要部分を段階的に神話化して、日本神話の物語を一気に全て、神話化した可能性が低いと考えられる。
古事記』の因幡(いなば;鳥取県東部)の白兎(しろうさぎ)神話や根(ね)の国下(くにくだ)り神話は、『ホツマツタエ』と『日本書紀』に記さず、西暦681年(天武(てんむ)天皇10年)に天武天皇が命令して、「記紀」を作ることになって、西暦720年(養老(ようろう)4年)に「記紀」を一緒に献上して、7世紀後半から7世紀前半に作った『古事記』独自の日本神話で、日本神話が事実(現実に起きた出来事)を神話化したと理解して、『古事記』の編纂(へんさん)が4か月間の数日で、白兎(しろうさぎ)神話を作成できたと考えられない。
『古事記』の出雲神話は、因幡(いなば)の白兎(しろうさぎ)神話や根(ね)の国下(くにくだ)り神話を含(ふく)めて、日本国の歴史書作成の40年間で、独自に作成した日本神話が100%事実で、それらを完全解釈した超天才の僕を否定できず、後世の教本の基礎史料に役立つだろう。

西暦720年(養老(ようろう)4年)に一緒に献上したと考えられる「記紀」以前の書物は、主にウィキペディアを参考にして、僕なりに簡単にまとめて、名前を挙(あ)げてない現存しない歴史書があるかもしれないが、仕方ないと思う。
『天皇記(てんのうき;すめらみことのふみ)』と『国記(こっき;くにつふみ)』は、西暦620年(推古(すいこ)天皇28年)に聖徳太子と蘇我馬子(そがのうまこ)がまとめて、成立したと伝える書物で、事実なら「記紀」以前の書物で、色々記す歴史書の説が有力で、日本の歴史を記した説、各氏族の系譜や由来や功績など記した説、日本の風土や地理を記した地理書の説など色々と考えられるが、想像の域を出ない。
『帝紀(ていき)』は、『帝皇日継(ていおうのひつぎ)』や『帝王本紀(ていおうほんき)』や『先紀(せんき)』とも呼ばれたらしく、皇室の系譜の伝承(歴代天皇の家族関係や生没年や陵墓所在地などの基本データと在位期間の出来事を口承(こうしょう;歌や言葉で語(かた)り継ぐこと)で伝えた史料)を記して、西暦681年(天武(てんむ)天皇10年)に天武天皇が命令して、稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗誦(あんしょう;文章などをそらで覚えて口に出すこと)して、2人の皇子がまとめた。
『帝紀(ていき)』は、『旧辞(くじ;きゅうじ)』と共に「記紀」の基本資料にした歴史書の一つで、一般的に皇統譜(こうとうふ;皇室の戸籍簿)と考えられるが、異説の考え方も多くて、想像の域を出ないため結論が見えず、奈良時代頃に散逸(さんいつ;バラバラになること)したようで、内容が残っていない。
『旧辞(くじ)』は、『本辞(ほんじ)』や『先代旧辞(せんだいくじ)』と同書で、「記紀」の基本資料となる各氏族が伝承する歴史書と考えられて、『帝紀(ていき)』と共に「記紀」の基本資料にした歴史書の一つで、古くに散逸(さんいつ;バラバラになること)して、内容が残っていない。

