西暦251年の内乱
『日本書紀』の成務(せいむ)天皇の即位年は、干支(えと)の辛未(かのとひつじ)の年で、60年を引き算して、西暦251年だけで、皇族に認められない偽(いつわ)りの日本武(やまとたけ)天皇と同一人物で、日本武(やまとたけ)天皇の息子の仲哀(ちゅうあい)天皇元年が西暦252年で、間違いなく計算した西暦年が正しい。
素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)は、強行即位して太陽神殺しの大罪で、直系系図から外(はず)して、『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)』が「倭武天皇命(やまとたけのすめらみこと)」で、『阿波国風土記(あわのくにふどき)』が「倭健(やまとたけ)天皇」で、『住吉大社神代記』が「父天皇」と記して、特別扱いの皇子でなく、皇太子と天皇である。
景行(けいこう)天皇40年10月2日は、景行(けいこう)天皇60年10月2日(西暦250年11月上旬頃)が正しくて、皇太子の日本武尊(やまとたけのみこと)が滋賀県の皇居の志賀高穴穂宮(しがたかあなほのみや)から東海平定に出陣した。
景行(けいこう)天皇60年11月7日(西暦250年12月上旬頃)に景行(けいこう)天皇は、皇居の志賀高穴穂宮(しがたかあなほのみや)で、崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、皇太子の日本武尊(やまとたけのみこと)が東海平定でいなくて、皇位継承者の仲哀(ちゅうあい)天皇と蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)を押す者がいて、混乱して皇位継承問題が起きた。
景行(けいこう)天皇の崩御(ほうぎょ)は、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)の男弟(だんてい;異母弟)である景行(けいこう)天皇の死去で、実年齢79才である。
次の天皇の候補は、皇太子の日本武尊(やまとたけのみこと)が不在で、他の皇位継承者が日本武尊(やまとたけのみこと)の息子の仲哀(ちゅうあい)天皇と蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)の2人で、皇位継承権問題が発生した。
『ホツマツタエ』景行(けいこう)天皇46年1月に景行(けいこう)天皇は、七草の御饗(みあえ)で歌合(うたあわせ)をもよおして、この宴(うたげ)が日を重ねて行なわれたが、息子の成務(せいむ)天皇と初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)が宮に参上せず、そこで二人を呼んで理由を聞いた。
「御饗(みあえ)の日は、皆が遊びに興じて、政務を忘れがちになります。邪(よこしま)な者があればこの機を狙うでしょう。ゆえに御垣(みかき)を守護しておりました」と答えた。
景行(けいこう)天皇は、「もっともじゃ」と言われて、その忠義を讃(たた)えて、両名に褒美(ほうび)を与えられて、景行(けいこう)天皇46年8月4日に成務(せいむ)天皇を世継ぎ御子(みこ)に立て、初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を宗(むね)の臣とされた。
天皇不在の年1月(西暦251年2月頃)に成務(せいむ)天皇(日本武尊(やまとたけのみこと)と同一人物)は、皇位を狙う不届(ふとど)き物で、8月4日(251年9月上旬頃)に成務(せいむ)天皇が三種の神器を強奪して、世継ぎ御子(みこ)の日本武(やまとたけ)天皇(即位しない成務(せいむ)天皇)になって、皇族の誰にも認められなかった。
素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけのみこと)天皇を神格化)は、強行即位して太陽神殺しの大罪で、直系系図から外(はず)して、『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)』が「倭武天皇命(やまとたけのすめらみこと)」で、『阿波国風土記(あわのくにふどき)』が「倭健(やまとたけ)天皇」で、『住吉大社神代記』が「父天皇」と記して、特別扱いの皇子でなく、皇太子と天皇である。
倭武天皇命(やまとたけのすめらみこと)と倭健(やまとたけ)天皇と父天皇は、日本武尊(やまとたけのみこと)が異母兄弟の成務(せいむ)天皇と同一人物で、逆賊の日本武(やまとたけ)天皇の蛮行(ばんこう)を超天才の僕が暴(あば)いた。
