邪馬台国の年表


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

邪馬台国(やまとこく;大和国)論争の一般的な歴史学者(専門家)の解釈は青字で、その下の僕の自論が黒字で書いて、他の僕の自論も黒字で書く。
アインシュタイン博士以上の超天才で、日本神話の神々の領域…神域を求められる僕は、邪馬台国(やまとこく;大和国)時代を神話化したのが日本神話と証明できる世界唯一の人間で、考古学界と歴史学会(専門家)も含めた現代人(僕以外の人間)が西暦年を求められず、西暦年との対比が僕だけができる神技(かみわざ)である。
基本の基本も知らない無知な考古学会と歴史学会(専門家)の求める邪馬台国(やまとこく;大和国)の歴史は、僕におんぶにだっこされて、初めて真実を把握できるが、自分たちで史実・真実・事実を複雑怪奇に解釈した。
卑弥呼と台与(とよ)は、以降をだいたい邪馬台卑弥呼と台与卑弥呼と記す。

倭国大乱(わこくたいらん)が2世紀中頃に起きて、日本全土が寒冷期で戦争状態に入ったとか、邪馬台国で内乱が起きたなど多くの解釈がある。
  垂仁(すいにん)天皇5年6月1日(西暦156年7月上旬頃)に出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ;垂仁天皇の従兄弟)が反逆して、実妹で皇后の狭穂姫(さほひめ)が垂仁(すいにん)天皇に告白した。
  狭穂彦王(さほひこのみこ)は、レプリカ(複製品)の二種の神器で、強行即位して狭穂彦(さほひこ)天皇になって、邪馬台国(やまとこく;大和国)と出雲王国(物部(もののべ)氏)の最初の内乱で、三重県熊野市有馬の花の窟(いわや)神社に焼死した狭穂彦(さほひこ)天皇と実妹の狭穂姫(さほひめ)を祭った。
  垂仁(すいにん)天皇7年2月3日(西暦158年3月上旬頃)に垂仁(すいにん)天皇は、自分の治世(ちせい)で汚(けが)れを無くすための夢を見て、この日までに狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(倭国大乱;わこくたいらん:倭の邪馬台国の大乱)が終わったと考えられる。
  垂仁(すいにん)天皇12年9月16日(西暦163年10月中旬頃)に倭姫命(やまとひめのみこと;邪馬台卑弥呼)が生まれた。
  垂仁(すいにん)天皇20年真冬(西暦170年12月から171年2月頃)に倭姫命(やまとひめのみこと;邪馬台卑弥呼)の異母弟(男弟;だんてい)の景行(けいこう)天皇が生まれた。
西暦180年代頃に女王国の幼少の卑弥呼を女王に推薦(すいせん)して共立して、鬼道で民衆を惑(まど)わせた。
  垂仁(すいにん)天皇25年3月8日(西暦176年4月上旬頃)に倭姫命(やまとひめのみこと;邪馬台卑弥呼)を官人の賛同で、伊勢国(三重県中部;女王国)で伊勢神宮の斎王(さいおう;太陽神に仕える未婚の皇女)に任命で、皇女を女王と勘違いして、鬼道(神道)で皆(みな)を導(みちび)いた。
  垂仁(すいにん)天皇26年9月16日(西暦177年10月中旬頃)に倭姫命(やまとひめのみこと;邪馬台卑弥呼)が現在の伊勢神宮内宮へ最終遷宮して、これ以降に元伊勢が存在しない。
  垂仁(すいにん)天皇30年2月(西暦181年3月頃)に田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)と同一人物)を初めて後漢王朝に派遣(遣漢使;けんかんし:遣隋使や遣唐使に習(なら)った造語)した。
  垂仁(すいにん)天皇32年7月6日(西暦183年8月上旬頃)に皇后の日葉酢媛(ひばすひめ)陵に埴輪(はにわ)を立てる詔(みことのり;天皇の述べた言葉)で、初めて最古の埴輪(はにわ)と考えられる最古の土師器(はじき)が立てられたと考えられて、これ以前の時代に殉死(じゅんし;主人の後を追って従者が死ぬこと)があったと考えられる。
