『魏志倭人伝』の解釈2
これは僕の最初の本『古代日本史への挑戦』から抜粋して、元々2007年9月に出版しているので多少の解釈変更もある。
『魏志倭人伝』の原文を青字、僕の解釈を赤字、僕の説明文を黒字で記す。
又渡一海千余里至末盧国。有四千余戸。浜山海居、草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆冗没取之。
冗は「さんずいへん」に冗の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
また一海を渡って千里余りで蓑生(みのふ;福岡県福津市西部)国に至る。家は4千戸余りある。山や浜辺にそって居住して、草木が盛(さか)んに茂(しげ)って、歩いても前を行く人の姿が見えない。魚やアワビを取って、水深が深くても浅くても、皆が潜(もぐ)って取る。
北九州4ヶ国の定説は、松浦郡の唐津市で末盧館という博物館があっても、方角と国名の現代日本語読みが間違いで、自論の筑前(ちくぜん)国宗像(むなかた)郡蓑生郷の福津市西部が正しくて、壱岐島から福津市の方向が真東で、鉄則の8方向を記さないことにしたがっている。
末盧館に北九州4ヶ国の定説は間違いのメールを出したが無視されて、世界でただ一人正しいことを知る僕が12年前に最初の本を考古学を教える大学25ヶ所に送ったが真相を把握できず、邪馬台国論争の決着が付くことがなかった。
末盧館の挙げる考古学的証拠は全て嘘で、統治者のいない国に考古学的証拠をともなうと考えにくく、そもそも方角と国名の現代日本語読みを間違っている事実を見ない考古学会が僕に勝てるわけもない。
統治者のいない国の記述を軽んじるシロウトの学者は馬鹿で、アインシュタイン博士以上の天才の僕を甘く見る者共に知らしめる必要がある。
東南陸行五百里到伊都国。官曰爾支、副曰泄謨觚柄渠觚。有千余戸。世有王、皆統属女王国。郡使往来、常所駐。
東南東の陸路を行って5百里で位登(いと;福岡県田川郡糸田町)国に至る。大官は稲置(いなき)で、副官が伴造(ともみやつこ)。家は千戸余りである。世々に王がいて、皆が天皇の統治する大和国(奈良県)に属する。帯方郡からの使者が往来して、常駐した場所だった。
大官の爾支と副官の泄謨觚柄渠觚を古代中国語読みから想定して、稲置と伴造が統治者だと考えられる。
北九州4ヶ国の定説は、糸島郡で伊都国歴史博物館という博物館があっても、方角と国名の現代日本語読みが間違いで、伊都国が海沿いの糸島郡でなく内陸のはずで、自論の豊前(ぶぜん)国田河(たがわ)郡位登郷が田川市から田川郡糸田町の辺りとされて、田川市位登の地名があるが参考文献『日本古代地名辞典』を尊重すべきで、福岡県田川郡糸田町が本当の伊都国で正しい。
伊都国歴史博物館に北九州4ヶ国の定説は間違いのメールを出したが無視されて、世界でただ一人正しいことを知る僕が新井白石の亡霊に負けるほど耄碌(もうろく)していない。
伊都国歴史博物館の挙げる考古学的証拠は全て嘘で、帯方郡からの使者が常駐した国で護衛が多くいたと考えられるが、考古学的証拠をともなうとも考えるのが考古学会の浅はかさである。
統治者のいない末盧国でなく、統治者のいる伊都国に使者が常駐するのが当然で、奴国の方が人口が多いが防備にそんなことが関係ない。
東南至奴国百里。官曰凹馬觚、副曰卑奴母離。有二万余戸。
凹は凹の下に儿が付く漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
東南東を行って百里で仲津(なかつ;福岡県京都郡みやこ町中央)国に至る。その大官は伴造(ともみやつこ)で、副官が夷守(ひなもり)。家は2万戸余りである。
大官の凹馬觚と副官の卑奴母離を古代中国語読みから想定して、伴造と夷守が統治者だと考えられる。
