決着した古代天皇家の歴史(これが送信メールのタイトル(題名)である)

僕の成果と称号
僕は世界でただ一人の日本神話を完全解釈した人間で、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争と倭(わ)の五王も完全にひもといた超天才で、2冊の著書や僕のホームページなどで完全に証明して、色々な所にメールしたが、まだ火種が付いてない。
僕はアインシュタイン博士以上の超天才で、現代哲学理論「現象学」を証明した哲学者で、ノーベル物理学賞受賞者の中村修二博士と良く似た考え方で、歴史研究…古代天皇家の歴史を完全に証明した歴史家で、日本神話の神々を求めた意味で、神様に最も近い人間で、圧倒的な神学者でもあって、多くの称号を持つ。

戦前と現代の歴史教科書
戦前の歴史教科書の国史は、最初にイザナギとイザナミの夫婦神が登場して、現代の歴史教科書の日本史が最初に卑弥呼(ひみこ)が登場して、垂仁(すいにん)天皇12年(西暦163年)生まれの卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)よりも、実在した初代天皇の崇神(すじん)天皇元年(西暦84年)が日本の建国(天皇家誕生)で、さらに古いと超天才の僕が証明して、これが本当の歴史である。
世界中の歴史教科書は、神話から教えるのが普通で、現代の日本史の教科書がGHQの作った紛(まが)い物で、現代の小中学生たちが初代天皇を女王の卑弥呼(ひみこ)と勘違いして、僕が求めた初代天皇を崇神(すじん)天皇に修正して、日本神話も含めて教える歴史教科書に転換して、それを国是(こくぜ)とする日本国政府の大革命が必要である。

僕の超越した能力の真価
僕の神様の認識力や分析力などは、人類史上の最大最強最高最速で、最大が日本神話の神々を最も大規模に求めて、最強が日本神話の神々を最も強く認識して、最高が日本神話の神々を最も高いレベルで求めて、最速が日本神話の神々を最も速く求めて、数秒から数分で求める。
しかし僕は、2002年10月頃に歴史研究を始めて、後に出雲神話の特定を開始して、2012年1月に出雲王国(物部(もののべ)氏)を特定して、2024年4月4日に出雲の建国神話(出雲の国引き神話)を特定して、2025年6月10日頃から出雲大社の記述を大幅に修正して、20年以上の時間がかかって、数秒から20年以上の時間のバラつきがある。
2002年10月頃に僕は、「記紀」の現代語訳本を買って、数日後に『日本書紀』の黄泉国下(よみのくにくだ)り神話と『古事記』の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(倭国大乱;わこくたいらん)を合致して、数日でイザナギとイザナミとカグツチの3神が実在の人物を神格化したと100%証明して、日本神話の神々の領域…神域を求めた意味で、神様に最も近い人間になって、22年半以上も自分の認識力や分析力などをレベルアップして、誰にもできない神技(かみわざ)の中の神技(かみわざ)である。
天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと;崇神(すじん)天皇を神格化)の息子の伊弉諾尊(いざなぎのみこと;垂仁(すいにん)天皇を神格化)は、娘と息子が天照大神(あまてらすおおみかみ;異母姉の倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)と月読尊(つくよみのみこと;異母弟の景行(けいこう)天皇を神格化)と証明して、2023年6月7日の午前9時頃に僕がネット検索で、中世哲学の神様の存在証明を知って、理論的に初めて神様の存在証明をした。

