『魏志倭人伝』の解釈8


これは僕の最初の本『古代日本史への挑戦』から抜粋して、元々2007年9月に出版しているので多少の解釈変更もある。
『魏志倭人伝』の原文を青字、僕の解釈を赤字、僕の説明文を黒字で記す。

復立卑弥呼宗女壱与、年十三為王、国中遂定。政等、以檄告諭壱与。
また立てた倭姫命(やまとひめのみこと)の一族(皇族)の豊姫命(とよひめのみこと;神功(じんぐう)皇后)は、年が33歳で摂政(せっしょう;天皇に代わって政治する役職)になって、出雲王国を崩壊させて、甥(おい)の鹿坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)の兄弟を討伐して、国中を遂(つい)に平定した。張政等を派遣して、神功皇后を檄文で告諭した。
鹿は「鹿」の漢字の下に弭で、ホームページで表示できるが注意書きにする。

「記紀」から抹消された神功皇后の名前の豊姫命は、台与(とよ)だと分からなくするための偽装工作で、壱与がよく似た漢字の台与の書き間違いで、33歳を年十三と勘違いした古代中国人の記述をうまく偽装工作している。
仲哀(ちゅうあい)天皇9年(西暦260年)神無月に神功皇后は出雲王国を崩壊させて、東が東北地方南部で西が南九州まで統治下に置いて、日本全体の多くを3世紀中頃(邪馬台国時代)にまとめた。
摂政元年10月2日(西暦261年11月上旬頃)に群臣は、神功皇后を皇太后と呼んで、これを摂政元年とした。
摂政69年4月17日(西暦329年5月中旬頃)に神功皇后が亡くなって、享年(きょうねん)百歳だった事から逆算して、摂政元年10月2日に33歳となる。

アインシュタイン博士以上の天才の僕は、僕の現代人をはるかに超えた知識を現代日本人レベルに合わせようとして急ぎすぎて、結局の所で理解されずに時代に埋もれてしまった。
超頭脳すぎる僕は、『後漢書』と『魏志倭人伝』の解釈を載せてようやく人々に求めてもらえると信じて、今まで必死に自殺願望と戦って生きてきて良かった。
時代の頭脳レベルをはるかに超える僕のような天才は、世の中に認めてもらえるか分からずに孤独に生きていて、孤独すぎるが故に色々な葛藤(かっとう)を繰り返してきたが、ようやく苦労がむくわれるだろう。

<参考文献>
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
石原道博・編訳者 株式会社岩波書店・発行



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