『後漢書』


『後漢書』は古代中国の後漢王朝(西暦25年建国〜220年滅亡)が書き残した歴史書で、後世の南朝宋王朝の文官である笵曄(西暦398年出生〜445年死亡)がまとめた。
『魏志倭人伝』は3世紀中に編纂(へんさん)されて、それより後世に編纂された『後漢書』に引用したのが確かな事実である。
それを踏(ふ)まえた上で『後漢書』に触れていこうと思う。

『後漢書』は漢王朝の時代(前漢王朝と後漢王朝合わせてか不明)に日本からの遣使が30ヶ国ほどで、国名を記す3ヶ国の遣使が奴国(ぬこく)と面土国(面上国など)と邪馬台国(やまとこく;大和国)である。
『後漢書』に光武帝の建武中元2年(西暦57年)に倭国の極めて南の奴国が遣使して印鑑を下賜して、福岡市志賀島から出土した「漢委奴國王(かんいぬこくおう)」の金印が奴国の証拠と考えられる。
『後漢書』に安帝の永初元年(西暦107年)に倭国王帥升等が奴隷を連れて遣使して、他書に「倭面上国王師升」や「倭面土国王師升」などと記されて、全く所在地不明の国からの遣使で考えるだけ無駄である。

邪馬台国論争の検証をするために、細かく記していこうと思う。
『後漢書』に「桓霊間、倭国大乱」と記して、桓帝と霊帝の在位期間(西暦147年〜189年)に倭国大乱があったと解釈して、日本各地の動乱など多岐に渡る解釈がされるが、現代哲学理論「現象学」の「思い込みの数だけ解釈がある」で説明できる。
「桓霊間、倭国大乱」は、2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(西暦156年)と卑弥呼共立の倭姫命(やまとひめのみこと)を伊勢神宮の斎王(さいおう;太陽神に使える未婚の皇女)任命と後漢王朝遣使の田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)と同一人物)の派遣が含まれる。
倭国大乱と卑弥呼共立と後漢王朝遣使は、「桓霊間、倭国大乱」の時期に含まれて、『ホツマツタエ』と「記紀」の解釈から史実で、他の解釈など絶対に成り立たない。

『後漢書』に邪馬台国(やまとこく;大和国)と女王国(伊勢;三重県中部)が記される時、女王国(伊勢)の伊勢神宮内宮に卑弥呼(倭姫命)がいるのが間違いない。
『後漢書』の拘奴国(くぬこく)は、景行(けいこう)天皇12年から19年(西暦202年から209年)に平定した熊襲(くまそ)王国(宮崎県)で、後漢王朝の滅亡した西暦220年までに遣使した。
『後漢書』の完全解釈は僕以外に不可能で、どんな専門家が頑張っても無意味・無価値で、自分の実力を知っていない。
正しい歴史を作ることは大切で、その意味を正しく受け止められる僕だから出来たことである。

<参考文献>
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
石原道博・編訳者 株式会社岩波書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行

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