古代天皇家の文化の秘密

ユーチューブの【日本の窮状】の「ギネス認定 地球上最古の国 日本」は、2024年5月29日の午後2時頃に見始めて、このページをまとめるために細かく調査・分析しながら、午後8時頃に記録し終えた。
明治天皇の玄孫(やしゃご)の竹田恒泰(たけだつねやす)氏は、作家や実業家で、皇室関連や政治・経済などのコメンテーターなどで知られて、このユーチューブの動画を解説されて、僕も非常に優秀な考え方を持つ人物と見受けて、世間の評価が間違いないと思う。

日本の建国は、考古学会(遺跡・遺物)が1700年から1800年前頃までさかのぼって、古代天皇家の実在が間違いないと考えるが、2世紀中頃から3世紀中頃の邪馬台国(大和国;やまとこく)論争が畿内説と九州説に分かれて、神武(じんむ)東征を神武(じんむ)天皇元年(紀元前660年)の前5年間でなく、邪馬台国(大和国;やまとこく)時代としたりして、認識力の限界が見受けられる。
現代人(僕以外の人間)の認識力は、思い込みが常識・固定観念・先入観・理屈・伝統・拡大解釈などに含まれて、意識して排除できる僕の神技(かみわざ)に追い付けず、『ホツマツタエ』や「記紀」の編者(へんしゃ)の罠(わな)にはまって、僕におんぶに抱っこされて、初めて正しい歴史研究の出発点に立てる。
世界各国の略年表は、世界中の国々が次々に王朝が交代するが、日本だけが西暦84年の建国(天皇家誕生)から今年が建国1940年目で、単一の系譜の王朝を存続して、日本の歴史で最大の特徴がとにかく長く王朝が続くことで、日本の建国年の特定が僕の大偉業である。
皇室が長く存続した理由は、良い国だからと言えて、悪い国なら国民が一斉蜂起するはずで、皇室が国民の一斉蜂起や未遂が一度もなくて、国民が反乱したこともなく、戦国時代などがあっても、王朝の交代や国が入れ替わったわけでなく、皇室がずっと単一で王朝をつないで、世界中の国々との圧倒的な違いである。

世界中の王朝と国民の関係は、世界中の王の住処(すみか)と皇居の違いが分かりやすくて、世界中の王が軍事要塞や城の中に住んで、高い壁などに囲まれて、国民が攻めても、王の身を守る安全が第一である。
今の皇居は、元江戸城で堀(ほり)があって、京都御所が1331年から1869年までの約500年を皇居として、堀(ほり)も櫓(やぐら)も石垣もなくて、もしもの時の兵の駐留(ちゅうりゅう)施設もなくて、装備しない丸腰で、国民が攻めて来ることを不安に思う天皇がいなかったと考えられて、今の京都御所が皇室の文化を紹介する場所である。
中国やヨーロッパは、町を攻めるために大砲を使って、日本が城を攻める以外に大砲を使わなくて、戦国時代などの戦争がひどいと思うが、民間人が攻撃されたのが戦時中の米軍の空襲が初めてである。
日本の天皇と国民の間は、建国からずっと、利害関係が対立しなくて、歴代天皇が国民の幸福を考え続けて、共存を望んだ結果と考えられて、世界中で君主と民主がそもそも対立する考え方で、統治したり統治されたり、税を取る者と取られる者などに分かれて、王が得して、民が損して、利益の相反が関係して、絶対王政を倒したフランス革命のような極端な考え方がなかった。

