海部(あまべ)氏の系図
『ホツマツタエ』の尾張(おわり)氏は、仁徳(にんとく)天皇時代(4世紀前半)以前の名字(みょうじ)で、海部(あまべ)氏の名字(みょうじ)が4世紀中頃から後半以降と考えられて、尾張(おわり)氏の方が海部(あまべ)氏より古いと考えられる。
昔の僕は、尾張(おわり)氏の名字(みょうじ)が尾張(おわり;愛知県西部)を統治した時代から名乗ったと勘違いして、『ホツマツタエ』の尾張(おわり)氏の名乗りから考えて、海部(あまべ)氏との分家よりも前の時代の名字(みょうじ)と考えるのが自然で、ずっと昔から僕が海部(あまべ)氏を使って来たので、尾張(おわり)氏とすべき所を『海部(あまべ)氏の系図』で通す。
京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏は、国宝『海部(あまべ)氏系図』が日本最古の系図の一つで、「日女命(ひめのみこと)」と記す女性が女王の卑弥呼(ひみこ)と台与(とよ)の系図に当たると考えられて、注目する歴史学者や歴史家が少なくない。
『海部氏(あまべ)系図』は、「日女命(ひめのみこと)」と記して、別名を神大市姫命(かむおおいちひめのみこと)と倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)とも記して、『日本書紀』の「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)が死んで、大市(おおいち)に葬って、墓を名付けて箸墓(はしはか)と言う」の記述から、箸墓(はしはか)古墳の埋葬者の卑弥呼(ひみこ)を連想させた。
『海部(あまべ)氏系図』の日女命(ひめのみこと)から2世代下がって、再び「日女命(ひめのみこと)」と記されて、別名を小止与姫(おとよひめ)と記されて、台与(とよ)を連想させるが、日女命(ひめのみこと)が名前だけで、実在性がないと考えられて、2023年11月に求めた。
本当の卑弥呼(ひみこ)と台与(とよ)は、邪馬台卑弥呼(やまとひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)と台与卑弥呼(とよひみこ)の神功(じんぐう)皇后(消された名前が豊姫命;とよひめのみこと)で、『ホツマツタエ』と「記紀」を22年以上も研究し続けて、ワザと2人の皇族女性を歴史書で偽装工作したが、超天才の僕を騙(だま)せなかった。
『海部(あまべ)氏系図』は、ワザと卑弥呼(ひみこ)と台与(とよ)を連想させる人名を記したが、全く実在性がなくて、『ホツマツタエ』と「記紀」の倭姫命(やまとひめのみこと)と神功(じんぐう)皇后だけが正しい正体で、どんなにうまく隠しても、僕を騙(だま)せない痕跡(こんせき)が多くある。
海部(あまべ)氏の祖先神の2代目・天火明命(あめのほあかりのみこと)は、一伝で丹波平定将軍の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)と伝えて、海部(あまべ)氏の先祖に丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)の父親の彦坐王(ひこいますのみこ)がいて、2代目・天火明命(あめのほあかりのみこと)が彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化したと考えられる。
海部(あまべ)氏の祖先神の2代目・天火明命(あめのほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、火の神様で、彦坐王(ひこいますのみこ)の息子の狭穂彦王(さほひこのみこ)が出雲王家(物部(もののべ)氏)で、物部(もののべ)氏の直系子孫だけが火の神様に神格化して、海部(あまべ)氏と物部(もののべ)氏が遠戚で、共通の氏族の証拠が多くある。
2代目・天火明命(あめのほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の息子は、天香語山命(あめのかごやまのみこと;丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)を神格化)で、孫が天村雲命(あめのむらくものみこと;朝廷別王(みかどわけのみこ)を神格化)で、『海部(あまべ)氏系図』の完全解釈など僕からすれば簡単すぎる。