北九州4ヶ国の定説は、福岡市で春日市奴国の丘歴史資料館という博物館があっても、方角と国名の現代日本語読みが間違いで、自論の豊前国仲津郡が京都郡南部と行橋市の辺りとされて、みやこ町中央が本当の奴国で正しい。
春日市奴国の丘歴史資料館に北九州4ヶ国の定説は間違いのメールを出したが無視されて、逆境に負けていてはアインシュタイン博士以上の天才の称号が泣いてしまう。
春日市奴国の丘歴史資料館の挙げる考古学的証拠は全て嘘で、記述される九州の国で人口が一番多いが、考古学的証拠が出ると考えるのが考古学会の甘さである。
東行至不弥国百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千余家。
東北東を行って百里で筑城(ついき;福岡県築上郡築上町北部)国に至る。その大官は伴造(ともみやつこ)で、副官が夷守(ひなもり)。家は千戸余りである。
大官の多模と副官の卑奴母離を古代中国語読みから想定して、伴造と夷守が統治者だと考えられて、末盧国と違ってよく船が出るため統治者がいると考えられる。
北九州4ヶ国の定説は、宇美町や他の土地を挙げても方角と現代日本語読みが間違いで、自論の豊前国筑城郡が築上町と椎田町の一帯とされて、築上町北部が本当の奴国で正しい。
筑城から船で瀬戸内海に出て、邪馬台国論争の九州説を比定する理由として十分で、基本の『魏志倭人伝』をまともに解釈できないのに邪馬台国論争など笑止である。
景行(けいこう)天皇12年から19年(西暦202年から209年)に九州全土が平定されて、北九州4ヶ国の土地が天皇家の統治下にあることが『日本書紀』で証明されて、僕の自論を否定するのが馬鹿のすることである。
自論の北九州4ヶ国は、出雲王国(物部(もののべ)氏の王国;中国地方)を避けるルートで、西暦251年(天皇不在の年)から260年11月頃(仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月)まで邪馬台国(やまとこく;大和国)に敵対した出雲王国に魏王朝の下賜品を奪(うば)われないためで、『魏志倭人伝』に出雲王国の統治した国名を記さないのが根拠である。
『魏志倭人伝』の新井白石の定説は、考古学会と歴史学会が踏襲(とうしゅう)して、国名が古代中国語読みでなく、日本語読みで当てはめて、方角が完全な間違いで、地元に博物館まで建てて、あまりに恥ずかしい専門家の失態である。
古代地名辞典『和名抄』は、北九州4ヶ国の自論の古代地名が全て記されて、方角も距離も間違いなく正しくて、正しい解釈ができるのが世界でただ一人の僕だけである。
『三国志・魏志倭人伝』の方角は、正確な東西南北と北東と北西と南東と南西の8方向を記さず、解釈すると微妙にずれた方角になる鉄則があるが、僕以外に求められない。
この程度も解釈できない歴史学者は、考古学者と結託して間違いを広めて、本やメディアや博物館で間違いを広めて、アインシュタイン博士と同じ考え方のコペルニクス的転回(非常識な考え方の集合体)を使う僕以外に世界中で間違いを正せる人間がいなかった。
学問の「が」の字も理解していないような専門家に負けるほど僕は弱くなくて、世界でただ一人だけ正しい邪馬台国論争を知る人間として、人類を導く正しい存在でありたいと思う。
僕より未熟な思考能力の現代人は、幾ら頑張っても僕におんぶにだっこで、僕のおかげでまともな邪馬台国研究ができることを一から知るしかない。
<参考文献>
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
石原道博・編訳者 株式会社岩波書店・発行
『日本古代地名辞典』
吉田茂樹・著者 新人物往来社・発行
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
インターネットの不明サイトから少々拝借
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