決着した古代天皇家の歴史(これが送信メールのタイトル(題名)である)

僕の覚悟と称号
僕は世界でただ一人の日本神話を完全解釈した人間で、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争と倭(わ)の五王も完全に求めた超天才で、2冊の著書や僕のホームページなどで完全に証明して、僕がいい加減に歴史研究を公表する覚悟を決めた。
僕はアインシュタイン博士以上の超天才で、現代哲学理論「現象学」を証明した哲学者で、ノーベル物理学賞受賞者の中村修二博士とよく似た考え方で、古代天皇家の歴史を完全に証明した歴史家で、日本神話の神々を求めた意味で、神様に最も近い人間で、圧倒的な神学者など、多くの称号を持つ。

2025年の予言とメールなど
2025年4月26日の予言は、大地震などの災害でなく、僕のホームページを大幅に修正し終えて公表して、多くの場所に連絡したことで、6月5日の予言も大地震などの災害でなく、僕がUSBを入れた封筒を宮内庁に届けて、6月16日に宮内庁からUSBを送り返されたが、7月か7月5日の予言で、僕の歴史研究が認められて、世界中の予言の救世主が僕と天皇陛下(天皇家)と考えられる。
2025年6月25日に僕は、ホームページのトップページの『信じる事の大切さと利点や欠点』を記して、それを改良・修正して、7月3日にホームページの『現象学と自己認識の再構築』の段落を修正し終えて、これを作成するために僕が生きて、死ぬことを許(ゆる)されず、全人類を導(みちび)く救世主になることを運命付けたと考えられる。

僕は歴史系やオカルト系のユーチューバーのTOLAND VLOGとコヤッキースタジオや東大や京大の考古学科と歴史学科などにもメールして、もし返信メールをもらって、電話番号が分かれば、こちらから再び電話する可能性があって、電話をしない場合もあるはずだが、メールで質問があれば返信して、僕のホームページの史料を詳細に見てほしくて、理解が追い付かなくても不思議でない。
しかし世の中を変えるには、僕の歴史研究の公表が必要で、その手助けに協力してもらえるなら、僕があなた方との関係の構築に動いて、見返りをあまり期待しないでほしいが、対話したら決して後悔させず、圧倒的な超知識を教えられると思う。

ユーチューブのTOLAND VLOGの『ついに開示の時。遥かなる時を超えて��真の歴史�≠ェ分かってきました・・・』は、ホームページの『『君が代』の真実の可能性』の参考史料で、『【戦慄】高良大社が公開した��神秘書�≠フ内容が本気でヤバすぎた・・・』を『水神と海神と土の神様』の参考史料で、『騒ぎになる可能性があります。あくまで自己責任でご覧ください。』と『【八咫烏】伊勢の語り部が隠され続けた日本の歴史について語ります。』を『八咫烏の末裔(まつえい)の話』の参考史料とした。
ユーチューブのコヤッキースタジオの『竹内文書(たけのうちもんじょ)』は、2023年6月10日に初投稿されて、6月13日か14日頃に僕が初めて見て、2つ目と3つ目を一気にいつ見たか不明で、2024年5月20日の午後9時半頃に3つ目を見終えて、ホームページの『竹内文書(たけのうちもんじょ)』の史料が完成した。
僕のメールは、応答するか決めるのに数日かかるはずで、電話番号の記載も任(まか)せるが、僕にユーチューブの知識がなくて、動画に出たこともなくて、ホームページや2冊の著書で対応するため、相談に乗ってほしいとも思う。

信じる事の大切さと利点や欠点
超天才の僕は、弥生時代後期初頭が日本の建国(天皇家誕生)で、弥生時代後期に京都府と淡路島と鳥取県と島根県などで鉄製品が急増して、近畿地方と山陰地方を古代天皇家が統治して、3世紀初頭に九州全土を平定して、3世紀中頃に中部地方から東北地方南部を平定して、全国各地の前方後円墳の出現を説明して、4つの天皇陵と1つの皇居を100%証明して、考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)を合致したと信じる。
また僕は、日本の建国(天皇家誕生)が神武(じんむ)天皇元年(紀元前660年)でなく、崇神(すじん)天皇元年(西暦84年)で、神武(じんむ)天皇から今の天皇陛下まで歴代天皇が126人でなく、11人を除(のぞ)いた合計115人が正しくて、日本神話が実話(現実に起きた出来事)と証明したとも信じる。
さらに僕は、『日本書紀』の神功(じんぐう)皇后時代で、『三国志・魏志倭人伝』の邪馬台国(やまたいこく)が摂政(せっしょう)39年(西暦239年)で、三韓(さんかん)征伐が仲哀(ちゅうあい)天皇9年(西暦320年)で、摂政(せっしょう)52年9月10日(西暦372年10月上旬頃)の七枝刀(ななつさやのたち)が石上(いそのかみ)神宮の国宝の七支刀(しちしとう)で、年代がバラバラで当てにならず、年代の謎(なぞ)を『古代天皇家の年表』の章などで説明して、正しいと信じる。
しかし信じない人は、絶対に認めないが、信じる人が認めて、賛成も反対もあって当然で、信じるか信じないか判断する人の自由で、神様を信じる人が神様の存在を認めて、神様を信じない人が神様の存在を認めなくて、信仰心が神様を存在させて、2025年7月の予言を信じるのも、信じるか信じないで、世界中の人々の一部が僕の歴史研究の内容を信じて、目覚(めざ)める瞬間を迎(むか)えるだろう。

