福知山市と大門の神社


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

僕の生まれ暮らす京都府福知山市大門の神社を少し起源と由来などをたどってみようと思う。
京都府福知山市が最初に古代天皇家の歴史に登場したのは西暦93年で、福知山市大江町の血原(ちはら;千原:せんばら)か蟻道(ありじ;有路:ありじ)で丹波王国の武将の匹女(ひきめ)が戦死したとされる。
1927年前の西暦94年5月中旬頃(崇神(すじん)天皇11年4月13日)に丹波(たには;古代の京都府北中部)は初代・崇神天皇の実兄の彦坐王(ひこいますのみこ)が平定報告をして、この時から丹波の歴史が明確な始まりを見せることになって、西暦713年に丹波(たんば;現在の京都府中部)と丹後(たんご;現在の京都府北部)に分かれて、現在に至るまでの歴史が積み上げられてきた。
元伊勢外宮の祭神の豊受大神(とようけおおかみ)は、「あなにえし田庭( たにわ)なるかな」と申(もう)されて、田庭が丹波に漢字が変わったが、田んぼの庭という意味で、京都府が実(みの)りの豊(ゆた)かな土地と考えられた説がある。
福知山の地名の由来は、丹波平定をした戦国武将の明智光秀が城下町を福知山と名付けたと考えられて、元々「福智山」とも書いたが、「福知山」とどちらが正しいのかよく分からないらしく、福知山市が昔に天田(あまだ)郡に属した。

福知山市の最古の神社は3候補あって、福知山市今安の天照玉命(あまてるたまのみこと)神社と大江町の元伊勢内宮と大江町蓼原(たでわら)の舟戸(ふなと)神社で、創建の時期がはっきり分かるのがの天照玉命神社だけである。
天照玉命神社の社伝には成務(せいむ)天皇時代に主祭神を大倉岐命(おおくらきのみこと)が今安に祭ったと言うが、成務天皇が逆賊の日本武尊(やまとたけのみこと)を仮の天皇とした実在しない天皇で、正しく求めると仲哀(ちゅうあい)天皇時代か神功(じんぐう)皇后時代に祭ったと考えられて、西暦250年代から280年代ほどの時期に当たる。
京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社の宮司家である海部(あまべ)氏の先祖の大倉岐命は3世紀中頃から後半に実在した人物である。
天照玉命神社の主祭神の火明命(ほあかりのみこと)は、正式名を天照国照彦火明天櫛玉饒速日命(あまてるくにてるひこほあかりあめのくしたまにぎはやひのみこと)で、古代の男性の太陽神である天照神(あまてるかみ)と火明命(ほあかりのみこと)と饒速日命(にぎはやひのみこと)の3神が合体した神名である。
天照神は現在の女性の太陽神である天照大神(あまてらすおおみかみ)の前身で、天照大神が誕生した時期が7世紀後半から8世紀前半と考えられて、天照神が元々天皇家の最高神だったと考えられて、福知山市で最も神格の高い神社が天照玉命神社だった時期があると考えられる。

元伊勢内宮は現在でこそ最高神の天照大神を祭るが、元々が古代の最高神の天照神を祭ったと考えられて、古史古伝『ホツマツタエ』から京都府北部の元伊勢が宮津市が正しくて、元伊勢内宮が後世に元伊勢と名乗っただけだと考えられる。
ではなぜ元伊勢内宮が最古の神社候補になるのか考えると、御神体山の日室岳(ひむろだけ;別名を一願(いちがん)さん)があるためで、奈良県桜井市の御神体山の三輪山(みわやま)と同様のもので、非常に古い古代信仰の一つと考えられる。
日室岳には両丹日日新聞(福知山市付近で扱われる新聞)の2003年2月7日号に禁足地(足を踏み入れてはいけない聖域)の山頂に岩座(いわくら;神のよりしろ)と思われる巨岩が立っていると記されて、千五百年以上前の人工的な古代信仰の証拠だと考えられる。
元伊勢内宮の本殿から少し離れた場所にある礼拝所は、夏至(げし)の日に日室岳の山頂に太陽が沈むように計算されて、日室岳が海部氏の先祖がこの場所を見つけて、もう一つの元伊勢として祭り始めて忘れ去られてしまったと考えられて、福知山市の最古の神社である可能性を示唆する。
元伊勢内宮は、聖徳太子の異母弟の麻呂子親王(まろこしんのう)が訪れた伝承があって、約1400年前から存在したと考えられる。
大江山の鬼退治伝承は、西暦93年から94年の彦坐王による丹波王国の滅亡、約1400年前の麻呂子親王の鬼退治、平安時代の源頼光(みなもとのよりみつ)の酒呑童子(しゅてんどうじ)退治の3つがあるが、有名なのが酒呑童子という鬼の話である。

舟戸神社は『丹後風土記残缺』で丹波王国平定の時に由良川を下る舟を蓼原に祭ったと記されて、西暦100年までに祭られた可能性があって、創建の時期が福知山市で最も古い可能性があるが、1965年に国道175号線の改修工事で社域を冨士神社の社域に遷座された。
しかし『但馬国司文書』で丹波王国平定の時に舞鶴市から兵庫県豊岡市の近くまで舟で行ったと記されて、舟が川と海の違いを伝える伝承が存在して、舟戸神社の伝承が一方的な情報で福知山市最古の神社と断定するのが不十分で、『丹後風土記残缺』が成立した頃以前から舟戸神社が存在していたと考えられるが明確な創建年代を求められない。
舟戸神社は丹波平定で用いた舟を祭った神社だが、海で乗った舟を祭った可能性も考えられて、決して丹波平定の記述が間違っていないかもしれない。
福知山市最古の神社はこの3候補を僕の考え方で定めて求めて、これを読んだ人物がどう判断するか任せたい。

