邪馬台国の年表


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

邪馬台国が歴史上に登場したのは後漢王朝に遣使したからで、倭国大乱が西暦何年頃か不明で、日本全土が寒冷期で戦争状態に入ったとか、邪馬台国で内乱が起きたなど多岐に渡る解釈がある。
西暦180年代頃に幼少の卑弥呼を女王にして、倭国大乱の混乱を治めて、後に卑弥呼の男弟が実質的に邪馬台国を統治したと考えられる。
西暦239年に邪馬台国は、魏王朝に遣使して親魏倭王の金印を下賜されて、金印を卑弥呼が受け取って、三角縁神獣鏡も卑弥呼の受け取った銅鏡と考えられる。
西暦247年に邪馬台国の敵国の狗奴国(くぬこく)と戦争して、この戦争の混乱で卑弥呼が戦死した架空の推論がある。
西暦248年9月5日に日本で皆既日食が見られて、太陽信仰から卑弥呼が殺された架空の推論があって、これを太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ)の天岩戸(あまのいわと)神話と重ねる考え方があって、卑弥呼の死が西暦248年頃と考えられる。
卑弥呼の死後に男王が立って、邪馬台国で内乱が発生して、西暦265年までに卑弥呼の墓が円墳の直径166メートル前後(径百余歩)が作られたと考えられる。
西暦265年までに卑弥呼の一族で13才の台与(とよ)が選ばれて、卑弥呼の後の女王になったと考えられる。
西暦266年に西晋王朝に遣使して、この年号を最後に邪馬台国が歴史上から消える。

邪馬台国論争の一般的な専門家の解釈は前文で、それを僕の自論の年表と比較すると、全ての出来事を修正や改善して、卑弥呼と男弟と男王と台与の生没年月日などを簡単に示せて、古代天皇家が邪馬台国に間違いなくて、僕にしか求められない聖域である。
専門家はどんなに頑張っても前文程度の解釈しかできず、僕以外に邪馬台国時代の西暦年を示せなくて、その理由が世界中で僕だけが可能にできる考え方にある。
日本神話の神々の領域…神域を完全解釈できる僕は、邪馬台国時代を神話化したのが日本神話と実証して、世界唯一の神様の全てを知る聖人である。
古代日本史…古代天皇家の正史は、僕以外にひもとけない神の領域で、日本神話の神域をひもとける僕だけが答えを示せる。
歴史研究を始めた西暦2002年10月頃から僕は、全てをひもとく運命を背負った地上唯一の超天才になった。


