『後漢書』の解釈3


これは僕の最初の本『古代日本史への挑戦』から抜粋して、元々2007年9月に出版しているので多少の解釈変更もある。
『後漢書』の原文を青字、僕の解釈を赤字、僕の説明文を黒字で記す。

建武中元二年、倭奴国(ぬこく)奉貢朝賀。使人自称大夫、倭国之極南界也。光武賜以印綬。

初代・光武帝の建武中元2年(西暦57年)に、古代日本の奴国が貢(みつぎ)を献上して来朝した。使者は自ら大夫(まえつぎみ;高官)を名乗って、その国が日本の極(きわ)めて南にある。光武帝は印鑑を下賜した。

歴史上初めて日本が歴史書に記された時で、福岡市志賀島から「漢委奴國王」の金印が出土して、記述から見ても奴国がそこで間違いない。
奴国に相当する古代地名は、『和名抄』の「筑前(ちくぜん)国那珂(なか)郡」や『日本書紀』の仲哀(ちゅうあい)天皇8年の「儺県(なのあがた)」や宣化(せんか)天皇元年の「那津(なのつ)」に当たると考えられる。
北九州4ヶ国の定説は奴国を福岡市とするが間違いで、自論の豊前(ぶぜん)国仲津(なかつ)郡の福岡県京都(みやこ)郡みやこ町中部が邪馬台国論争の属国の奴国である。

安帝永初元年、倭国王帥升等、献生口百六十人、願請見。

6代目・安帝の永初元年(西暦107年)に、倭国王の帥升等が奴隷160人を献上して、謁見できるように願い出た。

日中の色々な歴史書からこの国は、倭面国や倭面土国や倭面土地や倭面上国などと記されて、どこの国か求められず、邪馬台国(大和;古代天皇家)と無関係である。
弥生時代から日本国内に奴隷制度があったことが分かる。
邪馬台国が後漢王朝と初外交したのは西暦188年のことである。

奴国は福岡市なのが誰でもそう解釈できるが、倭国王帥升等が邪馬台国と関係すると考えるのが何の知識もない未熟な人間で、「記紀」を完全解釈できる僕なら簡単に求められる。

<参考文献>
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
石原道博・編訳者 株式会社岩波書店・発行

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