彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫と出雲


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

彦坐王の子孫の物部(もののべ)氏と出雲の関係は、出雲王国が物部氏の王国で、出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏がその直系子孫である。
『但馬国司文書』で彦坐王は、丹波(たんば;古代の京都府北中部)を平定した後、出雲大社に戦勝報告の参拝をして、丹波と但馬(たじま;古代の兵庫県北部)の統治者として、「大国主(おおくにぬし)」と呼ばれたと記す。
彦坐王が丹波平定後に出雲へ行ったのは、出雲(古代の島根県東部)を平定して初代出雲国王として出雲王国を建国して、「大国主(おおくにぬし)」と呼ばれたのが彦坐王を神格化した初代・大物主神(おおものぬしのかみ)が大国主神(おおくにぬしのかみ)と同一神だからと考えられる。
『ホツマツタエ』で大物主神は、初代から7代目まで存在して、初代・大物主神が別名を大国主神や大己貴神(おおなむちのかみ)などで、出雲の国譲り神話の大国主神に当たるが、神格化した人物の違いで出雲の国譲り神話が出雲王国の崩壊と重ならないようにされている。
初代・大物主神は出雲の国譲り神話の大国主神と同一神とするが、彦坐王が初代出雲国王として出雲王国を建国したのを隠すためで、初代・大物主神が出雲の国譲り神話の大国主神でなく、7代目・大物主神が出雲の国譲り神話の大国主神で、彦坐王の子孫の飯入根(いいいりね)を7代目・大物主神(大国主神)に神格化している。
『ホツマツタエ』で2代目ホノアカリは彦坐王を神格化して、古代太陽神の火明命(ほあかりのみこと)に当たって、物部氏の祖先神の饒速日命(にぎはやひのみこと)が息子とされる。
彦坐王は出雲と深く関わって、歴史上から抹殺されて分からなくしているが、どんなに隠してもアインシュタイン博士以上の超天才の僕をだませるはずがない。

彦坐王の息子の狭穂彦王(さほひこのみこ)は2代目出雲国王で、従兄弟の垂仁(すいにん)天皇に対して皇位継承権争いを起こして、三種の神器をうばうことが目的だったと考えられて、この反乱が倭国大乱に当たる。
垂仁天皇4年9月1日(西暦155年10月上旬頃)に狭穂彦王は、実妹で皇后の狭穂姫(さほひめ)に紐刀(ひもがたな)を手渡して、垂仁天皇を殺してくれと頼んだ。
垂仁天皇5年6月1日(西暦156年7月上旬頃)に垂仁天皇は、皇后の狭穂姫の膝枕(ひざまくら)で眠られている時、夢で「美しい大蛇(おろち)が首にまとわりつき、狭穂(さほ;細い)の雨が顔をぬらした」と言って、大蛇の正体が狭穂彦王の渡した紐刀で、この時に狭穂姫が兄の狭穂彦王の反乱計画をばらして、邪馬台国(古代天皇家)と出雲王国(物部氏)の最初の内乱が起こった。
大蛇の正体の紐刀は、蛇の姿をした大物主神のことで、狭穂彦王を神格化したのが2代目・大物主神に当たって、『ホツマツタエ』で奈良県桜井市の三輪山(みわやま)の山頂に祭られるのが2代目・大物主神とされる。
崇神(すじん)天皇6年から7年の大物主神の祟(たた)りは、天照大神(あまてらすおおみかみ)と倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)の祭祀と無関係で、垂仁天皇6年から7年の狭穂彦王の反乱を崇神天皇時代に変更して、偽装工作して求められなくしたものである。
大物主神の祟りは、古代天皇家の最初の内乱である狭穂彦王の反乱を神話化して、垂仁天皇の父である崇神天皇時代の物語として、取り違えるように作られた創作である。
2代目・大物主神と狭穂彦王が合致する以上、どんなに隠しても真実をくつがえせず、唯一正史を求められる僕からすれば簡単である。
『ホツマツタエ』で2代目ホノアカリの息子のニギハヤヒは、彦坐王と息子の狭穂彦王を神格化して、海部(あまべ)氏と物部氏が古代太陽神氏族として分かれた一族だと示している。