大門の神社は秋葉(あきば)神社と八柱(やはしら)神社と妙見(みょうけん)神社と毘沙門(びしゃもん)神社があって、最も神格が高いのが秋葉神社と考えられるが、八柱神社の神殿の神名が分からないので違うかもしれない。
大門は鎌倉時代から室町時代に大門村として出てきて、隣の和久寺(わくでら)が平安時代初頭の古代地名辞典『和名抄』で「天田(あまだ)郡和久郷」で初見して、和久寺の地域の一区分として大門がいつ頃からか記されるようになったと考えられる。
ちなみに大門の寺は、天台宗(てんだいしゅう)の凌雲山(りょううんざん)高正寺(こうしょうじ)で、明応(めいおう)年間(西暦1492年から1501年)に創建したと伝える。

秋葉神社は静岡県浜松市の秋葉山本宮秋葉神社が有名で、この神社の祭神が軻遇突智(かぐつち)またの名を火産霊(ほむすび)で、国生みの男性の伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が斬殺した息子で火の神様とされて、神社本庁の傘下の秋葉神社が全国に800社以上あって、秋葉神社が火伏(ひぶせ)の神様を祭っている。
軻遇突智は2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化して、垂仁天皇5年6月1日(西暦156年7月上旬頃)に従兄弟の垂仁天皇に皇位継承権争いで反逆した逆賊で、垂仁天皇7年(西暦158年)までに稲城(いなき)で焼死して、狭穂彦王が古代太陽神の2代目・大物主神(おおものぬしのかみ)として神格化された。
軻遇突智の別名の火産霊には火の神様を生み出すという意味があって、産霊(むすび)が「生み出す」という意味があって、狭穂彦王の子孫の物部(もののべ)氏だけが火の神様として神格化されている。
古代太陽神の2代目・大物主神に神格化された狭穂彦王は、秋葉神社の軻遇突智として神格化されているなら、大門で一番に神格が高いと考えられるが、軻遇突智でなく単に火伏の神様を祭るのかもしれない。
秋葉神社の創建時期は不明である。

大門の八柱神社の神殿は神様が不明で、誰を神格化したのか分からないからどうにもならない。
神殿は本殿造(ほんでんづくり)で、構造や建築様式などからかなり古いようだが、創建年代が不明で、申請すれば福知山市の文化財になると言う。
八柱神社の祠(ほこら)は聖神(ひじりのかみ)や厄除(やくよけ)や天満(てんまん)や八幡(はちまん)や稲荷(いなり)などである。
聖神は素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊を神格化)の孫で出雲系の神様か不明で、素戔嗚尊の子孫が出雲系か高天原(たかまがはら)系に分かれると考えられるからだが、日本神話を完全解釈できる僕以外に求められる人間など存在しない。
厄除や天満や稲荷は一般的に全国的に祭られて、その由来や意味を日本神話に結び付けたり仏教に結び付けられたりと色々とある。
厄除や厄払(やくばら)いは日本人なら当たり前の考え方で、八柱神社の厄除の由来が分からない。
八柱神社の天満は天神(てんじん)でなく、天満宮の菅原道真(すがわらのみちざね)を指して、菅原道真が天神と混同されたりするが区別される場合もある。
八幡の総本山は宇佐(うさ)神宮で、母親の神功皇后と息子の応神(おうじん)天皇と宗像(むなかた)三神を祭って、全国的に多く祭られている。
稲荷は全国的に祭られて狐を想像するが眷属(けんぞく)で、日本神話の倉稲魂命(うかのみたまのみこと)が狐と混同されるが、『ホツマツタエ』でウケノミタマ(うかのみたま)を守護するように命じられた3匹の妖狐の伝承に基づく。

妙見神社は北極星や天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)を祭るが、明確な由来などがはっきりしなくて分からなくて、創建年代が不明である。
毘沙門神社は、文明(ぶんめい)12年3月(西暦1480年4月頃)に創建して、天台宗の比叡山延暦寺の末社である。
毘沙門神社の仏像はその昔、古い毘沙門天の仏像が京都で売りに出されたと聞いて、京都に買いに行って、数人が交代でおんぶして、三日三晩かけて運んで、現在のお堂に安置した言い伝えがあって、毘沙門天の仏像がお堂に納(おさ)められている。
毘沙門神社は、毘沙門天が仏教の神様だから、天台宗の末社として創建された後、天台宗の高正寺が創建されたから、どちらも天台宗の理由に行き着くだろう。

「記紀」や日本神話を完全解釈できる僕からすれば、福知山市や大門の神社の由来などを求めることなどたやすく、世界中の誰にも求められないことが簡単に求められて、日本神話の神々の正体を求められるという意味で神に最も近い人間としての本領発揮である。

<参考文献>
『竹内文書・但馬故事記』
吾郷清彦・著者 新国民社・発行
『日本古代地名事典』
吉田茂樹・著者 新人物往来社・発行
天照玉命神社の伝承
『ひっぱり壁』
田辺弘・著者 株式会社オカムラ・発行
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