『ホツマツタエ』の焚書(ふんしょ;政変などで都合の悪い書物を燃やすこと)の危機は、西暦645年(皇極(こうぎょく)天皇4年)の乙巳(いっし)の変(へん)か、西暦672年(天武(てんむ)天皇元年)の壬申(じんしん)の乱(らん)の2つが有力説で、燃やされないように東北地方南部の福島県天栄村(てんえいむら)の二俣(ふたまた)温泉に隠(かく)して、1967年(昭和42年)頃に開(あ)かずの蔵(くら)から、大量のホツマ文字が見つかって、後に宮内庁が保管して、そのマイクロフィルムが富士銀行の地下金庫にあると言う。
二俣(ふたまた)温泉に隠(かく)した大量のホツマ文字は、『ホツマツタエ』か関連本の『ミカサフミ(三笠文)』と『フトマニ(太占)』のどれかで、約1300年前に福島県に移住した旅館の経営者一族の伝承から、西暦645年か西暦672年の政争で、ホツマ文字を権力者に燃やされないように持ち出して、遠い土地の福島県に封印したと考えられて、今が一般人の見られない宮内庁の所蔵と言う。
西暦645年か西暦672年以前は、『ホツマツタエ』が完成して、藤原不比等(ふじわらのふひと)や天武(てんむ)天皇にとって、都合の悪い古伝承を記して、燃やそうとしたため写本を福島県の二俣(ふたまた)温泉に隠(かく)したと考えられて、『ホツマツタエ』の写本が現在に複数あって、超天才の僕が「記紀」との関連性を示して、現存する日本最古の書物と証明した。
乙巳(いっし)の変(へん)は、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ;後の天智(てんじ)天皇)と藤原鎌足(ふじわらのかまたり)が蘇我(そが)氏の本家(蘇我蝦夷(そがのえみし)と蘇我入鹿(そがのいるか)親子など)を滅亡させて、蘇我入鹿(そがのいるか)の殺害を「大化(たいか)の改新(かいしん)」と言う場合もあるが、乙巳(いっし)の変(へん)から始まる一連の政治体制の変革を大化(たいか)の改新(かいしん)と言って、乙巳(いっし)の変(へん)が大化(たいか)の改新(かいしん)の第一段階である。
壬申(じんしん)の乱(らん)は、大友皇子(おおとものおうじ;明治3年(1870年)に弘文(こうぶん)天皇の名前を付けて、歴代天皇に加(くわ)えた)を大海人皇子(おおあまのおうじ;後の天武(てんむ)天皇)が殺した古代日本最大の内乱(皇位継承権争い)である。

ホツマ文字で記す『ホツマツタエ(秀真伝)』と『ミカサフミ(三笠文)』と『フトマニ(太占)』の3書は、幾ら遡(さかのぼ)っても6世紀以降の書物で、『ホツマツタエ』が6世紀前半の西暦525年にできた西暦年を使って、『ホツマツタエ』が6世紀頃に和珥(わに)氏が春日(かすが)氏と小野(おの)氏と柿本(かきのもと)氏などに分家した情報などを記して、僕の自論の「記紀」より古い情報源とも証明して、ホツマ文字そのものも漢字以前の古代文字の神代(しんだい)文字と証明できない。
ホツマ文字は、7世紀前半の西暦622年に死去した聖徳太子が直接作り出したか、命令した結果の研究・開発で作った文字と考えられて、漢字以前の古代文字でなく、景行(けいこう)天皇元年3月(西暦191年4月頃)に古代中国から帰国した使者たちが漢字の音読みと訓読みを作って、天皇家が漢字を知った後の古代文字がホツマ文字とも証明した。
ホツマ文字は、ヒラガナ(平仮名)とカタカナ(片仮名)が作られた時代以前の文字で、古代天皇家が漢字の音読みと訓読みを作った後にできて、古代文字と呼ぶのが相応(ふさわ)しくて、反論を受け付けない。

『ホツマツタエ』16章は、子宮の中で胎児の何ヶ月目の様子を記して、現代医学の超知識で、精子が骨や脂肪で、卵子が血液や内臓になると記して、未来の遺伝子レベルの超知識で、精子と卵子が現代の顕微鏡で見えるレベルで、『ホツマツタエ』の他の章に人間の男女の染色体23個が合体して、人間一人の染色体46個になると解釈して、後世の現代日本に『ホツマツタエ』が残って、古代天皇家の歴史を特定する僕の出現を把握して、聖徳太子の緻密(ちみつ)な計算と考えられる。
聖徳太子は、非実在説が存在するが、未来の黒船来航や現代日本を予言して、歴史書の『天皇記(てんのうき)』と『国記(こっき)』を記した一人で、聖徳太子が直接ホツマ文字を作って、『ホツマツタエ』を記した本人の可能性もあって、『ホツマツタエ』が記す現代医学と未来の遺伝子知識など、他にも色々と用意周到(しゅうとう)な計画を立案して、本当に実在したと考えるしかない。
聖徳太子は、未来の現代日本を見て、現代のタイムトラベル(タイムスリップやタイムリープなどとも言う;過去や未来への時間旅行)やタイムパラドックス(過去の歴史を変えて起こる矛盾)などの考え方を学習して、歴史の流れを書き換える可能性を知りながら、未来を託(たく)す計画を立てて、超天才の僕が歴史研究を公表する礎(いしずえ)を作った。

