『魏志倭人伝』


『魏志倭人伝』は古代中国の魏王朝(西暦220年建国〜265年滅亡)が書き残した歴史書で、西晋王朝の文官の陳寿(西暦233年出生〜297年死亡)がまとめて、邪馬台国の存在した3世紀に書かれて信頼性が高い。
『魏志倭人伝』は『三国志』魏志巻三十 東夷伝倭人という名前で、ばらばらに組み合わせて『魏志倭人伝』の造語を作って、僕が著書で使うのが『三国志・魏志倭人伝』の造語である。
邪馬台国論争の必読の本で、邪馬台国を語るならこの書物をおいて他にない。

『魏志倭人伝』は邪馬壱国(やまいちこく)と記して、『後漢書』の邪馬台国(やまとこく;大和国)と『魏志倭人伝』の邪馬壱国の漢字がよく似ているのが原因で、女王の台与(とよ)でなく壱与(いちよ)が正しい説もあるが、現代哲学理論「現象学」の「思い込みの数だけ解釈がある」の通りである。
『後漢書』の邪馬台国が正しいのは、僕が証明した古代天皇家の正史で分かり切っている。
『魏志倭人伝』の壱与が間違いで、台与が正しいのも古代天皇家の正史で実証済みである。

邪馬台国論争は畿内説と九州説が中心で、極端なのが沖縄説や北海道説やフィリピン説などである。
しかしどれも間違いで、僕だけが考古学的証拠と歴史書解釈を合致させて、全てを証明した古代天皇家の正史で解決する。
アインシュタイン博士以上の超天才の僕を凡人レベルの専門家と一緒にするのが不可能で、超次元の無限大の天才を相手にできない現実である。
認識力などで僕は、何十も何百も凡人と圧倒的に違う理由を列挙できるだろう僕を相手にできる人間が地上にいると思えない。

『後漢書』でも記したが、『魏志倭人伝』も邪馬台国(大和)と女王国(伊勢)の2国が書かれて、明確に別国として区別するのが自明の理である。
北九州4ヶ国(北九州の属国)の定説は考古学会の間違いで、僕の自論が正しいのが100%当たり前で、この程度の解答も示せないのが現状である。
邪馬台国の王都は纏向(まきむく)遺跡で景行(けいこう)天皇の皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)で、箸墓(はしはか)古墳が景行天皇陵と考えられて、邪馬台国論争が僕からすれば簡単すぎる。
しかし現代人はその程度の考え方もできず、新井白石の亡霊や常識・固定観念・先入観・理屈・伝統などに捕らわれて、全く新しい考え方を生み出す気構(きがま)えさえない。

こんな程度の連中の研究する結果など雀(すずめ)の涙で、一生かかっても僕の足元にも及ばないのが当然の旧体質である。
これからの時代を作っていくのは僕で、革命家の真骨頂の本領発揮である。

<参考文献>
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
石原道博・編訳者 株式会社岩波書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行

戻る