神道と神様の種類
神道の種類は、伊勢(古代天皇家)と出雲(物部(もののべ)氏)に大別して、神様の種類も、高天原(たかまがはら)系の天津神(あまつがみ;天上の神々:古代天皇家)と豊葦原国(とよあしはらのくに)系の国津神(くにつがみ;地上の神々:物部(もののべ)氏)に大別して、そもそもの混乱の原因がこれらの曖昧(あいまい)な区別である。
邪馬台国(大和国;やまとこく)は、古代天皇家で、出雲王国が物部(もののべ)氏で、崇神(すじん)天皇元年1月13日(西暦84年2月中旬頃)が日本の建国(天皇家誕生)で、崇神(すじん)天皇12年3月11日(西暦95年4月中旬頃)が出雲王国(物部(もののべ)氏)の建国の報告で、仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月17日(西暦260年11月中旬頃)が出雲王国(物部(もののべ)氏)の崩壊(滅亡)で、完全な歴史が求められた。
藤原不比等(ふじわらのふひと)は、初代出雲国王の彦坐王(ひこいますのみこ)が物部(もののべ)氏の先祖で、初代の太陽神の宮司でもあって、優秀な武将なども偽装工作で隠(かく)して、日本神話や不明年代が全部を謎(なぞ)だらけの曖昧(あいまい)な認識にして、史実・真実・事実か疑(うたが)わせたが、超天才の僕がこれらを公表して、もう後戻りできない。

伊勢神宮の内宮(ないぐう)と外宮(げぐう)
伊勢神宮内宮(ないぐう)は、素戔嗚尊(すさのおのみこと;甥(おい)の日本武(やまとたけ)天皇を神格化)に殺された父方の天照大神(あまてらすおおみかみ;伯母(おば)の倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)を怨霊(おんりょう;祟(たた)り怨(うら)む霊魂)として鎮魂して、皇祖神(こうそしん;皇室の祖先神)で、母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)の2神を崇拝(すうはい)する神社である。
伊勢神宮外宮(げぐう)の祭神の豊受大神(とようけおおかみ;実兄で初代出雲国王の彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと;実弟の崇神(すじん)天皇を神格化)と同一神だが、実兄と実弟を同一神に神格化して、僕以外に誰も特定できなかった。

出雲大社本殿の本当の祭神と封印
出雲大社本殿は、初代・大国主神(おおくにぬしのかみ;初代出雲国王の彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)を神格化)以外に、客座五神の別天神(ことあまつがみ)5神(崇神(すじん)天皇から仲哀(ちゅうあい)天皇の5世代を神格化)を祭って、客座が来客のための座席で、客座五神と巨大な注連縄(しめなわ)が大国主神(おおくにぬしのかみ)の霊魂を二重に封印する。
大国主神(おおくにぬしのかみ)の霊魂を二重に封印するのは、怨霊(おんりょう;恨(うら)み祟(たた)る霊魂)で、義父の素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)と2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)を監視して、出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏(物部(もののべ)氏と同族)を二度と反逆させないためである。
出雲王国(物部(もののべ)氏)の祟(たた)りの内乱(皇位継承権争い)は、倭国大乱(わこくたいらん)の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱と男王(だんおう;日本武(やまとたけ)天皇)の反乱の2つで、2代目・大物主神(おおものぬしのかみ;2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)と7代目・大物主神(おおものぬしのかみ;7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)を神格化)の祟(たた)りで、反乱(皇位継承権争い)を封印する意味である。
出雲大社本殿の本当の祭神は、怨霊(おんりょう;恨(うら)み祟(たた)る霊魂)の2代目・大物主神(おおものぬしのかみ;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)と7代目・大物主神(おおものぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)と素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)と2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)の4神である。

女系男子天皇と女系天皇と女性天皇などの問題
現在の皇室は、父方のアマテラス(倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)の子孫だが、生涯独身で子孫がいなくて、母方のアマテラス(神功(じんぐう)皇后を神格化)が現在の皇祖神(こうそしん;皇族の祖先神)で、孫の仁徳(にんとく)天皇の子孫が途絶(とだ)えて、神功(じんぐう)皇后から9世代から11世代ほどの子孫の継体(けいたい)天皇から今の天皇陛下まで、血筋が途絶(とだ)えない女系男子天皇と伝える。
男性の古代太陽神のアマテルカミ(天照神;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、子孫を女王と勘違いした卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)と台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后で、彦坐王(ひこいますのみこ)と倭姫命(やまとひめのみこと)と神功(じんぐう)皇后の3人だけが天照(あまてる;あまてらす)の称号の太陽神と最高神に神格化することを許された。