超天才の僕は、神道の正体が伊勢(古代天皇家)と出雲(物部(もののべ)氏)に大別して、神様の正体も天津神(あまつがみ;天上の神々:古代天皇家)と国津神(くにつがみ;地上の神々:物部(もののべ)氏)に大別して、邪馬台国(やまたいこく)の古代天皇家と出雲王国(物部(もののべ)氏)など、全て古代天皇家と物部(もののべ)氏が合致すると信じる。
また僕は、300才近く生きた武内宿禰(たけのうちのすくね)が実在して、西暦235年に初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)が生まれて、西暦499年1月頃に8代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の平群真鳥(へぐりのまとり)が戦死して、2020年1月13日に73代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の竹内睦泰(たけうちむつひろ)氏が亡くなって、僕が歴代の武内宿禰(たけのうちのすくね)が生きた年代を求めて、長生きの謎(なぞ)を解明したと信じる。
さらに僕は、『高良玉垂宮神秘書(こうらたまたれぐうしんぴしょ)』で、神武(じんむ)天皇と武内宿禰(たけのうちのすくね)が同世代と記して、神武(じんむ)天皇が実在した初代・崇神(すじん)天皇と5代目・仁徳(にんとく)天皇を祖先化して、仁徳(にんとく)天皇元年1月3日(西暦334年2月上旬頃)に左大臣で、98歳の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)が仁徳(にんとく)天皇に皇位を譲渡して、5代目天皇に即位して、証明したと信じる。
超天才の僕は、邪馬台国(大和国;やまとこく)の王都と勘違いした北九州の吉野ヶ里(よしのがり)遺跡を否定して、僕が分析・研究した結果が重要で、世界中の誰にもできない神技(かみわざ)で、考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)で、証明したと信じる。
僕は天皇家(皇族)を讃(たた)えて叩(たた)いて、醜(みにく)いから憎み(にくみ)、桜(さくら)だから腐ら(くさら)せて、戦(いくさ)が臭い(くさい)のが血生臭(ちなまぐさ)いからで、闇(やみ)が宮(みや)で祈(いの)って、綺麗(きれい)だから冷気(れいき)で、美(うつく)しいから苦痛(くつう)で、言葉に言霊(ことだま;言葉の霊魂)が宿(やど)って共通して、尊敬と軽蔑(けいべつ)が対立する。

人間の考え方は、正しいか間違いかの究極の二択が信じるか信じないか、存在するか存在しないか、戦争と平和、対立と共存など相対する物事が共通して、この図式を根本的に定義したのが現代哲学理論「現象学」だが、そもそも「現象学」を信じない人間が存在して、そもそも応神(おうじん)天皇や仁徳(にんとく)天皇などの実在性を疑問視する理由も説明して、僕のホームページの『現象学と自己認識の再構築』などを詳細に見てほしい。
現代哲学理論「現象学」は、常識(当たり前)を根本的に疑(うたが)って、僕が常識・固定観念・先入観・理屈・伝統・拡大解釈に捕らわれず、伝統的な物の考え方や見方をやめて、自分の意識が世界を見せて、「記紀」の嘘(うそ)・偽(いつわ)りの歴史に気付いて、僕の自論を超展開し続けて、今の一大理論に至った。
テレビを初めて見た猿や幼児は、箱の中に何かあると錯覚して、テレビに触れたり裏に回るのが「思い込み」で、「思い込み」の偉大な効果がプラシーボ効果などだが、車の運転が「思い込み」で、交通事故を起こして、邪馬台国(やまたいこく)論争で、考古学界の統一見解で間違いないと言われた北九州4ヶ国(北九州の属国)の定説を国民が信じ込んだ「思い込み」の間違いで、超天才の僕の自論で打ち破った。
25個の箱は、「思い込み」である時、白い24個の箱が普通の意識で、真ん中に残る黒い一つの箱が「純粋意識」なら、白い24個の箱が凡人(僕以外の人間)の雑多の情報で、真ん中に残る黒い一つの箱が僕の自論で、他人の意識に流されずに作った。
人間の「思い込み」は、正しいか間違いか信じる事も、「確信(固く信じて疑(うたが)わないこと)」であって、僕の頭の中でやる「思い込み」の排除法の「自己認識の再構築」に発展して、それが僕の考え方が超天才になった理由の一つで、ここまでが現代哲学理論「現象学」の説明である。
僕の歴史研究の成果は、あくまで僕一個人の意見で、正しいか間違いか信じるのが皇族や一般人など、赤の他人の個人的な判断で、それを取り締まるのが可笑(おか)しな話で、人間の認識力や判断力そのものを自分で高めて、僕の偉大さが規格外である。

僕たちが「人を信じる」と言う言葉を使う時は、多くの場合が「信用」や「信頼」に近い意味で、「信用」や「信頼」が作り上げたり、何らかの条件がある場合が多いように思えて、本当の意味での「信じる」が無条件に信じる事と考えて、他人が「言うことを聞かない」や「約束を守らない」などで信じなくて、自分が「信じる」に条件付けしたようである。
「信じる」は、親子関係やあらゆる人間関係に共通して、「仏様みたいな心境にはなれない」とか、「そう言われても僕は自分を信じられない」と言う人もいるが、人の可能性が無限大で、一瞬先に何が起こるか誰にも分からなくて、「信じたもん勝ち」で、自分の家族も友人も、まだ出会ってない人のことも、全力で信じて、無条件に信じる事が大切である。
「信じる者は救われる」とは、よく言った物で、小さい子供の頃から、神様を信じる者が神様の加護を受けて、信じる心を大切にしなさいと教えられて、神様が全ての者に等(ひと)しい愛を与(あた)えて、思いの強さの度合いで、自分たちが望む物より、信じる物の方が大きくて、信じる物が強い人ほど、幸福などを引き寄せるのだろう。
人間の「思い込み」は、「確信(固く信じて疑(うたが)わないこと)」で、出雲の国譲(くにゆず)り神話が戦争でなく、調和が現代日本人の生き方にまで受け継いで、出雲神話の精神が現代日本まで生きると信じて、大切な日本人の和(わ;平和)の心で、全てを包み込む思いの顕現(けんげん)である。

人を信じる事の利点は、成長スピードが上がる事、人間関係が良好になる事、孤独感から解放されることの3点で、人を信じる事の欠点が「人を信じると騙(だま)される」とよく聞くが、人を信じても信じなくても騙(だま)されて、人を疑(うたが)う人ほど騙(だま)されて、人を疑(うたが)う人が「これが正しくて、これが間違い」みたいに100を聞いて、そのうちの30が正しいみたいに判断して、人の事を疑(うたが)って、自分の判断を疑(うたが)わないためである。
しかし僕は、中学生頃から自己矛盾を抱えて、中国の故事の矛盾(パラドックス)が僕にコペルニクス的転回(非常識な考え方の集合体)を持たせて、僕の考え方がコペルニクス的転回…地動説と進化論と相対性理論などの高度な考え方と同類で、歴史研究の中で、自分の判断を根本的に正しいか間違いか疑(うたが)って、根本的に僕が凡人(僕以外の人間)と違う超次元の考え方だった。
僕を根本的に理解してない凡人(僕以外の人間)は、超天才の僕がここまで違いを示して、ようやく僕の歴史研究の公表を受け止めて、その事態の重さや意味・価値に気付いて、僕の偉大さが決定的な神レベルの差で、一生かけても決して及(およ)ばない聖域と思い知るだろう。

