熱田(あつた)神宮
『ホツマツタエ』景行(けいこう)天皇53年に以下のように記す。
昔の教えにこうあって、『人は神であり、神は人である。神の名はその神の業績をほめ讃(たた)えたものである。神は人として道を立てる。人は素直な心でホツマの教え(『ホツマツタエ』に記された数々の教え)のままに生きれば、死後に真(まこと)の神となる』と。
神のお告げによって、日本武尊(やまとたけのみこと)を熱田神(あつたかみ)として祭って、宮簀媛(みやずひめ)が伊勢の宇治宮(うじのみや)の斎宮(いつきのみや)に準じて神のそばに近くお仕えして、神主も宮司並みの位(くらい)と定めた。
日本武尊(やまとたけのみこと)が亡くなった仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月17日(西暦260年11月中旬頃)以降に熱田(あつた)神宮が創建されて、熱田(あつた)神宮の熱田大神(あつたのおおかみ)が日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化して、妾(めかけ)の宮簀媛(みやずひめ)が伊勢神宮の斎王(さいおう;太陽神に仕える未婚の皇女)に準じる神主の位(くらい)になった。
『ホツマツタエ』の時代は、斎王(さいおう)の下が神主と宮司が同等の位(くらい)で、貴重な神官の位(くらい)の記述である。
仲哀天皇4年9月(西暦255年10月頃)に小止与命(おとよのみこと)は、尾張国造(おわりくにみやつこ;愛知県西部の国主)に任命して、娘の宮簣姫(みやずひめ)と孫(宮簀媛(みやずひめ)の甥;おい)の尾綱根命(おづなねのみこと)が愛知県に行ったのが西暦255年以降で、宮簣姫(みやずひめ)が熱田(あつた)神宮の神主になったのが260年の日本武尊(やまとたけのみこと)の死後である。
尾張(おわり)氏の始祖は、彦坐王(ひこいますのみこ)で、氏祖(しそ)が海部(あまべ)氏と分かれた最初の人物の尾綱根命(おづなねのみこと)で、祖父の小止与命(おとよのみこと)と娘の宮簀媛(みやずひめ)と孫の尾綱根命(おづなねのみこと)が尾張(おわり;愛知県西部)にいた史実(歴史上の事実)で確認できると考えられる。
西暦255年以前は、海部(あまべ)氏が尾張(おわり;愛知県西部)にいなくて、255年に海部(あまべ)氏と尾張(おわり)氏が分家したことが証明できて、尾張(おわり;愛知県西部)の元伊勢を否定して、元伊勢と尾張(おわり)氏を結び付けたのが真実で、僕の自論が間違いないと考えられる。
熱田(あつた)神宮は、西暦260年から290年頃に宮簀媛(みやずひめ)が初代の神主として創建して、日本武尊(やまとたけのみこと)に縁(ゆかり)の草薙剣(くさなぎのつるぎ)を奉納したのが仁徳(にんとく)天皇の即位した西暦334年よりも後と考えられる。
神功(じんぐう)皇后の摂政(せっしょう)3年1月3日(西暦263年2月上旬頃)に誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)を立太子(りったいし;皇太子になること)して、八重垣剣(やえがきのつるぎ)を三種の神器からはずして、草薙剣(くさなぎのつるぎ)を三種の神器に加えて、日向(ひうが;宮崎県)に行かせた。
神武(じんむ)東征(仁徳(にんとく)東征)で、宮崎県から奈良県に東征した仁徳(にんとく)天皇は、仁徳(にんとく)天皇元年1月3日(西暦334年2月上旬頃)に即位して、それ以降に草薙剣(くさなぎのつるぎ)を熱田(あつた)神宮に奉納して現在に至るが、それ以前の草薙剣(くさなぎのつるぎ)を奉納した神社が伊勢神宮内宮と考えられる。
熱田(あつた)神宮は、宮簀媛(みやずひめ)が初代の神主で、時期も祭神も『ホツマツタエ』と『日本書紀』から正しく特定できた。
<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
インターネットの不明サイトから少々拝借
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