母方のアマテラス(神功(じんぐう)皇后を神格化)の女系男子天皇は、継体(けいたい)天皇から今の天皇陛下まで、血筋が途絶(とだ)えずに続いて、女系天皇と女性天皇と女性宮家が今の皇室が向き合う問題で今後の皇統を維持するため、日本人の多くが天皇家の存続を望んで、日本国政府や国民などの意見を尊重して、決して避けて通れない大問題である。
5代目の仁徳(にんとく)天皇から114代目の今の天皇陛下までは、母方のアマテラス(神功(じんぐう)皇后を神格化)の女系男子天皇で、皇統譜(こうとうふ;皇室の戸籍簿)で、初代の神武(じんむ)天皇(実在した初代天皇の崇神(すじん)天皇を祖先化)から始まる男系男子天皇より、神様の女系男子天皇の方が古くて、その正統性を尊重する必要がある。
国政執行した摂政(せっしょう;天皇に代わって政治する役職)の神功(じんぐう)皇后と飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)は、女性天皇(女帝)と認定して、神功(じんぐう)天皇と飯豊(いいとよ)天皇と名付けて、歴代天皇に加えるべきで、女系天皇と女性天皇を認める理由になる。
日本神話の神々(母方のアマテラス(神功(じんぐう)皇后を神格化)など)の子孫は、初代天皇の神武(じんむ)天皇(実在した初代の崇神(すじん)天皇を祖先化)の男系男子天皇より女系男子天皇がさらに古いと証明して、女系天皇と女性天皇と女性宮家などの正統性を主張して、多くの国民の声と同じで、僕も愛子様を次期天皇に望む。

天皇陵と皇居と卑弥呼(ひみこ)の墓(はか)
孝昭(こうしょう)天皇49年1月1日(西暦49年2月上旬頃)に孝昭(こうしょう)天皇と世襲足姫(よそたりひめ)は、崇神(すじん)天皇を生んで、崇神(すじん)天皇68年12月5日(西暦152年1月上旬頃)に102才で崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、垂仁(すいにん)天皇元年10月11日(西暦152年11月中旬頃)に亡骸(なきがら)を山辺(やまのべ)に葬礼した。
歴代天皇の最高齢は、上皇様の91才だが、僕が初代天皇の崇神(すじん)天皇を102才と求めて、事実上の最高齢を特定して、これが僕の超知識の特定である。
初代天皇・崇神(すじん)天皇陵は、奈良県橿原市城殿町(しきどのちょう)の瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)で、天皇陵だから前方後円墳の形で、全長が約26メートルで、埋葬者が見つからず、2世紀中頃から後半頃の築造年代で、奈良県橿原市の畝傍山(うねびやま)の東南東にあって、皇統譜(こうとうふ;皇室の戸籍簿)で、初代天皇の神武(じんむ)天皇陵が畝傍山(うねびやま)の北北東の四条ミサンザイ古墳で、初代天皇陵が畝傍山(うねびやま)の近くにあると証明した。
超天才の僕は、前方後円墳の形の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)が弥生時代の墓(はか)で、古墳時代の墓(はか)の前方後円墳と同じ形で、全部を前方後円墳と統一して、崇神(すじん)天皇の葬礼日を古墳時代の始まりと再定義して、日本国政府の名の下に世界中に公表すべきと考える。
2代目天皇・垂仁(すいにん)天皇陵の纏向(まきむく)石塚古墳は、3代目天皇・景行(けいこう)天皇陵の箸墓(はしはか)古墳と共に最古の前方後円墳の説があって、垂仁(すいにん)天皇陵と景行(けいこう)天皇陵を古墳時代の始まりとして、西暦年月日の特定と古墳時代の始まりの再定義が必要である。