『ホツマツタエ』の景行(けいこう)天皇46年は、『日本書紀』で景行(けいこう)天皇51年に改められて、西暦251年に当たって、『ホツマツタエ』と『日本書紀』が西暦年を使って、『ホツマツタエ』なら他の天皇時代が皇太子を後継者に指名するが、世継ぎ御子(みこ)が認められない日本武(やまとたけ)天皇で、『三国志・魏志倭人伝』の男王(だんおう)に当たって、日本武(やまとたけ)天皇の強行即位日を2017年10月5日に求めた。
初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)は、西暦251年に宗(むね)の臣の大臣だが、『ホツマツタエ』で武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)が忍穂耳尊(おしほみみのみこと;仲哀(ちゅうあい)天皇を神格化)の右大臣で、仲哀(ちゅうあい)天皇時代の右大臣より前に大臣なのがあり得ない。
『ホツマツタエ』垂仁(すいにん)天皇23年9月に倭姫命(やまとひめのみこと)は、粥占(かゆうら)を持って、異母兄の誉津別命(ほむつわけのみこと)のことをお祈りした。
垂仁(すいにん)天皇23年9月2日に垂仁(すいにん)天皇は、詔(みことのり;天皇の述べた言葉)して、「先に生まれた誉津別命(ほむつわけのみこと)は、髭(ひげ)が生(は)える年頃になっても泣き泣いて言葉をしゃべらない。これはどうしたわけだろう」と、そして諸臣が集まって審議して、倭姫命(やまとひめのみこと)に祈らせることになった。
天皇不在の年9月(西暦251年10月頃)に倭姫命(やまとひめのみこと)は、甥(おい)の日本武(やまとたけ)天皇のことを占(うらな)って、9月2日(10月上旬頃)に日本武(やまとたけ)天皇が皇位継承権を狙って戦争して、倭姫命(やまとひめのみこと)が国賊と認定して、邪馬台国(大和国;やまとこく)が完全に敵と認識した。
垂仁(すいにん)天皇23年は、西暦251年で、倭姫命(やまとひめのみこと)の異母兄の誉津別命(ほむつわけのみこと)が日本武(やまとたけ)天皇で、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)が海原を統治せず、母がいる黄泉国(よみのくに;地獄)に行きたくて、髭(ひげ)が生(は)える大人になるまで泣きわめいて、誉津別命(ほむつわけのみこと)そっくりである。
垂仁(すいにん)天皇と狭穂姫(さほひめ)の息子の誉津別命(ほむつわけのみこと)は、日本武尊(やまとたけのみこと)を指して、物部(もののべ)氏の血筋の狭穂姫(さほひめ)と日本武尊(やまとたけのみこと)の正妻の弟橘姫(おとたちばなひめ)が物部(もののべ)氏の養子で、出雲王国(物部(もののべ)氏)つながりで証明された。
『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇10年9月15日に大彦命(おおびこのみこと)一行は、那羅坂(ならさか;奈良市近郊の奈良坂)に至って、そこで少女が歌を歌って、誰かが崇神(すじん)天皇の皇位を狙っていると言うので、大彦命(おおびこのみこと)が引き返して、崇神(すじん)天皇の元に戻った。
9月17日に大彦命(おおびこのみこと)は、皇居に引き返して、那羅坂(ならさか)で少女が歌ったのを話して、諸臣で会議をして、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)が賢くて、歌の意味を理解して、武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)が謀反(むほん)を起こそうとして、妻の吾田媛(あたひめ)と共謀して、国を奪おうとしていると告げた。
天皇不在の年9月15日(西暦251年10月中旬頃)に武虎別皇子(たけこわけのみこ)は、北陸の平定から駆け戻って、奈良市近郊の奈良坂に到着して、異母兄の日本武(やまとたけ)天皇を討伐するために帰還した。
9月17日(西暦251年10月中旬頃)に武虎別皇子(たけこわけのみこ)は、皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)の纏向(まきむく)遺跡に到着して、諸臣から事情を知って、日本武(やまとたけ)天皇が正妻の弟橘姫(おとたちばなひめ)と息子で皇位継承者の蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)の親子で共謀して、それが国賊の全員と知った。