母の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)は、息子の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと;誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)を神格化)を日向(ひうが;宮崎県)に天孫降臨させた神話で、皇孫(瓊瓊杵尊;ににぎのみこと)が就(つ)きて治(し)らせと記して、調和や統合で直(なお)して、知りなさいなどと解釈される。
『日本書紀』の実在した初代天皇・崇神(すじん)天皇の「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」は、初代天皇の称号で、「初国治(はつくにし)らす天皇(すめらみこと)」と書き直して、調和や統合や和合で直(なお)して、知りなさいなどと解釈して、上皇様も自発的に治(し)らすを学んで、国民の様子を知って寄り添(そ)われて、今の天皇陛下や皇族もそれを受け継いで、これが日本人の和(わ;平和)の心である。
日本人の和(わ;平和)の心は、出雲の国譲(くにゆず)り神話や日向(ひうが;宮崎県)の天孫降臨神話など、日本神話の精神を現代日本人が受け継いで、日本人の命や魂の叫(さけ)びが世界中の人々に広がって、平和を願う純粋な思いを訴(うった)えて、世界中で平和を実現しようと国々や人々が動くだろう。

神様の存在証明と完全解釈
日本神話の神様は、実在した物と人物を神格化したと100%証明して、つまり世界中の神々が作り物の可能性が高くて、神様が存在しないと完全に証明できなくて、宗教革命を起こして、僕の歴史研究の公表が圧倒的な混乱を生み出すが、史実・真実・事実を追求する人類史に新しい1ページを書き加える。
実在した物と人物を神格化したのは、神様が存在すると思えば存在して、神様が存在しないと思えば存在しなくて、矛盾する理論が結論で、神様が存在するか存在しないか、信じる人々の思いに現れる。

日本神話の神々は、超天才の僕だけが個々の共通性を見つけて、同一人物か別人を神格化したと特定して、確実に同一神か別神と説明できる僕の超感性が特別で、その特徴や系図などの関連性を示して、系図を兄弟や夫婦や男女などに逆転させたり、ワザと隠しても僕が違和感を覚えて、一つ一つ潰(つぶ)して行く作業を数秒から20年以上の時間で求めた。
日本神話の神々の神格化は、例(たと)えば親子を神格化しても、兄弟や先祖と子孫とか、同一神や別神としたり、無関係の神様などにするが、古代天皇家の実話と同様の手法で、実在の人物も僕が親子や他人などの関係性を証明して、超天才の僕が特定し続けて、凡人(僕以外の人間)が参考にする教本を作った。
この神技(かみわざ)は、言葉で簡単に表現できない物で、現実に実行する事があまりに困難で、22年半以上の歴史研究で、圧倒的に蓄積して、生み出した僕の成功体験で、僕と同等の神技(かみわざ)を同レベルで経験して、初めて生まれる超頭脳(超感覚)と考えられて、決して作り出せない聖域である。

僕は2002年10月頃に歴史研究を始めて、最初に黄泉国下(よみのくにくだ)り神話が2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(『三国志・魏志倭人伝』の倭国大乱(わこくたいらん)と特定して、2012年1月に出雲王国(物部(もののべ)氏)を特定して、2024年4月4日に出雲の建国神話(出雲の国引き神話)を特定して、2025年6月10日頃から出雲大社の記述を大幅に修正して、20年以上も出雲に縁(えん)がある。
天岩戸隠(あまのいわとかく)れ神話は、父方のアマテラス(倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)と母方のアマテラス(神功(じんぐう)皇后)を神格化)の交代で、最終的にスサノオ(日本武(やまとたけ)天皇)を神格化)を処罰(しょばつ)して、ヤマタノオロチ退治神話がスサノオ(日本武(やまとたけ)天皇)を神格化)の蛇体の古代太陽神殺しが正しくて、日本神話を超天才の僕が全て解明した。

神格化の理論的な実例
古代太陽神の天照神(あまてるかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、子孫の父方の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)が彦坐王(ひこいますのみこ)を始祖(しそ;始まりの先祖)とする古代太陽神氏族の和珥(わに)氏(物部(もののべ)氏を含む)の出身で、同じく子孫の母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)が物部(もののべ)氏の出身である。
彦坐王(ひこいますのみこ)と袁祁都比売命(おけつひめのみこと)は、長男の山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)を生んで、その子孫を省略して、山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)と大筒木垂根王(おおつつきたるねのみこ)が同一人物で、超天才の僕を騙(だま)せない。
比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)と名前不明の妻は、大筒木垂根王(おおつつきたるねのみこ)を生んで、名前不明の妻との間に樺井月姫(かばいつきひめ)を生んで、垂仁(すいにん)天皇と結婚して、一人娘の倭姫命(やまとひめのみこと)を生んで、3つ子の長子と考えられて、和珥(わに)氏の出身である。
孝霊(こうれい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)と倭国香姫(やまとくにかひめ;樺井月姫(かばいつきひめ)を祖先化)は、3つ子の長子の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと;倭姫命(やまとひめのみこと)を祖先化)を生んで、蛇神で古代太陽神の大物主神(おおものぬしのかみ)と結婚して、倭姫命(やまとひめのみこと)が太陽神に仕(つか)える巫女(みこ)である。

