天岩戸隠(あまのいわとかく)れ神話

青字は、日本神話の原文を僕が書き直した現代日本語訳で、赤字が僕の現代日本語訳の解釈文で、黒字が僕の完全解釈した説明文などである。

高天原(たかまがはら)で素戔嗚尊(すさのおのみこと)は、数々の暴虐(ぼうぎゃく)をして、天照大神(あまてらすおおみかみ)が神衣を織るために神聖な機殿(はたどの;織物を作る小屋)に入るのを見て、斑(まだら)毛の馬の毛皮をはいで御殿の屋根に穴をあけて投げ入れた。
この時に天照大神は大変に驚いて、先のとがった機織(はたお)りの梭(ひ)で身体にケガを負われて、これに怒って天岩戸(あまのいわと)に入って、岩戸(いわと)を閉じられて、太陽が照らさなくなって、世界中が真っ暗闇になった。
この時に多くの神様が集まって、思兼神(おもいかねのかみ)が深い考えを巡らせて、手力雄神(たぢからおのかみ)を岩戸(いわと)のわきに立たせ、天児屋命(あめのこやねのみこと)と太玉命(ふとだまのみこと)に天香具山(あまのかぐやま)から沢山の榊(さかき)を掘り、上の枝に八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)で、中の枝に八咫鏡(やたのかがみ)で、下の枝に青や白の麻のぬさをかけて、皆で祈祷(きとう)をした。
天鈿女命(あめのうずめのみこと)は、手に纏(ちまき)の矛を持って、天香具山(あまのかぐやま)の榊(さかき)を頭の飾りにして、ひかげのかずらを襷(たすき)にして、かがり火を燃やして、桶を伏せてその上に乗って、天岩戸の前で神がかりになったようにしゃべり踊った。
は「草かんむり」に予の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
この時に天照大神(あまてらすおおみかみ)は、天岩戸(あまのいわと)にこもって、外が真っ暗闇はずなのに、なぜ天鈿女命(あめのうずめのみこと)が喜び笑い騒ぐのかと思って、手で少し岩戸(いわと)を開けて外を見た。
すると手力雄神(たぢからおのかみ)は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の手を取って引き出して、天児屋命(あめのこやねのみこと)と太玉命(ふとだまのみこと)が天岩戸(あまのいわと)にしめ縄を引き渡して、そして神々が天照大神(あまてらすおおみかみ)に天岩戸(あまのいわと)の中に戻らないで下さいとお願いした。
そして神々は、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の罪を許さず、沢山の捧(ささ)げ物をお供えさせて、髪の毛や手足の爪を抜いて、そしてついに高天原(たかまがはら)から追放した。


父親の月読尊(つくよみのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)は亡くなって、息子の素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)が高天原(たかまがはら;大和)に帰還すると、皇位継承権争いが発生して収拾できず、伯母(おば)の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)を素戔嗚尊(すさのおのみこと)が訪問した。
天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)は、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)を迎え撃つ準備をして、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が天照大神(あまてらすおおみかみ)を殺して、太陽が天岩戸(あまのいわと)に隠れて、世界を照らす光が無くなった。
そして神々(皇族と豪族たち)は、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)の太陽神殺しの罪を許さず、高天原(たかまがはら;近畿地方)から追放して、地上の世界(出雲王国)に亡命した。
すると手力雄神(たぢからおのかみ;物部夏花(もののべのなつはな)を神格化)は、天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)の手を取って、天岩戸(あまのいわと)から引き出して、天児屋命(あめのこやねのみこと;誰を神格化したか不明)と太玉命(ふとだまのみこと;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)が天岩戸(あまのいわと)にしめ縄を引き渡して、そして神々(皇族と豪族たち)が天照大神(あまてらすおおみかみ)に天岩戸(あまのいわと)の中に戻らないで下さいとお願いした。


天岩戸隠(あまのいわとかく)れ神話は、天皇不在の年10月7日(西暦251年11月上旬頃)の倭姫命(やまとひめのみこと)の殺害から摂政(せっしょう)元年10月2日(西暦261年11月上旬頃)に神功(じんぐう)皇后を摂政(せっしょう;天皇に代わって政治をする役職)に任命して、父方の天照大神(あまてらすおおみかみ)と母方の天照大神(あまてらすおおみかみ)の交代である。