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと;倭姫命(やまとひめのみこと)を祖先化)と大彦命(おおびこのみこと;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を祖先化)と武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を祖先化)と吾田媛(あたひめ;弟橘姫(おとたちばなひめ)を祖先化)は、西暦251年の登場人物と証明した。
東海の平定中の日本武尊(やまとたけのみこと)は、父の景行(けいこう)天皇の死去を知って、従軍した吉備武彦(きびたけひこ)を連絡役として、北陸の平定に向かった武虎別皇子(たけこわけのみこ)の所に行かせて、日本武尊(やまとたけのみこと)が先に奈良県に帰還して、後で武虎別皇子(たけこわけのみこ)が奈良県に帰還して、反乱を知った筋書きである。
『ホツマツタエ』日付不明は、諸臣が審議して、すでに武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)と吾田媛(あたひめ)が軍を起こして、武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)が山城(京都府南部)からで、吾田媛(あたひめ)が大坂(奈良県香芝市逢坂(おうさか)付近)と別の道から、同時に襲撃を開始した。
崇神(すじん)天皇の命令は、倭五狭芹彦命(やまといさせりひこのみこと)を大坂に向かわせて、吾田媛(あたひめ)を討ち破って、ついに殺して、武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)の討伐に大彦命(おおびこのみこと)と彦国葺(ひこくにふく)を向かわせた。
彦国葺(ひこくにふく)は、山城の和珥武髞(わにたけすき;奈良県添上郡南部)に忌瓮(いんべ;神酒(みき)を入れて神に供(そな)えるために清めた容器)を据(す)えて、天神地祇に祈って、兵を率(ひき)いて、戦いにのぞんで、木や萱草(かやくさ)を踏み進み分けて、那羅坂(ならさか;奈良市北郊の奈良坂)で勝利を収めて、皆で拍手を打って喜んだ。
また大彦命(おおびこのみこと)の兵は、下の道を行って、輪韓川(わからかわ;木津川か?)の岸で、胡床(あぐら)を据えて、武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)の軍と相対して、武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)が川北に位置して、彦国葺(ひこくにふく)を見て言った。
「お前は何ゆえに我が軍を拒(こば)まんとするのか」「お前が天の道にそむくのを討とうと思うからだ」と、すると両者が先を争って矢を射たが、武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)が射た矢が当たらず、天津神(あまつかみ)の守護があってか、彦国葺(ひこくにふく)が射た矢が武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)の胸を打ち抜いて殺した。
武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)の兵は、大将を殺されたので逃げ出そうとして、彦国葺(ひこくにふく)が追い打ちをかけて、すると残兵たちが「我君我君(わきみわきみ)」と叫(さけ)びながら流れるように逃げて行って、神軍が剣を収めて皇居に帰った。
天皇不在の年日付不明は、日本武(やまとたけ)天皇が山城(京都府南部)で、妻の弟橘姫(おとたちばなひめ)が大坂(奈良県香芝市逢坂(おうさか)付近)に進軍して、倭五狭芹彦命(やまといさせりひこのみこと)の息子か孫ぐらいが弟橘姫(おとたちばなひめ)をどこかで殺して、日本武(やまとたけ)天皇の討伐に武虎別皇子(たけこわけのみこ)と彦国葺(ひこくにふく;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を祖先化)が選ばれた。
倭五狭芹彦命(やまといさせりひこのみこと)は、垂仁(すいにん)天皇12年9月16日(西暦163年10月中旬頃)生まれで、空白年9月17日(西暦251年10月中旬頃)以降に88才で、息子か孫が弟橘姫(おとたちばなひめ)を殺したのが正しい。