崇神天皇7年の大物主神の祭祀は、大物主神の息子の大田田根子(おおたたねこ)に祭らせて、垂仁天皇7年(西暦158年)に登場する出雲系譜の野見宿禰(のみのすくね)が大田田根子に当たる。
崇神天皇60年の出雲平定は、出雲国王の飯入根の息子である濡渟(うかずくぬ)が登場して、濡渟の息子が野見宿禰とされるが、偽装工作にだまされるほど僕も馬鹿でない。
は「盧へん」に鳥の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
2代目・大物主神に神格化した父の狭穂彦王を祭った野見宿禰は、3代目・大物主神に神格化されて当然である。
崇神天皇60年の出雲平定は、崇神天皇の曾曾孫の仲哀(ちゅうあい)天皇9年(西暦260年)の出雲王国の崩壊を繰り上げて作れた物語で、考古学的証拠を伴(ともな)うことから史実と考えて間違いない。
つまり狭穂彦王の息子で3代目出雲国王の野見宿禰は、直系子孫の濡渟の息子として偽装工作して、うまく系図がつながるようにごまかしたが、考古学的証拠が残されて隠しきれなかった。
『ホツマツタエ』で垂仁天皇7年7月8日(西暦158年8月上旬頃)に日本最古のスポーツ相撲(すもう)で野見宿禰は、相手を殺して勝利して妻を迎えたと記す。
垂仁天皇32年7月6日(西暦183年8月上旬頃)に皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)陵に埴輪(はにわ)を立てるため、野見宿禰が出雲から土部(はじべ)を百人ほど集めて、野見宿禰が埴輪を作らせて土師(はじ)氏の先祖となった。
土師氏は埴輪を作る一族で、鎮魂のための代替物として埴輪を立てて、物部氏が鎮魂(みたましずめ)をつかさどる一族で、物部氏の子孫が土師氏で間違いないと考えられる。
『ホツマツタエ』でニギハヤヒの息子のウマシマチはモノベ(物部)の名字(みょうじ)をもらって、狭穂彦王と息子の野見宿禰を神格化して、饒速日命と息子の可美真手命(うましまじのみこと)に当たる。
3代目出雲国王の野見宿禰は、垂仁天皇32年(西暦183年)までに出雲が統治下にあることを示して、出雲王国の始まりが弥生時代後期初頭頃(1世紀末から2世紀前半)からで、考古学的証拠から考えて間違いない。
歴代の大物主神と物部氏は重なり合うか分からないのが普通で、うまく偽装工作をほどこされて、『ホツマツタエ』と「記紀」がそう読み取れるように作ったもので、それをひもとけるのが世界唯一の僕である。

3代目出雲国王の野見宿禰は、垂仁天皇7年7月8日(西暦158年8月上旬頃)に妻を迎えて、多くの子供をもうけて物部氏が隆盛することになる。
『ホツマツタエ』でウマシマチは、息子のモノベトチネをもうけて、モノベトチネの息子がモノベナツハナとされて、モノベナツハナの直系子孫にトイチネがいるとするが、根本的に物部氏の系図が勘違いされて、混乱した系図を作成した原因と考えられる。
モノベトチネと直系子孫のトイチネは同一人物と考えられて、現在の物部氏の系図で物部十市根(もののべのといちね)の息子が物部夏花(もののべのなつはな)として、物部夏花の直系子孫が物部十市根でない。
モノベトチネとトイチネの名前が混同されて、同一人物を別人として生み出した偽装工作が逆に仇(あだ)になって、現在の混乱した物部氏の系図を生み出したと考えられるが、勘違いが良い方向に働いた。
野見宿禰の息子の物部十市根は、垂仁天皇87年が正しく求めると垂仁天皇27年2月5日(西暦178年3月上旬頃)で、垂仁天皇の娘の大中姫(おおなかひめ)を妻として、石上(いそのかみ)神宮を物部氏に守らせた。
物部十市根は4代目・大物主神に神格化されて、天津神(あまつかみ;高天原(たかまがはら)の神々)の重鎮で思考の神様の思兼神(おもいかねのかみ)にも神格化している。
思兼神の妻の和歌姫(わかひめ)は、両親を国生みの夫婦神の伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)で、息子の手力雄神(たぢからおのかみ)を生んで、伊弉諾尊と伊弉冉尊が垂仁天皇と皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)で、その娘の和歌姫が大中姫で、その息子の手力雄神が物部夏花を神格化している。
一見すると野見宿禰と物部十市根は、血縁関係にないように読み取れるが、逆を言えば根本的に疑うことが大切で、現代哲学理論「現象学」の考え方が正しい。
4代目出雲国王の物部十市根は、ワザと記述が少なくされて隠されたが、根本的に偽装工作を打ち破れる僕に通用しなかった。