初代の崇神(すじん)天皇陵の最有力候補は、瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)の全長が約26メートルで、2代目の垂仁(すいにん)天皇陵の纏向(まきむく)石塚古墳が全長96メートルで、3代目の景行(けいこう)天皇の陵箸墓(はしはか)古墳が全長280メートルで、3つ共に前方後円墳の形で、どんどん巨大化して、古代天皇家の勢力の拡大を証明した。
最古の前方後円墳の纏向(まきむく)石塚古墳は、垂仁(すいにん)天皇39年12月10日(西暦191年1月上旬頃)に葬礼した垂仁(すいにん)天皇陵で、3世紀後半に古墳が東北地方南部から九州南部まで作られて、仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月11日から17日(260年11月中旬頃)に出雲王国(物部(もののべ)氏)が崩壊して、東北地方南部から九州南部までが古代天皇家の統治下に入った。
西暦84年に奈良県は、初代の崇神(すじん)天皇が建国して、西暦94年に丹波(たんば;古代の京都府北中部)を崇神(すじん)天皇の実兄である彦坐王(ひこいますのみこ)の息子の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)で、西暦95年に彦坐王(ひこいますのみこ)が初代出雲国王として出雲王国(物部(もののべ)氏)を建国した。
西暦180年に吉備(きび;岡山県と広島県東部)は、祖別命(みおやわけのみこと)が平定して、その子孫が吉備(きび)氏で、九州の全土が西暦202年から209年に平定されて、九州の全土に統治者を任命して、3世紀頃の考古学(遺跡・遺物)が大和と丹波(京都府北中部)と出雲と吉備(きび;岡山県と広島県東部)と九州北部を中心にして、古代天皇家の統治体制を完成して、連合のために戦争がなかったと証明した。
弥生時代後期初頭(西暦100年頃)は、西暦84年の日本の建国(天皇家誕生)で、上記の土地を平定する戦争をして、摂政(せっしょう)元年2月(西暦261年)に神功(じんぐう)皇后に鹿坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)の兄弟が皇位継承権争いを起こして、3世紀中頃から考古学的に戦争が確認されず、日本各地が連合の王権(古代天皇家)にまとめられて、戦争の痕跡(こんせき)がない。
鹿は「鹿」の漢字の下に弭で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
世界中の歴史は、統一国家ができる時に大規模な戦争が起こるが、3世紀中頃より後の古代天皇家がたびたび戦争しても、簡単に話し合いで解決して、これほどの出来事が世界的にも少なくて、高く評価する必要がある。

神武(じんむ)天皇の建国(天皇家誕生)の理念は、美化した物だろうが、私たち日本人が一つの家族で、日本列島が私たちの家で、西暦84年の建国(天皇家誕生)から西暦261年の皇位継承権争いまで戦争だらけで、考古学(遺跡・遺物)で弥生時代後期が戦争だらけで、古墳時代初頭から平和になって、苦しい時や大変な時に奪(うば)い合わず、皆で協力する道を選んだ。
弥生時代前期から九州北部は、鉄器を朝鮮半島から仕入れて、弥生時代後期に島根県と鳥取県と京都府と淡路島で、古代天皇家が鉄器を大量に入手して、武器で全国統一でなく、鉄製の農機具を作って、考古学(遺跡・遺物)から見て、流血の時代でなく、仲良く国作りしたと考えられる。

