彦坐王(ひこいますのみこ)


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

彦坐王は古代太陽神アマテルカミ(天照神)を祭る初代宮司と考えられて、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)や天日槍(あめのひぼこ)や初代・大物主神(おおものぬしのかみ)などの古代太陽神として神格化されている。
古代太陽神アマテルカミは卑弥呼の倭姫命(やまとひめのみこと)と台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后を神格化しているが、古代太陽神を祭る宮司の彦坐王の神格化を差す場合もあると考えられる。
彦坐王を神格化した天火明命(あめのほあかりのみこと)は、彦坐王の子の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)の子孫で京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏が先祖代々に渡って古代太陽神として祭っている。
饒速日命(にぎはやひのみこと)は物部(もののべ)氏の先祖の彦坐王を神格化していて、河内(かわち;古代の大阪府東部)の天孫降臨神話の饒速日命を差す。
天日槍は但馬(たじま;古代の兵庫県北部)に由来する古代太陽神で、彦坐王を神格化しているのが確かである。
初代・大物主神として神格化された彦坐王は初代出雲国王で、その息子・狭穂彦王(さほひこのみこ)が2代目・大物主神と2代目出雲国王を継いで、その子孫の物部氏が代々の大物主神と出雲国王を継いだが、出雲王国崩壊後に出雲国王の直系子孫で出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏が大国主神(おおくにぬしのかみ)を祭って、大国主神と代々の大物主神が同一神と考えられている。

崇神(すじん)天皇(西暦84年2月中旬頃から西暦152年1月上旬頃に在位)の実兄と考えられる彦坐王は、1世紀後半から2世紀前半に実在して、河内と丹波(たには;古代の京都府北中部)と出雲の平定をしたと考えられる。
彦坐王の子孫は、出雲大社宮司家の千家氏と古代豪族で武家の物部氏と元伊勢籠神社宮司家の海部氏と愛知県東部を統治した尾張(おわり)氏と和珥(わに)氏などだと考えられる。
和珥氏の出身は、歌人の柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)や遣隋使の小野妹子(おののいもこ)や六歌仙の小野小町(おののこまち)などがいる。
和珥氏は「和珥氏の系図」の章と関連して、物部氏と海部氏を和珥氏に含めて、彦坐王を始祖とする古代太陽神氏族を全て含めて、和珥氏と定義付ける自論を公表した。

「和珥氏の系図」の章で、和珥氏の彦国葺(ひこくにふく)が彦坐王で、和珥氏の始祖と定義付けた。
『ホツマツタエ』で崇神(すじん)天皇10年(西暦93年)に彦国葺(彦坐王)が登場して、崇神天皇63年(西暦146年)に彦国葺の孫の潮乗津彦(しおのりつひこ)が登場して、崇神天皇39年(西暦122年)に彦坐王の息子の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)が登場して、垂仁(すいにん)天皇5年(西暦156年)に丹波道主王の異母兄弟の狭穂彦王が登場して、彦坐王が崇神天皇の兄弟で間違いない。
崇神天皇10年に彦国葺は、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)と大彦命(おおびこのみこと)と武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)の妻の吾田媛(あたひめ)たちと一緒に記す。
崇神天皇10年が正しくは西暦251年(天皇不在の年)で、彦国葺が彦坐王の子孫で和珥氏出身の誰かで、倭迹迹日百襲姫命が倭姫命(やまとひめのみこと)で、大彦命が武虎別皇子(たけこわけのみこ)で、武埴安彦命が日本武尊(やまとたけのみこと)で、吾田媛が弟橘姫(おとたちばなひめ)を祖先化して、崇神天皇10年(西暦93年)の彦国葺が彦坐王の実在を示す記述になる。
崇神天皇10年の彦国葺(彦坐王)は、西暦251年の彦国葺の子孫で和珥氏出身の誰かを互いに証明する。

彦坐王の子孫は、日本各地で太陽信仰の遺跡を残した可能性が高く、またアマテルカミに神格化された卑弥呼の倭姫命と台与の神功皇后も彦坐王の子孫の可能性が高い。
古代太陽神氏族の存在は、古代天皇家との姻戚関係や政治干渉など多岐に渡って、彦坐王に始まる古代太陽神氏族の繁栄(はんえい)を語る上でなくてはならない。
余談であるが僕は、ムー大陸の太陽神の化身で帝王のラ・ムーが古代天皇家の先祖でないかと考えているが、これがあくまで想像の域を出ないものとして結論付けられる。

<参考文献>
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『ホツマ辞典』
池田満・著者 ホツマ刊行会・発行
『別冊歴史読本K 新視点 古代豪族の研究』
株式会社新人物往来社・発行

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