彦国葺(ひこくにふく;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を祖先化)は、和珥武髞(わにたけすき;奈良県添上(そえかみ)郡南部)に兵を率いて戦いにのぞみ、木などを踏み進み分けて、那羅坂(ならさか;奈良市北郊の奈良坂)で日本武(やまとたけ)天皇の軍に勝利を収めた。
また武虎別皇子(たけこわけのみこ)の兵は、下の道を行って、輪韓川(わからかわ;木津川か?)の岸で、日本武(やまとたけ)天皇の軍と相対して、日本武(やまとたけ)天皇が川北に位置して、彦国葺(ひこくにふく;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を祖先化)と対峙して、両者が先を争って矢を射て、日本武(やまとたけ)天皇が射た矢が当たらず、彦国葺(ひこくにふく;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を祖先化)が射た矢が日本武(やまとたけ)天皇を追いつめて、日本武(やまとたけ)天皇の兵たちに勝ち目がないと悟って逃げ出した。
彦国葺(ひこくにふく;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を祖先化)は、追い打ちをかけて、日本武(やまとたけ)天皇の残兵たちが流れるように逃げて行って、武虎別皇子(たけこわけのみこ)たちが勝利して、奈良県の戦闘に勝利した。
『ホツマツタエ』で出雲振根(いずもふりね;日本武尊(やまとたけのみこと)を祖先化)は、吉備彦(きびひこ)と武渟別(たけぬわけ)の軍勢に討伐されて、武埴安彦(たけはにやすひこ;日本武尊(やまとたけのみこと)を祖先化)が彦国葺(ひこくにふく;武渟川別(たけぬなかわわけ)を祖先化)に矢で射(い)られて死んだと解釈して、彦坐王(ひこいますのみこ)の孫が彦国葺(ひこくにふく)だから、物部(もののべ)氏の武渟川別(たけぬなかわわけ)が正しい。
和珥(わに)氏の彦国葺(ひこくにふく)は、崇神(すじん)天皇10年の登場人物で、垂仁(すいにん)天皇元年に彦国葺(ひこくにふく)の孫の潮乗津彦(しほのりつひこ)が登場して、彦国葺(ひこくにふく)が西暦251年に生きて、武渟川別(たけぬなかわわけ)が和珥(わに)氏と同じ物部(もののべ)氏の人物で、251年の彦国葺(ひこくにふく)が武渟川別(たけぬなかわわけ)に当たる。
倭五狭芹彦命(やまといさせりひこのみこと)は、垂仁(すいにん)天皇12年9月16日(西暦163年10月中旬頃)生まれで、息子か孫ぐらいの世代が弟橘姫(おとたちばなひめ)を殺して、倭五狭芹彦命(やまといさせりひこのみこと)の子孫が三尾君(みおのきみ)の先祖と考えられる。
弟橘姫(おとたちばなひめ)は、大坂(奈良県香芝市逢坂(おうさか)付近)に進軍して、死に場所が分からなくて、日本武(やまとたけ)天皇が山城(京都府南部)から進軍して、武虎別皇子(たけこわけのみこ)が討伐する武将に選ばれた。
『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇10年メ月初日に詔(みことのり;天皇の言葉)して、「大和国内を平定したが、他国がまだ平定されず、四道(しどう)将軍が出発してほしい」と言って、武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)の反乱の平定に向かった。
天皇不在の年10月1日(西暦251年11月上旬頃)は、奈良県内を平定して、日本武(やまとたけ)天皇の討伐に伊勢に向かった。
『ホツマツタエ』景行(けいこう)天皇40年10月2日に日本武尊(やまとたけのみこと)は、大和から伊勢路(いせじ)を進んで、7日に伊勢神宮の内宮と外宮を参拝して、磯宮(いそのみや;伊勢市の磯(いそ)神社)で倭姫命(やまとひめのみこと)に暇乞(いとまご)いして、日本武尊(やまとたけのみこと)に三種の神器の天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を授(さず)けた。
日本武(やまとたけ)天皇は、天皇不在の年10月2日(西暦251年11月上旬頃)に奈良県から伊勢に向かって、7日に伊勢市の磯(いそ)神社で倭姫命(やまとひめのみこと)を殺して、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)殺しだった。
