埴輪(はにわ)
2014年8月4日まで僕は、埴輪(はにわ)に固定観念・先入観から明らかな誤解をして、最古の埴輪(はにわ)の特殊器台埴輪(はにわ)が出土する箸墓(はしはか)古墳(景行(けいこう)天皇陵)以前の前方後円墳から絶対に特殊器台埴輪(はにわ)が出土すると思い込んだ。
垂仁(すいにん)天皇陵の纏向(まきむく)石塚古墳は、絶対に特殊器台埴輪(はにわ)が出土すると考えて、「特殊器台」や「埴輪(はにわ)」と言う言葉の固定観念・先入観で誤解して、特殊器台埴輪(はにわ)の起源の楯築(たてつき)遺跡群と直接関係すると勘違いした。
崇神(すじん)天皇68年12月5日(西暦152年1月上旬頃)に崇神(すじん)天皇は、こと切れて何も言わず、崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、垂仁(すいにん)天皇元年10月11日(西暦152年11月中旬頃)に亡骸(なきがら)を山辺(やまのべ)に葬礼した。
孝安(こうあん)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)は、崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、息子の孝霊(こうれい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)が喪(も)に服して、48日の神葬祭をして、孝安(こうあん)天皇の亡骸(なきがら)を葬礼して、この時に5人の従者が殉死(じゅんし;主人の後を追って従者が死ぬこと)したので共に納(おさ)めて、孝安(こうあん)天皇を秋津神(あきつかみ)の神名で祭った。
崇神(すじん)天皇陵は、間違いなく殉死(じゅんし)者を共葬した証拠で、秋津神(あきつかみ)の神名が神武(じんむ)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)31年でなく、崇神(すじん)天皇31年4月1日(西暦114年5月上旬頃)に崇神(すじん)天皇が日本国を秋津洲(あきつしま)と名付けて、秋津神(あきつかみ)に神格化したと考えられる。
奈良県橿原市の瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)は、2世紀中頃から後半頃の築造年代で、前方後円墳の形を採用して、5人の殉死(じゅんし)者が出土するはずで、初代の崇神(すじん)天皇陵の最有力候補と考えられて、2022年10月18日に求めた。
垂仁(すいにん)天皇28年10月5日(西暦179年11月上旬頃)に垂仁(すいにん)天皇の異母兄の倭彦命(やまとひこのみこと)は亡くなって、11月2日(12月上旬頃)に亡骸(なきがら)を桃花鳥坂(つきさか;所在地不明)に葬礼して、先例に従って従者を生き埋めにすると、埋められた人々が叫びうめきながら死んで、その死体を犬が掘り出して、鳥がついばんだ。
垂仁天皇は、それを聞いて哀(あわ)れに思って、詔(みことのり;天皇の述べた言葉)して、「生きる者に恵みを与える所か殺してしまうのは痛ましい限りである。古(いにしえ)の先例も悪例は廃すべきだろう」と。
倭彦命(やまとひこのみこと)陵の桃花鳥坂(つきさか)は、間違いなく殉死(じゅんし)者の考古学的証拠が出土して、近畿地方と山陰(鳥取県と島根県)で1世紀末から2世紀後半の179年まで約100年間殉死(じゅんし)の風習があって、考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)を否定できなくて、誰も僕の自論を覆(くつがえ)せない。
最後の吉備(きび;岡山県と広島県東部)国王の温羅(うら)は、垂仁(すいにん)天皇29年(西暦180年)に垂仁(すいにん)天皇の息子の祖別命(みおやわけのみこと)に殺されて、温羅(うら)一族(吉備(きび)王族)が楯築(たてつき)遺跡群に葬礼したと考えられる。
楯築(たてつき)遺跡群の特殊器台土器は、殉死(じゅんし)者の代替物の埴輪(はにわ)と入れ替わって、楯築(たてつき)遺跡群の築造年代と殉死(じゅんし)の禁止の時期が合致して、一時期に出雲でも特殊器台土器が使われて、葬礼の方法を試行錯誤した考古学的証拠をごまかせない。
垂仁(すいにん)天皇32年7月6日(西暦183年8月上旬頃)に皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)は亡くなって、葬礼の時に諸臣を集めて、垂仁(すいにん)天皇が詔(みことのり)して、「先の兄である倭彦命(やまとひこのみこと)の葬儀のように殉死(じゅんし)の例は止めるべきだが、どのように改正すれば良いか」と。
それを聞いて3代目出雲国王の野見宿禰(のみのすくね)は、「生きる者を埋めてしまう例はまことに良からぬ物であると存じます。よく思案いたしましょう」と言って、その後に出雲の土部(はじべ)を百人ほど集めて、土偶や様々な形を土で作らせて、「今より後は、土で作った人を生きている人の代わりとして陵(みささぎ)に植えて、それを今後の例としてはいかがでしょう」と。