彦坐王(ひこいますのみこ)と沙本之大闇見戸女(さほのおおくらみとめ)は、息子の狭穂彦王(さほひこのみこ)を生んで、名前不明の妻との間に高田媛(たかだひめ)を生んで、景行(けいこう)天皇と結婚して、長男の武虎別皇子(たけこわけのみこ)を生んで、葛城高額媛(かつらぎのたかぬかひめ)との間に娘の神功(じんぐう)皇后を生んで、物部(もののべ)氏の出身で、系図を理論的に繋(つな)いで、詳細な説明を省略する。
彦坐王(ひこいますのみこ)の息子の山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)は、息子が加邇米雷王(かにめいかずちのみこ)で、その息子が息長宿禰王(いきながすくねのみこ)で、その娘が神功(じんぐう)皇后で、山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)と狭穂彦王(さほひこのみこ)を入れ替えて、血筋を求められないように偽装工作したが、逆に僕が不信感を抱(いだ)いて特定した。
彦坐王(ひこいますのみこ)の息子の狭穂彦王(さほひこのみこ)は、垂仁(すいにん)天皇に反乱(皇位継承権争い)して、物部(もののべ)氏の安倍氏木事(あべうじのこごと)の娘である高田媛(たかだひめ)が景行(けいこう)天皇と結婚して、息子の武虎別皇子(たけこわけのみこ)を生んで、彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫の息長宿禰王(いきながすくねのみこ)が天日槍(あめのひぼこ)の子孫の葛城高額媛(かつらぎのたかぬかひめ)と結婚して、娘の神功(じんぐう)皇后を生むなど、系図を繋(つな)ぐ理由を省略する。
先祖の彦坐王(ひこいますのみこ)は、複数の蛇体や男性の古代太陽神に神格化して、子孫の倭姫命(やまとひめのみこと)と神功(じんぐう)皇后が現在の女性の太陽神1神に神格化して、正史(正しい歴史)だから先祖と子孫の血筋が合致して、全てを特定した超天才の僕の神技(かみわざ)が凄(すご)すぎて、2025年6月18日の午前6時20分頃に修正した。

出雲王家(物部(もののべ)氏)は、古代太陽神や水神や海神や雷神や火の神様や土の神様に神格化して、ここまで多く神格化した理由が物部(もののべ)氏の重要性で、それを超天才の僕が圧倒的に研究・分析して、証明した成果が凄(すご)すぎる。
島根県松江市の熊野大社は、火の始まりの神社で、祭神の神祖熊野大神櫛御気野命(かぶろぎくまののおおかみくしみけののみこと)が火の属性で、神祖(かぶろぎ)が神聖な先祖の意味で、始祖(始まりの先祖)の2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)と熊野久須毘命(くまのくすびのみこと;少彦男心命(すくなひこおこころのみこと)を神格化)が同一神で、3人が先祖と子孫である。
島根県で出雲大社より格上の社格の熊野大社は、出雲大社と別の系統(火の属性)の神社で、出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏(物部(もののべ)氏と同族)を火の神様に神格化して祭って、始祖(しそ;始まりの先祖)の彦坐王(ひこいますのみこ)を氏神(うじがみ;一族の祖先神)とする総本社と考えられて、出雲大社よりも格上の社格が説明できる。

女系男子天皇と女系天皇と女性天皇などの問題
現在の皇室は、父方のアマテラス(倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)の子孫だが、生涯独身で子孫がいなくて、母方のアマテラス(神功(じんぐう)皇后を神格化)が現在の皇祖神(こうそしん;皇族の祖先神)で、孫の仁徳(にんとく)天皇の子孫が途絶(とだ)えて、神功(じんぐう)皇后から9世代から11世代ほどの子孫の継体(けいたい)天皇から今の天皇陛下まで、血筋が途絶(とだ)えない女系男子天皇と伝える。
男性の古代太陽神のアマテルカミ(天照神;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、子孫を女王と勘違いした卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)と台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后で、彦坐王(ひこいますのみこ)と倭姫命(やまとひめのみこと)と神功(じんぐう)皇后の3人だけが天照(あまてる;あまてらす)の称号の太陽神と最高神に神格化することを許された。

母方のアマテラス(神功(じんぐう)皇后を神格化)の女系男子天皇は、継体(けいたい)天皇から今の天皇陛下まで、血筋が途絶(とだ)えずに続いて、女系天皇と女性天皇と女性宮家が今の皇室が向き合う問題で今後の皇統を維持するため、日本人の多くが天皇家の存続を望んで、日本国政府や国民などの意見を尊重して、決して避けて通れない大問題である。
5代目の仁徳(にんとく)天皇から114代目の今の天皇陛下までは、母方のアマテラス(神功(じんぐう)皇后を神格化)の女系男子天皇で、皇統譜(こうとうふ;皇室の戸籍簿)で、初代の神武(じんむ)天皇(実在した初代天皇の崇神(すじん)天皇を祖先化)から始まる男系男子天皇より、神様の女系男子天皇の方が古くて、その正統性を尊重する必要がある。
国政執行した摂政(せっしょう;天皇に代わって政治する役職)の神功(じんぐう)皇后と飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)は、女性天皇(女帝)と認定して、神功(じんぐう)天皇と飯豊(いいとよ)天皇と名付けて、歴代天皇に加えるべきで、女系天皇と女性天皇を認める理由になる。
日本神話の神々(母方のアマテラス(神功(じんぐう)皇后を神格化)など)の子孫は、初代天皇の神武(じんむ)天皇(実在した初代の崇神(すじん)天皇を祖先化)の男系男子天皇より女系男子天皇がさらに古いと証明して、女系天皇と女性天皇と女性宮家などの正統性を主張して、多くの国民の声と同じで、僕も愛子様を次期天皇に望む。

時代区分の概念化
縄文時代と弥生時代の区別は、縄文土器と弥生土器の出現の定義が考古学的に崩れて、稲作の始まりが弥生時代の始まりの定義もあやしいとされて、時代区分の定義が難しいらしくて、弥生時代早期から中期の西暦83年までが弥生時代と訂正して、弥生時代後期初頭の西暦84年と古墳時代を区別して、僕の再定義した時代区分を認めるべきと思う。

