『ホツマツタエ』と西暦年


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

『ホツマツタエ』の編纂(へんさん)の時期は、「記紀」以上に詳しい日本神話や古代天皇家の系図などから考えて、4世紀中頃…西暦366年の百済(くだら)と外交した時より後の朝鮮国家群と外交再開した時期以降と考えられる。
しかし『ホツマツタエ』は西暦年を把握した可能性が高く、6世紀に西暦年が作られて『ホツマツタエ』の編纂がそれ以降の可能性もあるが、『ホツマツタエ』が日本最古の書物の可能性が揺らがない。
『ホツマツタエ』で天日槍(あめのひぼこ)の子孫の年代は、垂仁(すいにん)天皇3年が垂仁天皇の崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)年(西暦191年)から逆算しての3年…西暦188年、垂仁天皇88年が西暦188年の変更で、西暦188年の合致が偶然で片付けられず、天日槍の子孫の記述がもっとあるが西暦年と合致して、西暦年を把握したのが自然と考えられる。
他にも崇神(すじん)天皇60年の出雲平定が仲哀(ちゅうあい)天皇9年(西暦260年)神無月の出雲王国崩壊である。
『ホツマツタエ』で景行(けいこう)天皇12年から19年(西暦202年から209年)に九州を平定して、『後漢書』の拘奴国(くぬこく)が記されて熊襲(くまそ)王国(南九州;宮崎県と鹿児島県と考えられる)に当たって、2度目に熊襲王国が反乱して滅亡させたが、景行天皇27年の熊襲(くまそ)平定に年代変更された。
2度目の熊襲王国の反乱は、『ホツマツタエ』で景行天皇27年だが、正しく求めると景行天皇57年(西暦247年)の『三国志・魏志倭人伝』の狗奴国(くぬこく)攻撃に当たって、景行天皇57年12月(西暦248年1月頃)に熊襲王国が滅亡して、『ホツマツタエ』が西暦年を把握した可能性が高く、景行天皇57年を景行天皇27年に変更したのが間違いない。
正史の改ざんのために西暦年を利用して、『ホツマツタエ』が2回に渡って編纂された可能性もある。
ただしこれらの年代は、『ホツマツタエ』の編纂された時期以降に、暦法を西暦年に合わせて2度目の編纂をした可能性があって、『ホツマツタエ』の編纂された時期を4世紀中頃以降と否定するものでない。

西暦年は西暦525年にできてから長く受け入れられず、西暦731年にベーダ・ヴェネラビリスが『イングランド教会史(イギリス教会史)』を西暦年で記してからだんだん普及して、10世紀頃に一部の国で使われ始めて、西ヨーロッパで一般化したのが15世紀以降で、世界中で最も使う暦法になったのがヨーロッパ各地の世界進出や植民地拡大で、非キリスト教国でも一般化したからだが、本当にそうなのか分からない。
西暦720年に編纂された『日本書紀』は、摂政(せっしょう)39年が西暦239年で、摂政66年が西暦266年に当たって、他にも西暦年を利用して、『日本書紀』独自に記述された西暦年で、本当に西洋で信じられる歴史が正しいか分からない。
『ホツマツタエ』は国家規模で古代天皇家の正史を改ざんするため、西暦366年以降に『三国志・魏志倭人伝』を読んだ古代天皇家が三貴子(みはしらのうずのみこ)などを作って、4世紀後半以降に『ホツマツタエ』の最初の編纂をした可能性がある。
『ホツマツタエ』の2度目の編纂は、歴代天皇の年代を西暦年に合わせるためで、ヨーロッパで西暦年ができた6世紀以降に天皇家が西暦年を把握して、『ホツマツタエ』の歴代天皇の時代を西暦年と合致させたことが考えられる。

『ホツマツタエ』に見られる西暦年の利用は、しっかり「記紀」の歴代天皇の年代に受け継がれて、『ホツマツタエ』の編纂が「記紀」より新しいと考えにくい。
ただ『ホツマツタエ』の写本は何種類かあるが、全て西暦年に対応していると考えられて、西暦年ができた西暦525年以降に『ホツマツタエ』が成立した可能性が高い。
つまり西暦年に対応しない『ホツマツタエ』の写本が見つからない限り、6世紀前半より前の『ホツマツタエ』の編纂が認められないと考えられる。
論理的根拠をしっかり把握すれば、『ホツマツタエ』と「記紀」の関係も正しい歴史を把握して、歴史上から抹殺された「記紀」以上の第一級史料の『ホツマツタエ』も正しく理解できる。
現代日本人は「記紀」の年代が西暦年と合致する理由は、単なる偶然と考えるかもしれないが、アインシュタイン博士以上の超天才の僕をだますことなどできない。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
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