 『隋書(ずいしょ)』は、6世紀末の推古(すいこ)天皇8年(西暦600年)に派遣した遣隋使(けんずいし)が最初で、『日本書紀』が推古(すいこ)天皇15年(西暦607年)に小野妹子(おののいもこ)を派遣した遣隋使(けんずいし)が最初と嘘(うそ)をついて、「記紀」が本当と嘘(うそ)を記して混乱させるため、正しく解釈する必要がある。
7世紀前半の推古(すいこ)天皇30年2月22日(西暦622年4月8日)に49才で死去した聖徳太子は、『ホツマツタエ』を直接に記したか、まとめる作業を命令して、7世紀中頃の西暦645年(皇極(こうぎょく)天皇4年)か、7世紀後半の西暦672年(天武(てんむ)天皇元年)までに日本最古の書物の『ホツマツタエ』が完成して、8世紀前半の西暦720年(養老(ようろう)4年)に「記紀」を一緒に献上して、中韓などに日本国の歴史書を主張したと考えられる。
6世紀末までの歴代天皇は、日本国の君主の称号を大王(おおきみ)として、7世紀初頭の推古(すいこ)天皇15年(西暦607年)に法隆寺金堂にある薬師如来坐像の光背銘(こうはいめい)の天皇か、7世紀後半の天武(てんむ)天皇6年12月(西暦678年1月頃)に記す天皇が有力で、どちらかで天皇(てんのう;すめらみこと)の称号に変更して、中韓などに優位性を主張したと考えられる。
『続日本紀(しょくにほんんき)』に8世紀初頭の西暦702年(大宝(たいほう)2年)は、遣唐使(けんとうし)が古代中国の唐(とう)が使った「大倭国(おおやまとのくに)」の国名を退(しりぞ)けて、「日本国(にほんこく)」を主張したと記して、これで最古の年代が判明した「日本(にほん)」を記す実例で、日本(にほん)が太陽神を祭る古代天皇家を指して、古代中国が使う倭国(わこく;やまとのくに:古代日本国)を改(あらた)めた。
6世紀末の西暦600年から8世紀前半の西暦720年まで日本国は、古代中国や朝鮮半島と積極的に外交して、優位性を主張するために日本国の歴史書の編纂(へんさん)、大王(おおきみ)から天皇(てんのう;すめらみこと)へ君主の呼び方の変更、倭国(わこく)から日本国(にほんこく)に国名の呼び方の変更など、国家規模で取り組んだと考えられる。

7世紀にできた『ホツマツタエ』は、江戸時代の研究者が現代語読みなどに修正して、超天才の僕が完全解釈する可能性を理解して、未来に託(たく)したと考えられて、過去の先人たちに恥(は)じない歴史研究の恩返しをしたいと思う。
『ホツマツタエ』と「記紀」が伝える女系男子天皇は、現在の皇室の女系天皇や女性天皇や女性宮家の希望で、女性皇族の地位の向上などが目的で、将来的な問題を僕が記した他の章も参考にして、関連する内容を正しく考えてほしくて、僕が作り上げた史料を世界中の国々や人々に公表する覚悟や気合(きあい)が必要で、今の皇室が旧宮家の養子を迎(むか)えるなど、安定的な皇位継承者の確保問題を考える必要がある。
母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)の女系男子天皇は、現代日本が男系男子天皇に拘(こだわ)らない前提で、聖徳太子が未来に超天才の僕が特定することを願って、託(たく)した希望を受け継ぐ現代日本の女性の優位や進出の「きっかけ」になって、女性皇族の地位を向上させて、男性や女性に関係ない天皇の本質なども考えてほしい。
女性天皇の神功(じんぐう)天皇と飯豊(いいとよ)天皇は、女系天皇や女性天皇や女性宮家を僕が支持する理由で、母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)の子孫である女性皇族の飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)が女系男子天皇と共に根拠にして、女性皇族の活躍の輝(かがや)きにつながることを願う。
女性の太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)と神功(じんぐう)皇后を神格化)は、父方の太陽神の巫女(みこ)である倭姫命(やまとひめのみこと)が、一生独身で皇室の祖先神がつながらず、母方の皇祖神(こうそしん;皇室の祖先神)の神功(じんぐう)皇后が現在の天皇陛下まで、血筋が続くとされて、初代天皇の男系男子天皇より古く、神様から続く女系男子天皇の血筋を重視すべき理由が十分である。