倭姫命(やまとひめのみこと)の殺害日は、2022年9月20日に判明して、『三国志・魏志倭人伝』で「卑弥呼(ひみこ)以(も)って死(し)す・・・男王(だんおう)立(た)つ」と記して、前後が逆転して、男王(だんおう)の日本武尊(やまとたけのみこと)が天皇に強行即位して、卑弥呼(ひみこ)で伯母(おば)の倭姫命(やまとひめのみこと)を殺したと求めて、ずっと確信した事実だった。
倭姫命(やまとひめのみこと)は、垂仁(すいにん)天皇12年9月16日(西暦163年10月中旬頃)生まれで、天皇不在の年10月7日(西暦251年11月上旬頃)に88才で亡くなった。
日本武尊(やまとたけのみこと)は、伊勢神宮の斎王(さいおう;太陽神に仕(つか)える未婚の皇女)を引退した伯母(おば)の倭姫命(やまとひめのみこと)を殺して、三種の神器の天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を授(さず)かったのが国賊の日本武(やまとたけ)天皇に強行即位した証拠で、三種の神器の八重垣剣(やえがきのつるぎ)を強奪したことを指す。
三種の神器の天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は、元々が伊勢神宮内宮に奉納して、日本武尊(やまとたけのみこと)の反乱で、三種の神器の八重垣剣(やえがきのつるぎ)が強奪されて、三種の神器の天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と入れ変わって記した。
倭姫命(やまとひめのみこと)は、日本武(やまとたけ)天皇が皇位継承権を主張するため、優位に立てる発言力があって、斎王(さいおう)を引退しても、強い権限の持ち主で頼ったと考えられるが、どう考えても殺したと表現するしかない。
垂仁(すいにん)天皇23年10月8日に垂仁(すいにん)天皇は、高殿(たかとの)に立った時、傍(そば)にいた誉津別命(ほむつわけのみこと)が空を飛ぶ鵠(くぐい)を見て、「この鳥は何と言う鳥だ」と急にしゃべられた。
垂仁(すいにん)天皇は、大いに喜んで、「誰かこの鳥を捕らえられる者はいないか」とおっしゃって、湯河板挙(ゆかわたな)が「手前がこの鳥を捕らん」と進み出て、「もし捕らえれば誉めてつかわす」と言われた。
湯河板挙(ゆかわたな)は、鵠(くぐい)の飛んで行く方向を追い求めて、但馬路(たじまじ;兵庫県北部)を出雲に向かって、宇夜江(うやえ;島根県出雲市簸川(ひかわ)町神庭(かんば)宇屋谷(うやだに)の地で、遂(つい)に捕かまえた。
倭姫命(やまとひめのみこと)を殺した翌日の天皇不在の年10月8日(11月上旬頃)に日本武(やまとたけ)天皇は、磯宮(いそのみや;伊勢市の磯(いそ)神社)のそばにいて、遊撃する息子の蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)と共に伊勢から逃げて、仲哀(ちゅうあい)天皇に進み出た湯河板挙(ゆかわたな)に日本武(やまとたけ)天皇と蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)の親子を討伐すれば、誉めてつかわすと言われた。
垂仁(すいにん)天皇23年は、西暦251年で、誉津別命(ほむつわけのみこと)が日本武(やまとたけ)天皇で、鵠(くぐい)が息子の蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)で、日本武(やまとたけ)天皇の反乱(皇位継承権争い)を証明する。
鵠(くぐい)の飛んで行った方向は、但馬路(たじまじ;兵庫県北部)を出雲に向かって、宇屋江(うやえ;島根県出雲市簸川(ひかわ)町神庭(かんば)宇屋谷(うやだに)で捕らえられて、出雲王国に亡命する日本武(やまとたけ)天皇が兵庫県北部の方向に逃げて、海路で日本海から出雲に行って、西暦260年の出雲王国の崩壊で、日本武(やまとたけ)天皇の戦死した場所が宇屋谷(うやだに)と考えられる。
但馬(たじま;兵庫県北部)から出雲へ逃げるのは、因幡(いなば;鳥取県東部)の白兎(しろうさぎ;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)神話と共通して、日本武(やまとたけ)天皇の出雲王国の亡命が日本海側に逃げた根拠である。
『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇10年10月22日は、越(こし;北陸)やホツマ(東海)や丹波(たには;古代の京都府北中部)の国などに再征して、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)が大物主神(おおものぬしのかみ)の妻になった。