古代天皇家は、宗教と婚姻関係で、勢力を拡大して、平和的に全国を統一したのが結果論かもしれないが、『ホツマツタエ』や「記紀」などの歴史学(歴史書解釈)が証明して、皇室の歴史が文献的に正しいと証明した。
出雲の国譲(くにゆず)り神話は、伊勢の天照大神(あまてらすおおみかみ)に屈服したが、出雲の宗教の出雲大社を存続して、後世まで残してほしいと願って、3世紀末頃に島根県松江市の神魂(かもす)神社を古代の出雲大社として、西暦716年に今の島根県出雲市大社町杵築に出雲大社を遷宮して、伊勢神宮と出雲大社の祭り方が違って、別の宗教と考えられる。
「記紀」は、宗教の自由を認めて、その神が邪神だから、こちらの神を祭れとなると、宗教戦争になるが、私たちがこの神を祭って、あなた方がその神を祭って、山の神や水神や雷神など、共通の祖先神から分かれた神々の系図があって、伊勢と出雲と三輪山(みわやま)と熱田(あつた)と宗像(むなかた)と住吉(すみよし)の神様も共通の祖先神から分かれて、バラバラの宗教を神道で統一して、日本神話にまとめた。
分裂した宗教は、よく殺し合いの戦争があって、神道のように統合したのが貴重な事例で、神道と仏教も物部守屋(もののべのもりや)と蘇我馬子(そがのうまこ)の丁未(ていび)の乱や明治時代の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)など対立したが、神道のような柔軟性(フレキシビリティ)が重要である。
伊勢神宮は、男性の古代太陽神の天照神(あまてるかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)を祭ったが、女性の太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)と神功(じんぐう)皇后を神格化)に交代して、出雲大社が大国主神(おおくにぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)と飯入根(いいいりね)を神格化)を祭って、出雲大社が物部(もののべ)氏の宗教だった。
伊勢神宮は、太陽神を祭って、三輪山(みわやま)が蛇神で、男性の古代太陽神の大物主神(おおものぬしのかみ;7人の出雲国王を神格化)を祭って、出雲大社が太陽神の神格が消えた大国主神(おおくにぬしのかみ)を祭って、三輪山(みわやま)の大物主神(おおものぬしのかみ)と出雲大社の大国主神(おおくにぬしのかみ)が物部(もののべ)氏の血筋を神格化して、宗教的な違いを僕が求めた。
太陽神の伊勢神宮は、天皇家の宗教で、三輪山(みわやま)と出雲大社が物部(もののべ)氏の宗教で、熱田(あつた)神宮の熱田大神(あつたおおかみ;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)が別の宗教で、宗像(むなかた)三神(景行(けいこう)天皇と弟橘姫(おとたちばなひめ)の3つ子の娘を神格化)が厳島(いつくしま)の宗教で、住吉(すみよし)大社が綿津見神(わたつみのみこと;誰を神格化したか不明)の3神が物部(もののべ)氏の血筋で、全て神々の血筋がつながる。

日向(ひうが;宮崎県)の天孫降臨神話は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと;誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)を神格化)の妻が山の神の娘である木花開耶姫(このはなさくやひめ;仲姫(なかひめ)を神格化)と結婚して、火火出見尊(ほほでみのみこと;仁徳(にんとく)天皇を神格化)を生んだ。
火火出見尊(ほほでみのみこと)は、海神(わたつみ;葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を神格化)の娘の豊玉姫(とよたまひめ;磐之姫命(いわのひめのみこと)を神格化)と結婚して、盧茲草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと;誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化)を生んで、山の神と海神(かいしん)の血筋を引いて、遠い先祖に天照神(あまてるかみ)と天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)と神功(じんぐう)皇后を神格化)の太陽神もつながる。
は「盧へん」に鳥の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
は「茲へん」に鳥の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
盧茲草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと;誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化)の息子の神武(じんむ)天皇(仁徳(にんとく)天皇を祖先化)は、三輪山(みわやま)の系統である八重事代主神(やえことしろぬしのかみ;葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を神格化)の娘の豊玉姫(とよたまひめ;磐之姫命(いわのひめのみこと)を神格化)と結婚して、4つ子の息子を生んで、3人の息子が天皇になった。
古代天皇家の婚姻関係は、平和的に全国を統一して、「記紀」や多くの歴史書で、東北地方南部から九州南部までの古代豪族と古代天皇家の子孫が結婚して、歴代天皇が古代豪族の娘と婚姻したとも記して、僕が少なからず血筋や年代を特定して、日本各地の古代豪族が皇室の遠戚になったと証明した。
古代天皇家は、鉄器を武器に使わずに戦争をしないで、宗教や婚姻関係で、平和的に長期間を見越したのか、結果論か分からないが、皆で協力して、ほとんどの日本人も外国人も知らなくて、その史実・真実・事実が重要である。

中国4000年の歴史や朝鮮の檀君の建国神話が紀元前2333年などは、完全な嘘(うそ)やデタラメで、僕の求めた古代天皇家の正史(正しい歴史)を見習って、考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)で証明して、初めて語ることのできる事実である。

<参考文献>
https://www.youtube.com/watch?v=OincIalWj5Y
インターネットの不明サイトから少々拝借

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