瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)

宮内庁指定の崇神(すじん)天皇陵は、奈良県天理市の4世紀後半の築造と考えられる242メートルの行燈山(あんどんやま)古墳だが、完全な間違いである。

崇神(すじん)天皇68年12月5日に崇神(すじん)天皇は、こと切れて何も言わず、崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、垂仁(すいにん)天皇元年10月11日に亡骸(なきがら)を山辺(やまのべ)に葬礼した。

孝安(こうあん)天皇102年1月9日に孝安(こうあん)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)は、崩御(ほうぎょ)して、息子の孝霊(こうれい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)が喪(も)に服して、48日の神葬祭をして、新しい皇居に御座(おわ)して、政治を聞こえ召(め)した。
9月3日に孝安(こうあん)天皇の亡骸(なきがら)は葬礼して、この時に5人の従者が殉死(じゅんし;主人の後を追って従者が死ぬこと)して供に納(おさ)めて、孝安(こうあん)天皇を秋津神(あきつかみ)の神名で祭った。

崇神(すじん)天皇68年12月5日(西暦152年1月上旬頃)に崇神(すじん)天皇は、崩御(ほうぎょ)して、皇太子の垂仁(すいにん)天皇が喪(も)に服して、48日の神葬祭をして、垂仁(すいにん)天皇元年10月11日(西暦152年11月中旬頃)に亡骸(なきがら)を葬礼して、5人の従者が殉死(じゅんし)して供葬して、崇神(すじん)天皇を秋津神(あきつかみ)の神名で祭った。

『日本書紀』の崇神(すじん)天皇陵の名称は、山辺道上陵(やまのべみちうえのみささぎ)で、『古事記』の名称が山辺道勾岡上陵(やまのべみちまがりおかうえのみささぎ)で、「記紀」が適当に名前を増やして、考古学の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)の名前がなく、『ホツマツタエ』から山辺陵(やまのべのみささぎ)と僕が自称して、後世に呼ぶと考えられる。

崇神(すじん)天皇陵は、間違いなく殉死(じゅんし)者を供葬して、秋津神(あきつかみ)の神名が神武(じんむ)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)31年でなく、崇神(すじん)天皇31年4月1日(西暦114年5月上旬頃)に崇神(すじん)天皇が日本国を秋津洲(あきつしま)と名付けたことに基づくと考えられる。
孝霊(こうれい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)から開化(かいか)天皇(日本武尊(やまとたけのみこと)を祖先化)までの天皇陵は、殉死(じゅんし)者がいなくて、垂仁(すいにん)天皇時代に殉死(じゅんし)を禁止したためである。48日の神葬祭は、今の四十九日で、古代と一日の日数違いがあると調べてみても面白い。

前方後円墳の形の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)は、築造年代が紀元前3世紀頃(約2200年前)の香川県高松市の高松空港跡地(あとち)遺跡が最古で、前方後円墳の形が天皇家誕生より前の時代で、天皇家と無関係で、高松空港跡地(あとち)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)が瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)につながったと考えられる。
崇神(すじん)天皇陵の最有力候補は、奈良県橿原市の瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)で、全長が約26メートルで、2016年に発掘結果を発表して、天皇陵だから前方後円墳の形と考えられて、埋葬者が見つからず、2世紀中頃から後半頃の築造年代で、前方後円墳をネット検索して、2022年10月18日に求めた。
正統『竹内文書(たけのうちもんじょ)』は、前方後円墳の形の不明な伝承を伝えて、歴代天皇陵が全て前方後円墳の形と伝えるなら、西暦152年葬礼の崇神(すじん)天皇陵が瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)と確定して、正統『竹内文書(たけのうちもんじょ)』が古墳時代の前方後円墳の呼び名を伝える可能性も考えられる。

崇神(すじん)天皇12年(西暦95年)は、出雲王国(物部(もののべ)氏)ができて、垂仁(すいにん)天皇元年(西暦152年)に崇神(すじん)天皇陵の最有力候補である瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)ができたと考えられて、前方後円墳の誕生年(西暦190年年末から191年年始頃)まで時間があって、出雲から前方後円墳の形の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)が見つかる可能性がある。

『ホツマツタエ』孝昭(こうしょう)天皇49年1月1日に世襲足媛(よそたりひめ)は、孝安(こうあん)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)を生んで、西暦49年2月上旬頃(孝昭(こうしょう)天皇49年1月1日)に崇神(すじん)天皇が生まれて、崇神(すじん)天皇68年12月5日(西暦152年1月上旬頃)に亡くなって、102才と考えられる。
『三国志・魏志倭人伝』は、「其国本亦以男子為王、住七八十年、倭国乱」と記して、大和国が男性を天皇で、建国から72年目の西暦156年に狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(倭国大乱;わこくたいらん)が起きたと訳して、68年間の在位期間が正しいと考えられる。歴代天皇の最高齢は、上皇様の90才だが、僕が崇神(すじん)天皇を102才と求めて、事実上の最高齢を特定した。

崇神(すじん)天皇陵は、最有力候補の瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)と考えられて、前方後円墳の形である。

<参考文献>
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社
『完訳秀真伝』
編著者・鳥居礼 発行・八幡書店
インターネットの不明サイトから少々拝借

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