  垂仁(すいにん)天皇37年(西暦188年)に田道間守(たじまもり)が後漢王朝の皇帝に謁見(えっけん)して、遣漢使(けんかんし)が到着して、東大寺山(古墳出土)鉄刀(国宝)と京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社の神宝である息津鏡(おきつかがみ)と邊津鏡(へつかがみ)などが下賜されたと考えられる。
  垂仁(すいにん)天皇39年7月1日(西暦190年8月上旬頃)に垂仁(すいにん)天皇が崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、享年(きょうねん)78才で、8月16日(西暦190年9月中旬頃)の夜にお墓(はか)へ埴輪(はにわ)を立てて、12月10日(西暦191年1月上旬頃)に纏向(まきむく)石塚古墳(垂仁(すいにん)天皇陵)に葬礼して、最古の埴輪(はにわ)と考えられる最古の土師器(はじき)が出土する。
  景行(けいこう)天皇元年3月(西暦191年4月頃)に田道間守(たじまもり)が帰国して、遣漢使(けんかんし)の帰還である。
卑弥呼の男弟が実質的に邪馬台国を統治した。
  景行(けいこう)天皇元年7月11日(西暦191年8月中旬頃)に景行(けいこう)天皇(男弟;だんてい)が即位して、倭姫命(やまとひめのみこと;邪馬台卑弥呼)が神託で助言した。
  景行(けいこう)天皇4年11月1日(西暦194年12月上旬頃)に皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや;邪馬台国の王都の纏向(まきむく)遺跡)に初めて景行(けいこう)天皇が入って、後世の皇居の藤原京や平城京に匹敵する都市遺跡である。
  景行(けいこう)天皇5年11月15日(西暦195年12月中旬頃)に日本武尊(やまとたけのみこと;男王:だんおう)が生まれた。
邪馬台国の敵対国の拘奴国(くぬこく)と初めて戦争をした。
  景行(けいこう)天皇12年から19年(西暦202年から209年)に景行(けいこう)天皇が自(みずか)ら九州を平定して、敵対国の熊襲(くまそ)王国(拘奴国;くぬこく:南九州)が登場して、西暦220年に滅亡した後漢王朝に拘奴国(くぬこく)の存在を報告した。
  景行(けいこう)天皇20年2月4日(西暦210年3月上旬頃)に倭姫命(やまとひめのみこと;邪馬台卑弥呼)から五百野皇女(いものひめみこ)に伊勢神宮の斎王(さいおう;太陽神に仕える未婚の皇女)を交代して、隠居した倭姫命(やまとひめのみこと)は、伊勢市の磯(いそ)神社で静かに天照神(あまてるかみ)を祭った。
  景行(けいこう)天皇38年頃(西暦228年頃)に神功(じんぐう)皇后(抹消した名前が豊姫命(とよひめのみこと);台与卑弥呼)が生まれた。
西暦239年に魏王朝に遣使して、親魏倭王(しんぎわおう)の金印を卑弥呼が受け取って、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)も卑弥呼の受け取った銅鏡と考えられる。
  景行(けいこう)天皇49年(西暦239年)に初めて魏王朝に遣使(遣魏使;けんぎし:隋使や遣唐使に習(なら)った造語)して、親魏倭王(しんぎわおう)の金印を倭姫命(やまとひめのみこと;邪馬台卑弥呼)でなく、景行(けいこう)天皇(男弟;だんてい)が受け取った。
  三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)は、邪馬台国(やまとこく;大和国)に関係するかしないか無関係で、邪馬台国(大和国)論争がとっくの昔に決着した。
  景行(けいこう)天皇50年(西暦240年)に使者が帰国して、遣魏使(けんぎし)の帰還である。
西暦247年に邪馬台国の敵対国の狗奴国(くぬこく)と2度目の戦争をした。
  景行(けいこう)天皇57年10月13日(西暦247年11月中旬頃)に熊襲(くまそ)王国(狗奴国;くぬこく)の討伐命令が出て、南九州に皇太子(「記紀」で特別扱いの皇子で、皇太子なら簡単に説明できる)の日本武尊(やまとたけのみこと;男王:だんおう)が向かう。
  景行(けいこう)天皇57年12月(248年1月頃)に日本武尊(やまとたけのみこと;男王:だんおう)が熊襲(くまそ)王国(狗奴国;くぬこく)を滅亡させた。
