年代・内容の変更・改変


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

年代・内容の変更・改変は『ホツマツタエ』でも「記紀」でもかなり高度な偽装工作で、『ホツマツタエ』を4世紀前半以降に編纂(へんさん)した古代天皇家も、『日本書紀』を西暦720年に編纂した天皇家も、かなりの労力だったのが想像できる。
年代・内容の変更・改変は専門家がどんなにやっても想像できない領域で、アインシュタイン博士以上の天才の僕でなければ求められない聖域で、圧倒的なレベルのコペルニクス的転回(非常識な考え方の集合体)を要求される。
僕でも少し間違えば編者の手の上で踊らされて、専門家の出る幕などどこにもない。
年代の変更・改変は『ホツマツタエ』も『日本書紀』も同じようにされていて、西暦年の把握がされていてうまくごまかしたり、歴代天皇時代を他の天皇時代の年代にすり替えたりとこざかしい。
内容の変更・改変は『ホツマツタエ』も『日本書紀』もしていて、記述内容を系図の神格化・祖先化・子孫化でごまかしたり、記述内容を全く違うものにでっち上げたりと多岐に渡る。
年代・内容の変更・改変は全てが求められた時、初めて『ホツマツタエ』や「記紀」などの歴史書の真価が分かる。

『ホツマツタエ』で崇神(すじん)天皇60年の出雲王国崩壊は、西暦260年(仲哀(ちゅうあい)天皇9年)の出雲王国攻撃を仲哀天皇時代から崇神天皇時代に変更したものである。
『日本書紀』で神功(じんぐう)皇后の摂政(せっしょう)39年など魏王朝遣使の記述は、西暦239年(景行(けいこう)天皇49年)の魏王朝遣使を年代変更したもので、摂政66年の西晋王朝遣使の記述が、摂政6年の西晋王朝遣使を年代変更したものだったりする。
『ホツマツタエ』で垂仁(すいにん)天皇37年(西暦188年)の後漢王朝遣使は、垂仁天皇3年の記述が垂仁天皇の崩御(ほうぎょ)年(西暦190年)から逆算して数えての西暦188年で、垂仁天皇88年が西暦188年を垂仁天皇時代の年代への変更で、垂仁天皇90年が60年を引き算して垂仁天皇30年(西暦181年)となって、西暦年の利用だけでも多岐に渡る。

『ホツマツタエ』で崇神天皇時代の大物主神(おおものぬしのかみ)の祟(たた)りは、垂仁天皇時代の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱を神話化して、狭穂彦王を2代目の大物主神に神格化したもので、垂仁天皇時代に大物主神の祟りがあったのである。
『日本書紀』で雄略(ゆうりゃく)天皇の在位期間を西暦456年から479年としたのは、明らかに倭の五王の倭王「武」を意識させるためで、倭王「武」が南朝宋王朝と外交した西暦478年を盛り込んだ点から明白である。
倭王「武」と雄略天皇の国風諡号(しごう)・大泊瀬稚武尊(おおはつせわかたけるのみこと)の「武」という漢字が共通だとするのが定説だが、倭王「武」が古代中国語読みで国風諡号の「武(たける)」が現代日本語読みで、これを同一とするのがシロウト認識である。
『ホツマツタエ』と『日本書紀』の年代の変更・改変は、歴代天皇時代の勘違いなどを起こさせるためで、邪馬台国時代と倭の五王時代などを正しく知れば求められる。

『ホツマツタエ』で崇神天皇60年に出雲(いづも)の神主で兄のフリネが出かけていて、弟のイイリネが神宝を出して、息子のウカツクヌと弟のウマシカラヒサに持って行かせて、帰って来たフリネがそのことを知ってイイリネを殺した。
兄フリネが弟イイリネを殺した時、イイリネをイヅモタケルと表現していて、その報告を受けた天皇がキビヒコとタケヌワケに命じてフリネを殺して、フリネが討たれて出雲の家臣が恐れて神の祭りをせず、ある時天皇の命で出雲の神を祭った。
『古事記』でフリネがイイリネを殺した時とそっくりな状況で、倭建命(やまとたけのみこと)が出雲建(いずもたける)を殺して、日本武尊(やまとたけのみこと)がフリネで出雲建がイイリネと同一人物だと考えられて、『ホツマツタエ』でフリネを殺したキビヒコと吉備(きび)を平定したキビツヒコは別人であると考えられる。
西暦260年(仲哀(ちゅうあい)天皇9年)に出雲王国へ亡命した日本武尊(フリネ)は、出雲王国攻撃を陣頭指揮する神功皇后に神宝を返した出雲国王の飯入根(いいいりね;イイリネ・出雲建)を殺して、神功皇后の命で吉備武彦(きびたけひこ;キビヒコ)と武渟川別(たけぬなかわわけ;タケヌワケ)の軍勢に日本武尊が殺されて、指導者を失った出雲王国の家臣が恐れて反撃しなかった。
神功皇后を恐れてしばらく出雲王国の戦死者を神格化せず、西暦270年以降に濡渟(うかずくぬ;ウカツクヌ)が出雲大社初代宮司になって、日本武尊を素戔嗚尊(すさのおのみこと)に飯入根を大国主神(おおくにぬしのかみ)に神格化して祭り、濡渟の子孫が今の出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏である。
は「盧へん」に鳥の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。

『日本書紀』で仲哀天皇9年(西暦320年)に仲哀天皇が新羅(しらぎ)を攻めて神功皇后が三韓征伐をしたのは全て嘘で、本当にしたのが逆賊の日本武尊を討伐する出雲王国攻撃で、朝鮮半島攻撃と出雲王国攻撃を内容の変更・改変をさせたのである。
『ホツマツタエ』と『日本書紀』の内容の変更・改変は、歴代天皇時代の混乱などを起こさせるためのもので、歴代天皇時代の西暦年にどのような歴史があったか分っていれば混乱しない。
これまで挙げた年代・内容の変更・改変はごく一部で、専門家がとても太刀打ちできるものでなく、アインシュタイン博士以上の天才の僕に一任するしかなく、専門家がいかに無力か自覚しなければならず、現実を直視できるかが今後の課題である。

<参考文献>
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『古事記(中)―全三巻―』
次田真幸・著者 株式会社講談社・発行
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
石原道博・編訳者 株式会社岩波書店・発行
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
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