『魏志倭人伝』の誤解
『魏志倭人伝』は邪馬台国時代(2世紀中頃から3世中頃)の後の3世紀末までに書かれた歴史書で、邪馬台国論争の基本が記された最も重要な書物である。
しかし研究者は『魏志倭人伝』より後世の『梁書』を重視して、「漢霊帝光和中、倭国乱」の記述から霊帝の光和年間(西暦178年から183年)に倭国大乱が起こって、「正始中卑弥(呼)死」の記述から正始年間(西暦240年から248年)に卑弥呼が死んだと解釈して、滅茶苦茶に混乱させる。
僕以外に「記紀」や『魏志倭人伝』などをまともに完全解釈できる人間は世界に一人もいなくて、邪馬台国論争が完全に僕がおんぶにだっこで、専門家やシロウト研究者の出る幕など一切ない。
何が正しいか間違いか全然判断する能力もないのに高望みして、邪馬台国論争を混乱させてきた凡人連中に負ける僕でなく、正しい『日本書紀』の完全解釈を見せるべき時が来た。
『魏志倭人伝』の北九州の属国(北九州4ヶ国)の定説は、新井白石の亡霊に踊らされた考古学会と歴史学会の失態で、僕の最初の著書『古代日本史への挑戦』による日本語訳で完全に否定した。
「記紀」や『ホツマツタエ』や『先代旧事本紀』などを駆使して、邪馬台国時代の考古学的証拠と歴史書解釈を合致させた僕は無敵で、世界中の誰も僕の敵ではない。
『魏志倭人伝』の誤解を生み出したのは、考古学会と歴史学会の無能な専門家連中で、本やメディアや博物館の誤解を解こうと必死になった僕が終わらせることになった。
「記紀」程度の歴史書も完全解釈できない専門家は、邪馬台国論争を滅茶苦茶に混乱させて間違った定説にしがみついて、僕と言う奇跡の天才の出番がなければ全てが狂わされていた。
『後漢書』と『魏志倭人伝』の記述を根本的に否定して、邪馬台国自体が存在しなかったと言う学者もいるが、日中の歴史書に記されるのだから間違いなく存在したはずである。
邪馬台国は天皇家の先祖でなく、どこかに存在した邪馬台国の歴史を天皇家が取り込んで、卑弥呼と台与(とよ)を天皇家の中に作った可能性もある。
しかし卑弥呼と台与を天照大神(あまてらすおおみかみ)で、男弟を月読尊(つくよみのみこと)で、男王を素戔嗚尊(すさのおのみこと)に神格化して、天皇家の人間に当てはめる面倒なことをするだろうか?
倭姫命(やまとひめのみこと;卑弥呼)と神功(じんぐう)皇后(台与)の正確な年代を求められて、他の古代天皇家の人々も正確な西暦年が求められる時、そこまで手の込んだことをしてまで嘘をでっち上げる必要はない。
結論として天皇家は、正史を残すために「記紀」と古史古伝などの歴史書を書いて、真偽のほどを研究されることを承知で後世に託したと考えられる。
<参考文献>
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
石原道博・編訳者 株式会社岩波書店・発行
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
インターネットの不明サイトから少々拝借
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