『魏志倭人伝』の解釈1


これは僕の最初の本『古代日本史への挑戦』から抜粋して、元々2007年9月に出版しているので多少の解釈変更もある。
『魏志倭人伝』の原文を青字、僕の解釈を赤字、僕の説明文を黒字で記す。

従郡至倭、循海岸水行、歴韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国七千余里。

帯方郡から古代日本に至るため、海岸に従って海路を取って、馬韓(朝鮮の小国)を越えて、あるいは南(南南東?)と東(東北東)を進んで、帯方郡の海岸から狗邪韓国(王都は韓国の金海(キメ)である)に至るのが7千里余り。

帯方郡の所在地は『後漢書』に記した通り不明で、狗邪韓国(加羅(から)や伽耶(かや)と呼ばれる朝鮮の一国)が王都を金海で、考古学的証拠から不動である。

始度一海千余里至対海国。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百余里。土地山険、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸、無良田、食海物自活、乗船南北市糴。

始めの一海を渡って対馬国に千里余りで至る。その大官は首長(ひとごのかみ)で、副官が夷守(ひなもり)。周囲は住める陸地の無い島で、四方が4百里余り。山林の多い土地で、獣道のような道路がある。家は千戸余りで、田が稲作に適さず、海産物が中心の自給自足で、南北の島を船で往来して市場で売買する。

大官の卑狗と副官の卑奴母離を古代中国語読みから想定して、首長と夷守が統治者だと考えられて、一支国も同じ統治者とされる。
対海国は別の記述で対馬国とも記されて対馬で間違いなく、方向が記されないのが南東に向かうからで、対馬の国都が年代がずれるが塔の首遺跡の近くに存在したと考えられる。
『魏志倭人伝』の記述の方角は南が南南東で東が東北東で、東西南北と北東と北西と南東と南西胃の8方向が記されない鉄則があって、僕の解釈した方角が一切間違っていない。
対馬の統治氏族は天日神命(あめのひのみたまのみこと)またの名を天照魂命(あまてるたまのみこと)を先祖とする氏族で、彦坐王(ひこいますのみこ)の直系子孫の和珥(わに)氏か近縁氏族と考えられて、この一族がこの時代の統治者で間違いないだろう。

又南渡一海千余里、名曰瀚海、至一大国。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里。多竹木叢林、有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。

また南(南南東)に一海を渡って千里余りで壱岐国に至って、その間の海を瀚海(対馬海峡;東水道)と呼ぶ。また大官は首長で、副官が夷守。四方が3百里である。竹林や森林が多く、家は3千戸ほどで、少し田があって耕してもまだ食糧不足で、船で南の九州本土と北の対馬を往来して市場で売買する。

一大国は別の記述で一支国とも記されて壱岐島で間違いなく、壱岐島の国都が考古学的証拠から原の辻遺跡で間違いないだろう。
壱岐島の統治氏族は月神命(つきのみたまのみこと)を先祖とする氏族で、月読尊(つくよみのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)と同一神か分からず、この一族がこの時代の統治者で間違いないだろう。

『魏志倭人伝』を正しく解釈できない者が邪馬台国論争を混乱させて、完全解釈できる僕が正しく導くしかない。

<参考文献>
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
石原道博・編訳者 株式会社岩波書店・発行
『NHKブックス[919]卑弥呼の居場所 狗邪韓国から大和へ』
高橋徹・著者 日本放送出版協会・発行

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