邪馬台国の年表


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

垂仁天皇(すいにん)5年6月1日(西暦156年7月上旬頃)に2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱
  桓霊間(後漢王朝の桓帝と霊帝の在位期間;西暦147年から189年:卑弥呼共立と遣漢使を含む)の間に起こった倭国大乱に当たる。
垂仁天皇12年9月16日(西暦163年10月中旬頃)に倭姫命(やまとひめのみこと)の誕生
  卑弥呼の誕生に当たる。
垂仁天皇20年真冬(西暦171年)に景行(けいこう)天皇の誕生
  卑弥呼の男弟(異母弟)の誕生に当たる 垂仁天皇25年3月8日(西暦176年4月上旬頃)に倭姫命を伊勢神宮の斎王(さいおう;太陽神に仕える未婚の皇女)に任命
  卑弥呼共立に当たる。
垂仁天皇30年2月(西暦181年3月頃)に田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)と同一人物)を初めて後漢王朝に派遣
  遣漢使に当たる。(遣隋使や遣唐使にならった造語)
垂仁天皇37年(西暦188年)に田道間守が後漢王朝の皇帝に謁見(えっけん)
  遣漢使の到着に当たる。
景行天皇元年3月(西暦191年4月頃)に田道間守の帰国
  遣漢使の帰還に当たる。
景行天皇元年7月11日(西暦191年8月中旬頃)に景行天皇の即位
  男弟の即位に当たる。
景行天皇4年11月1日(西暦194年12月上旬頃)に皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)に入る
  邪馬台国の王都(纏向(まきむく)遺跡;纏向日代宮)に当たって、後世の皇居の藤原京や平城京に匹敵する都市遺跡である。
景行天皇5年11月15日(西暦195年12月中旬頃)に日本武尊(やまとたけのみこと)の誕生
  男王の誕生に当たる。
景行天皇12年から19年(西暦202年から209年)に九州の平定
  邪馬台国の敵対国の拘奴国(くぬこく;熊襲(くまそ)王国)の登場に当たり、西暦220年に滅亡した後漢王朝に拘奴国の存在を報告に当たる。
景行天皇20年2月4日(西暦210年3月上旬頃)に倭姫命から五百野皇女(いものひめみこ)に伊勢神宮の斎王の交代だが、その後も倭姫命は太陽神を祭祀
  卑弥呼の隠居に当たる。
景行天皇38年頃(西暦228年頃)に神功(じんぐう)皇后の誕生
  台与(とよ)の誕生に当たる。
景行天皇49年(西暦239年)に初めて魏王朝に遣使
  遣魏使に当たる。(遣隋使や遣唐使にならった造語)
景行天皇50年(西暦240年)に使者の国内への帰還
  遣魏使の帰還に当たる。
景行天皇57年10月13日(西暦247年11月中旬頃)に熊襲王国が再度の反乱
  狗奴国(くぬこく)の攻撃に当たる。
景行天皇57年12月(248年1月頃)に熊襲王国の滅亡
  狗奴国の滅亡に当たる。
景行天皇60年11月7日(西暦250年12月上旬頃)に景行天皇の崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)
  男弟の死に当たる。
西暦251年(天皇不在の年)に皇太子の日本武尊が倭姫命を殺して、皇位継承権争いを起こして、日本武(やまとたけ)天皇になって、最後には出雲王国に亡命
  男王の反乱と卑弥呼の死に当たる。
仲哀(ちゅうあい)天皇元年1月11日(西暦252年2月中旬頃)に仲哀天皇が即位
  男王の息子の即位に当たる。
仲哀天皇元年11月10日(西暦252年12月上旬頃)に景行天皇を葬礼
  卑弥呼の墓と勘違いされる箸墓(はしはか)古墳(景行天皇陵)の葬礼に当たる。
仲哀天皇2年1月11日(西暦253年2月中旬頃)に神功皇后が仲哀天皇の皇后になる
  台与が邪馬台国王妃になったのに当たる。
仲哀天皇9年神無月(西暦260年11月頃)に出雲王国崩壊と日本武天皇の死
  男王の死と国中遂定に当たる。
摂政(せっしょう;天皇に代わって政治をする役職)元年10月2日(西暦261年11月上旬頃)に神功皇后を摂政に任命
  台与が13歳で即位が間違いで、神功皇后が33歳に当たる。
摂政6年(西暦266年)初めて西晋王朝に遣使
  遣晋使に当たる。(遣隋使や遣唐使にならった造語)
西暦297年までに陳寿が『魏志倭人伝』を編纂(へんさん)する。

アインシュタイン博士以上の超天才の僕にかかれば邪馬台国関連の年表など簡単に求められて、西暦年で正しく古代天皇家の実在を証明できて、これが万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチや20世紀最高の天才アルバート・アインシュタイン博士などと列せられる僕の超天才的な頭脳の実力である。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行


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