崇神(すじん)天皇29年1月1日(西暦112年2月上旬頃)に崇神(すじん)天皇と御井津比売(みいつひめ)は、垂仁(すいにん)天皇を生んで、垂仁(すいにん)天皇39年7月1日(西暦190年8月上旬頃)に78才で崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、垂仁(すいにん)天皇39年12月10日(西暦191年1月上旬頃)に亡骸(なきがら)を菅原伏見(すがわらふしみ)に葬礼した。
垂仁(すいにん)天皇28年11月2日(西暦179年12月上旬頃)に垂仁(すいにん)天皇は、異母兄の倭彦命(やまとひこのみこと)を所在地不明の陵墓に葬礼して、後で殉死(じゅんし;主人の後を追って、従者を生き埋(う)めにすること)を禁止して、垂仁(すいにん)天皇39年8月16日(西暦190年9月中旬頃)の夜に垂仁(すいにん)天皇陵に埴輪(はにわ)を立てて、殉死者(じゅんししゃ)の代わりに古墳の埴輪を立てた。

2世紀後半の岡山県の特殊器台土器は、2代目天皇・垂仁(すいにん)天皇陵の纏向(まきむく)石塚古墳で、出土した最古の土師器(はじき)が最古の埴輪(はにわ)と考えられて、土師器(はじき)が埴輪(はにわ)の一種で、3代目天皇・景行(けいこう)天皇陵の箸墓(はしはか)古墳で、最古の特殊器台埴輪(はにわ)が出土して、岡山県の特殊器台土器と最古の特殊器台埴輪(はにわ)が考古学的に繋(つな)がって、殉死(じゅんし)と埴輪(はにわ)を証明した。

景行(けいこう)天皇4年11月1日(西暦194年12月上旬頃)に景行(けいこう)天皇は、新しい皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)の纏向(まきむく)遺跡に入って、景行(けいこう)天皇58年2月11日(西暦248年3月中旬頃)に景行(けいこう)天皇が近江国(おうみのくに;滋賀県)の皇居の志賀高穴穂宮(しがたかあなほのみや)を建てて、この時に纏向(まきむく)遺跡が皇居でなくなった。
景行(けいこう)天皇の子孫の仁徳(にんとく)天皇は、仁徳(にんとく)天皇元年1月3日(西暦334年2月上旬頃)に5代目天皇に即位して、その後に皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)が放棄されて、2世紀末から4世紀前半の纏向(まきむく)遺跡の時期を考古学(遺跡・遺物)で証明して、僕のホームページで、纏向(まきむく)遺跡が皇居の証拠を見てほしい。

垂仁(すいにん)天皇20年の真冬(西暦171年1月頃)に垂仁(すいにん)天皇と日葉酢媛(ひばすひめ)は、景行(けいこう)天皇を生んで、景行(けいこう)天皇60年11月7日(西暦250年12月上旬頃)に79才で崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、仲哀(ちゅうあい)天皇元年11月10日(西暦252年12月上旬頃)か仲哀(ちゅうあい)天皇2年11月10日(西暦253年12月上旬頃)に亡骸(なきがら)を山辺道上陵(やまのべみちうえのみささぎ)に葬礼した。
3代目天皇・景行(けいこう)天皇陵の箸墓(はしはか)古墳は、宮内庁指定の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと;倭姫命(やまとひめのみこと)を祖先化)陵だが、『三国志・魏志倭人伝』に卑弥呼(ひみこ)の男弟(だんてい)がいて、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)の男弟(だんてい;異母弟)である景行(けいこう)天皇陵が正しくて、卑弥呼(ひみこ)と台与(とよ)が女王でない。
古代中国の魏(ぎ)王朝時代の直径百歩余り(約144メートル)は、箸墓(はしはか)古墳の後円部160メートルで、前方後円墳の全長280メートルを古代天皇家が伝えなくて、魏(ぎ)王朝の薄葬(はくそう)思想(墓(はか)を小さく作る考え方)を知って、箸墓(はしはか)古墳の全長を小さめに報告して、『三国志・魏志倭人伝』の現代日本語訳が誤解だらけで、おかしくないと考えられる。