  景行(けいこう)天皇60年10月2日(西暦250年11月上旬頃)に日本武尊(やまとたけのみこと;男王:だんおう)が東海平定の総大将として出陣した。
  景行(けいこう)天皇60年11月7日(西暦250年12月上旬頃)に景行(けいこう)天皇(男弟;だんてい)が崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、享年(きょうねん)79才で、皇太子が不在で皇位継承権争いが起きたと考えられる。
卑弥呼の死後に男王が立って、邪馬台国で2度目の内乱が発生した。
  西暦251年(天皇不在の年)に日本武尊(やまとたけのみこと;男王:だんおう)と仲哀(ちゅうあい)天皇と蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)の親子3人が皇位継承権争いを起こして、いつか不明で蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)が討伐された。
  8月4日(9月上旬頃)に日本武尊(やまとたけのみこと)が二種の神器か三種の神器を強奪して、日本武(やまとたけ)天皇に強行即位(本当の男王に即位)して、9月17日(10月中旬頃)から末日まで(10月下旬頃)に日本武(やまとたけ)天皇が伯母(おば)で88才の倭姫命(やまとひめのみこと;邪馬台卑弥呼)を殺して(太陽神殺しの意味)、全ての皇族から敵視されて、日本武(やまとたけ)天皇が出雲王国に亡命した。
  仲哀(ちゅうあい)天皇元年1月11日(西暦252年2月中旬頃)に仲哀(ちゅうあい)天皇(男王(だんおう)の息子)が二種の神器か三種の神器で即位して、邪馬台国(やまとこく;大和国)の仲哀(ちゅうあい)天皇と出雲王国(物部(もののべ)氏)の日本武(やまとたけ)天皇の親子がそれぞれ二種の神器と三種の神器を持っていて、2朝廷並列時代に突入して、邪馬台国と出雲王国の2度目の内乱である。
卑弥呼の墓が直径約144メートル前後(径百余歩)で、殉死(じゅんし)者が百人余りだった。
  仲哀(ちゅうあい)天皇元年11月10日(西暦252年12月上旬頃)に景行(けいこう)天皇(男弟;だんてい)を箸墓(はしはか)古墳(宮内庁指定陵の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)陵で、正しくは景行(けいこう)天皇陵)に葬礼した。
  箸墓(はしはか)古墳は、倭姫命(やまとひめのみこと;邪馬台卑弥呼)の墓(はか)と勘違いして、後円部の直径160メートルで全長280メートルの前方後円墳で、殉死(じゅんし;主人の後を追って従者が死ぬこと)者の代わりに立てる最古の埴輪(はにわ)の特殊器台埴輪(はにわ)が出土した。
  仲哀(ちゅうあい)天皇2年1月11日(西暦253年2月中旬頃)に神功(じんぐう)皇后(台与卑弥呼)が仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后になって、大和国(やまとこく;邪馬台国)王妃である。
  仲哀(ちゅうあい)天皇9年2月6日(西暦260年3月上旬頃)に出雲王国の攻撃中に仲哀(ちゅうあい)天皇が崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること:おそらく戦死)して、享年(きょうねん)52才。
  仲哀(ちゅうあい)天皇9年10月3日(西暦260年11月上旬頃)に神功(じんぐう)皇后(台与卑弥呼)が出雲王国(物部(もののべ)氏)の攻撃を再開して、最後の出雲国王の飯入根(いいいりね)が日本武(やまとたけ)天皇に殺されて、神功(じんぐう)皇后が命じて10月11日から17日(11月中旬頃)に日本武(やまとたけ)天皇を殺して、享年(きょうねん)64才で、出雲王国が崩壊した。
  出雲王国(物部(もののべ)氏)は、滅亡せずに存続して、6世紀に宗家の物部守屋(もののべのもりや)がいて、出雲王国が滅亡でなく崩壊で、神功(じんぐう)皇后が三種の神器の片方を取り戻して、邪馬台国と出雲王国の2朝廷並列時代の終わりで、邪馬台国(やまとこく;大和国)の支配地が東北地方南部から南九州までの全てに及んだ。