古墳時代の時代区分は、『前方後円墳と古墳時代の始まり』の章に一任して、初代天皇・崇神(すじん)天皇陵の瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)が古墳時代の始まりで、垂仁(すいにん)天皇元年10月11日(西暦152年11月中旬頃)の崇神(すじん)天皇の葬礼日を始まりにしたいと進言する。
定義があいまいな古墳時代は、考古学会の主流な考え方が3世紀前半に古墳ができて、奈良県で7世紀末から8世紀初頭まで古墳が作られて、飛鳥(あすか)時代と奈良時代を含んで、奈良県と大阪府の前方後円墳が6世紀後半から末頃に衰退して、衰退時期が欽明(きんめい)天皇から崇峻(すしゅん)天皇辺りで、崇峻(すしゅん)天皇の崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)の西暦593年1月とほぼ年代が合致する。
超天才の僕は、前方後円墳の形の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)が弥生時代の墓(はか)で、古墳時代の墓(はか)の前方後円墳と同じ形で、全部を前方後円墳と統一して、崇神(すじん)天皇の葬礼日を古墳時代の始まりと再定義して、日本国政府の名の下に世界中に公表すべきと考える。
2代目天皇・垂仁(すいにん)天皇陵の纏向(まきむく)石塚古墳は、3代目天皇・景行(けいこう)天皇陵の箸墓(はしはか)古墳と共に最古の前方後円墳の説があって、垂仁(すいにん)天皇陵と景行(けいこう)天皇陵が古墳時代の始まりを訂正して、古墳時代の始まりの再定義が必要である。

僕は崇神(すじん)天皇元年1月13日(西暦84年2月中旬頃)の日本の建国(天皇家誕生)から、摂政(せっしょう)69年4月17日(西暦329年5月中旬頃)の神功(じんぐう)皇后の死去日までを大和時代と呼んで、奈良県に皇居があったと考えられて、僕が大和を使うと決めて、弥生時代と古墳時代の時代区分を再定義してほしいと進言する。
ネット検索すると大和時代は、古墳時代の言葉に取って代わられて、ほとんど使われない言葉だから、ある意味で死語と言っても良いかもしれなくて、だから新たな概念化をしても、問題ないと判断した。狭義(きょうぎ;狭(せま)い意味)の大和は、奈良県橿原市と桜井市の付近を指して、飛鳥(あすか)時代の飛鳥(あすか)が奈良県高市郡(たかいちぐん)明日香村(あすかむら)を指して、奈良時代の奈良が奈良市の平城京(へいじょうきょう)を指して、大和国(やまとのくに)が奈良県の全体も指して、日本国も「やまとのくに」と発音して、奈良時代の奈良と奈良県が全く別の意味で、大切な区別である。
邪馬台国(大和国;やまとこく)時代は、垂仁(すいにん)天皇5年6月1日(西暦156年7月上旬頃)の2代目出雲国王である狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(倭国大乱;わこくたいらん)から、摂政(せっしょう)6年(西暦266年)の西晋(せいしん)王朝の遣使(遣西晋使(けんせいしんし;遣隋使や遣唐使に基づいた僕の造語)までで、中途半端な時代区分になるために僕が棄却(ききゃく)した。

倭王(わおう;古代の日本王)時代は、神功(じんぐう)皇后死去日の翌日の神武(じんむ)東征1年(仁徳(にんとく)東征1年)4月18日(西暦329年5月中旬頃)から、武烈(ぶれつ)天皇32年12月8日(西暦507年1月上旬頃)の武烈(ぶれつ)天皇の崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)までで、倭王(わおう)を使うと僕が決めた。
倭(わ;古代日本)の五王は、5人の古代日本の国王を意味して、倭王(わおう;古代の日本王)の賛(讃;さん)が安康(あんこう)天皇で、倭王(わおう)の珍(ちん)が雄略(ゆうりゃく)天皇で、倭王(わおう)の済(さい)が清寧(せいねい)天皇で、倭王(わおう)の興(こう)が顕宗(けんそう)天皇で、倭王(わおう)の武(ぶ)が武烈(ぶれつ)天皇で、超天才の僕が歴代天皇に当たると特定して、倭王(わおう)時代の時代区分を定義付けた。

新朝(しんちょう)時代は、継体(けいたい)天皇元年2月4日(西暦507年3月上旬頃)の継体(けいたい)天皇の即位から、崇峻(すしゅん)天皇5年12月8日(西暦593年1月)の崇峻(すしゅん)天皇の崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)までで、新しい大和朝廷の時代を省略して、僕が新朝(しんちょう)と名付けた。
5代目の仁徳(にんとく)天皇から14代目の武烈(ぶれつ)天皇は、古い古代天皇家の血筋が途絶(とだ)えて、15代目の継体(けいたい)天皇から115代目の今上(きんじょう)天皇(今の天皇陛下)まで、新しい天皇家の血筋を存続すると伝えて、新しい大和朝廷の時代の意味を重複して、意識させる意味もある。

古墳時代の次の飛鳥(あすか)時代は、広義で崇峻(すしゅん)天皇5年12月8日(西暦年に換算すると西暦593年1月)から和銅(わどう)3年(西暦710年)までの118年間を指して、狭義などの説明がややこしくて省略して、飛鳥(あすか)に皇居を置いたことが時代区分の名付けの理由である。

天皇家の名の下に西暦84年から593年までは、何時代と呼ぶか新しく時代区分して、それを広く国民に公表するべきで、2025年6月17日の午後7時40分頃に修正した。

天皇陵と皇居と卑弥呼(ひみこ)の墓(はか)
前方後円墳の形の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)は、築造年代が紀元前3世紀頃(約2200年前)の香川県高松市の高松空港跡地(あとち)遺跡が最古で、文字の記録がない時代に作られて、形の理由が分からなくて、前方後円墳の形が確認された日本最古の実例である。
崇神(すじん)天皇17年10月(西暦100年11月頃)は、四国に向かう船舶(せんぱく;大型の船)を作って、香川県と徳島県を領土にして、約2200年前に築造した高松空港跡地(あとち)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)を確認して、垂仁(すいにん)天皇元年10月11日(西暦152年11月中旬頃)に葬礼した初代天皇・崇神(すじん)天皇陵の瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)に繋(つな)がると考えられる。