女王国の卑弥呼(ひみこ)は、伊勢国(三重県中部)の斎王(さいおう;太陽神に仕(つか)える未婚の皇女)の倭姫命(やまとひめのみこと)で、邪馬台国(大和国;やまとこく)と女王国(伊勢国;三重県中部)が隣国で、間違った認識を生みやすくて、天皇不在の年10月22日(西暦251年11月下旬頃)に葬礼した倭姫命(やまとひめのみこと)の墓(はか)が三重県伊勢市の形が分からない古墳である。

初代天皇・崇神(すじん)天皇陵は、瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)の全長が約26メートルで、2代目天皇・垂仁(すいにん)天皇陵の纏向(まきむく)石塚古墳が全長96メートルで、3代目天皇・景行(けいこう)天皇陵の箸墓(はしはか)古墳が全長280メートルで、3つ共に前方後円墳の形で、どんどん巨大化して、古代天皇家の勢力拡大を証明した。

仁徳(にんとく)天皇67年10月5日(西暦379年11月上旬頃)に仁徳(にんとく)天皇陵は、土地を定めて、10月18日(西暦379年11月中旬頃)に天皇陵を築造し始めて、仁徳(にんとく)天皇87年1月16日(西暦399年2月中旬頃)に仁徳(にんとく)天皇が崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、10月7日(西暦399年11月上旬頃)に仁徳(にんとく)天皇陵の大仙(だいせん)古墳に葬礼して、全部が嘘(うそ)である。
正しく求めると仁徳(にんとく)天皇は、応神(おうじん)天皇16年頃(正しくは摂政(せっしょう)25年頃;西暦285年頃)に生まれて、仁徳(にんとく)天皇34年1月16日(西暦367年2月中旬頃)に崩御(ほうぎょ)して、仁徳(にんとく)天皇34年10月7日(西暦367年11月上旬頃)に柳本(やなぎもと)古墳群か佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群などの前方後円墳に葬礼したと考えられる。

生年月日不明な安康(あんこう)天皇は、安康(あんこう)天皇16年10月5日(西暦410年11月上旬頃)に天皇陵の土地を定めて、10月18日(西暦410年11月中旬頃)に天皇陵の築造が始まって、安康(あんこう)天皇34年8月9日(西暦427年9月上旬頃)に眉輪王(まゆわのおおきみ)に殺されて、清寧(せいねい)天皇元年(西暦430年)に9代目・安康(あんこう)天皇陵の大仙(だいせん)古墳に葬礼した。
大仙(だいせん)古墳の本当の埋葬者は、5代目天皇の仁徳(にんとく)天皇でなくて、仁徳(にんとく)天皇の孫で、9代目天皇の安康(あんこう)天皇が100%正しくて、『古事記』の干支年(かんしねん)の崩年干支(ほうねんかんし)などで確信した。
仁徳(にんとく)天皇陵の大仙(だいせん)古墳は、大山(だいせん)古墳や大仙陵(だいせんりょう)古墳などとも呼んで、大阪府堺市(さかいし)の百舌鳥(もず)古墳群に属して、5世紀前半から中頃が築造年代の前方後円墳で、日本一大きい古墳と前方後円墳で、始皇帝陵やクフ王のピラミッドよりも、面積の大きい世界最大の墳墓で、ギネス記録でなくて、ホームページの『仁徳(にんとく)天皇陵は本物か?』の章を見てほしい。

僕は日本の建国(天皇家誕生)と古墳時代の始まりなどを西暦年月で求めて、西暦年月日を特定できなくて、実在する天皇陵4つと皇居1つを100%証明して、専門家(考古学会と歴史学会)が求めた天皇陵が確実な証拠を示せず、これが超天才の僕と専門家の決定的な差である。

