埴輪(はにわ)


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

2014年8月4日まで僕は、埴輪に固定観念・先入観が働いて明らかな誤解をして、最古の埴輪の特殊器台埴輪が出土する箸墓(はしはか)古墳(景行(けいこう)天皇陵)以前の前方後円墳から絶対に特殊器台埴輪が出土する固定観念・先入観を持っていた。
纏向(まきむく)石塚古墳(垂仁(すいにん)天皇陵)は、特殊器台埴輪が絶対に出土すると考えて、それが「特殊器台」や「埴輪」という言葉に誤解させられた固定観念・先入観だった。
特殊器台埴輪の起源は、岡山県の楯築(たてつき)遺跡群で出土する特殊器台土器である。

『ホツマツタエ』の埴輪の記述を青字で記す。

垂仁天皇28年10月5日(西暦179年11月上旬頃)に垂仁天皇の異母兄の倭彦命(やまとひこのみこと)が亡くなって、11月2日(12月上旬頃)に亡骸(なきがら)を桃花鳥坂(つきさか;所在地不明)に葬礼して、先例に従って従者を生き埋めにすると、埋められた人々が叫びうめきながら死んで、その死体を犬が掘り出して、鳥がついばんだ。
垂仁天皇がそれを聞いて哀(あわ)れに思って詔(みことのり;天皇の述べた言葉)を出して、「生きる者に恵みを与えるどころか殺してしまうのは痛ましい限りである。古(いにしえ)の先例も悪例は廃すべきだろう」と。


倭彦命陵の桃花鳥坂は、間違いなく殉死(じゅんし;主人を葬った後に従者を生き埋めにすること)者の考古学的証拠が出土すると考えられる。
最後の吉備(きび;岡山県と広島県東部)国王である温羅(うら)一族(吉備王族)の墓は、2世紀中頃の楯築遺跡群で、垂仁天皇の息子の祖別命(みおやわけのみこと)と胆武別命(いたけわけのみこと)の兄弟が吉備を平定して、西暦150年代から垂仁天皇29年(西暦180年)までに吉備王国が滅亡したと考えられる。
楯築遺跡群の特殊器台土器は、殉死者の代用物である埴輪の起源で、楯築遺跡群の築造年代と殉死の禁止の時期が合致して、一時期に出雲でも特殊器台土器が使われて、前方後円墳の出現と共にその考古学的証拠が消えた説明が付く。
祖別命は吉備氏の先祖で、吉備氏が出雲王国(物部(もののべ)氏)と敵対や協力の関係を持ったと考えられる。

垂仁天皇32年7月6日(西暦183年8月上旬頃)に皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が亡くなって、葬礼の時に諸臣を集めて詔をして、「先の兄である倭彦命の葬儀のように殉死の例は止めるべきだが、どのように改正すれば良いか」と。
それを聞いて野見宿禰(のみのすくね)が、「生きる者を埋めてしまう例はまことに良からぬものであると存じます。よく思案いたしましょう」と言って、その後に出雲の土部(はじべ)を百人ほど集めて、土偶や様々な形を土で作らせた。
そして、「今より後は、土で作った人を生きている人の代わりとして陵(みささぎ)に植えて、それを今後の例としてはいかがでしょう」と。
垂仁天皇は大いに喜ばれて、「お前の計(はか)らいは私の望む所である。よしよし」と埴輪の立物(たてもの)を後の例と定めて、野見宿禰をあつく誉めて、埴輪造りに適した粘土質の土地を授けて土司(つちつかさ)に任じられた。


日葉酢媛命陵に埴輪を立てる詔をして、日葉酢媛命陵から最古の埴輪が出土するはずで、最古の土師器(はじき)が最古の埴輪と考えられて、インターネット検索で埴輪が土師器の一種だと知った。
3代目出雲国王の野見宿禰は、出雲の土部を百人ほど集めたのが出雲王国の存在した証拠で、野見宿禰が埴輪を作った土師(はじ)氏の始祖で、土師氏が出雲王国(物部氏)の傍系氏族で、最古の土師器と土師氏という漢字が重なったのが必然だった。

垂仁天皇99年が正しくは垂仁天皇39年7月1日(西暦190年8月上旬頃)で、垂仁天皇が崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)されて、享年(きょうねん)137歳(数え年)とされるが、正しく求めると78歳(実年齢)である。
皇太子の倭忍代別(やまとおしろわけ;後の景行(けいこう)天皇)は喪(も)に服されて、48日間の喪祭りをした8月16日(西暦190年9月中旬頃)の夜にお墓へ埴輪を立てて、12月10日(西暦191年1月上旬頃)に垂仁天皇の亡骸(なきがら)を菅原伏見(すがわらふしみ;纏向石塚古墳)に葬礼して、夜半に松明(たいまつ)で照らされて厳(おごそ)かに神霊の成仏となった。


纏向石塚古墳(垂仁天皇陵)から最古の土師器が出土して、箸墓古墳以前の前方後円墳の纏向勝山古墳と纏向矢塚古墳と東田大塚古墳とホケノ山古墳などからも土師器が出土して、この土師器が埴輪に当たる考えに至った。
土師器は弥生式土器の流れを組んで、古墳時代から奈良・平安時代まで生産された素焼きの土器で、特殊器台土器と同じ土器だから最古の土師器が特殊器台埴輪につながってもおかしくない。
特殊器台土器と特殊器台埴輪は、形などの特徴が合致するため関連性を指摘して、最古の土師器が特徴などを合致できないために関連性を指摘されず、見逃されるのだろうが僕がそれを否定した。
特殊器台土器と最古の土師器と最古の特殊器台埴輪は、吉備と出雲と大和の関連性などの考古学的証拠から証明される。
「特殊器台」や「埴輪」という言葉の固定観念・先入観に捕らわれた僕は、纏向石塚古墳から特殊器台埴輪が絶対に出土すると思い込んだが、考古学的に見て埴輪が土師器の一種だと知って、固定観念・先入観を排除した。
垂仁天皇陵に埴輪を立てたなら、纏向石塚古墳から最古の埴輪が出土するはずで、特殊器台埴輪という固定観念・先入観が働いた。
考古学的にだいぶ発掘調査したのに纏向石塚古墳から特殊器台埴輪が出土しないのはおかしく、それが僕の誤解した特殊器台埴輪という言葉の固定観念・先入観だった。

『三国志・魏志倭人伝』と『ホツマツタエ』と「記紀」に殉死者の記録があって、最古の土師器が最古の埴輪と考えられる時、考古学と歴史学の両面から日本に殉死があった事実の否定が不可能になる。
楯築遺跡群の特殊器台土器は、殉死者の禁止の時期、纏向石塚古墳(垂仁天皇陵)で出土した最古の土師器(弥生土器の後継)、箸墓古墳(景行天皇陵)で出土した最古の埴輪の特殊器台埴輪(埴輪は土師器の一種)、全て時期が重なって、特殊器台土器と土師器と埴輪が土器つながりで説明できて、この考古学的証拠が土師氏と吉備氏と埴輪の誕生と関わる。

<参考文献>
『漢訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『古代日本史への挑戦』
僕・著者 株式会社オカムラ・発行
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