天日槍(あめのひぼこ)


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

天日槍は『日本書紀』の垂仁(すいにん)天皇3年に記されて、『ホツマツタエ』だとアメヒボコやヒボコと呼んで崇神(すじん)天皇39年に記されて、『古事記』だと天之日矛(あめのひぼこ)と呼んで応神(おうじん)天皇時代に記される。

『ホツマツタエ』の崇神天皇39年の天日槍の記述を青字で記す。

崇神天皇39年(西暦122年)に初めて来日した天日槍は、播磨(はりま;兵庫県西南部)から淡路島の宍粟邑(ししあわむら)に向かった。
その時に大友主(おおともぬし)と長尾市(ながおいち)を播磨に派遣して、天日槍が何者なのか尋ねると、「新羅(しらぎ)の王子で名前を天日槍と言い、弟の知古(ちこ)に国を譲り、私は東国仙境の聖(ひじり)の君に服従しようと参りました」と。
使者2人が天日槍のこの返事を崇神天皇に伝えると、「播磨のイテサ邑(むら)でも、淡路島の宍粟邑でも好きな所に居れば良い」とのお言葉があり、すると天日槍は、「もし許されるなら、住む所を求めて各地を巡り見たいと存じます」と請(こ)い願って、崇神天皇がそれをお許しになった。
天日槍はまず宇治川(うじがわ;京都市伏見区南部)に至り、ついで近江(おうみ;滋賀県)の吾名邑(あなむら;滋賀県米原市箕浦付近)に行きその地に住んで、またさらに若狭(わかさ;福井県南部)を巡って但馬(たじま;兵庫県北部)に至ってその地に住み、新羅から連れてきたお伴の陶彦(すえひこ)を狭間谷(はざまたに;滋賀県蒲生郡にある鏡山の麓(ふもと)の鏡谷か?)に残した。
天日槍が持っていた宝物は、葉細珠(はぼそたま)と足高珠(あしたかたま)と鵜鹿鹿珠(うかがたま)と出石小刀(いずしこがたな)と出石槍(いずしほこ)と日鏡(ひかがみ)と熊の神籬簀(ひもろげのず)と胆狭浅太刀(いであさのたち)の8種類で、全て但馬国(兵庫県北部)に納めた。


「あめのひぼこ」が朝鮮語っぽい人名でなく、明らかに日本人の名前であり、天日槍は彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化した古代太陽神と考えられて、実弟の崇神天皇に古代大和朝廷を任せて、本人は自由気ままにしていたのだろうか?
『但馬世継記』の崇神天皇10年の丹波(古代の京都府北中部)平定の記述に「多遅麻国造(たじまくにみやつこ)天日楢杵命(あめのひならぎのみこと)」の名前があり、『ホツマツタエ』によるとアメヒボコの孫がヒナラギで、天日槍来日が創作…つまりでっち上げの作り話だと考えられる。
『播磨国風土記』で天日槍が葦原志挙乎(あしはらしこお;大国主神(おおくにぬしのかみ)の別名)や伊和大神(いわおおかみ;これも大国主神らしい)と争うことが記されて、『筑前国風土記』に「高麗(こうらい)の国の意呂山(おろやま)より降り来し日鉾(ひぼこ)」と記されて、どちらも天日槍がただの人間でなく神様のように考えられる記述である。
このようにしてみると天日槍は、新羅の王子どころか人間でもないように扱われて、古代太陽神として神格化された彦坐王の可能性が高い。
天日槍が巡った播磨と但馬(2つ合わせて兵庫県)と山城(京都府南部)と近江(滋賀県)と若狭(福井県南部)と淡路島が西暦122年に天皇家の勢力下にあったとすると、近畿地方北部を天日槍こと彦坐王か息子の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)が統治したと考えられる。
新羅から連れてきたお伴の陶彦が彦坐王の家臣だとすると、朝鮮半島から来たというのが作り話で、古代大和朝廷の家来の一人ということになる。

天日槍の曾曾孫の田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)は、崇神天皇の息子・垂仁天皇の皇子で、祖別命の母方の血筋が天日槍と考えられる。
祖別命は垂仁天皇の皇子で吉備(きび;古代の岡山県と広島県東部)を平定した吉備津彦(きびつひこ)に祖先化されて、西暦170年代に吉備を平定した武将と考えられて、田道間守に祖先化されたと考えられる根拠がちゃんとあるが、内容が難しくなるので省略する。
天日槍の子孫の血筋はややこしくなるため記さなくて、『古事記』に神功(じんぐう)皇后の母方の血筋が天之日矛と記されているが、『ホツマツタエ』と『日本書紀』の天日槍の血筋が合致して、『古事記』の血筋が滅茶苦茶で僕が『古事記』偽書説の根拠にしている。

垂仁天皇37年(西暦188年)に田道間守が古代中国の後漢王朝の皇帝に謁見したと考えられて、これは邪馬台国が初めて古代中国の王朝に遣使したものである。
天日槍が出石神社に納めた8種類の宝物を八種(やくさ)の神宝(かんだから)と呼んで、『ホツマツタエ』で八種の神宝のの日鏡一面が『古事記』で八種の神宝の辺津鏡(へつかがみ)と奥津鏡(おきつかがみ)と一致して、京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社にある銅鏡の邊津鏡(へつかがみ)と息津鏡(おきつかがみ)に当たると考えられる。
邊津鏡と息津鏡は古代太陽神の火明命(ほあかりのみこと)や饒速日命(にぎはやひのみこと)や天日槍の神宝で、火明命と饒速日命と天日槍が全て彦坐王を神格化して一致して、この3神の神宝とされるから古代天皇家の重要な宝物に当たる。
八種の神宝の胆狭浅太刀は東大寺山(古墳出土)鉄刀に当たると考えられて、東大寺山鉄刀に「中平?年…」と刻まれていて、中平年間(西暦184年から189年)の中平5年(西暦188年)に当たると考えられる。
東大寺山鉄刀の出土した東大寺山古墳は和珥(わに)氏の出身者が埋葬者と考えられて、彦坐王を祖先化した天足彦国押人命(あまたりひこくにおしひとのみこと)が和珥氏の始祖で、これも彦坐王で合致する。
天日槍にまつわる物語はもっとあるが、内容がはるかに複雑で難しくなるのでここまでにしておく。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
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