垂仁(すいにん)天皇は、大いに喜ばれて、「お前の計(はか)らいは私の望む所である。よしよし」と埴輪(はにわ)の立物(たてもの)を後の例と定めて、野見宿禰(のみのすくね)をあつく誉めて、埴輪(はにわ)造りに適した粘土質の土地を授けて、土司(つちつかさ)に任じられた。
日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)陵に埴輪(はにわ)を立てる詔(みことのり)は、纏向(まきむく)石塚古墳より古い弥生時代後期中頃の大型陵墓で最古の土師器(はじき)が出土すると考えられて、土師器(はじき)が最古の埴輪(はにわ)で、ネット検索で埴輪(はにわ)が土師器(はにわ)の一種と知って、歴史学(歴史書解釈)で最古の埴輪(はにわ)である。
3代目出雲国王の野見宿禰(のみのすくね)は、出雲の土部(はじべ)百人ほどを集めて、野見宿禰(のみのすくね)が埴輪(はにわ)を作った土師(はじ)氏の氏祖で、出雲王国(物部(もののべ)氏)と土師(はじ)氏が同一氏族で、土師(はじ)氏と土師器(はじき)が完全に合致した。
垂仁(すいにん)天皇39年7月1日(西暦190年8月上旬頃)に垂仁(すいにん)天皇は、崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、48日間の喪(も)祭りをした8月16日(西暦190年9月中旬頃)の夜にお墓へ埴輪(はにわ)を立てて、12月10日(西暦191年1月上旬頃)に垂仁天皇の亡骸(なきがら)を菅原伏見(すがわらふしみ)に葬礼して、夜半に松明(たいまつ)で照らされて厳(おごそ)かに神霊の成仏となった。
垂仁(すいにん)天皇陵の纏向(まきむく)石塚古墳は、最古の前方後円墳で、『ホツマツタエ』で埴輪(はにわ)を立てたと記して、最古の土師器(はじき)が出土するが、特殊器台埴輪(はにわ)が出土しなくて、箸墓(はしはか)古墳以前の前方後円墳の纏向(まきむく)勝山古墳と纏向(まきむく)矢塚古墳と東田大塚(ひがいだおおつか)古墳とホケノ山古墳からも土師器(はじき)が出土して、この土師器(はじき)が埴輪(はにわ)である。
垂仁(すいにん)天皇陵は、埴輪(はにわ)を立てて、特殊器台埴輪(はにわ)が出土するのが言葉の固定観念・先入観で、埴輪(はにわ)が土師器(はじき)の一種で、纏向(まきむく)石塚古墳から考古学的証拠の土師器(はじき)が出土して、特殊器台土器から特殊器台埴輪(はにわ)に直接つながらなかった事実が証明されて、考古学と歴史学を誰も否定できない。
土師器(はじき)は、弥生式土器の流れを組んで、古墳時代から奈良・平安時代まで生産された素焼きの土器で、特殊器台土器と同じ土器だから最古の土師器(はじき)が特殊器台埴輪(はにわ)につながって、考古学と歴史学を誰も100%否定できない。
特殊器台土器と特殊器台埴輪(はにわ)は、形などの特徴が合致するため関連性を指摘して、その間に最古の土師器(はじき)の時期があったが、それを僕が見逃さずに自論を作り上げて、専門家(考古学界と歴史学界)以上の超知識でひっくり返した。
特殊器台土器と最古の土師器(はじき)と最古の特殊器台埴輪(はにわ)は、吉備と出雲と大和の考古学的証拠(楯築(たてつき)遺跡群や前方後円墳など)と吉備(きび)氏の誕生などの歴史書解釈が合致して、世界中でただ一人の超天才の僕だけが証明できる超知識だった。
景行(けいこう)天皇陵の箸墓(はしはか)古墳は、考古学で確認した最古の埴輪(はにわ)の特殊器台埴輪(はにわ)が出土するが、箸墓(はしはか)古墳以前の前方後円墳で出土した最古の土師器(はじき)が僕の自論で、最古の埴輪(はにわ)と認めて、専門家(考古学界と歴史学界)が公式に認めるべき証拠となった。
『三国志・魏志倭人伝』は、「大作冢…徇葬者奴婢百余人」と記して、卑弥呼(ひみこ;倭姫命:やまとひめのみこと)の男弟(だんてい;異母弟)の景行(けいこう)天皇陵で、殉死(じゅんし)者の代替物の埴輪(はにわ)を立てて、箸墓(はしはか)古墳の最古の特殊器台埴輪(はにわ)が出土して、考古学(遺跡・遺物)で最古の埴輪(はにわ)である。
『三国志・魏志倭人伝』と『ホツマツタエ』と「記紀」は、日中の歴史書に殉死(じゅんし)と埴輪(はにわ)を記して、考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)の埴輪(はにわ)が存在して、僕の偉業が求めさせた奇跡で、2023年12月22日に修正した。
<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『古代日本史への挑戦』
僕・著者 株式会社オカムラ・発行
インターネットの不明サイトから少々拝借
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