垂仁天皇(すいにん)5年6月1日(西暦156年7月上旬頃)に2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱
  桓霊間(後漢王朝の桓帝と霊帝の在位期間;西暦147年から189年:卑弥呼共立と遣漢使を含む)の間に起こった倭国大乱に当たる。
垂仁天皇12年9月16日(西暦163年10月中旬頃)に倭姫命(やまとひめのみこと)の誕生
  卑弥呼の誕生に当たる。
垂仁天皇20年真冬(西暦171年)に景行(けいこう)天皇の誕生
  卑弥呼の男弟(異母弟)の誕生に当たる
垂仁天皇25年3月8日(西暦176年4月上旬頃)に倭姫命を伊勢神宮の斎王(さいおう;太陽神に仕える未婚の皇女)に任命
  卑弥呼共立に当たる。
垂仁天皇30年2月(西暦181年3月頃)に田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)と同一人物)を初めて後漢王朝に派遣
  遣漢使に当たる。(遣隋使や遣唐使にならった造語)
垂仁天皇37年(西暦188年)に田道間守が後漢王朝の皇帝に謁見(えっけん)
  遣漢使の到着に当たる。
景行天皇元年3月(西暦191年4月頃)に田道間守の帰国
  遣漢使の帰還に当たる。
景行天皇元年7月11日(西暦191年8月中旬頃)に景行天皇の即位
  男弟の即位に当たる。
景行天皇4年11月1日(西暦194年12月上旬頃)に皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)に入る
  邪馬台国の王都(纏向(まきむく)遺跡;纏向日代宮)に当たって、後世の皇居の藤原京や平城京に匹敵する都市遺跡である。
景行天皇5年11月15日(西暦195年12月中旬頃)に日本武尊(やまとたけのみこと)の誕生
  男王の誕生に当たる。
景行天皇12年から19年(西暦202年から209年)に九州の平定
  邪馬台国の敵対国の拘奴国(くぬこく;熊襲(くまそ)王国)の登場に当たり、西暦220年に滅亡した後漢王朝に拘奴国の存在を報告に当たる。
景行天皇20年2月4日(西暦210年3月上旬頃)に倭姫命から五百野皇女(いものひめみこ)に伊勢神宮の斎王の交代だが、その後も倭姫命は太陽神を祭祀
  卑弥呼の隠居に当たる。
景行天皇38年頃(西暦228年頃)に神功(じんぐう)皇后の誕生
  台与(とよ)の誕生に当たる。
景行天皇49年(西暦239年)に初めて魏王朝に遣使
  遣魏使に当たる。(遣隋使や遣唐使にならった造語)
景行天皇50年(西暦240年)に使者の国内への帰還
  遣魏使の帰還に当たる。
景行天皇57年10月13日(西暦247年11月中旬頃)に熊襲王国が再度の反乱
  狗奴国(くぬこく)の攻撃に当たる。
景行天皇57年12月(248年1月頃)に熊襲王国の滅亡
  狗奴国の滅亡に当たる。
景行天皇60年11月7日(西暦250年12月上旬頃)に景行天皇の崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)で、享年79才(実年齢)
  男弟の死に当たる。
西暦251年(天皇不在の年)に皇太子の日本武尊が伯母(おば)の倭姫命(実年齢88才)を殺して、皇位継承権争いを起こして、日本武(やまとたけ)天皇になって、最後には出雲王国に亡命
  男王の反乱と卑弥呼の死に当たる。
仲哀(ちゅうあい)天皇元年1月11日(西暦252年2月中旬頃)に仲哀天皇が即位
  男王の息子の即位に当たって、邪馬台国の仲哀天皇と出雲王国の日本武天皇の親子が対立する2朝廷並列時代に突入した。
仲哀天皇元年11月10日(西暦252年12月上旬頃)に景行天皇を葬礼
  卑弥呼の墓と勘違いされる箸墓(はしはか)古墳(景行天皇(男弟)陵)の葬礼に当たる。
仲哀天皇2年1月11日(西暦253年2月中旬頃)に神功皇后が仲哀天皇の皇后になる
  台与が邪馬台国王妃になったのに当たる。
仲哀天皇9年神無月(西暦260年11月頃)に出雲王国崩壊と日本武天皇の戦死で、享年64才(実年齢)
  男王の死と国中遂定に当たる。
摂政(せっしょう;天皇に代わって政治をする役職)元年10月2日(西暦261年11月上旬頃)に神功皇后を摂政に任命
  台与が13歳で即位が間違いで、神功皇后が33歳に当たる。
摂政6年(西暦266年)初めて西晋王朝に遣使
  遣晋使に当たる。(遣隋使や遣唐使にならった造語)
西暦297年までに陳寿が『魏志倭人伝』を編纂(へんさん)する。
摂政69年4月17日(西暦329年5月中旬頃)に神功皇后が亡くなって、享年百才(実年齢)
  台与の死に当たる。

アインシュタイン博士以上の超天才の僕にかかれば邪馬台国関連の年表など簡単に求められて、西暦年で正しく古代天皇家の実在を証明できて、これが万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチや発明王トーマス・エジソンや20世紀最高の天才アルバート・アインシュタイン博士などと列せられる僕の超天才的な頭脳の実力である。
邪馬台国論争の基本も知らない無知な専門家(考古学会と歴史学会)は、一生かかっても僕を捕らえらえなくて、僕に負(お)んぶに抱(だ)っこされて、初めて史実・真実・事実を把握できる。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行


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