  仲哀(ちゅうあい)天皇9年12月14日(西暦261年1月中旬頃)に神功(じんぐう)皇后が皇太子の誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)を出産した。
遂(つい)に国中が平定された。
  摂政(せっしょう)元年2月(西暦261年3月頃)に仲哀(ちゅうあい)天皇の息子の鹿坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)の兄弟は、義母の神功(じんぐう)皇后から三種の神器を強奪する謀反(むほん)を起こして、鹿坂皇子(かごさかのみこ)が死んで、3月5日(西暦261年4月上旬頃)以降に忍熊皇子(おしくまのみこ)が滋賀県大津市瀬田で溺(おぼ)れて、京都府宇治市で水死体が見つかった。
  鹿は「鹿」の漢字の下に弭で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
  邪馬台国(やまとこく;大和国)の最後の皇位継承権争いで、この教訓から神功(じんぐう)皇后は、三種の神器の取り扱いを変えることを思いついたと考えられる。
  『三国志・魏志倭人伝』の「国中遂定」の記述は、邪馬台国(やまとこく;大和国)の全(すべ)ての内乱(鹿坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)の反乱まで)が遂(つい)に平定して、魏王朝が滅亡する西暦265年までに遣使した。
西暦265年までに卑弥呼の一族で13才の台与(とよ)が選ばれて女王になった。
  摂政(せっしょう)元年10月2日(西暦261年11月上旬頃)に倭姫命(やまとひめのみこと;邪馬台卑弥呼)と同じ皇族で33才の神功(じんぐう)皇后(台与卑弥呼)を摂政(せっしょう;天皇に代わって政治をする役職)に任命して、卑弥呼が幼少だから台与(とよ)を13才と勘違いしたと考えられる。
  摂政(せっしょう)2年11月8日(西暦262年12月上旬頃)に夫の仲哀(ちゅうあい)天皇を葬礼して、仲哀(ちゅうあい)天皇陵は大和(おおやまと)古墳群の中にあると考えられる。
  摂政(せっしょう)3年1月3日(西暦263年2月上旬頃)に実兄の誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)でなく、弟の2歳弱の誉田別尊(ほむだわけのみこと)を立太子(りったいし;皇太子になること)した。
  三種の神器は、2種類の八重垣剣(やえがきのつるぎ)と1種類の草薙剣(くさなぎのつるぎ)を入れ替えて、2種類の八咫鏡(やたのかがみ)の片方と1種類の八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)と草薙剣(くさなぎのつるぎ)を持たせて、誉田別尊(ほむだわけのみこと)と共に日向(ひうが;宮崎県)に行かせた。
西暦266年に西晋(せいしん)王朝に遣使して、その後も年代不明で何度か遣使して、この年号を最後に邪馬台国が歴史上から消える。
  摂政(せっしょう)6年(西暦266年)に初めて西晋(せいしん)王朝に遣使(遣晋使;けんしんし:遣隋使や遣唐使に習った造語)した。
  西暦297年に亡くなった陳寿(ちんじゅ)が『三国志・魏志倭人伝』を編纂(へんさん)する。
  摂政(せっしょう)69年4月17日(西暦329年5月中旬頃)に百才で神功(じんぐう)皇后(台与卑弥呼)が亡くなって、10月15日(11月中旬頃)に神功(じんぐう)皇后を葬礼した。
  台与卑弥呼の死で、神功(じんぐう)皇后陵は渋谷向山(しぶたにむこうやま)古墳(伝・景行(けいこう)天皇陵)が有力と考えられるが、正しいか分からない。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
石原道博・編訳者 株式会社岩波書店・発行
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