歴史の本当と嘘(うそ)
神武(じんむ)天皇元年(紀元前660年)から武烈(ぶれつ)天皇8年(西暦506年)は、歴史学(歴史書解釈)の嘘(うそ)の年代で、僕の自論が崇神(すじん)天皇元年(西暦84年)から武烈(ぶれつ)天皇32年(西暦506年)までで、弥生時代後期初頭が日本の建国(天皇家誕生)で、今年が日本の建国(天皇家誕生)1941年目である。
考古学(遺跡・遺物)で日本最古の年号は、後漢(ごかん)王朝の中平年間(西暦184年から189年)の中平?年で、歴史学(歴史書解釈)で日本最古の年号が後漢(ごかん)王朝の建武中元2年(西暦57年)で、印鑑を奴国(ぬこく)に送って、福岡市志賀島(しかのしま)から出土した「漢委奴國王(かんいぬこくおう)」の金印とするが、「漢委奴國王(かんいぬこくおう)」の金印が偽物の説があって、2番目に古いのが日本の建国(天皇家誕生)の崇神(すじん)天皇元年(西暦84年)である。

僕のホームページは、「邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の証明」と「北九州4ヶ国(北九州の属国)の間違い」と「女王国(伊勢国;三重県中部)」の章などが100%正しくて、他に『三国志・魏志倭人伝』の僕の現代語訳なども100%正しくて、邪馬台国(大和国;やまとこく)の属国の末盧国(まつろこく)と伊都国(いとこく)と奴国(ぬこく)の博物館などを否定した。
女王の卑弥呼(ひみこ)は、古代中国の魏(ぎ)王朝から、「親魏倭王(しんぎわおう)」の金印を受け取ったと勘違いして、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)の男弟(だんてい;異母弟)である3代目天皇・景行(けいこう)天皇が受け取って、魏(ぎ)王朝の滅亡が西暦265年だから、それ以降の年代の古墳に埋葬して、それ以前に葬礼した景行(けいこう)天皇陵の箸墓(はしはか)古墳から、出土しないと考えられる。

邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の議論と考古学
邪馬台国(やまたいこく)論争は、邪馬台国(やまとこく)か邪馬壱国(やまいちこく)か、女王と勘違いした台与(とよ)か壱与(いちよ)の発音などの問題、邪馬台国(大和国;やまとこく)時代が古代天皇家かなど、超天才の僕が100%完全に決着した。
邪馬台国(大和国;やまとこく)時代は、垂仁(すいにん)天皇5年6月1日(西暦156年7月上旬頃)の2代目出雲国王である狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(倭国大乱;わこくたいらん)から摂政(せっしょう)6年(西暦266年)に神功(じんぐう)皇后が西晋(せいしん)王朝の泰始(たいし)2年(西暦266年)に遣使(遣西晋使;けんせいしんし;遣隋使や遣唐使に基づく僕の造語)した時までで、合計111年である。

景行(けいこう)天皇12年9月5日(西暦202年10月上旬頃)に景行(けいこう)天皇は、山口県の婆麼(さば;防府市佐波か?)に行って、九州の様子をうかがわせて、九州全土を平定して、景行(けいこう)天皇19年9月8日(西暦209年10月上旬頃)に景行(けいこう)天皇が九州から帰還して、皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)の纏向(まきむく)遺跡に戻った。
古代中国の『後漢書』は、女王国(伊勢国;三重県中部)から、西に渡海して千里余りで、南九州にある拘奴国(くぬこく)の熊襲(くまそ)王国に至ると記して、邪馬台国(やまたいこく)や女王国と陸続きでなく、拘奴国(くぬこく)が『三国志・魏志倭人伝』の狗奴国(くぬこく)と同一国である。
景行(けいこう)天皇18年4月(西暦208年5月)は、熊の県(あがた;熊本県球磨(くま)郡)を平定して、景行(けいこう)天皇18年5月(西暦208年6月頃)に襲国(そのくに;鹿児島曽於(そお)郡)を平定して、熊本県球磨(くま)郡と鹿児島曽於(そお)郡を合わせて、拘奴国(狗奴国;くぬこく)の熊襲(くまそ)王国である。