大物主神(おおものぬしのかみ)は、いつも夜に来て、昼に来なくて、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)が「私はいまだ我が君の姿を見られない。夜が明けたら君の姿を見たいです」と言った。神は告げて、「そなたの言い分はもっともだ。私は明け方に櫛笥(くしげ;櫛や化粧道具を入れる箱)に入っている。我が姿を見ても決して驚くな」と言って、姫が心あやしく思って、明くる朝に神の言うとおりに櫛笥(くしげ)を開けて見ると、小さな蛇がいた。
姫は驚いて、約束を忘れて叫び泣いて、大物主神(おおものぬしのかみ)が大きく恥じて、人の姿に戻って、「お前は我慢できなかった。私は恥をかかされた」と言って、大空を踏みながら三輪山(みわやま)へ帰って行って、姫がそれを仰ぎ見て、夫に恥をかかせて悔やんだ。
姫は驚愕して、膝(ひざ)をついて腰を下ろすと、箸(はし)で陰部を突いて亡くなって、姫の亡骸(なきがら)を大市(おいち;桜井市北部)に納(おさ)めて、箸塚(はしづか)を立てた。
天皇不在の年10月22日(西暦251年11月下旬頃)は、倭姫命(やまとひめのみこと)の殺害から半月後で、伊勢神宮の斎王(太陽神に仕(つか)える未婚の皇女)の倭姫命(やまとひめのみこと)を倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)に祖先化して、古代太陽神の7代目・大物主神(おおものぬしのかみ;7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)を神格化)の妻として、この日が倭姫命(やまとひめのみこと)の葬礼日である。
7代目・大物主神(おおものぬしのかみ)は、祭る奈良県桜井市の三輪山(みわやま)へ帰って、妻の倭姫命(やまとひめのみこと)が甥の日本武(やまとたけ)天皇に殺されて、大市(おいち;桜井市北部)の箸塚(はしづか;箸墓(はしはか)古墳)に葬礼したが、完全な嘘(うそ)である。
天皇不在の年10月22日(西暦251年11月下旬頃)の倭姫命(やまとひめのみこと)の葬礼日は、三重県伊勢市の磯(いそ)神社で殺害されて、伊勢市に葬礼した可能性が高くて、箸塚(はしづか;箸墓(はしはか)古墳)が卑弥呼(ひみこ)でも倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓(はか)でない。
倭姫命(やまとひめのみこと)の墓(はか)は、宇治山田陵墓(うじやまだりょうぼ)と呼んで、宮内庁指定の古墳が間違いで、宇治が三重県伊勢市宇治館町の伊勢神宮内宮を指して、殺害場所の伊勢市の磯(いそ)神社と陵墓名から考えて、三重県伊勢市の古墳に葬礼した可能性が高くて、古墳の形が分からなくて、3世紀中頃の築造年代が判明した。
古代太陽神の7代目・大物主神(おおものぬしのかみ)は、7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)を神格化して、妻の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)が倭姫命(やまとひめのみこと)を祖先化して、僕の自論が100%正しい。
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の名前は、倭(やまと;大和)の迹(あと;東海平定)の迹(あと;伊勢)で、日(ひ;伊勢神宮の巫女;みこ)が百人に襲(おそ)われた姫(ひめ)の命(いのち)と解釈できて、日本武尊(やまとたけのみこと)が大和から東海平定に行って、戻って来て伊勢で、倭姫命(やまとひめのみこと)を襲撃して、殺したことを示す。
『日本書紀』仲哀(ちゅうあい)天皇元年11月1日は、仲哀(ちゅうあい)天皇が諸臣に詔(みことのり;天皇の言葉)して、「自分がまだ20歳にならない時に父が亡くなった。父の魂は白鳥になって天に上った。慕(した)い思う日は一日も休むことがない。それで白鳥を陵(みささぎ)の周りの池に飼(か)って、その鳥を見ながら父を偲(しの)ぶ心を慰(なぐさ)めたいと思う」と言って、諸国に命令して、白鳥を献上させた。
天皇不在の年11月1日(西暦251年12月上旬頃)は、仲哀(ちゅうあい)天皇の異母弟の蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)が諸国に伝令して、父の日本武(やまとたけ)天皇と合流しようとした。
