埴輪(はにわ)


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垂仁(すいにん)天皇28年10月5日(西暦179年11月上旬頃)に垂仁天皇の異母兄の倭彦命(やまとひこのみこと)が亡くなり、11月2日(12月上旬頃)に亡骸(なきがら)を桃花鳥坂(つきさか;所在地不明)に葬礼して、先例に従って従者を生き埋めにすると、埋められた人々が叫びうめきながら死んで、その死体を犬が掘り出し、鳥がついばんだ。
垂仁天皇がそれを聞いて哀(あわ)れに思って詔(みことのり;天皇の述べた言葉)を出して、「生きる者に恵みを与えるどころか殺してしまうのは痛ましい限りである。古(いにしえ)の先例も悪例は廃すべきだろう」と。
垂仁天皇32年7月6日(西暦183年8月上旬頃)に皇后の日葉酢媛命が亡くなり、葬礼の時に諸臣を集めて詔があり、「先の兄である倭彦命の葬儀のように殉死(じゅんし;主人を葬った後に従者を生き埋めにすること)の例は止めるべきだが、どのように改正すれば良いか」と。
それを聞いて野見宿禰(のみのすくね)が、「生きる者を埋めてしまう例はまことに良からぬものであると存じます。よく思案いたしましょう」と言って、その後に出雲の土部(はじべ)を百人ほど集め、土偶や様々な形を土で作らせた。
そして、「今より後は、土で作った人を生きている人の代わりとして陵(みささぎ)に植え、それを今後の例としてはいかがでしょう」と。
垂仁天皇は大いに喜ばれ、「お前の計(はか)らいは私の望む所である。よしよし」と埴輪の立物(たてもの)を後の例と定めて、野見宿禰をあつく誉め、埴輪造りに適した粘土質の土地を授けて土司(つちつかさ)に任じられた。

垂仁(すいにん)天皇99年が正しくは垂仁天皇39年7月1日(西暦190年8月上旬頃)で、垂仁天皇が崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)されて、享年(きょうねん)137歳とされているが正しく求めると77歳である。
皇太子の倭忍代別(やまとおしろわけ;後の景行(けいこう)天皇)は喪(も)に服されて、48日間の喪祭りをした8月16日(西暦190年9月中旬頃)の夜にお墓へ埴輪(はにわ)を立てて、12月10日(西暦191年1月上旬頃)に垂仁天皇の亡骸(なきがら)を菅原伏見(すがわらふしみ;纏向(まきむく)石塚古墳)に葬礼して、夜半に松明(たいまつ)で照らされて厳(おごそ)かに神霊の成仏となった。


野見宿禰は埴輪を作る土師(はじ)氏の先祖で出雲の出身とされるのが正しく、2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)の息子で3代目出雲国王と考えられて、野見宿禰が物部(もののべ)氏の血筋で間違いないが、物部氏が鎮魂(みたましずめ)をつかさどるから古墳葬礼の埴輪作りの土師氏に任命されたと考えられる。
纏向石塚古墳から最古の土師器(はじき)が出土して、埴輪が土師器の一種であって、土師器が弥生土器の流れを組む素焼きの土器である。
日葉酢媛命陵は最古の前方後円墳の纏向石塚古墳より古い弥生時代後期の大型陵墓と考えられて、最古の土師器が出土したら日葉酢媛命陵の可能性が高い。
『魏志倭人伝』に「徇葬者奴婢百余人」と記されて、景行天皇陵の箸墓(はしはか)古墳で殉死者百人余りの代わりに埴輪を立てると解釈できて箸墓古墳出土の最古の特殊器台埴輪に当たって、日中の歴史書に殉死の記録があって殉死の考古学的証拠が間違いなく見つかると考えられる。

考古学から見て埴輪の起源は吉備(きび;岡山県と広島県東部)で、岡山県倉敷市の楯築(たてつき)遺跡などから出土した特殊器台土器に当たる。
楯築遺跡の特殊器台土器は古代天皇家が殉死を禁止した時期に殉死者の代わりにちょうど良いものと判断されて、古代天皇家において特殊器台埴輪として採用したと考えられる。
吉備で出土する特殊器台土器が出雲に伝わって、しばらくして前方後円墳が誕生すると同時に姿を消したと記されるが、吉備が平定されて特殊器台土器を出雲国王の野見宿禰が採用して、出雲でしばらく立てていたが日葉酢媛命陵で最古の土師器として変換した後、出雲で立てなくなったからこのような考古学的証拠が残ったと考えられる。
特殊器台土器と特殊器台埴輪と土師器は全て土器つながりで、纏向石塚古墳出土の最古の土師器が最古の埴輪だと考えられる。

<参考文献>
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『漢訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
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