箸墓(はしはか)古墳

宮内庁指定の景行(けいこう)天皇陵は、奈良県天理市の4世紀後半頃の築造と考えられる300メートルの前方後円墳の渋谷向山(しぶたにむこうやま)古墳で、完全な間違いである。

倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)は、大物主神(おおものぬしのかみ)の妻になって、夫の大物主神(おおものぬしのかみ)に恥(はじ)をかかせて三輪山(みわやま)へ帰らせて、それを悔(く)やんだ倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)が愕然(がくぜん)として腰を下ろすと、箸で陰部を突いて亡くなって、姫の亡骸(なきがら)を大市(おいち;奈良県桜井市北部)に納(おさ)めて、箸塚(はしづか;箸墓(はしはか)古墳)を立てた。
箸墓(はしはか)古墳は、昼に人の手で、夜が神の助けを得て、大坂山(二上山;にじょうさん)の石を運んで、一列に並べて、手から手へ石を渡して、墓(はか)を築き上げた。
その時の歌は、

大坂(おおさか)も 継(つ)ぎの顔添(かおそ)え 石群(いしむ)らを 手越(てこ)しに越(こ)さば 越(こ)しがてんかも
(大阪山の石も、顔を付けるようにして並んで手から手へと多くの石を手渡しして運べば、きっと大市(おいち)にまで運びきることができるだろうよ)

孝元(こうげん)天皇57年9月2日に孝元(こうげん)天皇(景行(けいこう)天皇を祖先化)は、崩御(ほうぎょ)して、開化(かいか)天皇(日本武尊(やまとたけのみこと)を祖先化)が喪(も)に服して、存命の頃のように御饗(みあえ)を神前に供じて、48日間の喪(も)祭りを終えて、禊(みそぎ)をした後で、政治を聞いて召(め)して、6年後に葬礼した。
箸墓(はしはか)古墳は、昼に人の手で、夜が神の助けを得て、大坂山(二上山;にじょうさん)の石を運んで、一列に並べて、手から手へ石を渡して、墓(はか)を築き上げて、景行(けいこう)天皇の生前に作った。
景行(けいこう)天皇60年11月7日(西暦250年12月上旬頃)に景行(けいこう)天皇は、崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、皇太子の日本武尊(やまとたけのみこと)が東海平定に出陣して、天皇になれる人物が不在で、皇位継承者で孫の仲哀(ちゅうあい)天皇が祖父の存命の頃のように御饗(みあえ)を神前に供じて、48日間の喪(も)祭りを終えた。
『日本書紀』成務(せいむ)天皇2年11月10日は、仲哀(ちゅうあい)天皇元年11月10日(西暦252年12月上旬頃)か仲哀(ちゅうあい)天皇2年11月10日(西暦253年12月上旬頃)で、景行(けいこう)天皇の亡骸(なきがら)を倭国(やまとのくに;奈良県)の山辺道上陵(やまのべのみちうえのみささぎ)の箸墓(はしはか)古墳に葬礼した。
成務(せいむ)天皇2年11月10日は、仲哀(ちゅうあい)天皇2年11月10日(西暦253年12月上旬頃)で、成務(せいむ)天皇3年1月7日が仲哀(ちゅうあい)天皇3年1月7日(西暦254年2月上旬頃)だから、箸墓(はしはか)古墳の葬礼が仲哀(ちゅうあい)天皇2年(西暦253年)の可能性を2024年6月15日の午前9時頃に求めた。

『日本書紀』の景行(けいこう)天皇陵の名称は、山辺道上陵(やまのべみちうえのみささぎ)で、祖父の崇神(すじん)天皇陵と同名で、考古学の陵墓名が箸墓(はしはか)古墳で、正式な陵墓名が『ホツマツタエ』の箸塚(はしづか)で、後世に呼ぶと考えられる。

箸墓(はしはか)古墳は、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと;倭姫命(やまとひめのみこと)を祖先化)の墓(はか)だが、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)でなく、男弟(異母弟)の景行(けいこう)天皇陵が明白で、考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)を100%否定できない。

箸墓(はしはか)古墳は、埋葬者が見つからず、古墳全体を発掘調査してなくて、大坂山(二上山;にじょうさん)の石を使用したと証明されず、いずれ『ホツマツタエ』の記述を証明できるだろう。
箸墓(はしはか)古墳は、最古の特殊器台埴輪(はにわ)が出土して、殉死(じゅんし;主人の後を追って従者が死ぬこと)者の代わりに埴輪(はにわ)を立てて、『三国志・魏志倭人伝』と『ホツマツタエ』と『日本書紀』が殉死(じゅんし)と埴輪(はにわ)を証明した。
古代中国の魏王朝時代の直径百歩余り(約144メートル)は、箸墓(はしはか)古墳の後円部160メートルで、前方後円墳の全長280メートルを古代天皇家が伝えなくて、魏王朝が墓(はか)を小さく作る考え方だからと考えられる。
箸墓(はしはか)古墳は、出土した土器に付着した穀物などの炭化物を用いて、全国の3千点を超す土器と対比して、放射性炭素年代測定で、西暦250年代の築造の可能性が高まった。
『三国志・魏志倭人伝』の牛馬は、3世紀中頃の北九州で、奈良県に馬がいた可能性を否定できなくて、4世紀前半の箸墓(はしはか)古墳の堀(ほり)から出土した鐙(あぶみ)を証明した。

景行(けいこう)天皇陵は、箸墓(はしはか)古墳で、邪馬台国(大和国;やまとこく)時代の王墓(おうぼ;天皇陵)で、僕にしか求められなかった。

<参考文献>
『大和・飛鳥考古学散歩<第2版>』
伊達宗泰・著者 株式会社学生社・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
石原道博・編訳者 株式会社岩波書店・発行
2009年5月29日の朝日新聞
『ホツマ辞典』
池田満・著者 ホツマ刊行会・発行
インターネットの不明サイトから少々拝借

戻る