天村雲命(あめのむらくものみこと)は、伊勢神宮三大宮司家の度会(わたらい)氏の祖先神が天牟羅雲命(あめのむらくものみこと)と書いて、度会(わたらい)氏が海部(あまべ)氏の派生氏族で、古代太陽神氏族の和珥(わに)氏に属すると考えられる。
天村雲命(あめのむらくものみこと;朝廷別王(みかどわけのみこ)を神格化)の息子の天忍人命(あめおしひとのみこと)は、誰か分からなくて、その息子の天登目命(あめとめのみこと)が彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化したと考えられる。
天忍人命(あめおしひとのみこと)の弟の天忍男命(あめおしおのみこと)は、神武(じんむ)天皇時代の人物である葛城国造(かつらぎくにみやつこ)の剣根(つるぎね)の娘である賀奈良知姫(かならちひめ)を妻として、瀛津世襲(おきつよそ)と建額赤命(たけぬかがのみこと)と世襲足媛(よそたりひめ)を生んだ。
『ホツマツタエ』から瀛津世襲(おきつよそ)は、古代豪族で武家の大伴(おおとも)氏の直系先祖で、建額赤命(たけぬかがのみこと)が津守(つもり)氏の先祖で、瀛津世襲(おきつよそ)と建額赤命(たけぬかがのみこと)が彦坐王(ひこいますのみこ)と崇神(すじん)天皇との伯父(おじ;母の兄)で、大伴(おおとも)氏と津守(つもり)氏が彦坐王(ひこいますのみこ)を始祖とする古代太陽神氏族に含まない。
大伴(おおとも)氏は、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)から天押日命(あめのおしひのみこと)と天押人命(あめのおしひとのみこと)の親子まで系図が続いて、天押日命(あめのおしひのみこと)と天押人命(あめのおしひとのみこと)のどちらかが大伴(おおとも)氏の直系先祖の天忍男命(あめおしおのみこと)に当たると考えられて、大伴(おおとも)氏の系図が書き間違ったと考えられる。
津守(つもり)氏は、2代目・天火明命(あめのほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)から出たと記すが、彦坐王(ひこいますのみこ)の伯父(おじ;母の兄)の建額赤命(たけぬかがのみこと)を直系先祖として、完全に津守(つもり)氏の系図が嘘(うそ)と証明した。
世襲足媛(よそたりひめ)は、欠史(けっし)八代の孝昭(こうしょう)天皇の皇后で、その息子の天足彦国押人命(あまたりひこくにおしひとのみこと)と孝安(こうあん)天皇が彦坐王(ひこいますのみこ)と崇神(すじん)天皇を祖先化して、彦坐王(ひこいますのみこ)と崇神(すじん)天皇の実母で、『海部(あまべ)氏系図』に人名を記す重要人物である。
天忍人命(あめおしひとのみこと)の息子の天登目命(あめとめのみこと)は、彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化して、その息子の建登目命(たけとめのみこと)が丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)を祖先化したと考えられて、参考文献『竹内文書・但馬故事記』や「丹波(たんば)国王・玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)」の章から求めた。
建田勢命(たけたせのみこと)と建日潟命(たけひがたのみこと)と市大稲日命(いちおおいなひのみこと)と大那毘命(おおなびのみこと)の縦系図は、神格化と祖先化と実在系譜をつなぐために作られただけで、作られた架空の系譜だと考えられる。
建登目命(たけとめのみこと)の息子の小縫命(おぬいのみこと)は、息子の天御蔭命(あめのみかげのみこと)が彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化して、小縫命(おぬいのみこと)の妹に大海姫(おおあまひめ)がいて、大海姫(おおあまひめ)が崇神(すじん)天皇の叔母(おば)と考えられる。
『古事記』は、和珥(わに)氏の先祖である日子国意祁都命(ひこくにおけつのみこと;瀛津世襲(おきつよそ)を子孫化)の妹の意祁都比売命(おけつひめのみこと;世襲足姫(よそたりひめ)を子孫化)が彦坐王(ひこいますのみこ)を生んで、その妹の袁祁都比売命(おけつひめのみこと)が彦坐王(ひこいますのみこ)の妃で、世襲足姫(よそたりひめ)の妹が彦坐王(ひこいますのみこ)の妃で、同じく妹が大海姫(おおあまひめ)でないかと考えられる。