『ホツマツタエ』垂仁(すいにん)天皇23年11月2日(12月上旬頃)は、鵠(くぐい)を誉津別命(ほむつわけのみこと)に奉(たてまつ)ると、喜んで鵠(くぐい)と遊びたわむれて言葉を話して、垂仁(すいにん)天皇がいたく湯河板挙(ゆかわたな)を誉(ほ)めて、鳥取部(とりとりべ)の姓(かばね;豪族が授かった呼び名)を与えた。
天皇不在の年11月2日(西暦251年12月上旬頃)は、息子の蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)が父の日本武(やまとたけ)天皇が山城(京都府南部)で合流した。
垂仁(すいにん)天皇23年は、西暦251年で、誉津別命(ほむつわけのみこと)が日本武(やまとたけ)天皇で、鵠(くぐい)が息子の蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)で、誉津別命(ほむつわけのみこと)と鵠(くぐい)の合流と解釈すべきである。
『日本書紀』仲哀(ちゅうあい)天皇元年閏年(うるうどし)11月4日は、越(こし)の国(北陸)から白鳥4羽を献上して、白鳥を献上した使者が宇治川の畔(ほとり)に宿(やど)を取って、蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)がその白鳥を見て、「どちらに持っていく白鳥か」と問うて、越(こし)の人が答えて、「天皇が父を恋しく思われて、飼いならそうとしておられるので奉(たてまつ)るのです」と言った。
蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)は、越(こし)の使者に「白鳥と言っても焼くと黒鳥になるだろう」と言って、無理矢理に白鳥を奪って、越(こし)の使者がそれを報告して、仲哀(ちゅうあい)天皇が蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)が先王に対して、無礼なのを憎(にく)んで、兵を派遣して殺した。
時の人は言って、「父(日本武尊;やまとたけのみこと)は天で、兄(仲哀(ちゅうあい)天皇)が天皇である。天を侮(あなど)って、君に叛(そむ)いたなら、どうして罪(つみ)を免(まぬが)れようか」と。
天皇不在の年11月4日(西暦251年12月上旬頃)は、武虎別皇子(たけこわけのみこ)が宇治川の畔(ほとり)に布陣して、日本武(やまとたけ)天皇と蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)が合流して、両軍が戦争して、蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)が山城(京都府南部)で戦死して、父の日本武(やまとたけ)天皇が逃亡して、仲哀(ちゅうあい)天皇が蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)を討伐した湯河板挙(ゆかわたな)を誉(ほ)めて、鳥取部(とりとりべ)の姓(かばね)を与えた。
天皇不在の年11月4日(西暦251年12月上旬頃)は、越(こし)の国(北陸)に向かったのが武虎別皇子(たけこわけのみこ)で、献上した白鳥4羽が東海平定に向かった武将4人(吉備武彦(きびたけひこ)と大伴武日(おおとものたけひ)と武渟川別(たけぬなかわわけ)と初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)の意味)で、間違いなく日本武尊の反乱を指す。
蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)は、白鳥を焼くと黒鳥になるだろうと言ったのが白鳥の父(日本武(やまとたけ)天皇)と自分が黒鳥になって、兄(仲哀(ちゅうあい)天皇)に対する謀反(むほん;皇位継承権争い)を意味する。
天皇不在の年9月17日(西暦251年10月中旬頃)以降に大坂(奈良県香芝市逢坂(おうさか)付近)の近くで、母の弟橘媛(おとたちばなひめ)が戦死して、11月4日(西暦251年12月上旬頃)に息子の蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)が山城(京都府南部)で戦死して、母子共に戦死して、父の日本武(やまとたけ)天皇が逃亡した。