孝昭(こうしょう)天皇49年1月1日(西暦49年2月上旬頃)に孝昭(こうしょう)天皇と世襲足姫(よそたりひめ)は、崇神(すじん)天皇を生んで、崇神(すじん)天皇68年12月5日(西暦152年1月上旬頃)に102才で崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、垂仁(すいにん)天皇元年10月11日(西暦152年11月中旬頃)に亡骸(なきがら)を山辺(やまのべ)に葬礼した。
歴代天皇の最高齢は、上皇様の91才だが、僕が初代天皇の崇神(すじん)天皇を102才と求めて、事実上の最高齢を特定して、これが僕の超知識の特定である。
初代天皇・崇神(すじん)天皇陵は、奈良県橿原市城殿町(しきどのちょう)の瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)で、天皇陵だから前方後円墳の形で、全長が約26メートルで、埋葬者が見つからず、2世紀中頃から後半頃の築造年代で、奈良県橿原市の畝傍山(うねびやま)の東南東にあって、皇統譜(こうとうふ;皇室の戸籍簿)で、初代天皇の神武(じんむ)天皇陵が畝傍山(うねびやま)の北北東の四条ミサンザイ古墳で、初代天皇陵が畝傍山(うねびやま)の近くにあると証明した。

崇神(すじん)天皇29年1月1日(西暦112年2月上旬頃)に崇神(すじん)天皇と御井津比売(みいつひめ)は、垂仁(すいにん)天皇を生んで、垂仁(すいにん)天皇39年7月1日(西暦190年8月上旬頃)に78才で崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、垂仁(すいにん)天皇39年12月10日(西暦191年1月上旬頃)に亡骸(なきがら)を菅原伏見(すがわらふしみ)に葬礼した。
纏向(まきむく)石塚古墳は、全長96メートルの前方後円墳で、考古学の主流が築造年代を3世紀前半とするが、超天才の僕が2代目天皇・垂仁(すいにん)天皇陵と確信して、100%覆(くつがえ)せないと考えられる。
垂仁(すいにん)天皇28年11月2日(西暦179年12月上旬頃)に垂仁(すいにん)天皇は、異母兄の倭彦命(やまとひこのみこと)を所在地不明の陵墓に葬礼して、後で殉死(じゅんし;主人の後を追って、従者を生き埋(う)めにすること)を禁止して、垂仁(すいにん)天皇39年8月16日(西暦190年9月中旬頃)の夜に垂仁(すいにん)天皇陵に埴輪(はにわ)を立てて、殉死者(じゅんししゃ)の代わりに古墳の埴輪を立てた。

2世紀後半の岡山県の特殊器台土器は、2代目天皇・垂仁(すいにん)天皇陵の纏向(まきむく)石塚古墳で、出土した最古の土師器(はじき)が最古の埴輪(はにわ)と考えられて、土師器(はじき)が埴輪(はにわ)の一種で、3代目天皇・景行(けいこう)天皇陵の箸墓(はしはか)古墳で、最古の特殊器台埴輪(はにわ)が出土して、岡山県の特殊器台土器と最古の特殊器台埴輪(はにわ)が考古学的に繋(つな)がって、殉死(じゅんし)と埴輪(はにわ)を証明した。

景行(けいこう)天皇4年11月1日(西暦194年12月上旬頃)に景行(けいこう)天皇は、新しい皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)の纏向(まきむく)遺跡に入って、景行(けいこう)天皇58年2月11日(西暦248年3月中旬頃)に景行(けいこう)天皇が近江国(おうみのくに;滋賀県)の皇居の志賀高穴穂宮(しがたかあなほのみや)を建てて、この時に纏向(まきむく)遺跡が皇居でなくなった。
景行(けいこう)天皇の子孫の仁徳(にんとく)天皇は、仁徳(にんとく)天皇元年1月3日(西暦334年2月上旬頃)に5代目天皇に即位して、その後に皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)が放棄されて、2世紀末から4世紀前半の纏向(まきむく)遺跡の時期を考古学(遺跡・遺物)で証明して、僕のホームページで、皇居の証拠を見てほしい。

垂仁(すいにん)天皇20年の真冬(西暦171年1月頃)に垂仁(すいにん)天皇と日葉酢媛(ひばすひめ)は、景行(けいこう)天皇を生んで、景行(けいこう)天皇60年11月7日(西暦250年12月上旬頃)に79才で崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、仲哀(ちゅうあい)天皇元年11月10日(西暦252年12月上旬頃)か仲哀(ちゅうあい)天皇2年11月10日(西暦253年12月上旬頃)に亡骸(なきがら)を山辺道上陵(やまのべみちうえのみささぎ)に葬礼した。
3代目天皇・景行(けいこう)天皇陵の箸墓(はしはか)古墳は、宮内庁指定の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと;倭姫命(やまとひめのみこと)を祖先化)陵だが、『三国志・魏志倭人伝』に卑弥呼(ひみこ)の男弟(だんてい)がいて、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)の男弟(だんてい;異母弟)である景行(けいこう)天皇陵が正しくて、卑弥呼(ひみこ)と台与(とよ)が女王でない。
古代中国の魏(ぎ)王朝時代の直径百歩余り(約144メートル)は、箸墓(はしはか)古墳の後円部160メートルで、前方後円墳の全長280メートルを古代天皇家が伝えなくて、魏(ぎ)王朝の薄葬(はくそう)思想(墓(はか)を小さく作る考え方)を知って、箸墓(はしはか)古墳の全長を小さめに報告して、『三国志・魏志倭人伝』の現代日本語訳が誤解だらけで、おかしくないと考えられる。

初代天皇・崇神(すじん)天皇陵は、瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)の全長が約26メートルで、2代目天皇・垂仁(すいにん)天皇陵の纏向(まきむく)石塚古墳が全長96メートルで、3代目天皇・景行(けいこう)天皇陵の箸墓(はしはか)古墳が全長280メートルで、3つ共に前方後円墳の形で、どんどん巨大化して、古代天皇家の勢力拡大を証明した。

女王国の卑弥呼(ひみこ)は、伊勢国(三重県中部)の斎王(さいおう;太陽神に仕(つか)える未婚の皇女)の倭姫命(やまとひめのみこと)で、邪馬台国(大和国;やまとこく)と女王国(伊勢国;三重県中部)が隣国で、間違った認識を生みやすくて、天皇不在の年10月22日(西暦251年11月下旬頃)に葬礼した倭姫命(やまとひめのみこと)の墓(はか)が三重県伊勢市の形が分からない古墳である。