倭姫命(やまとひめのみこと)と神功(じんぐう)皇后は、『三国志・魏志倭人伝』の女王と勘違いした邪馬台卑弥呼(やまとひみこ)と台与卑弥呼(とよひみこ)で、台与卑弥呼(とよひみこ)が隠された人名の豊姫命(とよひめのみこと)で、父方の天照大神(あまてらすおおみかみ)と母方の天照大神(あまてらすおおみかみ)に神格化した。
邪馬台卑弥呼(やまとひみこ)は、倭姫命(やまとひめのみこと)で、台与卑弥呼(とよひみこ)が神功(じんぐう)皇后の隠された人名の豊姫命(とよひめのみこと)で、日本神話と邪馬台国(大和国;やまとこく)論争が合致すると古代天皇家が熟知して、「記紀」で隠したのが100%間違いない。
栲幡千千姫(たくはたちちひめ;神功(じんぐう)皇后を神格化)は、別名を万幡豊秋津姫(よろずはたとよあきつひめ)で、『ホツマツタエ』が祖母のトヨヒメ(豊姫;高田媛(たかだひめ)を神格化)を記して、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の台与(とよ)に当たって、古代天皇家と出雲王家(物部(もののべ)氏)の血筋と証明して、豊受姫神(とようけひめのかみ)や豊玉姫(とよたまひめ)が別の神様である。
豊受姫神(とようけひめのかみ)は、元々が男神(おがみ)で、彦坐王(ひこいますのみこ)や丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)や垂仁(すいにん)天皇などを神格化して、豊玉姫(とよたまひめ)が磐之姫命(いわのひめのみこと)を神格化して、台与卑弥呼(とよひみこ)と無関係で、これを2025年5月1日の午前2時50分頃に記した。

天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)は、先の尖(とが)った機織(はたお)りの梭(ひ)で陰部を怪我(けが)して、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと;倭姫命(やまとひめのみこと)を祖先化)も先の尖(とが)った箸(はし)で陰部を突いて死んで、太陽神つながりで説明できる。
太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)は、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)に傷つけられて、武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を祖先化)の反乱(皇位継承権争い)で、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと;倭姫命(やまとひめのみこと)を祖先化)が戦死して共通する。
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)は、倭(やまと;大和)の迹(あと;東海平定)の迹(あと;伊勢)で、日(ひ)が百人に襲(おそ)われた姫(ひめ)の命(いのち)と解釈できて、太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ)を祭る倭姫命(やまとひめのみこと)が襲撃されて戦死したことを指し示す名前で、古代太陽神の大物主神(おおものぬしのかみ)の妻で共通する。

神功(じんぐう)皇后は、仲哀(ちゅうあい)天皇2年1月11日(西暦253年2月中旬頃)に正妻(皇后)に迎(むか)えたが、仲哀(ちゅうあい)天皇2年7月5日(西暦253年8月上旬頃)に京都府宮津市で、長男の誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)を出産したと考えられて、計算が合わないため、仲哀(ちゅうあい)天皇元年1月11日に皇后になったのが正しい。
神功(じんぐう)皇后は、仲哀(ちゅうあい)天皇元年1月11日(西暦252年2月中旬頃)に皇后になって、天皇不在の年11月4日(西暦251年12月上旬頃)に息子の蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)が山城(京都府南部)で戦死して、仲哀(ちゅうあい)天皇元年2月8日(西暦252年3月上旬頃)に父の日本武(やまとたけ)天皇が出雲王国(物部(もののべ)氏)に亡命して、出雲王国への配慮で、物部(もののべ)氏の血筋の神功(じんぐう)皇后を皇后に選んだと考えられる。
『ホツマツタエ』のツワモノヌシ(稲瀬彦皇子(いなせひこのみこ)を神格化)は、天岩戸(あまのいわと)の前で、マサカキ(真榊)の枝の上にニタマ(丹玉)、中の方にマフツノカガミ(真経津鏡)、下の方にニキテ(幣;にぎて)を掛けて、トコヨ(常世)の祭りの舞台を作って、アマテルカミ(天照神;神功(じんぐう)皇后を神話化)が天岩戸(あまのいわと)から出て来る時、天岩戸(あまのいわと)にツワモノヌシが注連縄(しめなわ)を張り巡らせて、「な帰りましそ」とアマテルカミに申し上げた。
稲瀬彦皇子は、西暦250年から254年の中部地方より東の東国平定に出陣して、仲哀(ちゅうあい)天皇元年1月11日(西暦252年2月中旬頃)の神功(じんぐう)皇后が皇后になった時、奈良県にいなくて、天岩戸隠(あまのいわと)隠れ以後のアマテルカミ(天照神;神功(じんぐう)皇后を神話化)が摂政(せっしょう)元年10月2日(西暦261年11月上旬頃)に神功(じんぐう)皇后を摂政(せっしょう;天皇に代わって政治をする役職)に任命した時が正しい。
以上の理由は、天岩戸隠(あまのいわと)隠れ以後の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神話化)が仲哀(ちゅうあい)天皇2年1月11日(西暦253年2月中旬頃)の神功(じんぐう)皇后の登場でなく、摂政(せっしょう)元年10月2日(西暦261年11月上旬頃)に神功(じんぐう)皇后を摂政(せっしょう;天皇に代わって政治をする役職)に任命した時を神話化したと証明して、これを2025年1月16日の午前9時10頃に記した。

