『後漢書』の誤解


『後漢書』も立派な邪馬台国論争の歴史書で、その意味と価値を分かっていない人間には無価値で、僕だけが正しく完全解釈することができて、『魏志倭人伝』だけが邪馬台国論争の歴史書だと誤解する人もいるだろう。
『後漢書』の原文を正しく解釈できない現代日本人は、古代天皇家が邪馬台国の正体だと気付かず、奴国が福島市志賀島の辺りだと分かっても、倭国王帥升等が邪馬台国の関連性を考えたり、全く何も分かっていない。
『後漢書』の成立は『魏志倭人伝』より後世で、『魏志倭人伝』の引用を強く受けることから無視しがちだが、『後漢書』独自の記述があることも見逃してはならない。
「桓霊間、倭国大乱」の解釈は、11代目・桓帝と12代目・霊帝の在位期間(西暦147年から189年)に倭国大乱と卑弥呼共立と後漢王朝遣使が含まれて、古代天皇家の西暦年と歴史書解釈が見事に合致して、不動の答えになっている。
「自女王国東度海、千餘里至拘奴国雖」の解釈は、女王国(伊勢)と拘奴国(熊襲)が陸続きでなく、海をへだてた土地だとしか解釈できず、邪馬台国論争の九州説を否定するのに十分な記述で、景行(けいこう)天皇も後漢王朝に遣使したのが間違いなく求められる。
『後漢書』独自の記述は見逃されがちだが、正しく把握している僕以外の訳本が全て無用の長物で、2003年5月頃に邪馬台国論争を僕が決着させて、2007年9月に最初の著書を出版した時、大学の考古学者が正しく理解していればとっくに終わっていた。
現代日本人レベルの専門家やシロウト研究者に任せられる解釈でなくて、アインシュタイン博士以上の天才で「記紀」を完全解釈できる僕でなければ、ここまで求めることができなかった。
世の中には時代の頭脳レベルをはるかに超える超天才が出現することがあって、たまたま古代日本史の歴史研究で僕という超天才が現れただけのことである。

<参考文献>
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
石原道博・編訳者 株式会社岩波書店・発行

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