仁徳(にんとく)天皇67年10月5日(西暦379年11月上旬頃)に仁徳(にんとく)天皇陵は、土地を定めて、10月18日(西暦379年11月中旬頃)に天皇陵を築造し始めて、仁徳(にんとく)天皇87年1月16日(西暦399年2月中旬頃)に仁徳(にんとく)天皇が崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、10月7日(西暦399年11月上旬頃)に仁徳(にんとく)天皇陵の大仙(だいせん)古墳に葬礼して、全部が嘘(うそ)である。
正しく求めると仁徳(にんとく)天皇は、応神(おうじん)天皇16年頃(正しくは摂政(せっしょう)25年頃;西暦285年頃)に生まれて、仁徳(にんとく)天皇34年1月16日(西暦367年2月中旬頃)に崩御(ほうぎょ)して、仁徳(にんとく)天皇34年10月7日(西暦367年11月上旬頃)に柳本(やなぎもと)古墳群か佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群などの前方後円墳に葬礼したと考えられる。

生年月日不明な安康(あんこう)天皇は、安康(あんこう)天皇16年10月5日(西暦410年11月上旬頃)に天皇陵の土地を定めて、10月18日(西暦410年11月中旬頃)に天皇陵の築造が始まって、安康(あんこう)天皇34年8月9日(西暦427年9月上旬頃)に眉輪王(まゆわのおおきみ)に殺されて、清寧(せいねい)天皇元年(西暦430年)に9代目・安康(あんこう)天皇陵の大仙(だいせん)古墳に葬礼した。
大仙(だいせん)古墳の本当の埋葬者は、5代目天皇の仁徳(にんとく)天皇でなくて、仁徳(にんとく)天皇の孫で、9代目天皇の安康(あんこう)天皇が100%正しくて、『古事記』の干支年(かんしねん)の崩年干支(ほうねんかんし)などで確信した。
仁徳(にんとく)天皇陵の大仙(だいせん)古墳は、大山(だいせん)古墳や大仙陵(だいせんりょう)古墳などとも呼んで、大阪府堺市(さかいし)の百舌鳥(もず)古墳群に属して、5世紀前半から中頃が築造年代の前方後円墳で、日本一大きい古墳と前方後円墳で、始皇帝陵やクフ王のピラミッドよりも、面積の大きい世界最大の墳墓で、ギネス記録でなくて、ホームページの『仁徳(にんとく)天皇陵は本物か?』の章を見てほしい。

僕は日本の建国(天皇家誕生)と古墳時代の始まりなどを西暦年月で求めて、西暦年月日を特定できなくて、実在する天皇陵4つと皇居1つを100%証明して、専門家(考古学会と歴史学会)が求めた天皇陵が確実な証拠を示せず、これが超天才の僕と専門家の決定的な差である。

邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の議論と考古学
邪馬台国(やまたいこく)論争は、邪馬台国(やまとこく)か邪馬壱国(やまいちこく)か、女王と勘違いした台与(とよ)か壱与(いちよ)の発音などの問題、邪馬台国(大和国;やまとこく)時代が古代天皇家かなど、超天才の僕が100%完全に決着した。
邪馬台国(大和国;やまとこく)時代は、垂仁(すいにん)天皇5年6月1日(西暦156年7月上旬頃)の2代目出雲国王である狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(倭国大乱;わこくたいらん)から摂政(せっしょう)6年(西暦266年)に神功(じんぐう)皇后が西晋(せいしん)王朝の泰始(たいし)2年(西暦266年)に遣使(遣西晋使;けんせいしんし;遣隋使や遣唐使に基づく僕の造語)した時までで、合計111年である。

景行(けいこう)天皇12年9月5日(西暦202年10月上旬頃)に景行(けいこう)天皇は、山口県の婆麼(さば;防府市佐波か?)に行って、九州の様子をうかがわせて、九州全土を平定して、景行(けいこう)天皇19年9月8日(西暦209年10月上旬頃)に景行(けいこう)天皇が九州から帰還して、皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)の纏向(まきむく)遺跡に戻った。
古代中国の『後漢書』は、女王国(伊勢国;三重県中部)から、西に渡海して千里余りで、南九州にある拘奴国(くぬこく)の熊襲(くまそ)王国に至ると記して、邪馬台国(やまたいこく)や女王国と陸続きでなく、拘奴国(くぬこく)が『三国志・魏志倭人伝』の狗奴国(くぬこく)と同一国である。
景行(けいこう)天皇18年4月(西暦208年5月)は、熊の県(あがた;熊本県球磨(くま)郡)を平定して、景行(けいこう)天皇18年5月(西暦208年6月頃)に襲国(そのくに;鹿児島曽於(そお)郡)を平定して、熊本県球磨(くま)郡と鹿児島曽於(そお)郡を合わせて、拘奴国(狗奴国;くぬこく)の熊襲(くまそ)王国である。

福岡市の那珂八幡(なかはちまん)古墳は、3世紀中頃の築造の前方後円墳で、九州で一番古い前方後円墳でもあって、3世紀初頭(西暦202年から209年)の九州全土の平定より後に作られた考古学的証拠である。
邪馬台国(大和国;やまとこく)の王都と勘違いした佐賀県神埼(かんざき)郡の吉野ヶ里(よしのがり)遺跡は、2023年4月に出土した石棺墓(せっかんぼ)が有力者の墓(はか)で、北九州の統治者の国造(くにみやつこ;国主)か県主(あがたぬし)の可能性があって、傷ついた人骨が九州平定の戦死者の可能性が考えられる。
景行(けいこう)天皇18年5月(西暦208年6月頃)に熊襲(くまそ)王国(熊本県球磨(くま)郡と鹿児島曽於(そお)郡と宮崎県の連合国)は、古代天皇家が屈服させて、代官を置いて監視して、景行(けいこう)天皇57年12月(248年1月頃)に熊襲(くまそ)王国が滅亡した。