太陽神ケツァルコアトルは、有名なアステカ文明(14世紀頃から1521年まで続いた文明)の神様だが、それ以前のトルテカ文明(7世紀頃から12世紀頃まで続いた文明)の神様でもあって、トルテカ神話に登場する羽毛を持つ蛇神で、実在したケツァルコアトル王(セ・アカトル・トピルツィン・ケツァルコアトル;「1の葦」の日に生まれた我らの王子ケツァルコアトルの意味)も指して、信仰心から王や神官もケツァルコアトルを名乗って、7世紀以降の古代天皇家と共通先祖を持つ海外王族として取り上げた。
太陽神ケツァルコアトルは、羽毛の蛇神で、実在の人物を神格化して、ケツァルコアトルを文字(もじ)ると、「国照彦(くにてるひこ)・天照(あまてる)」になって、『ホツマツタエ』の2代目ホノアカリ(火明;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の息子が長男(異母弟)のクニテル(国照;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)で、物部(もののべ)氏の祖先神を指して、5世紀から6世紀以降に太陽神ケツァルコアトルが生まれたと考えられて、メキシコのトルテカ文明の誕生時期を考える参考になる。
古代太陽神の天照国照彦(あまてるくにてるひこ)は、初代の太陽神の宮司(神主)である彦坐王(ひこいますのみこ)とその息子の狭穂彦王(さほひこのみこ)の子孫である物部(もののべ)氏を神格化して、古代太陽神が蛇神でもあって、太陽神ケツァルコアトルが実在の人物を神格化して、羽毛の蛇神なのも共通して、古代天皇家とトルテカ王家が共通の先祖で、5世紀から6世紀頃に古代天皇家が船で旅立って、メキシコのトルテカ文明を作ったと考えられて、トルテカ神話と日本神話の共通性が非常に興味深い研究対象である。

朝鮮半島の高麗国(こうらいのくに)は、西暦918年に王建(おうけん)が高句麗国(こうくりのくに)の後継と称して建国して、新羅国(しらぎのくに)末期の分裂状態を統一して、12世紀末に崔(さい)氏が政権を握って、13世紀に中国の元(げん)に服属して、元(げん)の日本遠征の元寇(げんこう)に動員されて、14世紀末期の西暦1392年の李氏朝鮮(りしちょうせん)建国で滅亡した国家で、首都(国都)が開京(かいきょう)である。
高麗国(こうらいのくに)の建国神話の王建(おうけん)神話は、日本神話との共通性が見られて、日本神話が成立した時代より後世に王建(おうけん)神話ができて、日本神話を真似(まね)て、神話化したと証明できる。


出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏の先祖は、1343年に出雲国造(いずもくにみやつこ)が分裂して、千家(せんげ)氏と北島(きたじま)氏に分家して、改名(かいめい;名字(みょうじ)を改(あらた)めること)して、幕末まで(せんげ)氏と北島(きたじま)が出雲大社の職務を平等に分担して、明治時代から現代まで千家(せんげ)氏が出雲大社宮司を務(つと)める。

僕の歴史研究の公表は、高市早苗氏を初の女性首相に導(みちび)く「きっかけ」で、愛子様を女性天皇にする「きっかけ」でもあって、僕の自論の女系男子天皇を認(みと)めて、女系天皇や女性天皇や女性宮家を認(みと)める「きっかけ」にして、暗闇から女性の太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ)を天岩戸(あまのいわと)から出させて、日本に日の出を昇(のぼ)らせて、新しい再生の希望の光にしたいと思う。

<参考文献>
『古代日本史への挑戦』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『続・私の半生と古代日本史』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『日本書紀(上)(下)全現代語訳―全二巻―』
著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社
『古事記(上)(中)(下)―全三巻―』
著者・次田真幸 発行・株式会社講談社
『完訳秀真伝(上巻)(下巻)』
編著者・鳥居礼 発行・八幡書店
『ホツマ辞典』
著者・池田満 発行・ホツマ刊行会
『別冊歴史REAL 地形と地図で読み解く古代史』
発行・株式会社洋泉社
インターネットの不明サイトから少々拝借

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