天岩戸隠(あまのいわとかく)れ神話は、太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)と皇祖神(こうそしん;皇室の祖先神)の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)の交代で、倭姫命(やまとひめのみこと)の殺害と神功(じんぐう)皇后が皇后になった史実(歴史上の事実)に基づく。
倭姫命(やまとひめのみこと)と神功(じんぐう)皇后の交代は、女王と勘違いする卑弥呼(ひみこ)と台与(とよ)が交代で、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の通過点に過ぎない。
景行(けいこう)天皇の崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)の翌年である西暦251年は、日本武(やまとたけ)天皇と息子2人が皇位継承権争いして、日本武(やまとたけ)天皇が伯母(おば)の倭姫命(やまとひめのみこと)を殺して、三種の神器で仮(かり)の天皇に即位して、禁忌の太陽神殺しで出雲王国に亡命して、出雲王国の日本武(やまとたけ)天皇が義娘(ぎじょう)の邪馬台国(大和国;やまとこく)の神功(じんぐう)皇后と敵対関係だった。
この正史(正しい歴史)は、天岩戸隠(あまのいわとかく)れ神話と史実(歴史上の事実)の偽装工作で隠したが、僕が一からひもといて証明した。

『ホツマツタエ』は、5代目タカミムスビ(彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の子孫であるオモイカネの子供がタヂカラヲで、思兼神(物部十市根(もののべのといちね)を神格化)と息子の手力雄神(物部夏花(もののべのなつはな)を神格化)で、出雲王国(物部(もののべ)氏)の血筋である。
天児屋命(あめのこやねのみこと;誰を神格化したか不明)は、平安時代の藤原氏の祖先神で、神様の血筋から物部(もののべ)氏を含むと考えられる。
太玉命(ふとだまのみこと;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)は、忌部(いんべ)氏の祖先神で、太玉命(ふとだまのみこと)の孫か曾孫が軍神(いくさがみ)の経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)として、安倍(あべ)氏と忌部(いんべ)氏の先祖が武渟川別(たけぬなかわわけ)と考えられる。
『富士宮下文書(ふじみやしたもんじょ)』は、忌部(いんべ)氏の祖先神の太玉命(ふとだまのみこと;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)が子孫を蘇我(そが)氏で、藤原氏の祖先神の天児屋命(あまのこやねのみこと;誰を神格化したか不明)が子孫を物部(もののべ)氏で、太玉命(ふとだまのみこと)が左大臣で、天児屋命(あまのこやねのみこと)が右大臣と記して、完全な間違いでない。
太玉命(ふとだまのみこと;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)は、経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)と同一神だから、物部(もののべ)氏の出身で、別神の武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)の子孫が蘇我(そが)氏で、物部(もののべ)氏の子孫が蘇我(そが)氏で間違いなくて、武渟川別(たけぬなかわわけ)が仲哀(ちゅうあい)天皇の左大臣である。

天岩戸隠(あまのいわとかく)れ神話は、皆既日食の発生した西暦247年3月24日と248年9月5日の早朝のどちらかに卑弥呼(ひみこ)が殺された説があるが、全く何の根拠も無い架空の推論で、日本神話を完全解釈した僕の自論を否定できるわけがない。
天岩戸隠(あまのいわとかく)れ神話は、父方の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)と母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)の交代を神話化して、現在の皇室が母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)の子孫で、女系男子天皇である。

太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ)と海神の素戔嗚尊(すさのおのみこと)の戦争は、太陽神のムー大陸と海神のアトランティス大陸の戦争を連想させる。
参考文献『歪(ゆが)められた日本神話』(著者・萩野貞樹 発行・PHP研究所)は、天岩戸隠(あまのいわとかく)れ神話とギリシア神話のゼウスの姉デメテルが弟ポセイドンとのアルカディア地方の一伝で、共通性が偶然で片付けられなくて、戦争を挟(はさ)んだ指導者の交代を神話化したのでなく、シルクロードでギリシア神話を仕入れて、よく似た日本神話を作った可能性が考えられる。
つまりギリシア神話のアルカディア神話は、戦争を神話化した物でなく、シルクロードでギリシア神話を知った古代日本人がよく似た神話を思いついて、天岩戸隠(あまのいわとかく)れ神話を作ったことで、共通性が生まれて、後世の現代日本人が色々考察して、混乱させた可能性が考えられる。

天岩戸隠(あまのいわとかく)れ神話は、『日本書紀』を基(もと)にして、卑弥呼(ひみこ)と台与(とよ)の交代を神話化した。

<参考文献>
『古代日本史への挑戦』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『続・私の半生と古代日本史』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社
『古事記(上)(中)―全三巻―』
著者・次田真幸 発行・株式会社講談社
『完訳秀真伝(上巻)』
編著者・鳥居礼 発行・八幡書店
『ホツマ辞典』
著者・池田満 発行・ホツマ刊行会
インターネットの不明サイトから少々拝借

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