4代目出雲国王の物部十市根と大中姫の息子の物部夏花は、古代天皇家の血筋を受け継ぐことから5代目出雲国王に推挙されたと考えられる。
物部夏花は5代目・大物主神に神格化されて、武神の手力雄神にも神格化されて、日本神話で重要な位置を占(し)める。
『ホツマツタエ』で景行(けいこう)天皇12年9月5日(西暦202年10月上旬頃)に、山口県東部から景行天皇が九州を見て、物部(もののべ)氏の夏花(なつはな)たちを派遣して様子をうかがわせて、九州平定の準備に入った。
物部夏花の名前が見える記述はこれだけだが、出雲王国と物部氏がつながることから考えると、決して無関係に終わらせられない。
『ホツマツタエ』でウマシマチから孫のモノベナツハナまで続いたモノベ(物部氏)の名字が途切れて、物部夏花に出雲国王を受け継げる武勇に秀(ひい)でた息子がいなかったと考えられて、決して物部夏花に子供ができなかったわけでないと考えられる。
『ホツマツタエ』で5代目・大物主神は、子供ができなくて初代・大物主神の霊から指導されて、伯父(おじ)の八重事代主神(やえことしろのしのかみ)の息子である6代目・大物主神を養子にして、赴任(ふにん)先の九州において亡くなった。
5代目・大物主神(物部夏花)は、3代目・大物主神(野見宿禰)の養子である八重事代主神(伊香色謎命;いかがしこめのみこと:弟橘姫(おとたちばなひめ)の息子の6代目・大物主神(彦太忍信命;ひこふつおしのまことのみこと)を後継者にしたと解釈できる。
九州において亡くなった5代目・大物主神は、九州の平定に参加した物部夏花を神格化して、互いに共通している。
『ホツマツタエ』の大物主神と物部氏の系図は、互いに呼応(こおう)し合っていることを理解しないといけない。

6代目出雲国王の彦太忍信命は、物部氏の血筋でないことから婿(むこ)入り国王と考えられて、物部氏の妻(誰か不明)を迎えて7代目出雲国王の飯入根をもうけたと考えられる。
『ホツマツタエ』でモノベナツハナの息子のヒコユキは、モノベ(物部氏)の名字が途切れていることから、血縁が途切れた可能性が考えられて、ヒコユキが彦太忍信命に当たると考えられる。
現代の物部氏系図だと、可美真手命の子が彦湯支命(ひこゆきのみこと)とされて、系図伝承の過程で完全な混乱があったことが分かる。
彦太忍信命は物部氏の妻(誰か不明)と結婚したと考えられて、妻の名前をわざと消すことで出雲王国の系譜を求められなくしたと考えられる。

7代目出雲国王の飯入根は、『ホツマツタエ』でヒコユキの息子のイツモシコと同一人物で、イツモシコが物部氏系図の出雲醜大臣命(いずもしこおおおみのみこと)に当たって、イツモが出雲を指して偶然の一致と考えられず、シコが大国主神の別名の葦原醜男(あしはらしこお)や物部氏出身の伊香色雄命(いかがしこおのみこと)などと重なって偶然でない。
6代目出雲国王の彦太忍信命の息子である屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)が飯入根の可能性があるが、その息子の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)と出雲王国の崩壊で戦うことになって、違うと信じたいが現実は残酷かもしれない。
飯入根は皇位継承権争いを起こして出雲王国に亡命した日本武(やまとたけ)天皇の一人娘の布忍姫(ぬのおしひめ)を正妻として、飯入根が日本武天皇から三種の神器の管理を任されたと考えられて、大国主神の根(ね)の国下り神話と崇神天皇60年の出雲平定の物語に基づく。
出雲王国の日本武天皇は、息子の仲哀(ちゅうあい)天皇が統治する邪馬台国(古代天皇家)の政権奪取を考えていて、その後ろ盾の婿養子の7代目出雲国王である飯入根の存在が大きい。
仲哀天皇9年2月5日(西暦260年3月上旬頃)に仲哀天皇が病気になられて、翌日に崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)されたが、正しくは出雲王国との戦争で戦死されて、夫の死に怒った神功(じんぐう)皇后が仲哀天皇9年神無月(西暦260年11月頃)に出雲王国に総攻撃したと考えられる。
飯入根は三種の神器を神功皇后に返したことで、舅(しゅうと)の日本武天皇に殺されて、その真相を知った神功皇后によって義父の日本武天皇が殺されて、出雲王国が崩壊して皇位継承権争いが決着して、皇族の血縁同士の殺し合いが真相である。
崇神天皇10年の武埴安彦(たけはにやすひこ)の反乱は、大物主神の妻の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)が箸墓(はしはか)古墳に葬礼されて、史実と考えられているが誤解である。
武埴安彦は日本武天皇で、倭迹迹日百襲姫命が倭姫命(やまとひめのみこと)を祖先化して、大物主神が7代目出雲国王の飯入根を神格化している。
飯入根は7代目・大物主神と大国主神に、日本武天皇が素戔嗚尊(すさのおのみこと)と天穂日命(あめのほひのみこと)などに神格化されている。
仲哀天皇9年神無月(西暦260年11月頃)の出雲王国崩壊は、出雲の国譲り神話に神話化されて、崇神天皇60年の出雲平定の物語に祖先化されて、うまく偽装工作して歴史上から出雲王国を見事に抹消した。
歴史から抹消された出雲王国は、アインシュタイン博士以上の超天才の僕によって見事に求められて、史実と認めざるを得ない真相である。