福岡市の那珂八幡(なかはちまん)古墳は、3世紀中頃の築造の前方後円墳で、九州で一番古い前方後円墳でもあって、3世紀初頭(西暦202年から209年)の九州全土の平定より後に作られた考古学的証拠である。邪馬台国(大和国;やまとこく)の王都と勘違いした佐賀県神埼(かんざき)郡の吉野ヶ里(よしのがり)遺跡は、2023年4月に出土した石棺墓(せっかんぼ)が有力者の墓(はか)で、北九州の統治者の国造(くにみやつこ;国主)か県主(あがたぬし)の可能性があって、傷ついた人骨が九州平定の戦死者の可能性が考えられる。
景行(けいこう)天皇18年5月(西暦208年6月頃)に熊襲(くまそ)王国(熊本県球磨(くま)郡と鹿児島曽於(そお)郡と宮崎県の連合国)は、古代天皇家が屈服させて、代官を置いて監視して、景行(けいこう)天皇57年12月(248年1月頃)に熊襲(くまそ)王国が滅亡した。

景行(けいこう)天皇60年10月2日(西暦250年11月上旬頃)に皇太子の日本武尊(やまとたけのみこと)は、東海平定の総大将で、日本武尊(やまとたけのみこと)の異母弟の武虎別皇子(たけこわけのみこ)が北陸平定の総大将で、仲哀(ちゅうあい)天皇3年9月30日(西暦254年10月下旬頃)に東国平定の将軍たちが仲哀(ちゅうあい)天皇の皇居(おそらく京都府宮津市の丹波由良宮(たんばゆらのみや)に帰還して、平定が終了した。
皇太子の日本武尊(やまとたけのみこと)は、天皇不在の年8月4日(西暦251年9月上旬頃)に三種の神器を強奪して、皇族に認められない日本武(やまとたけ)天皇に強行即位して、息子の仲哀(ちゅうあい)天皇と対立して、11月4日(西暦251年12月上旬頃)に反乱(皇位継承権争い)に協力した別の息子(異母弟)の蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)が山城(京都府南部)で戦死して、日本武(やまとたけ)天皇が仲哀(ちゅうあい)天皇元年2月8日(西暦252年3月上旬頃)に出雲王国(物部(もののべ)氏)に亡命した。

東北地方南部の宮城県は、『ホツマツタエ』や「記紀」の日本武尊(やまとたけのみこと)が平定した土地で、宮城県に3世紀後半から4世紀前半の古墳があって、考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)が合致して、仲哀(ちゅうあい)天皇5年9月(西暦256年10月頃)に日本各地の国造(くにみやつこ;国主)を任命した。
時期不明の1世紀中頃は、美濃(みの;岐阜県南部)を領土にして、岐阜県揖斐郡(いびぐん)大野町の前方後円墳の笹山(ささやま)古墳が西暦200年頃の築造で、仲哀(ちゅうあい)天皇3年7月頃(西暦254年8月頃)に飛騨(ひだ;岐阜県北部)を領土にして、飛騨(ひだ)最古の前方後円墳が4世紀後半から5世紀中頃の三日町大塚(みっかまちおおつか)古墳と考えられる。
福島県(東北地方南部)の前方後円墳の杵ヶ森(きねがもり)古墳は、3世紀末から4世紀初頭の築造で、石背国造(いわせくにみやつこ)の建彌依米命(たけみよりまいのみこと)か阿尺国造(あさかくにみやつこ)の比止彌命(ひとみのみこと)が古墳埋葬者と考えられる。
千葉県の前方後円墳の神門(ごうど)3・4・5号墳は、3世紀後半の築造で、菊麻国造(きくまくにみやつこ)の大鹿国直(おおかくにのあたい)か上海上国造(かみうなかみくにみやつこ)の忍立化多比命(おしたちかたひのみこと)の一族が古墳埋葬者と考えられる。
長野県の前方後円墳の高遠山(たかとおやま)古墳は、4世紀前半の前方後円墳で、三野後国造(みののみちのしりくにみやつこ)の臣賀夫良命(おみかぶらのみこと)が古墳埋葬者と考えられる。