小縫命(おぬいのみこと)の息子の天御蔭命(あめのみかげのみこと)は、彦坐王(ひこいますのみこ)本人で、元伊勢籠(この)神社が伝える倭国造(やまとくにみやつこ)の倭宿禰命(やまとすくねのみこと)とも同一人物で、『先代旧事本紀』の尾張(おわり)氏系図の倭得玉彦命(やまとえたまひこのみこと)や『但馬国司文書』の倭得玉命(やまとえたまのみこと)とも同一人物と考えられる。
倭国造(やまとくにみやつこ)は、奈良県の統治氏族(国主)で、海部(あまべ)氏が奈良県と京都府北部を中心に全国規模の統治氏族と考えられて、倭宿禰命(やまとすくねのみこと)と倭得玉彦命(やまとえたまひこのみこと;倭得玉命(やまとえたまのみこと)と同一人物)が倭国造(やまとくにみやつこ)で、海部(あまべ)氏と倭国造(やまとくにみやつこ)が同族である。
海部(あまべ)氏の珍彦(うづひこ;別名を椎根津彦(しいねつひこ)は、同一人物で神武(じんむ)東征に登場して、神武(じんむ)東征(仁徳(にんとく)東征)の倭国造(やまとくにみやつこ)が吾子籠(あごこ)で、珍彦(うづひこ)と吾子籠(あごこ)が同一人物で100%間違いない。
倭宿禰命(やまとすくねのみこと)や倭得玉彦命(やまとえたまひこのみこと)や倭得玉命(やまとえたまのみこと)は、京都府北部を統治する海部(あまべ)氏でありながら、倭(やまと)の呼び名を冠して、倭国造(やまとくにみやつこ)と同一氏族だから当然である。
珍彦(うづひこ)は、海部(あまべ)氏と倭直(やまとあたい)の先祖で、仁徳(にんとく)東征1年10月3日(西暦329年11月上旬頃)に登場した吾子籠(あごこ)に当たって、彦坐王(ひこいますのみこ)から始まる出雲系を神格化した国津神(くにつがみ)で、籠船(かごふね)に乗る浦島太郎や京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社などとも合致した。
彦坐王(ひこいますのみこ)は、孝昭(こうしょう)天皇45年5月15日(西暦45年6月中旬頃)生まれで、西暦130年か135年頃まで生きたと考えられて、息子の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)が西暦70年頃の生まれと考えられる。
天御蔭命(あめのみかげのみこと)の息子の宇介水彦命(うけみずひこのみこと)は、丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)で、『先代旧事本紀』の尾張(おわり)氏系図の弟彦命(おとひこのみこと)と同一人物と考えられる。
丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)は、崇神(すじん)天皇39年3月3日(西暦122年4月上旬頃)に京都府宮津市に元伊勢を遷宮した時に御饌(みけ;神にそなえる供物)をささげたことに神の恵みがあって、5人の子供を授かって、垂仁(すいにん)天皇の妃になった娘5人と考えられる。
ある時に丹波(たんば)の甕襲(みかそ;丹波道主王:たにはみちぬしのみこ)の家にいる足行(あしゆき)と言う犬(丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)の家臣;誰か不明)は、貉(むじな;狭穂彦王;さほひこのみこ)を食い殺して、腹(はら)の中から出雲王国の神宝の八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)が出て来て、甕襲(みかそ)が石上(いそのかみ)神宮に献上して、三種の神器に加えられた。
垂仁(すいにん)天皇5年(西暦156年)の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱は、丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)が丹波国造(たにはくにみやつこ;京都府北中部の国主)で、垂仁天皇15年2月15日(西暦166年3月中旬頃)に娘5人を妃に迎(むか)えて、狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱で、三種の神器に八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)が加わるきっかけになった。
丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)は、丹波国造(たんばくにみやつこ;京都府北中部の国主)として西暦150年代まで統治して、西暦80年頃に年齢が10代で、垂仁(すいにん)天皇26年9月17日(西暦177年10月中旬頃)の夜に登場して、104才から107才以上まで生きて、皇族の最高齢である。