2020年9月12日に僕は、西暦251年の日本武尊(やまとたけのみこと)の反乱で、日本武尊(やまとたけのみこと)と息子の仲哀(ちゅうあい)天皇以外に蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)が皇位継承者の可能性に気付いた。
日本武尊(やまとたけのみこと)と弟橘媛(おとたちばなひめ)の息子の蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)は、異母兄の仲哀(ちゅうあい)天皇と同じ皇位継承者で、出雲王国(物部(もののべ)氏)の武将でもあって、西暦251年の奈良県にいたと考えられる。
『日本書紀』の仲哀(ちゅうあい)天皇元年閏年(うるうどし)11月4日は、天皇不在の年11月4日(西暦251年12月上旬頃)が251年ではみ出して、『日本書紀』が古代中国の太陰太陽暦に閏月(うるうづき)でなく、ヨーロッパの太陽暦の閏年(うるうどし)を指すと考えられて、これを2024年6月7日の午後10時頃に記した。
日本武尊(やまとたけのみこと)の東海平定は、妻の弟橘姫(おとたちばなひめ)が同伴したのが嘘(うそ)で、弟橘姫(おとたちばなひめ)が入水(じゅすい)自殺して、暴風を鎮めたのが創作である。
『ホツマツタエ』7章は、スサノヲ(日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)がコマスヒメハヤコ(弟橘姫(おとたちばなひめ)を神格化)と密通してたぶらかされて、コマスヒメハヤコがアマテルカミ(正しくはツキヨミ;景行(けいこう)天皇を神格化)の妻で、日本武尊(やまとたけのみこと)と妻の弟橘姫(おとたちばなひめ)の不倫が皇位継承権争いにつながった。
天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)は、弟の素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)が高天原(たかまがはら;伊勢)にやって来て、天照大神(あまてらすおおみかみ)が武装して対峙(たいじ)して、日本武尊(やまとたけのみこと)の反乱を示す。
天皇不在の年11月4日(西暦251年12月上旬頃)に息子の蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)は戦死して、日本武(やまとたけ)天皇が京都府北部の海岸から出雲王国(物部(もののべ)氏)に亡命して、京都府北部と鳥取県が日本海側で、因幡(いなば)の白兎(しろうさぎ)神話に神話化したと考えられる。
素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)は、婿(むこ)養子の7代目・大物主神(大物主神;飯入根(いいいりね)を神格化)に生太刀(いくたち;草薙剣(くさなぎのつるぎ)か?)を保管させたと考えられる。
『三国志・魏志倭人伝』は、「卑弥呼以死…更立男王、国中不服、更相誅殺、當時殺千余人」と記して、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)を殺して…日本武尊(やまとたけのみこと)が天皇(男王;だんおう)になって、皇族たちが反対して認められず、互いに殺し合って、当時千人余りが戦死したと解釈できる。
西暦251年の内乱は、『三国志・魏志倭人伝』が記す邪馬台国(大和国;やまとこく)と出雲王国(物部(もののべ)氏)の2度目の内乱で、「記紀」が最も隠したかった古代天皇家の汚名で、僕以外に決して求められない。
<参考文献>
『古代日本史への挑戦』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『続・私の半生と古代日本史』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『日本書紀(上)(下)全現代語訳―全二巻―』
著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社
『古事記(上)(中)(下)―全三巻―』
著者・次田真幸 発行・株式会社講談社
『完訳秀真伝(上巻)(下巻)』
編著者・鳥居礼 発行・八幡書店
『ホツマ辞典』
著者・池田満 発行・ホツマ刊行会
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
編訳者・石原道博 発行・株式会社岩波書店
インターネットの不明サイトから少々拝借
戻る