景行(けいこう)天皇60年10月2日(西暦250年11月上旬頃)に皇太子の日本武尊(やまとたけのみこと)は、東海平定の総大将で、日本武尊(やまとたけのみこと)の異母弟の武虎別皇子(たけこわけのみこ)が北陸平定の総大将で、仲哀(ちゅうあい)天皇3年9月30日(西暦254年10月下旬頃)に東国平定の将軍たちが仲哀(ちゅうあい)天皇の皇居(おそらく京都府宮津市の丹波由良宮(たんばゆらのみや)に帰還して、平定が終了した。
皇太子の日本武尊(やまとたけのみこと)は、天皇不在の年8月4日(西暦251年9月上旬頃)に三種の神器を強奪して、皇族に認められない日本武(やまとたけ)天皇に強行即位して、息子の仲哀(ちゅうあい)天皇と対立して、11月4日(西暦251年12月上旬頃)に反乱(皇位継承権争い)に協力した別の息子(異母弟)の蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)が山城(京都府南部)で戦死して、日本武(やまとたけ)天皇が仲哀(ちゅうあい)天皇元年2月8日(西暦252年3月上旬頃)に出雲王国(物部(もののべ)氏)に亡命した。

東北地方南部の宮城県は、『ホツマツタエ』や「記紀」の日本武尊(やまとたけのみこと)が平定した土地で、宮城県に3世紀後半から4世紀前半の古墳があって、仲哀(ちゅうあい)天皇5年9月(西暦256年10月頃)に日本各地の国造(くにみやつこ;国主)を任命して、考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)が合致した。
時期不明の1世紀中頃は、美濃(みの;岐阜県南部)を領土にして、岐阜県揖斐郡(いびぐん)大野町の前方後円墳の笹山(ささやま)古墳が西暦200年頃の築造で、仲哀(ちゅうあい)天皇3年7月頃(西暦254年8月頃)に飛騨(ひだ;岐阜県北部)を領土にして、飛騨(ひだ)最古の前方後円墳が4世紀後半から5世紀中頃の三日町大塚(みっかまちおおつか)古墳と考えられる。
福島県(東北地方南部)の前方後円墳の杵ヶ森(きねがもり)古墳は、3世紀末から4世紀初頭の築造で、石背国造(いわせくにみやつこ)の建彌依米命(たけみよりまいのみこと)か阿尺国造(あさかくにみやつこ)の比止彌命(ひとみのみこと)が古墳埋葬者と考えられる。
千葉県の前方後円墳の神門(ごうど)3・4・5号墳は、3世紀後半の築造で、菊麻国造(きくまくにみやつこ)の大鹿国直(おおかくにのあたい)か上海上国造(かみうなかみくにみやつこ)の忍立化多比命(おしたちかたひのみこと)の一族が古墳埋葬者と考えられる。長野県の前方後円墳の高遠山(たかとおやま)古墳は、4世紀前半の前方後円墳で、三野後国造(みののみちのしりくにみやつこ)の臣賀夫良命(おみかぶらのみこと)が古墳埋葬者と考えられる。

他にも邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の考古学的証拠は、多く存在するが、ここまでにする。

倭(わ)の五王
『宋書』は、倭王(わおう;古代の日本王)の讃(さん)の弟を珍(ちん)で、済(せい)との血縁関係が分からなくて、世子(せいし;世継ぎ)の興(こう)の弟が武(ぶ)で、これが倭(わ;古代日本)の五王の血縁関係である。
歴史学界(歴史書解釈)の定説は、讃(さん)が応神(おうじん)天皇から履中(りちゅう)天皇で、弟の珍(ちん)が反正(はんぜい)天皇で、血縁関係の分からない済(せい)が允恭(いんぎょう)天皇で、世子(せいし;世継ぎ)の興(こう)が安康(あんこう)天皇で、弟の武(ぶ)が雄略(ゆうりゃく)天皇と勘違いして、100%間違いである。
僕の自論は、讃(さん)の安康(あんこう)天皇の弟が珍(ちん)の雄略(ゆうりゃく)天皇で、息子の清寧(せいねい)天皇が血縁関係の分からない済(せい)で、血縁断絶して、世子(せいし;世継ぎ)の興(こう)が顕宗(けんそう)天皇で、弟の武(ぶ)が甥(おい)の武烈(ぶれつ)天皇で、100%正しい。

東晋(とうしん)王朝の義煕(ぎき)9年(西暦413年)は、安康(あんこう)天皇20年(西暦413年)で、南朝宋(そう)王朝の永初(えいしょ)2年(西暦421年)が安康(あんこう)天皇28年(西暦421年)で、南朝宋(そう)王朝の元嘉(げんか)2年(西暦425年)が安康(あんこう)天皇32年(西暦425年)である。
南朝宋(そう)王朝の元嘉(げんか)20年(西暦443年)は、清寧(せいねい)天皇14年(西暦443年)で、南朝宋(そう)王朝の元嘉(げんか)28年(西暦451年)が清寧(せいねい)天皇22年(西暦451年)で、南朝宋(そう)王朝の大明(だいめい)6年(西暦462年)が顕宗(けんそう)天皇5年(西暦462年)である。
南朝宋(そう)王朝の昇明(しょうめい)2年(西暦478年)は、武烈(ぶれつ)天皇4年(西暦478年)で、南朝斉(せい)王朝の建元(けんげん)元年(西暦479年)が武烈(ぶれつ)天皇5年(西暦479年)で、南朝梁(りょう)王朝の天監(てんかん)元年(西暦502年)が武烈(ぶれつ)天皇28年(西暦502年)で、倭(わ)の五王の終わりである。
僕は倭(わ)の五王をあまり多く求めず、ホームページも史料が少ないが、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の史料が充実して、100%正しい。

多くの参考史料は、ホームページを参照して、省略させてもらう。

〒620−0952 京都府福知山市大門505 芦田 真也
芦田真也のホームページ http://www.shinyash.jp/


この送信メールは、ユーチューブ動画のTOLAND VLOGと同じくユーチューブ動画のコヤッキースタジオと東京大学(東大)の3ヶ所は、2025年7月3日(木)の午前3時44分から、午前3時51分までメール送信した。

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