他にも邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の考古学的証拠は、多く存在するが、ここまでにする。

倭(わ)の五王
『宋書』は、倭王(わおう;古代の日本王)の讃(さん)の弟を珍(ちん)で、済(せい)との血縁関係が分からなくて、世子(せいし;世継ぎ)の興(こう)の弟が武(ぶ)で、これが倭(わ;古代日本)の五王の血縁関係である。
歴史学界(歴史書解釈)の定説は、讃(さん)が応神(おうじん)天皇から履中(りちゅう)天皇で、弟の珍(ちん)が反正(はんぜい)天皇で、血縁関係の分からない済(せい)が允恭(いんぎょう)天皇で、世子(せいし;世継ぎ)の興(こう)が安康(あんこう)天皇で、弟の武(ぶ)が雄略(ゆうりゃく)天皇と勘違いして、100%間違いである。
僕の自論は、讃(さん)の安康(あんこう)天皇の弟が珍(ちん)の雄略(ゆうりゃく)天皇で、息子の清寧(せいねい)天皇が血縁関係の分からない済(せい)で、血縁断絶して、世子(せいし;世継ぎ)の興(こう)が顕宗(けんそう)天皇で、弟の武(ぶ)が甥(おい)の武烈(ぶれつ)天皇で、100%正しい。

東晋(とうしん)王朝の義煕(ぎき)9年(西暦413年)は、安康(あんこう)天皇20年(西暦413年)で、南朝宋(そう)王朝の永初(えいしょ)2年(西暦421年)が安康(あんこう)天皇28年(西暦421年)で、南朝宋(そう)王朝の元嘉(げんか)2年(西暦425年)が安康(あんこう)天皇32年(西暦425年)である。
南朝宋(そう)王朝の元嘉(げんか)20年(西暦443年)は、清寧(せいねい)天皇14年(西暦443年)で、南朝宋(そう)王朝の元嘉(げんか)28年(西暦451年)が清寧(せいねい)天皇22年(西暦451年)で、南朝宋(そう)王朝の大明(だいめい)6年(西暦462年)が顕宗(けんそう)天皇5年(西暦462年)である。
南朝宋(そう)王朝の昇明(しょうめい)2年(西暦478年)は、武烈(ぶれつ)天皇4年(西暦478年)で、南朝斉(せい)王朝の建元(けんげん)元年(西暦479年)が武烈(ぶれつ)天皇5年(西暦479年)で、南朝梁(りょう)王朝の天監(てんかん)元年(西暦502年)が武烈(ぶれつ)天皇28年(西暦502年)で、倭(わ)の五王の終わりである。僕は倭(わ)の五王をあまり多く求めず、ホームページも史料が少ないが、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の史料が充実して、100%正しい。

2025年の予言と5大新聞社へのメール
2025年4月26日の予言は、大地震などの災害でなくて、僕のホームページを大幅に修正し終えて公表して、多くの場所に連絡したことで、6月5日の予言も大地震などの災害でなくて、僕がUSBを入れた封筒を宮内庁に届けたことで、7月か7月5日の予言が6月で、僕の歴史研究が認められて、世界中の予言の救世主が僕と天皇家(皇室)と考えられる。
僕のホームページは、色々な段落や章を詳細に見てほしくて、5大新聞社(読売新聞と朝日新聞と毎日新聞と日本経済新聞と産経新聞)にメールする。

多くの参考史料は、ホームページを参照して、省略させてもらう。

〒620−0952 京都府福知山市大門505 芦田 真也
芦田真也のホームページ http://www.shinyash.jp/


この送信メールは、2025年6月16日(月)の午前9時14分に産経新聞へ送ったことを確認して、5大新聞社(読売新聞と朝日新聞と毎日新聞と日本経済新聞と産経新聞)にメールすると記すため、5大新聞社にメール送信したと考えられる。

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