当たり前だと思うことを疑う


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

現代哲学者エドムント・フッサールは「現象学」で当たり前だと思うことを疑うと考えていて、当たり前が普通のことで変わった所がないことで、常識もその中に含めて間違いないと言えるが、常識が非常識にそして再び常識に変わること…コペルニクス的転回(非常識な考え方の集合体)があることも重要である。
僕らが普段から常識だと思うことも、「思い込み」や錯覚を含んでないかと疑うべきで、学問さえそんな状態であるなら最悪である。

歴史という学問は、過去の先人らが積み上げてきた英知の結晶と言うべきで、常識が日本の政府や国民が間違ったはずで、誰かが正そうと立ち上がらなければ決して変わらない。
歴史認識でコペルニクス的転回を起こした僕は、正せるだけの資格があるか分からないが、たとえ日本国政府を敵に回してでも正すべきことである。
当たり前と思うことを疑うのは、今の日本に置き換えると非常に大きな意味になり、決して簡単に扱って笑い飛ばして良い状況でない。
僕の自論である日本神話や邪馬台国(やまとこく)論争や倭の五王なども疑うべき対象だが、日本の異常な歴史認識の方がもっと疑うべき対象として存在する。

哲学者フッサールの考え方を拡大解釈すると、現代日本は国や民族に関わる一大事になるはずで、いい加減に誰かが問いただすべき時代だと思うが、戦後74年があまりにも長すぎたのかもしれない。
まだ日本という国や民族を大切に思って将来を考えるのなら、これからでも数々の非人道的行為や非常識の歴史認識を公表して、正道や人道に踏み込むべき時代だと宣言すべきでないか?
非人道的行為があったか無かったかあいまいな感覚でなく、確実な事実として受け入れて正していかない限り、日本が正しい道を進むことはないと思っている。

命・魂・精神・戦争・平和などの正しい歴史認識がなければ、いつまでも日本人はあやまちをおかした過去にしばられて、ほどけない見えない鎖につながれたままになるだけだと思う。
哲学者フッサールの考え方は今の日本に当てはめるのが難しいけれど、変わっていかなければ理解することも決してできないことでないかと考えられる。
現代日本の歴史という学問に対する考え方は最低だが、それを良くするも悪くするも政府や国民に突き付けられた最優先事項だと認識すべきである。
今という時代この時この瞬間に生きている僕たちが背負うべき責任があって、それをどのようにするか大切な選択肢である。
今を生きる人たちに残された責任…それは日本が過去におかした罪の償(つぐな)いである。

<参考文献>
『この一冊で「哲学」がわかる!』
白取春彦・編者 株式会社三笠書房・発行
インターネット

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