飯入根の息子の濡渟は、最古の出雲国造(いずもくにみやつこ)で出雲の国主(こくしゅ)の立場にあって、出雲大社宮司家の千家氏の直系先祖である。
濡渟は出雲大社を創建した人物と考えられて、西暦280年代くらいに出雲大社を創建したと考えられる。
出雲大社の祭神は素戔嗚尊か大国主神とされて、千家氏の直系先祖の日本武尊(やまとたけのみこと)も飯入根も怨霊(おんりょう)に神格化されて、素戔嗚尊も大国主神も出雲大社の祭神で間違いない。
しょせん日本神話と邪馬台国論争は、現代日本人レベルの頭脳でひもとけるはずもなく、アインシュタイン博士以上の超天才の僕以外に決してひもとけない。
正しいことも分からないクセに求められたと言う馬鹿は、世間知らずの世界に名だたる超天才の存在を知らない未熟者である。

『ホツマツタエ』でイツモシコの息子はイツシココロで、その息子のトイチネと記されて、イツシココロが出石心大臣命(いずしこころおおおみのみこと)に当たって、モノベトチネとトイチネが同一人物と考えられる。
現代の物部氏系図の出雲醜大臣命と兄弟の出石心大臣命が完全な間違いで、現在の物部氏系図が当てになるはずがなく、『ホツマツタエ』の物部氏系図の方がよほど参考になる。
『但馬国司文書』に国作大己貴命は出雲国を出て、伯耆(ほうき)国・因幡(いなば)国(二国を合わせて鳥取県)を越え、兵庫県の出石郡(いずしぐん)に至り白石として化生(けしょう)した因幡の八神姫(やがみひめ)という女神と出会って、その女神との間に子供をもうけて、その子孫が出石の県主(あがたぬし)になったと記す。
『古事記』の大国主神(飯入根を神格化)の神話に因幡の白兎があって、大国主神は因幡の八上比売(やがみひめ)と結婚して木俣神(きまたのかみ)またの名を御井神(みいのかみ)をもうけるが、八上比売が大国主神の正妻の須勢理毘売(すせりひめ;布忍姫を神格化)の嫉妬(しっと)を恐れて子供を連れて因幡に帰ったと記す。
因幡の白兎神話で大国主神(飯入根を神格化)が白兎(日本武尊を神格化)を助けて、八上比売(誰を神格化したか不明)と結婚して木俣神(出石心大臣命を神格化)をもうけて、出石心大臣命が出石の県主になり、須勢理毘売(布忍姫を神格化)の嫉妬を恐れて因幡に出石心大臣命を連れて帰ったということだろう。

『古事記』の大物主神の子孫に建甕槌命(たけみかづちのみこと)がいて、その息子が意富多多泥古命(おおたたねこのみこと)とされて、『ホツマツタエ』の編者の血筋を求めるヒントである。
歴代の大物主神(物部氏)の子孫である武甕槌神(たけみかづちのかみ;建甕槌命と同一神:初代・武内宿禰を神格化)は、その息子が意富多多泥古命(2代目・武内宿禰を祖先化)となる。
『ホツマツタエ』の編者は、6代目・大物主神とその子孫の大田田根子(おおたたねこ)とされて、『魏志倭人伝』を意識して編纂(へんさん)していて、朝鮮国家と外交を再開した西暦366年以降に作られたと考えられる。
そうすると4代目・武内宿禰から6代目・武内宿禰くらいまでに編纂されて、歴代の武内宿禰の子孫とされる竹内(たけうち)氏の正統『竹内文書』に何らかの伝承が残っている可能性がある。
初代・武内宿禰は濡渟の同母か異母の兄弟か従兄弟であって、千家氏と竹内氏が物部氏の宗家以上に血縁の近い氏族と考えられる。

彦坐王の子孫の物部氏は、出雲王国の正体そのもので歴史から抹殺されて、何もかも消したように見えたが、『ホツマツタエ』と「記紀」などにヒントを多く残して求められるようにした。
彦坐王と物部氏をつなぐ資料は、この他にも幾らでも出てきて、僕ならそれを関連付けることなど簡単である。
僕という人間が現れた時から古代天皇家の歴史は、求められる運命の下に歯車が動いていたのである。

<参考文献>
『『古史古伝』異端の神々』
原田実・著者 株式会社ビイング・ネット・プレス:発行
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『ホツマ辞典』
池田満・著者 ホツマ刊行会・発行
『別冊歴史読本12 新視点 古代豪族の研究』
株式会社新人物往来社・発行
インターネット

戻る