宇介水彦命(うけみずひこのみこと)の息子の宇介津彦命(うけつひこのみこと)は、朝廷別王(みかどわけのみこ)で、『先代旧事本紀』の尾張(おわり)氏系図の淡夜別命(たんやわけのみこと)と同一人物と考えられる。
丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)は、垂仁(すいにん)天皇15年2月15日(西暦166年3月中旬頃)に娘5人を垂仁(すいにん)天皇の妃に献上して、5姉妹の弟が10代の朝廷別王(みかどわけのみこ)と考えられる。
『ホツマツタエ』でヒコイマスの孫のタンヤは、朝廷別王(みかどわけのみこ)と同一人物で、淡夜別命が「あわやわけのみこと」でなく「たんやわけのみこと」と発音して、景行(けいこう)天皇52年5月28日(西暦242年6月下旬頃)の大淡夜別(おおたんやわけ)と同一人物で、この時に100才ほどと考えられる。
宇介津彦命(うけつひこのみこと)の息子の小登與命(おとよのみこと)は、『先代旧事本紀』の尾張(おわり)氏系図の乎止与命(おとよのみこと)と同一人物で、西暦170年から180年頃の生まれで、3世紀初頭からの家臣で、仲哀(ちゅうあい)天皇5年9月(西暦256年10月頃)に尾張国造(おわりくにみやつこ;愛知県西部の国主)になったと考えられる。
『ホツマツタエ』でヒコイマスの孫であるタンヤの娘のフタヂイリヒメは、彦坐王(ひこいますのみこ)の孫の淡夜別命(たんやわけのみこと)が朝廷別王(みかどわけのみこ)で、その息子の小登與命(おとよのみこと)に妹の両道入姫(ふたじいりひめ)がいて、日本武尊(やまとたけのみこと)の妃で、仲哀(ちゅうあい)天皇の実母で、海部(あまべ)氏の出身と考えられる。
「記紀」で両道入姫(ふたじいりひめ)は、垂仁(すいにん)天皇の娘として、年代的におかしいと考えられたが、朝廷別王(みかどわけのみこ)の娘なら、「記紀」より古い『ホツマツタエ』の解釈で間違いないと考えられる。
日女命(ひめのみこと)は、別名を小止与姫(おとよひめ)で、小登與命(おとよのみこと)の妹だが、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の台与(とよ)が神功(じんぐう)皇后(豊姫命;とよひめのみこと)の消された名前で、台与卑弥呼(とよひみこ)の呼び名から、小止与姫(おとよひめ)が否定されて、偽装工作したのが明白である。
『海部(あまべ)氏系図』は、女王と勘違いした台与(とよ)を系図に組み込んで、後世の研究者(歴史学会)が完全に勘違いして、騙(だま)そうとしたが超天才の僕をごまかせなかった。
小登與命(おとよのみこと)の息子の建稲種命(たけいなだねのみこと)は、京都府北部の統治者で、尾張(おわり;愛知県西部)にいなくて、西暦200年頃の生まれで、3世紀前半の家臣と考えられて、日本武尊(やまとたけのみこと)の東国平定で、副将軍を務(つと)めた。
妹の宮簀姫(みやずひめ)は、日本武尊(やまとたけのみこと)の妃で、2人の息子を生んで、日本武尊(やまとたけのみこと)の反乱の後に尾張(おわり;愛知県西部)に移住して、3世紀後半から末頃に熱田(あつた)神宮に創建して、初代の神主になって、日本武尊(やまとたけのみこと)と建稲種命(たけいなだねのみこと)と宮簀姫(みやずひめ)が熱田(あつた)神宮の祭神である。
建稲種命(たけいなだねのみこと)の息子の大倉岐命(おおくらきのみこと)は、明確な丹波国造(たんばくにみやつこ;京都府北中部の国主)で、西暦220年頃の生まれで、3世紀中頃の家臣と考えられて、兄弟の尾綱根命(おづなねのみこと)が尾張(おわり)氏の先祖で、ここで明確に丹波(たんば)と尾張(おわり)の統治者が分かれた。
小登與命(おとよのみこと)は、仲哀(ちゅうあい)天皇5年9月(西暦256年10月頃)に尾張国造(おわりくにみやつこ;愛知県西部の国主)に任命されて、孫の大倉岐命(おおくらきのみこと)が丹波国造(たんばくにみやつこ;京都府北中部の国主)で、もう一人の孫の尾綱根命(おづなねのみこと)が尾張国造(おわりくにみやつこ;愛知県西部の国主)を継いで、尾張(おわり)氏と海部(あまべ)氏が明確に分家した。
『ホツマツタエ』の尾張(おわり)氏は、尾張(おわり)氏が海部(あまべ)氏に改名して、海部(あまべ)氏の名字(みょうじ)が尾張(おわり)氏より新しい理由で、『ホツマツタエ』が正しいと考えられる。
