『後漢書』の解釈4


これは僕の最初の本『古代日本史への挑戦』から抜粋して、元々2007年9月に出版しているので多少の解釈変更もある。
『後漢書』の原文を青字、僕の解釈を赤字、僕の説明文を黒字で記す。

桓霊間、倭国大乱、更相攻伐、歴年無主。

11代目・桓帝と12代目・霊帝の在位期間(西暦147年から189年)に、2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)が皇位継承権争いを起こして、さらに互いに攻撃して討伐し合い、何年間も垂仁(すいにん)天皇が統治できなかった。

西暦147年から189年の在位期間には、西暦176年の卑弥呼共立に当たる倭姫命(やまとひめのみこと)の伊勢神宮斎王の任命と西暦188年の後漢王朝への遣使も含まれる。
狭穂彦王は2代目・垂仁天皇の従兄弟で、皇后の狭穂姫(さほひめ)の実兄でもあって、垂仁天皇5年6月1日(西暦156年7月上旬頃)に反乱の意思があることが発覚して、大和朝廷と出雲王国の内戦が起こった。
狭穂彦王の反乱は西暦158年までに終息して、倭国大乱が「倭の邪馬台国(大和;古代天皇家)の大乱」と解釈すべきで、「歴年」と記されることから1年以上続いた戦争だったことが分かる。

有一女子名曰卑弥呼、年長不嫁、事鬼神道、能以妖惑衆、於是共立為王。侍婢千人、少有見者、唯有男子一人、給飲食、伝辞語。居処宮室楼観城柵、皆持兵守衛、法俗厳峻。

2代目・垂仁天皇の一皇女を倭姫命(やまとひめのみこと)と言って、長い年月結婚せず、古代太陽神のアマテルカミ(天照神)を祭る神道に従事して、神託などで朝廷の官人を困惑させるカリスマ性を持ち、大多数の推薦で伊勢神宮斎王となった。身分の低い侍女が千人いて、姿を見る者が少なく、ただ一人の男性がいて、飲食を給仕して、用件を伝えた。居場所・宮中・楼閣・宮殿の柵を全ての兵士が守り護衛して、放棄や慣習が非常に厳しい。

倭姫命は古代中国語表記で邪馬台卑弥呼で、邪馬台が邪馬台国と合致するからはぶかれて卑弥呼が残って、一皇女なのが女王と勘違いした古代中国人の間違いを現代日本人が継承している。
『ホツマツタエ』の記述から、垂仁天皇25年3月8日(西暦176年4月上旬頃)に倭姫命が正式に斎王になったのが分かる。
身分の低い侍女が千人いるのは現在の伊勢神宮内宮のことで、倭姫命の側仕えの男性が一人なのが純潔を保つためと考えられる。
『ホツマツタエ』の景行(けいこう)天皇20年の記述から、伊勢神宮内宮が80人の兵士によって護衛されているのが分かって、古代の武装した神社の姿を『後漢書』も伝えたと考えられる。
倭姫命は箸墓(はしはか)古墳の埋葬者と勘違いされる倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)として祖先化されて、国生みの夫婦神の娘である現在の太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ)として神格化されている。

自女王国東度海、千餘里至拘奴国雖、皆倭種而不属女王。

自ら女王国(伊勢国;三重県中部)から西に渡海して、千里余りで拘奴国(くぬこく;熊襲(くまそ)王国:南九州)に至って、全てが日本の民族でも天皇に従属しない。

この記述は『後漢書』独自のもので『魏志倭人伝』に共通せず、女王国(伊勢国)から海を渡って千里余りで熊襲国(南九州)に着くため、邪馬台国論争の九州説を否定する理由になる。
邪馬台国が熊襲国の存在を把握したのは景行天皇の時代で、景行天皇12年から19年(西暦202年から209年)に九州が平定されて、後漢王朝が滅亡する西暦220年までに遣使したことになる。
『後漢書』に邪馬台国と女王国が記されたのは重要なことで、2国を同一国でなく別国と考えることが大切である。

これ以降の『後漢書』の記述は、『魏志倭人伝』の引用が多かったり把握できないので省略する。
日中の歴史書を正しく解釈できない現代日本人に求められるわけがなく、論理的根拠を幾らでも挙げれるアインシュタイン博士以上の天才の僕に勝てる者など世界中のどこにもいない。

<参考文献>
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
石原道博・編訳者 株式会社岩波書店・発行
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行

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