京都府福知山市今安の天照玉命(あまてるたまのみこと)神社は、成務(せいむ)天皇時代に大倉岐命(おおくらきのみこと)が神社を創建したと記されて、成務(せいむ)天皇が日本武尊と同一人物だから、正しく求めて仲哀(ちゅうあい)天皇時代から神功(じんぐう)皇后時代(西暦250年代から280年くらい)に神社を創建した可能性が高い。
京都府福知山市大江町の元伊勢内宮は、富士山の山頂と出雲大社を結ぶレイライン(太陽の道)上にあって、西暦254年(仲哀(ちゅうあい)天皇3年)以降に富士山の山頂を測量して、大倉岐命(おおくらきのみこと)が創建して、天照玉命(あまてるたまのみこと)神社と元伊勢内宮が同時期に創建した可能性がある。
大倉岐命(おおくらきのみこと)の息子の明国彦命(あけくにひこのみこと)は、西暦250年頃の生まれで、3世紀後半の家臣と考えられて、大した活躍がない。
明国彦命(あけくにひこのみこと)の息子の難波根子健振熊命(なにわねこたけふるくまのみこと)は、西暦280年頃の生まれで、4世紀初頭の家臣と考えられて、息子の建振熊宿祢(たけふるくまのすくね)が両面宿儺(りょうめんすくな)を討伐して、年代的な勘違いと考えられる。
和珥(わに)氏の先祖の難波根子武振熊(なにわねこたけふるくま)は、『日本書紀』の仁徳(にんとく)天皇65年が仁徳(にんとく)天皇32年(西暦365年)で、飛騨(ひだ;岐阜県北部)の賊の両面宿儺(りょうめんすくな)を討伐したが、年代的に考えて難波根子健振熊命(なにわねこたけふるくまのみこと)の息子の建振熊宿祢(たけふるくまのすくね)に当たると考えられる。
海部(あまべ)氏は、物部(もののべ)氏とも和珥(わに)氏とも同族で、全て彦坐王(ひこいますのみこ)を始祖とする古代太陽神氏族で間違いない。
難波根子健振熊命(なにわねこたけふるくまのみこと)の息子の建振熊宿祢(たけふるくまのすくね)は、西暦300年頃の生まれで、4世紀前半の家臣と考えられて、「記紀」で和珥(わに)氏として、海部(あまべ)氏の血筋で間違いなくて、仲哀(ちゅうあい)天皇と神功(じんぐう)皇后と仁徳(にんとく)天皇の時代に存在したと混乱して、僕にしか正しく解釈できない。
仁徳(にんとく)天皇32年(西暦365年)に両面宿儺(りょうめんすくな)を討伐した和珥(わに)氏の先祖の難波根子武振熊(なにわねこたけふるくま)は、難波根子健振熊命(なにわねこたけふるくまのみこと)の息子の建振熊宿祢(たけふるくまのすくね)に当たると考えられる。
建振熊宿祢(たけふるくまのすくね)の息子の海部直都比(あまべのあたいのつひ)は、初めて海部(あまべ)氏の名字を与えられて、西暦320年頃の生まれで、4世紀中頃の家臣と考えられて、大した事績がない。
海部直都比(あまべのあたいのつひ)の息子は、海部直縣(あまべのあたいのあがた)で、孫が海部直阿知(あまべのあたいのあち)で、曾孫が海部直力(あまべのあたいのちから)で、曾曾孫が海部直勲尼(あまべのあたいのくんに)で、曾曾曾孫が海部直伍佰道祝(あまべのあたいのいほじのはふり)で、系図が途切(とぎ)れたと証明した。
海部直伍佰道祝(あまべのあたいのいほじのはふり)は、7世紀中頃の孝徳天皇時代(西暦645年から654年)の人物で、海部直勲尼(あまべのあたいのくんに)が西暦400年頃の生まれと計算して、途切(とぎ)れた系図が6世代から8世代ほどと考えられて、空白の人物の特定が不可能だろう。
海部直伍佰道祝(あまべのあたいのいほじのはふり)以降の『海部(あまべ)氏系図』は、完全に正しい血筋をずっと伝えると考えられる。
日本最古の系図の『海部(あまべ)氏系図』は、特定できないように偽装工作をほどこしたが、僕を騙(だま)せるはずもなくて、2024年10月17日の午前2時頃に修正し終えた。
<参考文献>
『元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図』
海部光彦・編著者 元伊勢籠神社社務所・発行
『推理◎邪馬台国と日本神話の謎 古代物部氏と『先代旧事本紀』の謎』
安本美典・著者 勉誠出版梶E発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『竹内文書・但馬故事記』
吾郷清彦・著者 新国民社・発行
インターネットの不明サイトから少々拝借
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